• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

鯨海酔候のブログ一覧

2013年06月26日 イイね!

594年前、応永の外寇 李氏朝鮮対馬襲来の日

以下、ウィキからのコピペです。
いつも被害者ズラの朝鮮、どんな事したんでしょう。
『元寇』ならぬ『鮮寇』です。
多くを語りませぬ、皆様如何思われますか。


応永の外寇(己亥東征)

戦争:応永の外寇(己亥東征)
年月日:1419年6月20日 - 1419年7月3日
場所:日本対馬
結果:対馬(日本)軍の勝利、李氏朝鮮軍の撤退。

交戦勢力

対馬国(日本) 李氏朝鮮

指揮官

宗貞盛 世宗
李従茂

戦力

600人[要出典] 17,885人

損害

~20人戦死 2,500人以上戦死[要出典]

表示


応永の外寇(おうえいのがいこう)は、日本史の時代区分では室町時代の応永26年(1419年)に起きた、李氏朝鮮による対馬侵攻を指す[1]。対馬の糠岳(ぬかだけ)で戦闘が行われた事から糠岳戦争とも。朝鮮では己亥東征という[1]。



目次
[非表示] 1 背景 1.1 倭寇

2 戦闘の経緯 2.1 対馬侵攻
2.2 対馬上陸
2.3 撤退

3 損害
4 戦後 4.1 対馬再侵攻計画
4.2 日朝の和解
4.3 倭寇の衰退

5 脚注
6 資料
7 参考文献
8 関連項目
9 関連サイト


背景[編集]

倭寇[編集]

14世紀前後の北九州から朝鮮半島南部、明国沿岸にかけての東アジアの海上世界は、日本人や中国人・朝鮮人らの諸民族が往来し雑居する状態にあり、それら諸民族からなる倭寇(前期倭寇)が活発化していた。

朝鮮半島も倭寇の襲撃を連年受けていた。成立して間もない李氏朝鮮は、自立的な治安維持能力が不足しており倭寇の統制が困難であったため、種々の懐柔策を講じつつ、室町幕府や九州探題渋川満頼、倭寇の根拠地の一つである対馬の実質的な支配者宗氏に対して、倭寇および私貿易の取締りを要求した。

しかし、倭寇の取締りに協力的だった対馬国の守護代宗貞茂が応永25年(1418年)4月に病没し、若年の宗都々熊丸(貞盛)が跡を継ぐ。実権を握った早田左衛門太郎は倭寇の首領であり、活動を抑制されていた倭寇は再び活発化した。

以下、日本側資料における関連事件を記す。ただし、看聞日記等は京都で執筆されているため、現地とのずれが生じており、日付が正確とは限らない[1]。
応永26年(1419年)5月23日、大唐国、高麗、南蛮が日本に責め来るべしと高麗が告げる[2][1]。
同年7月20日、「唐人」8万艘が薩摩を襲撃し、迎撃する[3][1]。
同年8月11日、「唐人」襲来。去る6月26日に対馬で「唐人」軍25000艘が襲撃するが、迎撃した[4][1]。

戦闘の経緯[編集]

対馬侵攻[編集]

李氏朝鮮では前年に世宗が即位していたが、軍事の実権は譲位した父の太宗がなお握っていた。太宗は倭寇撃退を名目にした対馬遠征を決定した[1]。朝鮮軍は、対馬の有力者が明などに渡航し不在である時期を狙って、永楽17年(1419年)6月19日、李従茂率いる227隻、17,285名の軍勢が巨済島を出発し、対馬に侵攻させた[1]。また同時に朝鮮国内の在留日本人商人らを一斉に抑留した。

対馬上陸[編集]

朝鮮軍は、6月17日に巨済島を出航したが逆風ですぐに引き返し、19日に再出航[5]、6月20日昼頃に対馬の尾崎浦[6]附近へ上陸した。一帯の一般船舶129隻を焼き払い20隻を奪い、民家1939戸を焼き払い、また104(実録には首級114)の島民を殺害した[5]。

しかし6月26日頃には、仁位郡(『実録』では尼老郡)で対馬側の伏兵に遭い、李従茂の軍は尾崎浦まで退却、戦局は膠着状態に陥った[7]。

撤退[編集]

朝鮮側は、同6月29日に宗貞盛に対して対馬の属州化などを要求する使者を送るが宗は拒絶する。損害の大きくなった李氏朝鮮側は対馬側の撤退要求を受け入れ、7月3日に巨済島へ全面撤退した。

損害[編集]

