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yoshi-sennaのブログ一覧

2011年10月17日 イイね!

R35搭載VR38DETTエンジンの部品紹介(その3)

R35搭載VR38DETTエンジンの部品紹介(その3)ヘッドボルト(写真右)とピストンオイルジェット(写真左)
初回に解説したとおり、ヘッドボルト取り付け用の雌ネジはシリンダーブロックの深い位置に設けられている(カウンターボア加工)。これは写真で見るようにヘッドボルトを長くして運転に伴う温度変化による軸力の変化を緩和するため。ヘッドボルトは鉄、ヘッドやブロックはアルミのため冷えると軸力が減り、運転時は軸力が増すが、ボルトがあまり短いと運転時にボルトが伸ばされて降伏し、応力が下がってしまう。

ピストンオイルジェットは両バンク間に合計で3つ取り付けられ、それぞれが左右バンクのピストン2個ずつを冷却する役割を持っている。メインギャラリーよりオイルを導入している。
ピストンオイルジェットはピストン冠面裏にオイルを噴射してトップリング溝底温度を下げる役割を持つ。この温度が上がりすぎるとトップリングがリング溝に固着してガスシールできなくなる。VR38ではRB26と同様、ピストン冠面裏にクーリングチャンネルを持ち、噴射したオイルをピストン内に回して効果的に冷却している。
Posted at 2011/10/17 11:32:59 | コメント(1) | トラックバック(0) | R35 | クルマ
2011年10月16日 イイね!

Renault Spider JGTC

Renault Spider JGTCRenault Spiderは1995年に発表され、翌1996年~1999年まで2000台弱生産された。
車重は960kgと軽量で、エンジンはMegane用2l NA、DOHC4バルブユニットをmidship搭載する。
1997年の5月にFISCOで開催された日本GT選手権レースGT300クラスにSiFoより1戦のみだが特別参戦した。
元々ワンメークレース用だった車両をGT規則に合わせるために大改造してレースに臨んだが、残念ながらエンジントラブルのため予選を走ることなくリタイアした。
結果は残念であったが、GTレースに新風を吹き込んだ意義ある参戦であったと思っている。実際、ピットウォークでの人気はすごかった。
ジャングルジムのようなロールバーのためドライバーは乗降に苦労していたが、実際に自分でやってみてコックピットに収まるのが大変なことを実感した。
プライベートとしてこのSpiderのGT参戦に尽力したSiFoの藤井さんの情熱に心から敬意を表します。




Posted at 2011/10/16 16:04:40 | コメント(1) | トラックバック(0) | renault | クルマ
2011年10月16日 イイね!

スカイライン2000GTに搭載されたGR7’エンジン

スカイライン2000GTに搭載されたGR7’エンジン1964年5月、鈴鹿サーキットにおける第二回日本GPグランドツーリングカー(GT)クラスでスカイライン2000GTは宿敵ポルシェカレラ904の前に苦杯を喫した。
1965年に開催が予定されていた第三回日本GPは翌年に延期され、1965年12月に完成した富士スピードウェイで開催されることになった。
第三回日本GPではメインレースはプロトタイプによるレースとなり、R380が出場、見事に1-2フィニッシュを飾っている。そしてS54Bスカイライン2000GTはグランドツーリングカークラスに出場した。エンジンの改造範囲は広がり、シリンダーヘッドの変更が可能になった。このため鋳鉄製カウンターフローのG7エンジンシリンダーヘッドは半球型燃焼室を持つ、アルミ合金製クロスフローSOHCに変更された。もちろん、この変更に伴い、吸排気系のレイアウトは一新されている。尚、基本的にボアストロークや排気量の変更はされていない。が、生産仕様のG7エンジンのボアストロークは75mm×75mm、排気量は1988ccであるが、正確に言うと第二回日本GPに使われたエンジンはボアを0.15mm拡大して排気量を1995ccとしており、このGR7B’も同様の排気量を踏襲している。
この仕様変更に伴い、最高出力191ps/7200rpm、最大トルク19.9kgm/5600rpmまでチューンナップされた。開発当初は5000~6000rpmで不整燃焼によるトルクのばらつきに悩まされたが、排気管を等長にして慣性排気効果をうまく使うことで解決した。
第二回日本GPでポルシェカレラ904と戦ったS54B搭載G7エンジンの出力性能が165ps/6800rpm、18.4kgm/6000rpmであったことと比較するとその進歩度合いが良くわかる。

写真及び諸元はFG会HPより借用した
Posted at 2011/10/16 10:35:26 | コメント(1) | トラックバック(0) | レース | クルマ
2011年10月15日 イイね!

