2013年03月30日
よく言わてれる話なんですけど、勉強して何の意味があるの?ですね。
戦略系は資料集まりませんので、まとまりません、今回勉強の意味という話。
経験則という物がありまして、私たちの思考のベースは経験則です。
個人単位で経験した過程を得て、物事を理解する、これが経験則。
この経験則のほとんどは、物事の境界が曖昧、曖昧とはおおまかの理解ですね、その曖昧理解の個人蓄積系が経験則です。
つまり、自分の経験の蓄積から導かれる方向性は合ってて不完全な仮説を、個人単位で完成した知識として扱っているといえます。
今取り扱ったのは内側の知識、じゃあ、外側の共有蓄積系の知識がありますね。
いわゆる科学や常識です。
この共有蓄積系の知識を経験する、もしくは、共有蓄積に関するルールを身に付ける、ルールを身に付けるとおおまか理解を、ちきんとした理解に近づけられる事が出来ます。
そして、ルールから世界を哲学する
これらが勉強になります。
哲学は論拠を積み重ねますが、蓄積系の分野ではありません。
蓄積方法についての分野ですね。
まあ、哲学も蓄積出来るんですが、蓄積系と新たに物事を考える哲学が知識と言えます。
何故、勉強はつまらないのか。
勉強の意味が解らないで反応した方の、大元の心理はこんな所にあるでしょう、まず興味が湧かないんだと。
共有蓄積系の知識と
個人蓄積系の知識の差ってなんだろう?
つまらない所を割り出すなら、比較しましょうという話。
先ほど書きました、勉強において共有蓄積系の知識の分野も、経験するという面は実は変わりません。
もっとも興味の大きさには差があるかもしれませんが。
比較から個人蓄積系に対して、共有蓄積系に欠ける部分は、得た論拠に対して仮説を立てる、哲学の面だという事がはっきりします。
この哲学における仮説の立て方を説明した物を、私たちはロゴス、論理といいます。
共有蓄積系においては、論理=ルールに従って既に外側において結論が出ているのが普通ですから、普段の勉学では論理を活用する必要は全くありません。
そして、共有蓄積系の論拠のほとんどを、私たちは普段の生活において、活用しないのです。
二段階で不活用と。
(不活用の知識って削れていきますよね)
共有蓄積系も活用方法においては、論理を使用するのに、論理を理解しないで、蓄積だけを身に付ける、日本の勉学はこれです。
これは、ゲームで言えば、説明書を読んでる状態。
そして、死ぬまでゲームをしないで、人生を卒業。
大抵の論拠は個人蓄積のためにあるのにです。
人生にハードは一つしかない、そうでしょう?
ハードディスクの増設は不可能、なんて糞ハード、欠陥品、一部の学生の嘆きが聞こえますね(笑)
そして、最も重要な事は、大抵のゲームで説明書を読む必要は無いという事です。
皆が欲しいのは攻略本。
まあ、結論としては、勉学は経験面上の大半が無駄になります。
ね、勉強って無駄でしょう?
・だが、結局は、共有蓄積系最強、個人の経験則はほとんどがゴミ
しかし、攻略本の創作に対するあらゆる論拠の積み立てに対しては、共有蓄積系の知識の活用が最も有効になります。
個人単位の経験則は、方向性以外が間違いだらけだからです。
その点、共有蓄積系は、共有に際して、多人数によって審査されてます。
そして、正しい知識という建材の上で、攻略本というビルが建てられるようになります。
共有蓄積系無しではビルが建てられません。
・しかし、真に最強なのは、共有蓄積系を組み立てる、論理
その論拠の積み立てに対しての前提が論理です。
つまりビルの設計方法ですね。
論理が解らないとビルが崩れると。
建材だけでなく、ビルの建て方も教えたらいかがでしょう?
