なんやかんや忙しかった先月でした。
まあ、前から計画はあったんですが沖縄は渡嘉敷島に行って参りました。
金曜を休暇取得。
で、木曜、仕事終了後、キンコンダッシュで羽田へ。
クルマを駐車場業者さんに取りに来て貰い、急ぎ搭乗手続き。
で、かなり夜遅くに那覇国際空港着。
翌日、渡嘉敷に行くので泊港に近いアパホテル宿泊。
チェックイン済ませ、飯を食いに外に。
国際通りを歩いてみるが流石に店を閉めてる所g多い。
戻ってホテル近くの食事処に。
オリオン瓶ビール、沖縄そばスペシャル、油ミソおにぎりを頂く。
ああ、美味しいなあ。
当初客は自分ひとり。
でも食い終わった頃地元客が数人来て賑やかになった。
で、早々に戻ろうとお会計。
店のお姉さんに聞いた。
鯨「つかぬ事聞きますが、普天間でえらい騒ぎになりましたね。やっぱ、沖縄の方々、みんな米軍に出て行ってもらいたいのでしょうかね」
姉「うーん・・・、そんな事無いんですよ。米軍基地に土地貸してお金得てる人も結構居るし、米軍に何かと繋がりある関係の仕事に付いてる人も居るし。」
小声でそう教えてくれた。まあ本当はそうだろうなあ。
更問で、「米軍の変わりに中国軍が来たらどうなるか、皆さん想像できますか?」と聞こうとも思ったがこれ以上引っ張るのは止めた。
翌日、渡嘉敷島へ。
妻の実家の両親、義理の姉夫婦と合流。
娘が「パパだーっ!」と喜んでくれるのはほんと素直に嬉しい。
その日は午前中スコールだったそうで湾が濁っている。
本来なら凄く綺麗な海なんだが、残念。
でも海で泳ぎ、娘と遊んだ。
ビーチボールを投げてどっちが先にゲットするか競争。
一発目、大人気なく本気出して泳ぎゲット。
浮き輪の娘が泣きじゃくって・・・
すまん、さやか、大人になりきれてない親父で。
ただ、次以降泳がず水中を歩いて勝負したら結構娘もやる。
ようやく機嫌を直してくれた。
夜は民宿で飯。
美味い。ナゼかメインはメンチカツ。でも美味しい。
その後娘が寝たので妻、義姉夫婦と暫く飲み。
オリオンビールと泡盛で。いい感じである。
翌朝。まだ太陽も上がってないが目覚め、散歩。
午前中は昨日午後同様海にて遊ぶ。
で、高速船で那覇へ。訳30分。
一度空港へ行き、でかい荷物を預ける。
妻の両親はここで一足先に機上の人に。
空港に向かう途中のタクシーの途上。
対馬丸記念館、という看板があったので年配のドライバーさんに聞いた。
鯨「対馬丸ってあの、米軍に沈められた疎開船ですよね。」
ド「そう、よく知ってるね、私もね、同じ頃疎開船で熊本に行けたんで助かったけど・・・どう見ても軍艦じゃないのにねえ」
鯨「(知っていたけど)うわーそうだったんですか、無念ですね、亡くなった人たち。」
ド「うん、戦争だったからねえ。でもどう見ても疎開船なのに。僕は天草で疎開してたんだけど、長崎に原爆が落ちた日には凄い振動がしたよ。それから暫くして、天皇の終戦発表で終わったけどねえ・・・沖縄では戦闘が凄かったって聞くよ。丁度あの辺で、アメリカの司令官のバックナーが日本軍の反撃で戦死した後、残忍な事をアメリカがやってねえ・・・捕虜になった日本人、兵隊も民間人も一列に並べ、機関銃で・・・まあ、戦争だったからねえ、アメリカもソ連も日本も同じだよ、やった事は。よく日本兵は中国で酷い事をしたというけど、戦争になれば何処も同じ。普通じゃおれないよ。中国だってそうだよ。」
おぉ。じいじドライバー、達観である。これ、私が誘導したのでなく彼自身のお話。
空港で荷物を預け、ゆいレールでいざ牧志で下車。
その途中、小禄という駅がある。
この近くに海軍司令部壕跡、というのが資料館になっている。
話すと長くなるので端的に。
「沖縄県民能ク戦エリ、後世格別ノ高配ヲ賜ラン事ヲ」の結びで有名な電文を打って自決した海軍の太田実中将以下、海軍兵士が立て篭もっていた海軍部隊が、文字通り玉砕し果てた所。本望であろう艦隊決戦などできようはずも無く、陸上、しかも多勢に無勢、弾薬も底を突き、竹やり、銃剣・・・以前の沖縄旅行で、ここは行って手を合わさねば、と思っていた。言って実際何ともいえない感情に襲われた。
ちなみに、まぶにの丘、ひめゆりの塔など戦跡はいろいろあるが、どこも「戦争の被害者」というのを全面に出してきていて、一方的に日本軍は現地の人を邪魔者扱いし、鬼畜と教わった米軍、投稿したら凄く待遇が良かった」ってな記述ばかりで。前述のタクシーのおっちゃんの声が真実だと思うのですが。
で、国際通り、公設市場。
ヒュンダイI30ノレンタカー。前のアクセラに似てないかな。
沖縄では左の人が元気です。そら反対意見を胸に秘めていてもこんなのばっかじゃ怖くて言えないよな。
ああ時間切れ、kz家族が起きてきた、相手セナ。
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Posted at
2010/07/04 07:50:48