2013年02月21日
論理学の成り立ちから
哲学史に興味を持ちまして、科学の成立まで、ざっくりまとめますので、ご紹介。
哲学というと何だか解らない方が多いかと思いますが、19世紀前半までは学問全般の事を差しました。
解りやすい分類としては
哲学は19世紀初頭に
形而上学(感覚ないし経験を超えた概念の学問)
と
現象学(具体的事象への分析記述)
の色分けが行われます。
この内、現象学が解釈学を通して、科学へと結実します。
17世紀のデカルト『方法序論』からの原則、またWikiから引っ張りますよ(笑)
『明瞭判明の規則:明らかに真理と認められたものだけを判断の基準とする。
要素分解:解決可能な要素に分解して考察する。
具体から抽象へ:単純なものから複雑なものへと順番に認識をすすめる。
総合:見落としがないことを十分に確かめて、完全な列挙と再構成により全体を再構成する。』
この原則と
20世紀前半のポパーの反証可能性の概念が結実、
科学と擬似科学をようやく区別出来るようになりまして
科学の成立と相成りました。
これで哲学の簡単な分類が解ったかと思います。
形而上学と現象学と
現象学内の派生である科学、そして擬似科学が
歴史から見た場合の哲学です。
※定義上の狭義では違うんですけどね。
科学の成立を先にやってしまいましたが、
哲学の前提条件から考えてしまいましょう。
・世界に独立派生した(であろう)哲学の多くは実用性を求められた、一方それらを結実させたギリシャ人はとにかく暇だった
哲学の前提条件となると、知識の蓄積及び共有が求められます。
まず記録媒体の成立及び
論理学となるんですが
重要なのは、その実用性でした。
・宗教に見られる形而上学とその実用性
形而上学と聞いてなんぞやと思われる方は多いでしょう。
経験や感覚を超えた概念の学問です、例えば魂とはなんぞやが、形而上学。
哲学史は尺度との戦いの歴史でもありまして、尺度のはっきりしない古代では、全ての哲学は形而上学でした。
形而上学が、まず何に使われたか、宗教→神学です。
・哲学には叩き台が必要だった
疑問に思うこと、驚きを持つこと、哲学には切っ掛けが必要です。
古代エジプトでは、定期的に氾濫するナイル川から
幾何学が発達、ピラミッドに発展しますが、
一神教から氾濫する宗教もまた、哲学(学問)の対象になりました。
・叩き台→実用性
人に本来備わっている、数式的演算による真偽の問い、これを発展させたのが論理学ですが、論理を用いて叩き台から実用性を見出だす事に哲学は使われました。
宗教で正統性となりますね。
この古代エジプト含む宗教哲学及び幾何学の隆盛のあった、古代オリエントのほとりにですね、水運でなりたつ交易と、貧乏な農業、そして奴隷性で成り立つギリシャがございまして、
それぞれ、説明したいところですが、ざっくり割愛(笑)
本当に、実にもならない形而上学が発展します。
ギリシャ人は、世界は何で出来てるの?を古代オリエントや自らの宗教を叩き台から産み出したのです。
そこで発展し実用性のあった物が、物事の真偽を一時的に見極める、論理学でした。
・ギリシャではソフィスト、他方独自に中国では弁者が活躍しはじめる
詭弁を含めた弁論術ですね、論理学の類いが哲学では発達します。
中国の論理は知識を基に、故事に倣う事を基礎とします、これも論理の延長。
→ソクラテスが勉学から離れた弁論術に反発死刑→弟子のプラトンがソクラテスの死を叩き台に、政治について哲学を始める
この政治の叩き台は後に類似例が見られますね。
プラトンは物事の本質をイデアとし、善のイデアという概念を構築、物質と善を結合させました。
さらにアリストテレスが、物質と善の結合であるイデアを分離、
倫理学を独立して成立させました、倫理学の発達です。
・ギリシャ哲学の終焉
その後、ローマ帝国の異教禁止令により、宗教色の混在していてギリシャ哲学は終焉を迎えます。
アカデメイア閉鎖。
・ギリシャ哲学はイスラム哲学に受け継がれる
欧州は、世に言う暗黒時代の到来です。
キリスト教圏は宗教裁判が行われるようにもなりました。
まともな学問の出来ない中で、消失されるかと思われたギリシャ哲学は、イスラム教圏に受け継がれます。
中でもアリストテレスの哲学は、ラテン語に翻訳され、欧州に逆輸入されました。
因みに中国の弁者は、論理の使い道以外は消失してしまいます。
※墨家ですね。
こちらも、キリスト教と同じように支配のための儒教が発達。
・欧州で逆輸入された哲学では尺度が問題になる
暗黒時代だった欧州では、逆輸入されたギリシャ哲学と神学との融合がありますが割愛
科学革命と呼ばれる曖昧な時代に入り、欧州は哲学の尺度と格闘していくことになります。