前の記事は、需給曲線、これは建材ですね。
今回は、勉強について。
興味は持てたかな。
ビル建設という目的に対して、論拠を回収するというやり方も有効なのかな。
満足が得られるかは、実証してみないと解りませんけれどね。
以上。

Posted at 2013/03/30 15:26:22 | |
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2013年03月30日
ナマモノ取り扱いというか、基本的な予想の中に、交通網がとある菌の広がり方と同じですよという説を方向性を入れてありますので、
まあ、広義的な資源ですね、分業資源としましょうか、労働の源泉、価値創造チューブの源。
人間は、構造モデル上では、こいつらに群がる菌の一種と変わりません。
そのモデルでは、通貨は菌の保持する価値観、菌同士で使える栄養であり、分業資源面を別次元とすると、分業資源を食べて栄養に変えて広がってると。
まあナマモノ特有の気持ち悪い世界が広がります。
その世界での成功の定義って、謎なんです。
分業資源の活用により、雇用を確立した菌の皆さんは、現実の資源を消費していきます。
二種類の資源の提案ですね
リソースと分業資源はとにかく別なんだと。
結果、需給曲線は二重三重に解り辛くなっていきます。
通貨面では通貨発行者である政府が、需給をバッファさせていきます。
もしくは、財政インフレによって需要を溢れさせると。
分業資源の涸渇分を、通貨世界で疑似栄養として発行させて配るのがリフレ政策です。
所謂、富の再分配は通貨の共有ですね。
貨幣数量説によると、分業資源の活用は消費を通して物価によって均衡に向かうらしい。
→政府によるバッファが無い場合に、完全雇用で利潤の総量は定量ですよという考え方。
貯蓄は不必要に増えていかないんです。
ここから、不均衡の原因を、消費もしくは、雇用に求める動きが出ています。
→資産税or経営陣のサラリーの抑制
物事は均衡に向かうというのは大事な考え方です。
・分業資源とは何なのか
分業資源とは分業制度下における雇用の必要性です。
余剰リソースと余剰労働力が活用できる別次元の資源ですね。
実経済は、リソースと労働力と分業資源において、自然利子率として均衡に向かう。
貯蓄を含んでですね。
貨幣世界は、政府のバッファ規模と実経済の均衡に向かう。
ここから導きだされるのが物価です。
蓄財は、リソースとヘッジしますから、いつまでも増価していかない。
持論になりますが、無限増殖ってほとんどバグですからね(笑)
以上。

Posted at 2013/03/30 13:41:19 | |
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2013年03月29日
という事で混雑イライラ関連の話題と、解りやすい(やさしい笑)需給曲線の話。
混雑具合が物価で、
緒要素から導きだされる需要に対して、交通網がどの程度供給+αされているかで混雑具合が決まりますよ、
という当たり前の話。
渋滞に捕まる度に毎回思うんですが、物価と渋滞はそのまんま、置き換え可能だと思います。
供給が止まると、ボトルネックになっている所から、需要が溢れ出します。
交通網においては、流速からボトルネックの大きさと需要に従って、ボトルネック部分から混雑が拡大するんですが、物価と一緒ですよね。
これ経済の新古典の感覚と変わりません。
過度の流速拡大からヘッジの危険性が増すので、新自由主義は『ヘッジにおいては』機能しませんよと。
持論ではあるんですが、需給曲線を理解してれば、当たり前の話ではあります。
真逆の話は何故か聞くんですけどね。
渋滞の仕組みから、需給曲線を教えれば良いんじゃない?
もしくは、学生に、渋滞から需給曲線の内容を、作らせれば良いんじゃない?
と思ってしまいます。
需要の総量の仮定は…
要は走ってる車の毎時の総量なんですけれど
時間帯や休息日毎に違う需要がありますね。
でも大元は?
つくれるかな?
じゃあ供給の総量の仮定…
交通網の総量は、ボトルネックと道路なら車線の数や速度制限(速度もボトルネックですけど)となります。
これで出来た、需要と供給の均衡関係をグラフにした物が混雑具合になりますよ、これが需給曲線です。
需給曲線は難しい話じゃないんですよね。
毎日起こる渋滞の話で、すごく簡単です。
これが物価にそのまま当てはまる訳です。
この需給曲線の考え方を定型のツールとして、色んな物に当てはめるのが、本来の需給曲線の使い方。
インフラ系でほぼ万能というか、これ経済限定の話なのかなとも思います。
治水系の洪水も、まんまこれでして。
ここから、導きだされる考え方がボトルネック理論による導線。
はい、マーケティングの話に応用されるんですね。
導線自体も非常に簡単で、同列か別個として覚えても良いんですが、ボトルネック理論が導線の大きな論拠になりますよね。
まあ効率化でも良いんですが。
個人的に、万能ツールの需給曲線という言葉や使い方が通じない環境って、相当に問題があります。
この程度は水準としても相当に低いし、何とか義務教育に、組み込めないのかな?