李氏朝鮮側の被害は日本の資料では死傷者2500以上[要検証 – ノート]、『世宗実録』では6月26日の襲撃で死者百数十人[7]、7月10日の記録では180人とされている[8]。しかし士気の衰えや船舶の損耗、旧暦7月は台風シーズンであることにより再出撃が行われなかったことや[9]、6月26日、7月10日の損失を合計しても総数の2%程度であり、この程度の損害で和平を受け入れるとは考えにくく、6月26日は敗戦と自ら明記し将官も戦死していることからも、全体の被害は相当数にのぼると思われる。8月5日の記録では日本の戦死者20人に対し朝鮮側が100余名とされている[10]、総じて朝鮮軍は不利であったようであり、この事は保護された中国人の扱いにおいて「対馬での朝鮮軍の弱小ぶりを詳細に見たことから中国に返還できない」と主張する左議政朴訔に対し右議政李原らは「事大の礼を尽くして送り返すべき」と反論したという記録や[11]、朴実が敗戦の罪により投獄され、李従茂が国民への影響を理由に免罪となった事[12]からも窺える。

戦後[編集]

対馬宗氏と朝鮮は国交断絶となった[1]。

対馬再侵攻計画[編集]

また7月3日の黄海道沖に中国からの倭寇数十隻が沿岸を荒らし回っていると言う報告を受け、これを口実にした対馬再征も検討されたが実行されなかった。

日朝の和解[編集]

一方の日本は、九州探題渋川義俊と少弐満貞が注進、事実究明のため朝鮮へ使者を送り、その真偽を確かめさせた。翌年には朝鮮から回礼使として宋希璟が派遣され、4代将軍足利義持に拝謁して日本と和解した。宋希璟は日本の見聞録を『老松堂日本行録』として書き著した。

倭寇の衰退[編集]

この事件により対馬や北九州の諸大名の取締りが厳しくなり、倭寇の帰化などの懐柔策を行ったため、前期倭寇は衰退していく。また、この事件の報が日本本土に伝わった際、元寇の再来との憶測が流れた。

なお、清の徐継畭の『瀛環志略』や李氏朝鮮の安鼎福の『東史綱目』には、倭寇の原因は日本に対する侵略行為(元寇)を行った高麗(朝鮮)への報復である、と記述されており、応永の外寇以前の前期倭寇は局地的な奪還・復讐戦であるとして「倭寇」と呼ばず、これ以降の後期倭寇を「倭寇」と考える説もある。




Posted at 2013/06/26 20:18:44 | コメント(1) | トラックバック(0) | 歴史ネタ | 日記
2011年07月28日 イイね!

加藤隼戦闘隊

加藤隼戦闘隊


皆様、大変ご無沙汰しております。

唐突ですが、健康は身体だけでなく精神(正確には脳)も大切です。
「自分は大丈夫」と普通なら思い込みがちですが、睡眠に異変が生じ2週間経ても変わらずなら病院にて精神科、心療内科で診察される事をお勧めします。

さて、掲題について、ちょっと前に発売の歴史街道で特集されてました。
毎回、冒頭に漫画家の黒鉄ヒロシさんのコラムが書かれております。
今回も時局に的を得たものでしたので、ご紹介。

軍神に今、学ばにゃイカンこと

「加藤隼戦闘隊」は通称で正式には「陸軍飛行題64戦隊」。
藤田進主演になる映画「加藤隼戦闘隊」の初公開は昭和19年(1944)だが、20年代も後半になると、進駐軍の規制も緩くなったものか、僕の育った土佐の高知でも上映された。

街角に貼られた映画ポスターは今も記憶している。
映画を見る、見ないに関わらず、当時の子供は既に大人達からの口伝によって「加藤隼戦闘隊」の存在は知っていた。

~中略~

時を経た今、「軍神加藤建夫」から学ぶ事があるとすると、そのリーダー像の一点だろう。加藤の人となりは「誰とも気さくに話をし無用の威圧感を与えず、やさしかった」という。
全隊員に加藤が示した訓示を見てみよう。

一、いかなる困難に当たっても平常心を失わないこと
一、何事も任務遂行を第一とすること
一、個人の功名手柄に走って、団結を乱さないこと

威張り散らし怒鳴りまくってはイカンのである。
激高して意味不明な弁解を口走るのはイカンし、任務の遂行どころか復旧復興が遅々として進まないのは更にイカンし、他人の手柄を我が事として、団結どころか属する党をばらばらにするに至っては、
リーダー以前にヒトとしての資質に欠ける。

アリャ?知らぬうちにどこぞの国の情けないリーダーと比較してしもうた。


以前はラバウル航空隊に触れた事もありましたが、鋭いな、と感じます。

カンチョクト、なんとかならんのでせうか。
いっそ、官邸前でデモ行進を行うとか。
Posted at 2011/07/28 20:59:34 | コメント(5) | トラックバック(0) | 歴史ネタ | 日記
2011年05月01日 イイね!