即ち、自らと世界の境界はどこにあり、どの尺度によって、真理を哲学するのか。※科学の話なんですよ(笑)
デカルト、カントと尺度の問題は続き
尺度の問題はドイツ観念論として、結実します。
もう近代の話。
・フッサール:現象学
具体的な物に限定しようよ(笑)
・ハイデカー→ガダマー:解釈学
今までの解釈はキリスト教バイアスが強いよね
・科学の成立
ポパー「反証可能性によって、取り合えず科学と擬似科学を区別しよう。」
※形而上学の価値が損なわれていないことに注意
以上が、ざっくり哲学史の内容となります。
また細かいカテゴリーや、時代背景等があるんですが、興味がある方はご自分でやって下さいな。

Posted at 2013/02/21 13:05:58 | |
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2013年02月18日
特にまとめたくもない記事の続き。
閲覧注意
前回、生きる目的死生観としてデュルケームの自殺論を出しました、死生観として自殺論と生きる目的が対と言われてなんのこっちゃの人は、反転して
利己、利他、アノミー、宿命が生きる目的分類、4項目ですよと確認してください、一応、前回のまとめ。
反転同義で真偽確認&まとめずに把握が、当サイト主の一パターン。
4項目4頂点のグラフになるハズですね。
では、人の社会性について、債権債務の観点から少し踏み込んでみましょう。
人類は、分業制という役割分担上でですね、効率から生活の向上に必要な最小単位の、コミュニティをつくってきました。
この最小単位は核家族。
コミュニティの規模として大きいのは市町村、あるいは国だとか、多国籍系の繋がりで良いか。
この境界は曖昧でも良い。
それぞれのコミュニティには、維持にコストがかかりますね、コミュニティという債権に対する債務です。
この債務、中々放棄出来ない債務なんですが(笑)
コミュニティの維持は、現代社会の前提条件ですね、最小単位の核家族で構成されないのが特徴。
このコミュニティを個人と繋ぐのが、通貨及び社交性となっています。
現代社会は、分業制下の貨幣経済ですね。
分業制=債務前提の、債権及び債務制度となっています。
貨幣がコミュニティに与える影響が面白いので、つまみ食いしてみましょう。
またWikiから
『貨幣中立説
貨幣量の増減は物価にだけ影響を与え、生産活動や雇用の増減などには影響を与えないとする説。古典派経済学の中心的な命題のひとつであり、経済活動の本質は全て物々交換であり貨幣はその仲介を行っているに過ぎない、貨幣量の増減は貨幣錯覚による混乱をもたらすが国富・国民経済の観点では中立的であり、国富の増大には貨幣量の拡大ではなく生産・供給能力の増強によるべきとした。中立説によれば貨幣は社会的な分業や効率性をもたらす以上の役割はないとする。
数量説はこの貨幣の中立性を前提にしており、物価の乱高下は流通貨幣量の管理によって一義的に押さえ込むことが出来るとする。現代の我々には直感的に理解しにくい事であるが、管理通貨制度が定着する以前では「社会」に存在する貨幣の総量は誰にも計測できない(把握されていない)ものであり、金塊が採掘されるなり、難破などの事故により貴金属(金銀など)が喪失されるなりといった確率現象や、貯蓄のために金塊を退蔵するといった個々人の経済行動は、物価に対して深刻な影響を与える要素であった。
貨幣中立説というのは歴史的には大航海時代以後スペインなどが重金主義を採用したことによる反動ともいえる。新大陸の金銀財宝こそが富の源泉であり、その金銀を本国へと持ち帰り、その量こそが富だとしたのだが、後の絶対王政以後のフランスで重商主義つまり貿易黒字による差額があれば、金銀は自然と自国に蓄積されてくるという考え方であった。特に重農主義は貨幣と農産物を交換することで、金銀よりも農産物の方が優位であるとした。その理由は毎年生産され続ける農産物などとその後の発掘に手間がかかりあまり増えない金銀とでは農産物のほうがはるかに優位であり、しかも人間にとって重要な食料である穀物の量を確保すれば自然と金銀と交換され、貿易差額の黒字により蓄積されるという考え方である。言い換えれば鉱山よりも肥沃な田畑の方が効率がいいというものであるが、その後の議会制が整い始めたイギリスにおいて工夫や農夫のどちらの労働も価値があるとされ、「富の源泉は労働力」であると帰結されるに至った。要するに本来は無価値でしかない大地から金
銀を抽出する作業も農産物を収穫する作業も人間の労働力があってこそ成り立つのであるのだから、金銀の貴金属や穀物などの農産物に限らない非生産業である、力を蓄え始めてきた交易に従事する商人にとっても受け入れやすい理論だったのである。』
