ヨーロッパアルプスの登山史で最も有名な話というと、 やはり、魔の山として人間を拒み続けていたマッターホルンにまつわる1865年の初登攀。絶頂から派生する幾つかの岩稜は、どれも急峻な地形だったが、比較的傾斜のゆるい尾根を使えば頂上を狙えるかに見えた。
しかし、実際の岩稜は、手がかり足ががりが困難な「逆層」とよばれる様相を呈していた。 史上初のマッターホルン登頂を狙ったアタック争いは失敗が続き、なかなか手強いものだった。
ヒマラヤ山脈もアルプス山脈も、太古の海底が隆起した造山運動と氷河侵食によって造られ、 その海底での堆積層の跡は山岳一帯に残されている。 氷河で激しく侵食が進行した嶮しい峰々の岩壁にはイエローバンドとよばれる横に走るスジが見られ、海底堆積層の名残りと考えられている。このイエローバンドの走る方向は必ずしも水平ではなく、峰ごとに微妙に傾いている。
マッターホルンにも、この横に走るバンドがある。傾斜がゆるい岩稜を選んでも、アタックが失敗した理由の一つに、このバンドの向きが関係していた。岩稜の傾斜がゆるい側ではバンドの向きが手前に傾いていた為、いわゆる「逆層」とよばれる特有の困難さがあった。 (逆層岩壁の中でも大規模なものはオーバーハングとよばれる)

- マーターホルン (スイス・イタリア国境ブライトホルン山群より) -
マッターホルン初登頂争いをしながらも失敗を重ねたウィンパーは、バンドの傾きに着目した。もしや最も傾斜が嶮しいスイス側の岩稜(現在ヘルンリ稜とよばれている岩稜)アタックに成功鍵があるのではないか?・・・
ガイド率いるウィンパーのパーティーは、最も傾斜が嶮しく困難と思われていたスイス側の岩稜からアタックする。岩稜は登攀しやすい「順層」(逆層の反対の意味)であった。 バンドの傾きに着目した狙いは、見事に当たった。 1865年7月14日 順調に高度を上げた一行は、 ついにマッターホルンの絶頂に立った。初登頂争いの終幕である。
一行はアンザイレン(共同でザイルを結び合い行動) 体制で頂上をあとにした。しかし、下山途中に悲劇は起きた。 落石が頻繁に起きる崩れやすい岩稜である。鋭い岩角も多い。 岩稜の下降途中で一行を結んでいたザイル(今日のような化繊ザイルの丈夫さはなかった)が切断、それによって一行7人中4人が転落。 1000m以上もある急峻な岩壁を一気に落ちれば、ひとたまりもない。 転落した4人全員が命を落とした。有名なウィンパーの初登頂の成功と悲劇である。

- マーターホルン(スイス側よりヘルンリ稜の全景) -
ウィンパーの自伝著書では、初登攀の悲劇が起きたときの描写があり、 心理的ショックからの幻影かもしれないが、仲間を失った一行の天空には、不思議なものが現れたという・・・
日本百名山著者、 深田久弥の山岳著書 『山頂山麓』 の中に 「雪山の幻覚と幻影」 というのがありその中で国内外の過去に起きた雪山遭難に関する考察が述べられていて、ウィンパー自著の悲劇の描写についても次のように引用して書いている。
「その時、リスカムの上に、空高く非常に大きなアーチが現れてきた。色もなく、音もなく、縹渺としてしていたが、併し、雲に隠れた部分を除けば、その形は、はっきりと見別けられた。此の不思議なる幻影は、彼の世から現れて来た幻の如く思われた。 見ているうちに、大きな十字架が、二つ並んでしずしずと現れて来た。私達は、呆然として之を眺めていた。殆ど肝を潰さんばかりであった。」
そして、彼はその幻影の絵まで写しとっている。
最初に、その幻影を見つけたのは同行の二人のガイドだったという。気象学的にも説明のつかないものだけに、ウィンパー個人だけの錯覚でないとすると、これはどのように解釈すべきなのだろうかと、深田久弥は述べている。
アルプス三大北壁をいだくマッターホルンには、ツムット稜、フルッケン稜、ヘルンリ稜などの幾つかの尾根も派生しているがウィンパーが初登頂に成功したクラシックルートは、今日ではスタンダードな登攀コースとして人気が高い。 地元山岳ガイド同伴で、ある程度の岩と雪の登攀経験があれば誰でも頂上を狙えるほどになったが、それでも毎年のように滑落転落による死者が出ているという。 ヨーロッパアルプスを代表する絶景であり、 名峰であるマッターホルンには、 今も世界中の人々を
惹きつけてやまない何かの魔性を持っているのだろう。
以上、 ガラにもなく、硬派な記事に(汗)
ここにある山道具実はマッターホルンの頂上にも同伴した
ことのある老兵なのでした。あ、もう、そんな遊興するほどの体力も技術もナシ。ふもとから仰ぐだけでも満足一杯。って、行くアテもありませんが(倒)
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自然遺産 | 旅行/地域
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2010/05/02 23:24:45