昭和の日に思った事(遅いですが)

一昨日は昭和の日でしいたね。
当日はばたばたしてUP出来ませんでした。

私は昭和45年生まれ、その25年前に敗戦、生まれて今に至るまで41年です。
そんな昔の時代ではないんですね。近代史という括りになるのでしょうか。

現在、未だ鎮火?しない福島の原発の問題、その他東日本大震災の爪深い影響が、日本という国そしてそこに住まう国民にとってあまりに大きな影響を及ぼしております。

なんとか国全体で今一度立ち上がる事が求められているのではないでしょうか。

で、私を筆頭に、平成のふやけた我々国民は、激動の昭和に思いを致す時ではないでしょうか。
あの頃の人達は本当に凄かったと思います。

尤も、指導者層の誤った外交戦略が結果的に悲惨な敗戦となったのは「ああすればよかった、こうしてもよかった」と思わせはしますが、何と言いますか、世界史の大きな流れだったのでしょうか。

一年に3度ほどは昭和に対する思いを致しめてもよいのではないかな、と思います。

私が思うに、昭和20年に至るまでは鎌倉以来の武家政権、敗戦以降は商人国家、今現在は公家政権と言えるのではないでしょうか。

バランスの絶妙な政治形態が望まれると思うのです。

以下に、激動の昭和にあって尤も激烈な時期に関する動画です。
心臓が弱い人にはお勧めしませんが。














Posted at 2011/05/01 18:22:47 | コメント(3) | トラックバック(0) | 歴史ネタ | 日記
2011年02月02日 イイね!

1946年2月3日 通化事件、今日のその時

明日は節分、2月3日ですね。
家帰ったら豆まき。
娘も楽しみにしています。
息子はまだ小さいので意味不明でしょう。

しかしこの2月3日って、終戦(てか敗戦)間もない1946年の今日のその時!(松平定知風に)悲惨この上なき大事件が発生しました。極めて悪辣なジェノサイドです。

通化事件。

以下、ウィキから引用しています。心臓の悪い方はここで終わりにされますよう。読み進むにつれ体に悪い事この上なしです。

通化事件(つうかじけん)とは1946年2月3日に中国共産党に占領されたかつての満州国通化省通化市で中華民国政府の要請に呼応した日本人の蜂起とその鎮圧後に行われた中国共産党軍と朝鮮人民義勇軍南満支隊(李紅光支隊)による日本人及び中国人に対する虐殺事件。日本人3000人が虐殺されたとされている[1]。中国では二・三事件とも呼ばれる。

当時の中国共産党軍と朝鮮人民義勇軍 [編集]
当時は、先に進駐していた朝鮮人民義勇軍と延安からの正規の中国共産党軍を中共軍または八路軍と包括的に呼称した。ただし、中ソ友好同盟条約によって満州で中国共産党が活動することは許されていなかったため、東北民主連軍などと称していた。元朝鮮人日本兵や現地の朝鮮人などで構成されていた朝鮮人民義勇軍は新八路軍や朝鮮八路とも呼称され、「(日帝支配)36年の恨」を口にしながら暴行・略奪・強姦などを繰り返した[2]。

背景 [編集]
当時の通化の状況 [編集]
通化は終戦時に中華民国政府の統治下に置かれ、満洲国通化省王道院院長を務めた孫耕暁が国民党通化支部書記長に就任し、満州国軍や満州国警察が転籍した中華民国政府軍によって統治されていた。交通の要所である通化には大勢の避難民が集まっており、1945年8月18日には通化国民学校に避難民収容所が設置された。また1945年8月13日に発生した小山克事件(武装した暴民に襲われ、日本人避難民が強姦・虐殺され約100名が集団自決した)に巻き込まれた避難民も到着しており、通化にもともと居住していた17000人[3]の日本人居留民と、10万人以上の他の地域からの避難民が滞在していた[4]。武装解除された元日本兵は次々とシベリアへ送られ、残留した居留民の多くが女性や老人で、略奪や強姦に遭い麻袋に穴を空けたものをわずかに身に着けただけの姿もあった。通化の在留邦人が衣服や住居を提供するなどしていたが、多くの日本人家屋は強制的に接取されるなどして、在留邦人・難民ともに困窮していた。

ソビエト軍・中国共産党軍の進駐と暴行 [編集]
1945年8月20日、通化高等女学校に短機関銃を持ったソビエト兵2名がジープで乗り付けると校内に乱入し、女生徒の腕を掴んで引きずり出そうとした。古荘康光校長と村田研次教師が止めに入ると銃を乱射し始めたため、20代の女性教師が自ら身代わりとなって連行された。連絡を受けた通化守備隊の中村一夫大尉は直ちに兵士40名を乗せたトラック2台とともに駆けつけ、男性教師たちと共同でソビエト兵のジープを捜索したが発見できなかった。女性教師は深夜に解放されたが、その晩自殺した。翌日、ソビエト兵は再び女学校に乱入すると女生徒か昨日の女性と金品を出すよう要求した。村田教師が「女性は自殺した」と述べると、他の女性を出すよう要求されたため、隠し持っていた拳銃で2人を射殺した。教師たちはソビエト兵を埋葬すると寄宿生を連れて通化を脱出した。