というお話でした。以上

Posted at 2013/03/29 21:09:20 | |
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2013年03月24日
さて構造モデルをきちんと確認している最中ですが、組織論と繋がってきそうですよという話。
考えてみれば、分業という役割分担による経済的命題を、人類は組織化によってこなして来たわけです。
貨幣の繋がりが、最終的に経済という組織の集まりに繋がるというのは当然と言えば、当然の話。
この中核を為しているのが、元締め利潤調整仮説ですね。
思い返してみると、このアイデアを出した時から貨幣と組織は繋がっていました。
価値創造の辿ってきた形態変移を単位を個人として考えて見ましょう。
価値創造のスタート地点は、定住による蓄財です。
この時点での分業は明確ではなく、経済はほぼ個人で完成していました。
この蓄財の余裕が争いに向いていきます。
そして、蓄財の収奪にむかった争いの回避が集落による政治と経済の分業化でした。
分業がより多くの蓄財を可能にし、分業による効率化は人的余裕によって、新たな価値を創造し始めます。
新たな価値創造の条件は、必需品内において、パレート最適の条件を満たしているからでしたね。
この過程にあったのが、産業の組織化です。
ご存知、ピラミッド型かそれに近い形で命題をこなすという物。
日本では、座という組織が、安定した供給を目的命題に活躍し始めます。
元締め利潤調整仮説というのは、報酬、サラリーにおいてこのピラミッド型を想定しています。
チューブ毎の元締めが、報酬の全てをサイクル毎に決めるんだという仮説ですね
ピラミッド型のデメリットは、報酬が頂点に集中するという物。
経済というのは、蓄財含むパレート最適を命題としたゼロサムゲームです。
ピラミッド型では、インセンティブが頂点においてプラスサムに向かうという問題を孕んでいます。
株式の問題は、組織図にした時に、頂点はともかくマトリックス型になりますね。
これも報酬が集中しやすい形。
プラスサムの蓄財は、経済の目的命題ではありません。
経済の目的は、蓄財を含んだパレート最適のゼロサムの供給にあります。
これは蓄財が無制限が増え続けると、通貨がインフレに進んでしまうからですね。
フランスでは、インセンティブを命題として、経営陣の報酬を抑制する動きが出ましたが、極端な蓄財がパレート最適に対して構造的な欠陥を含んでいるからです。
対して抑制しているのは日本型。
・貨幣により、無形へ進む蓄財
古代では分業の拡大需要に対して、債権と債務問題、つまり信用問題は大きな障害となりました。
分業するには、相手が供給と交換を保証してくれなければなりません。
対して、古代の多種の供給物は減価と供給が脆弱であり、完全な分業は達成しがたい問題でした。
ただ、古代ギリシャでもやりましたね。
奴隷制という分業制度は、ギリシャでは古代で成立していますし、古代ギリシャの産業では土地が痩せていたために、経済面でも分業が達成されています。
これは、同地域の近くがパレート最適を満たす条件にあり、貨幣制度という信用が確立していたからです。
パレート最適に関して、気候や比較優位も関係してきますよという話。
信用という貨幣制度の確立に際して、価値創造の世界が生まれてきます。
これは必需品外の世界ですね。
それらの、価値創造は組織図によって保証問題を含めて行われていきます。
中世欧州のルネサンスの美術品の組織図も考えてみたい所。
蓄財が貨幣によって無形へ変わる瞬間から、価値創造のチューブ世界は組織図によって、供給を命題に広がっていったのです。
蓄財→貨幣により無形へ→無形から価値創造へ
しかし、物々交換の時代から減価率の低い加工の可能な物には、美術的な工夫が為されています。
これは、減価率の低さによって貨幣の役割を果たしてきた品々があり、より価値を高めようという実需の側面の話。
この最たる例は布ですね。
・では、貨幣は信用なのか
