67年前の本八日の払暁、アメリカ領ハワイ・オアフ島の一大軍事拠点、真珠湾を往時の帝國海軍機動部隊が奇襲攻撃を敢行し絶大な戦果(結果的には“戦禍”)を挙げました。
何とか日米開戦は避けられなかったのかな~たまに思ったりするのですが、もう67年前の歴史的事実は覆りません。
宣戦布告が戦闘開始より1時間30分くらい遅れたので、“卑劣な奇襲攻撃”とアメリカでは喧伝されてしまいましたが、仮に戦闘開始直前に通告しても結局同様だったでしょう。恐らく。でも今も昔も我が国の外務省は・・・駄目だな~しっかりして下さい!
安易な省庁批判はマスコミとそれに洗脳されちゃった人の専売特許と思っている、しかしここは自分も厳しく見ざるを得ない。
話が逸れた。
しかし当時の日本人の多くが溜飲を下げ、世界を驚愕せしめたのもまた事実。
そして当時の日本海軍機動部隊は世界最強の戦闘部隊であったであろう。較べるのはステージが違うし無理があるが、ナチスドイツ機甲部隊よりも評価に値する戦闘部隊であったろう。
機動部隊ではなかったかも、だが、マレー沖海戦でも英国の作戦航行中の戦艦プリンスオブウェールズ、レパルスをいとも簡単に沈めてしまったし。(正確には急降下爆撃と水平爆撃の違いもある)少なくともミッドウェー海戦までは。
我が父方、母方の両祖父は海軍軍人だったが、今回は父方の祖父の話。
祖父は戦争の始まる直前の頃、アメリカに派遣されていたそうだ。
ある任務を帯びて。
ハワイや米国本土の軍港の規模を調べ上げろと。
で、書き物、写真は一切残すな、「目」で見て幅や深さを正確に把握し「脳」に刻み込め、と指令を受けていたそうだ。
で、あちらでの活動の際、やはり日本の駐在武官が行くという事で、とにかくFBIに尾行された、州境では彼らが引き継いでくるのがよ~く見て取れて面白かったそうである。
で、祖父が67年前の今日、ぼそっと「日本は負ける」と言ったそうだ。祖母が「何で反対しなかったのですか!?」問いただすと「それを主張したら今頃自分は殺されている」と言ったとの話を聞いた。
正に海軍三羽烏(山本五十六・米内光正・井上成美)と同じ意見だったのだ。
そんな祖父は空母「赤城」(まさに真珠湾攻撃の旗艦だったかな?)の対空砲火にある「細工」をして、それが評価され陛下から賜った、所謂「恩賜の短剣」と「感状」を頂いたそうだ。
話が逸れたが、歴史を振り返るのはやはり人として持っておきたい思考かと思う。
追記
歴史街道という月刊誌の雑誌があって先週末発売された。
http://www.php.co.jp/magazine/rekishikaido/
総力特集 真珠湾攻撃 日本人を立ち上がらせたもの
冒頭でいつも漫画家、黒鉄ヒロシ氏が短いエッセイを記しているのだが、今回のが恐ろしく秀逸だったので、以下に転記する。
歴史ランドジャズが止まる時
面白い、あるいは遊びとしての歴史がある。
一方、学問的と云うのか。
客観的な記述としての歴史がある。
後者は、確立するまでに時間がかかるようである。
時の経過を味方にしなければ手に入らない情報の不足と、
ともすれば当事者達は主観が流れ易いから、
その意見が現実ではあっても
事実ではない憾みがある。
出来事の湿気が蒸発して熱が下がって、
やっと歴史となる資格を獲得する。
真珠湾攻撃はどうであろう。
昭和二十年代を子供の身分で過ごした体験では、
小、中、高、大と、腫れ物の如き扱いであった。
他方、遊びの範疇に含まれるべき情報は、
体験者達の談話、小説、映像その他は、身辺に満ちた。
約六十年を経過した今、
前航空幕僚長の論文が問題となっている。
論文の中身について述べる紙幅はないが、
随分と面白い内容であった。
前航空幕僚長にして、あの論文である。
タブーに属しながらエンターテイントメントの成分を
栄養として今日まで来た真珠湾攻撃を、
そろそろ歴史として眺める時期が来たのではなかろうか。
この記事は、
布哇海戦(真珠湾攻撃;Attack on Pearl Harbor)から67年 について書いています。
Posted at 2008/12/08 18:44:16 | |
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