1945年8月24日[5]に将校20人、兵士200人からなるソビエト軍が通化に進駐、市内の竜泉ホテルに司令部を設置した。また、ソビエト軍によって武装解除された関東軍の兵器を譲渡された中国共産党軍も同市に進駐した。

占領下の日本人はソビエト軍による強姦・暴行・略奪事件などにも脅かされていた。この段階では日本軍憲兵隊はシベリアに連行されずに治安活動を行っており、ソビエト軍の蛮行を傍観していたわけではなかった。原憲兵准尉はソビエト兵が女性を襲っているとの通報を受け、現場に駆け付けると、白昼の路上でソビエト兵が日本女性を裸にして強姦していたため女性を救おうと制止したが、ソビエト兵が行為を止めないため、やむなく軍刀で処断した。原准尉は直後に別のソビエト兵に射殺され、この事件以降は日本刀も没収の対象となった。守る術を持たない日本人遺留民はソビエト軍司令部の命令に従って日本人女性たちを慰安婦として供出するなどして、耐え忍ぶしかなかった。さらに、日本人はソビエト軍進駐時にラジオを全て没収されたため、外部の情勢を知ることは不可能となった。また、中国共産党軍は日本軍の脱走兵狩りを行い600人を検挙した後吉林へ連行した。

中国共産党軍の単独進駐以降 [編集]
ソビエト軍の撤退後、通化の支配を委譲された中国共産党軍は、楊万字通化省長、超通化市長、菅原達郎通化省次長、川内亮通化県副県長、川瀬警務庁長、林通化市副市長などの通化省行政の幹部を連行し、拷問や人民裁判の後、中国人幹部を全員処刑した[6]。また、中国共産党軍は「清算運動」と称して民族を問わず通化市民から金品を掠奪した。9月22日には、中国共産党軍が中華民国政府軍を攻撃し、通化から駆逐した。10月23日、正規の中国共産党軍の一個師団が新たに通化に進駐。11月2日[7]、中国共産党軍劉東元司令が着任する。11月2日、中国共産党軍は17000名を超える遺留民に対して、収容能力5000名以下の旧関東軍司令部への移動命令を出した。遺留民1人につき毛布1枚と500円の携行以外は認めないとした。通化は氷点下30度になる極寒の地であり、無理な要求であった。

11月初旬[8]、中国共産党軍は、遼東日本人民解放連盟通化支部(日解連)を設立し、日本人に対して中共軍の命令下達や、中国共産党で活動していた野坂参三の著作などを使用した共産主義教育を行った。日本人民解放連盟は中共軍の指令に従い、日本人遺留民に対し財産を全て供出し再配分するよう命じた。日本人遺留民たちが嘆願を続けると、中共軍は先に命じていた移動を見合わせる条件として、日本人全員が共産主義者になることへの誓約、全財産の供出と中国共産党および日本人民解放連盟への再分配を要求した。

11月17日、中国共産党軍は大村卓一を満鉄総裁であったことを罪状として逮捕した。また、中国共産党軍は武器捜索を名目に日本人家屋に押し入り、(後の蜂起当日まで)連日略奪をおこなったほか、男女を問わず日本人を強制的に従軍・徴用(無償の強制労働)した。

日の丸飛行隊飛来 [編集]

隼(一式戦闘機)12月10日、通化に日章旗を付けた飛行隊が飛来し、日本人遺留民は歓喜した。飛行隊は林弥一郎少佐率いる関東軍第二航空軍第四錬成飛行隊であり、隼、九九式高等練習機を擁していた。隊員は300名以上が健在であり、全員が帝国陸軍の軍服階級章を付け軍刀を下げたままであった。また、木村大尉率いる関東軍戦車隊30名も通化に入ったが、航空隊と戦車隊の隊員は全員が中国共産党軍に編入されていた(林航空隊は東北民主連軍航空学校として中国人民解放軍空軍創立に尽力することになる)。

中国共産党の根拠地延安からは、日本人民解放連盟で野坂参三に次ぐ地位にあり、当時「杉本一夫」の名で活動していた前田光繁が政治委員として派遣された。

蜂起の流言 [編集]
このような状況下、「関東軍の軍人が国府と組んで八路を追い出す」というデマが飛び交った。日本人も国府系の中国人も、この噂を信じた。そしてその軍人とは、「髭の参謀」として愛され、その後消息不明とされていた藤田実彦大佐とされた。藤田大佐は終戦後、武装解除を待たずに師団を離れ、身を窶し、家族を連れて通化を離れ、石人に潜伏していた[9]。藤田は、流言を耳にして、このような考えは危険だとして、若い人たちを諌めると称し、11月頃、通化へ向かった[10]。