今考えても、非常に意義深い説ですね。
ちなみに
>中立説によれば貨幣は社会的な分業や効率性をもたらす以上の役割はないとする。
これは間違いです。
まず重金主義を振り返ってみましょう、
>新大陸の金銀財宝こそが富の源泉であり、その金銀を本国へと持ち帰り、その量こそが富だとしたのだが
これは、この時期の通貨は、鋳造貨幣でしたから、通貨供給量の増大による好景気があったということになりま。
つまり財政政策と同義。※財政政策に付き物の負債はないものとする
通貨供給量は、少なくとも、中期的に実体経済に影響を与えるのです。※特にサイクル理論経由で
他にも、貨幣という債権、及び債務の問題が、コミュニティという債務に影響を与えるかという提議。
これは、先の問題でやりました、多重債務問題です、与えるケースがあるに決まってますね。
債務問題→通貨の債務(将来的な供給力)部分に影響→コミュニティという債務に影響
一見して他の経路も考えられます。
さて、ここで注目したいのは、経済の目的となります。
・経済とは
・経済の目的とは
次の記事で

Posted at 2013/02/18 23:14:55 | |
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2013年02月14日
気になるエントリーを見つけまして、生きる目的ですね。
近年、情報の共有化によって最近やりました通貨の入手方法(要は供給力の提供及び価値創造の内容)は希薄化してきました。
所謂デフレの世界で、生きる目的根拠も、債務の希薄化と同じように薄れるのだろうか
という話。
宗教関係の話ではありませんよ(笑)
側面的にデュルケームの自殺論を念頭に置いておきます、倫理観に抵触する哲学なので今回は閲覧注意。
・デュルケーム
利己的自殺
利他的自殺
アノミー的自殺
宿命的自殺
所謂、人は統計的には、考えるから勝手に自殺していく。
デュルケームの分類は、死ぬ目的という題材の上で、対になる生を見つめ直すのに有効かと思います。
もうついて行けないよ、と思う方はここで結構。
ウィキからデュルケーム自殺論を拝借
『利他的自殺(集団本位的自殺)
集団の価値体系に絶対的な服従を強いられる社会、あるいは諸個人が価値体系・規範へ自発的かつ積極的に服従しようとする社会に見られる自殺の形態。
献身や自己犠牲が強調される伝統的な道徳構造を持つ未開社会、さらにその延長線上にある軍隊組織に見られる自殺・
殉死などが該当する(一般人よりも軍人のほうが自殺率が高く、軍隊内では工兵や後方支援部隊の兵士よりも戦闘部隊の兵士のほうが自殺率が高い)
利己的自殺(自己本位的自殺)
過度の孤独感や焦燥感などにより個人が集団との結びつきが弱まることによって起こる自殺の形態。個人主義の拡大に伴って増大してきたものとしている。
デュルケームによればユダヤ教徒よりもカトリック教徒、カトリック教徒よりもプロテスタント教徒のほうが自殺率が高く、
農村よりも都市、既婚者よりも未婚者の自殺率が高いなどと言ったように個人の孤立を招きやすい環境において自殺率が高まるとしている。
ただし、宗教別の自殺率の比較は、その後の研究によって統計上の誤りが証明され、デュルケームが指摘するほどに大きな違いがないことが明らかになっている。
アノミー的自殺
社会的規則・規制がない(もしくは少ない)状態において起こる自殺の形態。集団・社会の規範が緩み、より多くの自由が獲得された結果、膨れ上がる自分の
欲望を果てしなく追求し続け、実現できないことに幻滅し虚無感を抱き自殺へ至るものである。つまり、無規制状態の下で自らの欲望に歯止めが効かなくなり、自殺してしまうもので、
不況期よりも好景気のほうが欲望が過度に膨張するので自殺率が高まる。
宿命的自殺
集団・社会の規範による拘束力が非常に強く、個人の欲求を過度に抑圧することで起こる自殺の形態(彼はこのパターンは
脚注において説明しているに過ぎない)。デュルケーム自身は、この自殺類型に関して具体的な事例を挙げていないが、宮島喬氏は身分の違いによって道ならぬ
恋を成就できずに自殺へ至る「心中」がこれに該当するものとしている。』
デュルケームの自殺論は非常によく出来ている説でして、自殺の対になる、生への目的が浮き出て来るかと思います。
価値創造の希薄化は、この利己と利他に同時に抵触するのではないかという議題。
その割には、モラトリアム系の人間が増えているのが現代なんですが(笑)
働く事によって発症する鬱、及び自殺との明確な因果を感じますね。
ここまで書いて、特にまとめる気のない自分に気づきました(笑)
生きる目的も分類されるのでは?
