2015年05月03日
民主主義と資本主義論からその極のあり方とは?
えーと、民主主義と資本主義論ですね、前回の記事では、需要主義と反需要主義と題しまして、消費者を肯定するか、供給者か独占者のみを肯定するかの違いはありますが
多極主義による問題へのボトムアップ(資本主義は分散投資)が、両者の本質であり、極のあり方によって、民主主義も、資本主義もその姿を変えますよとしました。
・ではその極とはいったい何なのか?
社会、もしくは経済の主体の在処ですね、個人を主体とするなら、当然消費者を肯定しての人権の肯定、集団を主体とするなら、まあ態々否定する必要はないのかと思いますが、消費者の否定が関わるなら人権の否定に繋がりますよと、この仮説をもって、需要主義と反需要主義と当ブログでは題しています
まあ、主体が必ずどちらにあるのかではなく、普通はミックスですね、バランスが良いか悪いかはともかく、多極的に両立してるか単に偏ってるかになります。
既存の歴史で資本主義下での圧倒的勝者というのは、消費者肯定の需要主義側でしたね。
所謂、個人需要、大量消費社会が投資を通して、自国の需要即ちは技術や国力をさらに押し上げるという逆セイの法則とも呼べるような状態が、民主主義を勝者にしてきましたよと、結果的に、消費者を肯定した資本主義の国家が勝者になる、よって人権、消費者、労働者は守った方が良いんだと、だって国際競争に勝てるから。
特に、労働市場が供給不足により常に競争に曝されてた、欧州、北米では、反需要主義のとにかく節約した側が交換レートで優位に立てるんだという論理に反し、消費した側が何故か交換レートで優位に立ち、勝った上に労働者はその結果を見てしまうという現象、反需要主義者にとってはたまったものでは状況が続きました。
この背景により、需要肯定、需要主義、つまりは人権の肯定が支配者層の意に反して拡大していってしまいました。
需要主義の真逆の考えが重商主義の類する反需要主義、そもそも消費なんてしない方が良いんだ、過剰に消費すれば交換レートが落ちるじゃないか、国家としての勝者なんて自分には関係ない、とにかく供給を独占した権威者が偉いんだと、人権や労働者なんて知った事ではない、賃金?低ければ低いほど良いじゃないか、民主主義なんて糞くらえと。
人類史なんてのは、反需要主義の時代の方が圧倒的に長いです。
特に需要の源である貨幣制度はコストのかかる物で、一方、財の供給も安定しませんでしたね。
ですから、財の供給が安定し貨幣制度にコストのかからなくなる需要主義の通じるようになる近代までは、貨幣制度はインフレとの戦いの繰り返しでした、過剰な消費は通貨の交換レートの低下、即ち不要なインフレを意味するとというのは、この時代の知恵から来てます。インフレ恐怖症です。
どちらが正しいのかという話もありますが、反需要主義は政治的に多極的な解決に乏しく、産業革命以降、国家としてその多くが敗北してきた歴史があります。
このような歴史をもって、資本主義、または民主主義の極を、需要に置くか、供給に置くかは、我々一般人は消費者ですから、重要なこととなるのです。
・社会の極が国家の枠を越える時
今のグローバリズムでは、勝者となる国家という概念自体がなくなりつつあります、供給の独占者になりつつある自由資本は、需要は国家がしてくれれば良い、供給は独占させろと、次のステージの勝者をつくる事に躍起のようです。
国家を飛び越えるハズなのに、需要を国家に依存する、これは明らかに矛盾してまして、何れ他の構造が必要とされる時代になるでしょう、今はこの過渡期ですね。
反需要主義に傾くグローバリズムの流れの中で、民主主義もその本質を大きく変えつつあります。
民主主義をして、政治・経済が労働者の消費者としての権利を否定しようとしてるのです。
他にも緊縮による需要不足ですね、高止まりする失業率。
緊縮は、到底、多極的な解決案には思えません。
このように、個人か集団か、もしくは極一部の人間への独占か、政治・経済の主体、スタンスをどこに取るのかは、人としての生物としての社会のあり方に後々大きく影響してくるように感じます。
さて、マズローから多極的な民主主義と、そこから逆算出来る経済モデルの提案もできますが、情報共有をする人も居ない以上、これより先の予想、解決案を模索しても全く仕方ない事なので
まあやる気は起きないと(笑)
以上
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Posted at
2015/05/03 14:55:24
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