日本人遺留民大会 [編集]
12月23日[11]、「中国共産党万歳。日本天皇制打倒。民族解放戦線統一」などのスローガンのもとで日本人民解放連盟と日僑管理委員会の主催で通化日本人遺留民大会が通化劇場で開かれた。大会には劉東元司令を始めとする中国共産党幹部、日本人民解放連盟役員らが貴賓として出席し、日本人遺留民3000人が出席した。大会に先立って、日本人遺留民たちは、「髭の参謀」として愛され、その後消息不明とされていた藤田実彦大佐が大会に参加すると伝え聞いており、大会の日を待ちかねていた。

大会では、元満州国官吏井手俊太郎が議長を務めた。冒頭、議長から「自由に思うことを話して、日本人同士のわだかまりを解いてもらいたい」との発言がなされると、日解連通化支部の幹部たちからは、自分たちのこれまでのやり方を謝罪するとともに、「我々が生きていられるのは中国共産党軍のお陰である」などの発言がなされた。日本人遺留民たちは発言を求められると、日解連への非難や明治天皇の御製を読み上げ「日本は元来民主主義である」などの発言が続き、山口嘉一郎老人が「宮城遥拝し、天皇陛下万歳三唱をさせていただきたい」と提案すると満座の拍手が沸き起こった。議長が賛意を示す者に起立をお願いすると、ほぼ全員が起立し、宮城遙拝と天皇陛下万歳三唱が行われた。次に山口老人は、「我々は天皇陛下を中心とした国体で教育され来たので、いきなり180度変えた生き方にはなれませんので、徐々に教育をお願いしたい」旨を述べた。最後に藤田大佐が演説を行ったが、中国共産党への謝意と協力を述べるにとどまった。後日、大会で発言した者は連行され、処刑された。

蜂起直前の状況・旧満州国幹部処刑(一月十日事件) [編集]
1946年1月1日、中共軍(東北民主連軍)後方司令の朱瑞(zh)を隊長、林弥一郎を副隊長とした東北民主連軍航空総隊が設立される。同日、中国共産軍側工作員の内海薫が何者かに殺害される。
1月5日、藤田実彦大佐は中共軍に呼び出され、竜泉ホテルにある中共軍司令部に出頭。劉東元司令は藤田に関東軍が隠している武器を出すよう要求したが、参謀職である藤田は「大隊長や中隊長ではないので知らない」と返答したため、監禁された。以降、有志からの情報は薬を渡しに来る看護婦柴田朝江によって秘密裏に届けられることとなった。柴田は日本軍の特務出身の看護婦で、当時は赤十字病院(旧関東軍臨時第一野戦病院)に勤務していた。劉司令夫人が中共軍軍医の誤診に悩んでいたところ、柴田が適切な診断を行ったため、劉夫妻から専属看護婦の地位を得えられ、「婦長」と呼ばれていた。信頼された柴田朝江は藤田への薬を届ける任を与えられていた。
1月10日、日本人民解放連盟通化支部幹部、高級官吏、日本人遺留民会の指導者ら140名が内海を殺害した容疑で連行され、専員公署の建物に抑留される(一月十日事件)。日本人民解放連盟通化支部は解散させられる。
1月15日[12]午前4時、竜泉ホテルに監禁されていた藤田大佐が3階の窓から脱出し、有志の隠れ家となっていた栗林家へ隠れた(しかしこれは、蜂起に参加するためか、それとも止める為か判然としない。藤田は脱出時に怪我を負い、結局蜂起にはまったく加わらず、八路に逮捕されるまで、栗林家の押入れにずっと居た)。脱出が発覚すると、事前に知らされていなかった柴田は身の危険を感じてホテルの裏口から赤十字病院へ向かい、病院に着くと頭をバリカンで刈り上げて男性になりすました。まもなく中共軍が病院の捜索を始めたため、柴田久軍医大尉の手引きを得て栗林家へ隠れることとなった。
1月某日、林少佐は日本人遺留民を束ねていた桐越一二三のもとを訪れ、自らが桐越の名を彫り込んだ軍刀を桐越の妻に渡している。
1月21日、菅原達郎[13]通化省次長、川内亮通化県副県長、川瀬警務庁長、林通化市副市長は中国共産党軍によって市中引き回しの上で、渾江の河原で公開処刑された。処刑された遺体は何度も撃たれ銃剣で突き刺されハチの巣にされた。後日、日本人遺留民は通化劇場に集められ、前田光繁から「川内亮通化県副県長たちは満州国の幹部であったから処刑は仕方のないことであった」旨の説明がなされた。
蜂起から鎮圧後の虐殺まで [編集]
一月十日事件のあと、関東軍が蜂起するという流言に基づいた計画が進行した。後押ししていたのは、国民党のスパイであった[14]。彼等は、監禁されている藤田大佐を奪還し、(藤田の意思に関らず)これをシンボルとして使うつもりであった。