やっぱり気味の悪い話ですね。
以上。

Posted at 2013/02/14 00:30:41 | |
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2013年02月13日
意外と重要な物価の定義
適当シリーズ第4段としてお送ります。
通貨を債権とした定義から、通貨が債権、債務、債権の入手方法の3つの世界からなると仮定しました。
雇用の分類をしていて気づいたんですが、物価はどこに位置するのかという仮説ですね。
もちろん、債務なんですが、債権と債務の乖離の可能性も既に示唆しました、その問題の中核が物価。
いわゆる流動性の罠の一因。
通貨を債権とした時の債務の定義はしました、債権の執行に伴う、債務能力としましたね、つまり将来の供給力。
通貨の定義は、普遍的価値を共有する流動性の高い、物々交換のための債権です。
※諸条件確認のこと
債務の価値が下がる諸条件も仮定済み、
1.債権の流通量に従って、債務の価値も相関し上下する
2.債務能力に従って、債権の価値が相関する
3.債権の入手方法の増減によって、債権の流通量は相関するのだから、債務も相関する。
3つのインフレを定義しました、財政インフレ、コストプルインフレの一種、ディマンドプルインフレ。
まずひとつ、私、債務の定義化に失敗していまして、債務は、減価率に従った実物の価値+将来の供給力だったんですね。
正確には、債権執行時の供給力+将来の供給力の期待値+変数(情報の共有など)。
諸々の条件を足していき、限界効用に従った需給曲線=物価となるハズなんですが、
・減価率に従った実物の価値
この減価率が需要より低く推移する場合に、将来の供給力の価値を必要以上に落とすと。
これ解りますよね、減価しない物が無駄に増えていっても邪魔以外の何物でもありません。
経済を続けていくのに、私たちは減価率に配慮しないとなりません。
将来の供給力の価値は、債権の入手方法に繋がりますから、減価率の低さが債権の価値を維持しながら、経済を押し下げると
こいつもデフレ圧力ですよとなりますね。
例えば冷蔵庫なんかも、減価率で言えば、下げる要因になりますね。
他には、情報の共有、こいつも実は減価率を下げる要因ですし、直接物価を押し下げもします。
今回他にとくに書きたい事も無いので以上。

Posted at 2013/02/13 21:01:20 | |
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2013年02月11日
適当に通貨とはシリーズから
雇用について。
通貨を債権と見立てた時に、その債務は限界効用に従った将来の供給力としましたね。
この債務の担保となるのが、雇用(失業率)となります。
まあ、要は今も誰かが物つくってんだから、物(将来の供給力)もあるに決まってる、債権の価値も維持できてんだと。
今雇用があるなら多分債務も問題無いでしょうと。
雇用と債務がトレードオフとなっている事が解ります。
そして、債権を新たに手に入れる方法。
労働か不労所得ですね。
(労働価値説)
この労働側が、雇用となります、大丈夫ですよね、現代は大部分がサラリーとなっています。
定義上から雇用は、債権の入手方法、及び債務の保証となりました。
債権、債務、債権の入手方法この三位一体の世界が通貨の世界となっています。
マルクス経済学は、効率化によるサラリー(労働による債権の入手方法)の崩壊と、債務の保証の乖離から、資本主義が終了するという物。
えーと、資本家以外が債権を手に入れる事が出来なくなるからですね。
つまり、債務&債権(通貨)だけ残って、雇用(債権の入手方法である労働)が無くなる。
このデフレ不況が拡大していくとした訳です。
雇用については、さらに哲学的な解釈を広げましょう、宇野さんの理論では
資本主義は差違性による利潤を産み出すシステムとなっています。
つまり、新自由主義の推し進めるフラット化ではなく、何かしらのボトルネック、これが雇用。
比較優位もボトルネック前提の話。
通貨を債権とした定義上では、債務内の債権とその入手方法となりますが、
宇野理論では、さらに、同定義を前提とした、資源の移動にかかる負荷そのものと、通貨という債権の普遍的価値に見合う価値創造が、その差違とされる雇用となりそうです。
ちょっと物価についての定義も変わりそうなので、記事を空けますよ。

Posted at 2013/02/11 20:38:29 | |
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