信用創造や信用収縮としてバブルや金融危機が表現される事はありますが、明確な区分として、貨幣にも、構造が浮き上がってきます。
蓄財(債権と負債)とランニングコストです。
この三重構造が貨幣。
来期のランニングコスト部分が需要となります。
そして、経済で利潤と仮定される物はどこにあるのかというのも、提起しました。
ゼロサムですから、所在を限定しなければ、利潤はバランスの問題にしかなりませんよとしましたね。
そして貨幣は信用たりえるかです。
貨幣という信用の保証により、あらゆる価値創造は拡大してきました。
金融商品というのは、信用という商品に対する信用取り引きです。
明確に線引きをする場合には、貨幣はその時点の供給に対しての債権にしかならないと覚えましょう。
貨幣は、信用でありません。
・収集癖と供給との乖離
資産税に対する提起問題の根本は、供給と貨幣量の乖離にあります。
まあ、多くがリフレ政策に起因する物ではありますが。
貨幣のような無形の蓄財の収集は、原理的には、いくらでも可能です。
株式のようなマトリックス型の報酬を放置し、リフレ政策を拡大した場合に、供給と貨幣量は乖離し続ける可能性があります。
対して、供給も価値創造のチューブも収集癖に従って増え続けたりはしないのです。
これらの問題を解決する方法は、リフレ政策にではなく、課税もしくは、報酬の組織図の逆転及び平坦化にあります。
これが富の再分配。
書きたい事は大体書いたので、以上。

Posted at 2013/03/24 09:58:21 | |
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2013年03月22日
見たい書籍が見つからないという珍しい状態でして、哲学面で気晴らししてるんですが、気になる事がありまして。
今回ちょっとその事から。
哲学系の本をパパパーっと覗かせていただきますと、供給が先立って説明されるケースが多く見られます。
経済学の本もですが、供給と需要を混同する論理が、最近というか、昔からなんでしょうね、傾向があります。
なんのこっちゃと、思われるだろう事ですが、プロセスや需要を省いて、自分勝手な結論を需要として書いてるケースを見かける時が多いと。
例えば、哲学のお話で言えば、ギリシャ哲学の需要は以前書きました。
ギリシャ哲学の、需要部分は当時ギリシャに流入し続けた多種の宗教の正当性の是非が土台背景です。
それで哲学=論理をもって疑問を解消する事が需要されたんですね。
そして、古代ギリシャ人は奴隷制でとにかく暇だったんだと。
この需要の上で、ギリシャ哲学は、宗教を叩き台にする事によって、段階を踏んで醸成されていき
ローマ帝国の政治要因による多神教から、一神教への回帰で、宗教に是非を問える学問故に、潰されました。
そして、類似例をイスラム教に見つけましたね。
>政治要因による多神教から、一神教への回帰で、宗教に是非を問える学問故に、潰されました
ここまで、書いてある書籍が見つからないのは良いとしましょう。
問題は、暇人達が宗教を土台にしたという需要部分が書いてない書籍が多すぎるという事にあります。
はっきり言えば、大雑把な仮説でしかない供給部分は、需要がなければ書籍において最も無駄な類いの書き物です。
学問において、大切な部分は、需要から供給へのプロセスにあります。
需要→(哲学)→供給
と、今さらカントと同じ事を言ってるんですが
日本の教育も、これと同じ失敗をしてないかと思いまして、
これは、社会に需要され供給される人材の為にという分野なので、仕方ないと言えば仕方ない部分もありますが
教育における興味というかインセンティブの分野ですね。
供給を優先し知識面で需要したがるという特性を損していないか、と思ってしまいます。
俗に言うインプット、アウトプットの話なんですが、
哲学の需要というのはこのインプットにですね、関連する話です。
まとまらないので、以上(笑)

Posted at 2013/03/22 19:57:14 | |
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