前日(情報漏洩) [編集]
2月2日、正午過ぎに林少佐は蜂起の情報を前田光繁に電話で伝えた。前田は中国人政治委員の黄乃一を通じて航空総隊隊長の朱瑞(zh)に報告した。同じ頃、藤田大佐の作戦司令書を持った中華民国政府の工作員が2名逮捕されており、劉東元中国共産党軍司令立会いの下で尋問が行われた。工作員は拷問を加えられても口を割らなかったが、日本語の司令書は前田によって直ちに翻訳され、夕刻には中国共産党軍は緊急配備に着手した。

通化市内は午後8時に外出禁止のサイレンが鳴ることになっていたが、この日はサイレンが鳴らなかった。日本人は時計を持っていないため外出中の人々は次々に拘束された。午後8時には、蜂起に向けて会合を開いていた孫耕暁通化国民党部書記長を始めとする中華民国政府関係者数十人が朝鮮人民義勇軍によって拘束され、拷問を伴う尋問が行われた後、蜂起前に虐殺された。また、一月十日事件で連行された日本人は牢の外から機関銃を向けられた(即時殺害を可能にするための準備)。

蜂起 [編集]
2月3日、中国共産党は便衣兵や日本人協力者などからすでに情報を集めており、重火器を装備して日本人の襲撃に備えた。

柴田軍医大尉らは深夜に病院を抜け出すと変電所を占拠した。午前4時に電灯を3度点滅させたのを合図に、在留日本人は中華民国政府軍・林航空隊・戦車隊の支援を期待して元関東軍将校などの指揮下で蜂起した。蜂起した日本人にはわずかな小銃と刀があるのみで、大部分はこん棒やスコップなどで武装しており、蜂起成功後に敵から武器を奪うことになっていた。一方、瀋陽の遼寧政府(中華民国政府)からは「中華民国政府軍の増援の連絡がつかないから計画を延期せよ」との無線連絡がなされたが、無線機の故障で日本人には伝わらなかった。

日本人は中隊ごとに分かれて市内の中国共産党軍の拠点を襲撃した。佐藤少尉率いる第一中隊150名が専員公署めがけて突撃すると、待ち構えていた中国共産軍の機関銃や手榴弾によって次々となぎ倒された。佐藤少尉以下10名が建物に侵入し、一月十日事件で連行された日本人が監禁されている牢に到達したが、待ち構えていた機関銃によって射殺された。牢内の日本人も一斉射撃により全員が射殺され、これにより第一中隊は壊滅した。

阿部大尉率いる第二中隊100名は中共軍司令部の竜泉ホテルを襲撃したが、待ち構えていた中国共産党軍の攻撃により建物に近づく前に壊滅した。寺田少尉率いる第三中隊は元通化市公署に駐屯している県大隊を襲撃した。ここでは400名が内応するはずであったが、斬り込み隊は銃撃を受け、犠牲者を出して引き上げざるを得なかった。

中山菊松率いる遊撃隊は、公安局に監禁されている婉容皇后、浩皇弟妃を始めとする満州国皇族の救出に向かい、一時は公安局を占拠したが、まもなく中国共産軍に包囲され、公安局目がけて機関銃や大砲による砲撃が行われた。遊撃隊は次々と倒れ、皇帝溥儀の乳母も砲撃で腕を吹き飛ばされ死亡した。中山隊長らはやむなく公安局から退いた。その他の襲撃地点でも日本人は撃退された。

林航空隊では、鈴木中尉、小林中尉を筆頭に両中尉率いる下士官たちが蜂起に参加しようとしたが、蜂起合図前に中共軍に拘束され、木村戦車隊も出発直前に包囲され、中共軍に拘束された。

連行 [編集]
午前8時になると、16歳以上の日本人男性は事件との関係を問わず全員拘束され、連行された。また、事件に関与したとみなされた女性も連行された。中国共産軍は連行する際、日本人同士を針金でつなぎ合わせた。多くの日本人は着の身着のままで家から連れ出されたため、零下数十度になる戸外を行進するのは地獄であった。通化市郊外の二道江から連行された人々には途中で落後するものもあり、落後者はその場で射殺された。

強制収容 [編集]
3000人以上に上る拘束者は小銃で殴りつけられるなどして旧通運会社の社宅などの建物[15]の8畳ほどの部屋に120人ずつ強引に押し込められた。 拘束された日本人は、あまりの狭さに身動きが一切とれず、大小便垂れ流しのまま5日間立ったままの状態にされた。抑留中は酸欠で「口をパクパクしている人達」や、精神に異常をきたし声を出すものなどが続出したが、そのたびに窓から銃撃され、窓際の人間が殺害された。殺害された者は立ったままの姿勢で放置されるか、他の抑留者の足元で踏み板とされた。足元が血の海になったが死体を外に出すこともできなかった[16]。蜂起計画に関与しなかった一般市民を含めて、民間の2千人(数千人とも)近くが殺された[17]。また、数百人が凍傷に罹り不具者となった。

