
谷川連峰を清水トンネルが貫通し、上越線が全線
開通した昭和時代。谷川岳にも登山ブームが訪れ
ました。首都圏からも、ほどよい距離にありながら
アルペン的風貌を持つ谷川岳。特に一ノ倉沢など
の岩壁群は岩登りのメッカとなりました。
学生、社会人問わず困難なルート開拓競争に走った
のは昭和の高度経済成長時代と重なる部分は多い気
がします(^^;)
高度経済成長時代のバリバリのサラリーマンでも週末の上越線夜行列車を使えば
仕事を終えたあと谷川岳への夜行日帰り登山が可能でした。そんな地理の良さが
当時、谷川岳が人気だった理由の一つだったのでしょう。
この地理的な好条件が災いして谷川岳は世界一遭難死者数(その数800名弱!?)
多い山へとなってしまったようです。仕事帰りの夜遅く、上野発の夜行列車に乗る。
そして深夜未明、上越線土合駅の地下ホームに降り立ち、長い長い階段を昇り
地上駅舎で仮眠後、寝不足のまま岩壁に向かった登山者も多かったといいます。
しかし・・・数々の栄光の中に、多くの「悲劇」も繰り返されたのでした(^^;)
さて、今と昔とでは、違う山のピークを「谷川岳」と呼んでいたそうですが
意外とその事実を知る人は少ないようです。
このブログ画像の中に「爼嵓(俎嵓)」(マナイタグラ)という山が写っていますが
この山は「谷川(本谷)」という川の上流に嶮しい岩壁をいだくピークであり、本来
この「爼嵓(俎嵓)」のことを地元では「谷川岳」と呼んでいたそうです。
現在の「谷川岳」は、「トマの耳」「オキの耳」の一帯を総称したものですが
その昔は、水上あたりから見る双耳峰の形状から「耳二つ」などとも呼ばれて
いたようです。谷川岳に登山ブームが始まった頃には「トマの耳」「オキの耳」
を谷川岳と呼び始めたのがキッカケになり、いつしか間違った山名が社会的
慣用の固有名詞となって、すっかり定着してしまったようです。
時代は降って、上越新幹線の開通、国鉄の民営化、そしてマイカーの普及が進みました。
若者がこぞって山に向かっていたのは、すでに昔の話。今は登山者の大半が中高年(^^;)
今どき鉄道を利用して谷川連峰に向かう人はほとんどいないようで、JR上越線の運転
本数も激減。谷川岳の玄関口だった上越線土合駅でしたが、無人化して寂れてしまった
古い駅舎を見るたびに、やはり時代の流れを感じます(^^;)
山の名前、その歴史って、調べてゆくと意外と奥が深いようですね~
しかし、ウンチク・ブログは疲れるなぁ~(汗)
Posted at 2007/03/15 22:14:57 | |
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山の日記 | 日記