時速100kmで走っているクルマと、時速0kmのクルマ、どちらが危険でしょうか。それは時と場合によりますよね。もし、時速100kmで流れている高速道路の中央に、ブレーキランプも点けずに、一台のクルマが停車していたら、とてつもなく危険です。
これは、絶対速度ではなく、相対的な速度の差のほうが危険を生むという、極端な例ですが、法律というものは、実際に危険だったかどうかではなく、絶対速度が法定速度を超えたかどうかといった、杓子定規な法の当てはめ方をして判断することが多いですよね。
また、無免許運転のクルマが事故を起こした場合、危険運転致死傷罪を当てはめることはできず、法律を改正しても適用されるのは、法律の施工後に起った事故からです。
以上は成文法主義の日本の話でした。ところがアメリカの場合だと、判例法なので、裁判のたびに、新しい法解釈ができるのだそうです。極端な場合は、法律のほうが現代に合わず間違っているという判決もあるらしいです。ですから、先に挙げた2つの例も、場合によっては、ひっくり返す事が出来得るわけです。
これはアメリカでは、政府や大企業など、権力を握っているものは信用できないという考えが、根底にあるからのようです。ですから一般市民である陪審員の良識による決定が尊重されます。その代わり「疑わしきは罰せず」の「推定無罪」が徹底していて、ひとつの疑わしい証拠の存在や、一人でも納得しない陪審員がいたら、誰かを有罪にする事はできません。また刑事事件では、陪審員は無罪か有罪かを判断するだけで量刑には参加しません。
「訴訟天国」と言われるように、アメリカのやり方が何でもいい訳ではありませんが、このように良い所もあるようです。小泉時代になってから、日本も訴訟天国にするつもりだったのか、裁判員制度が部分的に導入され、法曹人口も増えました。
しかし、日本は「疑わしきは罰せよ」という「推定有罪」の国(笑)なので、裁判員制度もおかしな方向に行きそうで心配です。その兆候はあります。いくつかの裁判員の関わった裁判で、検察の求刑よりも重い刑を下されたものがあります。なぜ、素人の裁判員が刑事事件の量刑を行うのでしょうか。なぜ、「プロ」である検察よりも重い刑を下したのでしょうか。
もちろん、被害者から見れば犯人は殺しても足りない憎い奴かもしれませんが、素人が量刑を行うのは間違っていると思います。
疑わしい証拠だらけでも、「推定有罪」の精神のもとで有罪と判断し、有罪であれば可能な限り最大の刑罰を与えようという方向に進んでいるように思えます。
でも、それは我々一般市民の精神を反映したものなんでしょうね。上が決めたルールに疑いを抱かず、痛い目に遭っても粛々と従うという…。「ルールはルール」、「言われたことを守れ」、「ならぬことはならぬ」の国ですから。
Posted at 2013/01/14 09:53:03 | |
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クルマに関わる話 | 日記