虐殺 [編集]
拘束から5日後に部屋から引き出されると、朝鮮人民義勇軍の兵士たちにこん棒で殴りつけられ、多くが撲殺された。撲殺を免れたものの多くは手足を折られ、ぶらぶらとさせていた。その後、中国共産党軍による拷問と尋問が行われ、凍結した川の上に引き出されて虐殺が行われた。女性にも処刑されるものがあった。川の上には服をはぎ取られた裸の遺体が転がっていた。男性たちが拘束されている間、中国共産党軍の兵士には日本人住居に押し入り、家族の前で女性を強姦する者もあり、凌辱された女性からは自殺者も出ている。

また事件後に蜂起の負傷者に手当を施した者は女性・子供であっても容赦なく銃殺された。

林少佐には銃殺命令が3度出されたが、そのたびに政治委員黄乃一の嘆願によって助命された。

人民裁判 [編集]
処刑の決定には、「人民裁判」と称する手続きが一応、とられたが、法的な手続きとはいえないものであった。次のような証言がある。「中国共産党の本拠地である延安から派遣された若い裁判官の前で、台の上に日本人が立たされる。満州時代の罪状を民衆に問う。黒山の野次馬の中から「俺達を酷使した、俺達を殴った」という声が上がる。裁判長が「どうする」と問うと、「打死!打死!(殺せ殺せ)」と民衆が叫び、これで裁判は終わり。その日本人は背中に「南無阿弥陀仏」と書かれ、馬に乗せられて市内引き回しの上、河原に連れて行かれて次々と銃殺された」[18]。

百貨店での藤田大佐らの「展示」 [編集]
3月10日になると市内の百貨店で中国共産党軍主催の2・3事件展示会が開かれ、戦利品の中央に蜂起直前の2月2日に拘束された孫耕暁通化国民党部書記長[19]と2月5日に拘束された藤田大佐が見せしめとして3日間に渡り立たせられた。藤田は痩せてやつれた体に中国服をまとい、風邪を引いているのか始終鼻水を垂らしながら「許してください。自分の不始末によって申し訳ないことをしてしまいました」と謝り続けた。心ある人たちは見るに忍びず、百貨店に背を向けた[20]。3月15日に藤田が肺炎で獄死すると、遺体は市内の広場で3週間さらされた。渾江(鴨緑江の支流)では、夏になっても中州のよどみに日本人の虐殺死体が何体も浮かんでいた。

事件以後 [編集]
生存者は中国共産党軍への徴兵、シベリア抑留などさまざまな運命を辿ったが、通化事件以降、中共は方針を転換し、宥和的な態度をとり、夏には帰国の許可を与えた[21]。

関東軍第二航空軍第四錬成飛行隊のうち、航空技術をもたない100名余りの隊員は部隊から離され炭鉱や兵器工場に送られた[22]。

1946年末に中華民国政府軍が通化を奪還すると事件犠牲者の慰霊祭が行われた。1947年には中国共産党軍が通化を再び占領した。

1952年に生存者の1人だった中山菊松が通化遺族会を設立。1954年には川内通化県副県長夫人とともに、大野伴睦らの仲介で川崎秀二厚生大臣に対し、遺族援護法を通化事件犠牲者にも適用することを嘆願し、認められた。通化遺族会は1955年以降、毎年2月3日に靖国神社で慰霊祭を行っている。

脚注 [編集]
1.^ 宮崎正弘 『出身地でわかる中国人』 PHP研究所、2006年、185。ISBN 4569646204。
2.^ 松原一枝「通化事件―“関東軍の反乱”と参謀・藤田実彦の最期」チクマ秀版社 (2003)。朝鮮人民義勇軍に比べれば、正規の中国共産党軍は軍規が厳しかったといわれる[要出典]
3.^ 14000人とも。我が子に伝えたい誇りある近代史 (社)日本青年会議所 新しい教科書づくり委員会
4.^ 我が子に伝えたい誇りある近代史 (社)日本青年会議所 新しい教科書づくり委員会および[1]
5.^ 8月23日説もある
6.^ 日本人幹部の処刑は後日行われることになる
7.^ 10月末、10月23日説もあり
8.^ 10月末、11月18日説もあり
9.^ なお藤田は石人に潜伏していたが、もし自分の居所が露見した場合、匿ってくれた人々にも害が及ぶのではないかと考え、自ら竜泉ホテルにある中共軍司令部に秋に出頭した。八路軍側もこの藤田の率直な態度に好意を持ち、藤田はすぐに石人に帰ることを許されていた。松原前掲書
10.^ 松原前掲書
11.^ 11月4日説もあり
12.^ 12月30日、1月5日説もあり
13.^ 満州国司法省勤務歴あり
14.^ 松原前掲書
15.^ 我が子に伝えたい誇りある近代史 (社)日本青年会議所 新しい教科書づくり委員会および[2]
16.^ 我が子に伝えたい誇りある近代史 (社)日本青年会議所 新しい教科書づくり委員会および[3]
17.^ 我が子に伝えたい誇りある近代史 (社)日本青年会議所 新しい教科書づくり委員会および[4]
18.^ 我が子に伝えたい誇りある近代史 (社)日本青年会議所 新しい教科書づくり委員会および[5]
19.^ 孫耕暁は供述後に直ちに処刑され、劉慶栄軍需科長が立たされたとの説もあり
20.^ 松原前掲書
21.^ 松原前掲書。一部の日本人は9月に引き揚げの命令がなされ日本に帰還することができた、ともいわれる。
22.^ p168 凍てつく大地の歌 人民解放軍の日本人兵士たち
関連項目 [編集]
連合軍による戦争犯罪 (第二次世界大戦)
尼港事件
引き揚げ
シベリア抑留
通州事件
チベット動乱[要検証