RB26DETTの真実その13

グループAレースデビュー戦は驚異的な速さでライバルを圧倒した
 90年2月に行った西日本(現MINE)サーキットでのテストまでには、レース本番車であるリーボック号、カルソニック号が完成した。そして、レースドライバーの運転で、ともに1分13秒台でラップしている。同時にテストした開発用車両は1分16秒台で、そのときライバルに想定していたフォード・シエラもほぼ同様のラップタイムを記録していた。この時点で、当面の敵であるフォード・シエラをぶっちぎる目処が立ったわけだ。
 3月18日に上記の西日本サーキットで1990年シーズンのグループA第一戦が行われた。この日は、復活したGT-Rの走りを見にやってきた観衆でサーキットは埋め尽くされた。駐車場は車で溢れ、レース後は駐車場から出るのに数時間かかったということである。前日に行われた予選では、リーボック号(長谷見/オルフソン組)、カルソニック号(星野/鈴木利男組)ともに1分12秒台を記録してフロントローを独占した。第三位はフォード・シエラで1分14秒台であった。
 決勝レースもこの2台が終始レースをリードし1-2フィニッシュを飾った。特に優勝したカルソニック号は、全車をラップ遅れにする完璧な勝利であった。3位に入ったフォード・シエラには2周の差をつけるという、まさにクラスが違うのではないかと思わせる圧倒的な速さを見せつけた。
 この後、この2台のR32GT-Rは交互に勝利を重ねていき、90年のシリーズチャンピオンをカルソニック号が獲得した。90年の最終戦であるインターテック(富士スピードウェイ)は、85年にインターテックが始まって以来、初めて日本車が勝利を飾った記念すべき一戦である。
 91年シーズンはGT-Rが2台増えて4台体制でグループAレースに参戦した。ライバルであったフォード・シエラは、ヨーロッパでグループAレースが衰退した影響で開発が進まず、戦闘力を急速に落としていった。そして92年シーズンからR32-GT-Rの属する1クラスはスカイラインGT-Rのワンメークレース化した。ライバルが不在となったGT-Rは、エンジン出力を下げて耐久性の向上やメンテナンスコストの低減が図られた。GT-R同士の戦いになり、チーム間の争いは激化した。このためエンジンのメンテナンスを請け負う日産工機はチーム間の出力性能均一化や信頼性向上に尽力した。他チームが少しでも速いとエンジンの出力が違うのではないかと疑われ、エンジンが不調になればメンテナンスが悪いのではないかと文句を言われたのである。そのため、全エンジンの出力データを公開し、抽選により各チームに配給された。
 そして93年シーズン終了とともに9年間続いたグループAレースに終止符が打たれたのだ。GT-Rは、参戦以来一度も負けることなく29連勝を記録してその役割を終えたのである。
 例え負けることがあったとしても、強力なライバルがいた方がGT-Rにとっては幸せであったかもしれない。開発を進めればもっともっと速くなる可能性を持っていたのだ。そしてグループAレースはまだまだ続いていたであろう。少なくとも94年シーズンから始まった、2lNAエンジンで争われたニューツーリングカーレースのように盛り上がりに欠けることはなかったはずだ。グループAレースに慣れた観客にとって、300ps程度のFF車で争われる2ヒート制のスプリントレースは退屈なものに映ったに違いない。
 このグループA・R32GT-Rは、日産のグループCカーとともに日本のレース界を席巻したクルマである。R32GT-Rは4年間(89年のGTS-Rを含めると5年間)、グループCカーは3年間チャンピオンであり続けた。そして、ともにそのカテゴリーを消滅させてその使命を終えている。強すぎるものはレギュレーション変更やカテゴリーの消滅により排除されるというのがレース界の掟なのだ。そして強すぎて排除されることこそレースにおける勲章なのである。
 その点、GTカーレースは車両に応じて吸気制限を付け、勝つとハンディキャップ(錘を積む)を付けることで、各社が勝ちを持ち回りしており人気を保っている。レース業界全体が潤うので興行的にはこの方が望ましい。しかし、真剣勝負を望むファンには少し物足りないであろう。

第13話終了
Posted at 2011/10/15 09:08:52 | コメント(2) | トラックバック(0) | R32 | クルマ
2011年10月14日 イイね!

いすゞ ベレル

いすゞ ベレル1961年10月発表、1962年4月発売
発表から発売までの期間が長いのは、ベレルの生産と同時に操業を開始した藤沢工場が品質トラブルに対処するのに手間取ったため。
当時いすゞは日産、トヨタと並ぶ御三家として称されており、セドリック、クラウンやプリンスグロリアに対抗する戦略車と位置付けられて開発された。
しかしデザインが凡庸で品質に問題を抱えていたたことや、乗用車メーカーとしては後発で、販売力も弱く、オーナー車としての販売は低迷した。
しかし当時の乗用車としては珍しくディーゼルエンジンを搭載して経済性に優れていたためタクシー需要に占めるシェアは20-30%と高かった。販売の大多数がタクシーという状態であった。
搭載されたエンジンはガソリンOHVの1.5l(72ps)と2l(85ps)、Elf用ディーゼルの2l(55ps)というラインナップであった。
サイドビューで見るとタクシー需要を狙ったのが歴然としていますね。フロントドアが小さく、リアドアがゆったりとしているのがわかります。このフロントのサイドウィンドーの小ささでは、オーナードライバーはちょっと引いてしまいますね。日産クルーも顔負けの後席重視設計です。
Posted at 2011/10/14 10:12:16 | コメント(3) | トラックバック(0) | 乗用車 | クルマ

プロフィール

「旧L20の重量」
何シテル?   09/18 17:17
yoshi-sennaです。エンジンをこよなく愛するエンジニアです。 2002年初めから4年半ほどRenaultにいた関係でParisに住んでました。 20...
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