以上。地獄絵図そのものです。読むにつれ気分が悪くなってくると思います。恐れ入ります。

中凶では南京大虐殺や731部隊など、あるいは半島においても、あちらの反日教育で刷り込まれるそうですが、我が国国民としてもこんな悲惨な大事件があった事を忘れてはならないと思うのです。

暴を以って暴に報いず(だったかな)、これは蒋介石が終戦後の対日処理について簡潔に方針を語った言葉とされていますが、実際の“現場”では・・・

綺麗事では外交(特に対特ア三国)は済まされません。
奸直人首相はどう乗り切ろうとしているんでしょうねえ。

Posted at 2011/02/02 21:20:19 | コメント(3) | トラックバック(1) | 歴史ネタ | 日記
2010年08月18日 イイね!

北の硫黄島・8.18政変

本日8月18日、いつも思い出す事件があるのです。
終戦後3日経って千島列島先端の占守島にソ連軍が侵攻してきたのです。

占守島の戦い

15日に降伏しても、欲深きスターリンのソビエト連邦軍は、満州において、樺太において怒涛の進撃をまだ止めておりませんでした。関東軍などは主力を太平洋の島々や本土に引き抜かれ殆ど役に立たない状況。まあ精鋭部隊が顕在でも似たようなものでしょうが。

日ソ中立条約破棄して。

ソ連も条約破棄してなだれ込んできたナチスドイツに痛めつけられましたが、変な意味で学習したのか。それとも戦時国際法等に疎かったのか。元来順法精神が無いのか。恐らくは最後のかと。

しかし、これは凄まじく日本軍守備隊が勇戦力闘し、幾度も浜辺までソ連兵達を追い返し、激しい防衛戦であったようです。「北の硫黄島」と言われる所以でしょう。


もう一つ。

8.18政変という事件が幕末に起きました。

尊皇攘夷を掲げる長州藩寄りの公家達が公武合体派の会津や薩摩により追放されたのです。
後に蛤御門の変に繋がっていきました。

その頃は尊皇攘夷派、佐幕派、公武合体派などいろんな有力な藩や志士がしのぎを削っていました。
どれにも共通するのは「西洋列強から日本を守りたい」という思い。

今、これら先人に申し訳が立たないと常々考えます。
草葉の陰からどう今の日本(人)をみているのか。

民主党政権はやたらに特定アジア3国に謝罪し、税金で補償しようと躍起です。
が謝罪しなきゃいかんのは、幕末から今に至るまでの戦死者なんじゃないかと。
Posted at 2010/08/18 20:44:46 | コメント(3) | トラックバック(0) | 歴史ネタ | 日記

プロフィール

「小野田寛郎元少尉に、黙祷」
何シテル?   01/18 18:49
げいかいすいこう、と号します。1112、トヨタ プログレ NC300ウォールナットパッケージ(緑)からスバル レガシィB4(赤紫) GT Sパッケージに乗り...
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2025/8 >>

     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31      

リンク・クリップ

今日は何の日~毎日が記念日 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2008/12/05 22:13:01
 
篠塚建次郎(シノケンさん)応援プロジェクト 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2008/02/04 20:45:09
 

愛車一覧

スバル レガシィB4 スバル レガシィB4
初めてのスバル、水平対向エンジン搭載車。まだ一週間ほどしか乗っていませんが、今の私にはい ...
トヨタ プラッツ トヨタ プラッツ
2年ほど前に、妻が使う事が多くなり、中古をトヨタDにて購入しました。車重が軽い(1t余裕 ...
トヨタ プログレ トヨタ プログレ
今年1月17日納車、2月28日悪戯被害、3月28日ディーラーに引き取り、正に空母信濃並の ...
トヨタ コロナ トヨタ コロナ
初めて自分が乗った家のクルマ。生憎GT-TR(ツインカムターボ)モデルではなかったが、直 ...
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation