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ゆーりっく2のブログ一覧

2012年07月14日 イイね!

木下栄蔵さんの、世界がいま陥っている経済学の罠

現状の経済学は負債の評価が偏ってると、何処かで話した事があったか、

アイデア的にはあったハズですが、経済学の本ですね、木下栄蔵さんの、世界がいま陥っている経済学の罠、最近の本の中では、まあ書店に並んでいる物の品質には酷い物がありました、比較するにも失礼かもしれませんが、重要な観点で良書かと思います

正と反のマクロ経済の世界ですね。

当ブログは負債評価の方を諦め転形問題に力を入れて来たとおもいますが、

そうしたら、正反合わせて4ないし6つの世界になるのかなと思い出しました。

これは数学のテクニックとしては普通の考えですから想定した事があるという話ですね。

マクロ経済学の発展といえる内容となっています、今回の恐慌から出るべくとして出たというか。

衝撃の内容となっています。

合わせて少し遅れていますが、ペレリマンの紹介となる本ですね、100年の難題はなぜ解けたのか、

科学哲学の基本方針というのは、分類と真偽判定です。

分類し否定しつつ肯定し方針を固める。

哲学論理の技術書は難解で、多くの人は読む気にならないんでしょうが、こういう本なら抵抗も少ないでしょう、一般の方も時々は科学の世界に触れてみては如何でしょうか?

他の考えを否定だけする原理主義なんて、自分の能力の限界を自ら宣伝し、人とのコミュニケーションを放棄してるのと変わりませんよ。

他人事ながらナンセンスなんじゃないかなと思いますが。
Posted at 2012/07/14 19:14:21 | コメント(0) | トラックバック(0) | モブログ
2012年07月10日 イイね!

雇用ベースの需要世界は、別段珍しい話でもない。ヨーゼフ・シュンペーター1883-1950破壊的創造

さて、需要サイドの話で、特に雇用ベースの世界についてですね、書いていきましょう、

明確な雇用ベースの世界観を持っていたのは、フローを消費中心の市場単位の階層だとイメージ出来ていた(であろう)スミスとマルクスとシュンペーターです。

今日はシュンペーターの話も交えて、雇用ベースの世界の提議をしましょう。

シュンペーターの言葉として有名なのは破壊的創造です。

この破壊的創造、井戸端議論で、マルクスの予言した資本主義の崩壊、需要不足による均衡崩壊の否定に使われます。

破壊的創造を前提に、供給は需要に均衡し続けるですね。

それに対して当のシュンペーターさん、研究を深めるにあたり、マルクスの提唱した雇用ベースの需要の見地に気づき、マルクス経済学を大肯定しちゃいます。

井戸端議論で供給過剰の話をすると、この破壊的創造論の話を未だに見かけます、所詮一般人の井戸端議論というか、理解を深める前にアウトプットだけをする悪い癖のある人がいるというか。
参加する私が言えた義理ではないんですけどね。

では、その破壊的創造、内容の説明。

例によりWikiから

【古典派が均衡理論をもって現実経済を診断するのと異なり、シュンペーターは均衡をあくまで理論上の基準点として捉える。均衡状態はイノベーションによって不断にシフトしており、イノベーションが加わらないと市場経済は均衡状態に陥ってゆく。均衡では企業者利潤は消滅し利子もまたゼロになるという。市場均衡を最適配分とみる古典派の見解と異なり、シュンペーターにとって均衡は沈滞である。だから企業者は、つねに創造的な破壊をし続けなければ生き残れない。】

はい、非常によく出来た解釈です。

簡単に言えば、イノベーションによる需給均衡のシフト理論。
少し前に流行ったドラッカーさんも、次の主力産業はイノベーションであるみたいな事を言ってましたね、シュンペーターさんの影響は大きいです。※というか、正にその世代
私はイノベーションに限界のある事を予想してますからドラッカーを支持してませんが、ドラッカーとシュンペーターの主張の根拠は全く同じものでした。
あらゆる資源、それが新たに産まれてくるであろう知識や知恵でも、無限の物は今のところありません。
たとえば学問は収束しますし。

この破壊的創造という経済学的前提があるので国内でも、イノベーションの涸渇と、投資効率の低下があり経済に関係するのかが議論されています。
今どこにいったか見つかりませんが(笑)

シュンペーターの言いたい事は、要にイノベーションの成否が投資を経て、金利と物価に連動し資本主義の成立条件の一部となる。
これが破壊的創造の概容です。

彼の欠点はマルクス経済学に傾倒しすぎたために、ケインズ経済学を否定したことですが、マルクス経済学の継承として破壊的創造は素晴らしい功績と思えます。※他のマルクス経済学と一線を画していても、外から見れば継承は自然な考えです。

では、彼らのの見つけた雇用ベースの消費世界とは何だったのでしょうか。

・雇用ベースの世界観

破壊的創造(イノベーションによる需給均衡のシフト理論)は、企業(マーケット)単位の新陳代謝を想定して真理を見つけ出し、市場レベルに拡大しています。
アダムスミスも、国家間の賃金格差を想定するにあたり、マーケット単位の考察を経て労働価値説を築きました。
そして、カールマルクスも、マーケットの考察を経て、資本の有機的構成という仮説(仮説といっても合ってると思いますが)を唱えます。

雇用ベースの世界観を珍しくないというのはですね、彼らがマーケットに通じる真理を市場の論理に拡大利用して使っている、という共通点から言っています。

マーケットを通して経済学は色を変える(着色されると見ても良いか)というのが私の持論でして、
これこそが私の雇用ベースの世界観の発端でもあります。

雇用ベースというのは、単に供給を分業によってどう配分するかという事でもありまして。

この分業について、マーケットから深く分析したのが、スミスからマルクス、シュンペーターに受け継がれたマクロとミクロとは別の系譜の経済学でした。※シュンペーターの破壊的創造はミクロ経済学とされる

そして、分業(雇用)は需要に深く影響を与えます。

そう考えると、経済の相互的な力の出発点は、供給と貨幣と雇用それぞれにあり、需要はその影である。

それらの均衡理論が経済学だという見方がですね、まとめると見えてくるかと思います。

仮説の提唱ですね

経済とは、供給と貨幣と雇用の均衡であり、シフトしながら循環している、需要は遅れてくるその影である。

となると経済という実体が見えてくるかと思います

セイの法則についての反論提議はここまで、比較的面白い記事になったとは思います。
次の記事で限界効用をやりましょう。
Posted at 2012/07/10 00:49:03 | コメント(0) | トラックバック(0) | モブログ
2012年07月08日 イイね!

セイの法則を考えてみよう

ちょっと寄り道を。

自由放任の根拠である見えざる手という均衡理論

この均衡理論の完全性を補完するためのセイの法則、供給した分は需要されるとした、同命題の背景については既に書きましたね。

この命題、重農主義から受け継がれる自由放任を支持するために間違ってる(と解っている)のに関わらず使われてきました。※簡単な経済史として説明するために古典派の主張した「細かな」後付け理論は全て無視します

セイの法則の大きな欠点は、見えざる手とセイの法則が両立し、また真でもあるという理屈付けに使われた、後付け理論、貨幣の中立性にあります。

今回は、セイの法則にまつわる仮定を考えてみましょう。

・貨幣制度は独立して需給に影響を与える。

えーと古典派経済学の特徴でもあります、貨幣の中立性は、長期的に見れば、均衡によって供給に需要が追い付いてくるという裏付けのための理論でした。

まず、この均衡に欠陥を見つけたのが、マルサス、シモンディ過少消費説、賃金を通した消費は貯蓄によって疎外される(可能性が充分にある)。
次に、この均衡に欠陥を指摘したのは、マルクス資本論、生産性の向上によって雇用は少なくなる(ある時期をもって供給に需要は追い付かなくなる)。
そして、ケインズは欠点の指摘というかより早い需給の均衡、マクロ経済学、有効需要。
貨幣数量説、経済にはある種独立した貨幣の世界があり、需給に影響を与える。
ハイエクのバブル理論は貨幣の中立性の(少なくとも短期の)否定と不均衡が前提になっています。

これらを体系的にまとめると、経済には

供給側の世界
需要側の世界
貨幣の世界

3つの世界があり、どこかで均衡している。
私の主張もそういうものになります。

ならば、セイの法則(供給サイド)に相対する命題を需要サイドにも見つけられるのでしょうか。

需要サイドの話をまとめてみましょう。

・バイキングの出現
北欧の出生率上昇による侵略(供給のおいつかない需要過剰)

・ゲルマン民族の南下
寒冷化による供給不足(及び需要過剰)

・米騒動
不作による供給不足(需要過剰)

不必要な分のサンプルを増やすのは苦手なので、他はお任せするとして、
供給の追い付かない(固定された条件での)、需要過剰の歴史とは戦争や内紛などによる事実上の人口調整でした。

では需要不足

・日本のバブル後
不況による自殺率の上昇

・世界恐慌
不況による都市部の餓死

・欧州の財政危機
政治で何とか出来なければ、おそらく内戦でしょう。

比較するには近代になりすぎたか、こちらも、人口調整と取ることが出来ます。(各国は不足分を財政支出でカバーしてきたと言えます。)

では、セイの法則に相対する、需要(消費)サイドの命題を提議しましょう。

供給事情に合わない需要(この場合の需要とは人口の事を指します)は淘汰される。→人口調整。

はからずも、供給サイドに合わせる結果となりましたが、私の真偽判定からしても中々バランスのとれた提議だと思います。

淘汰の民主主義的な解決を貨幣世界(たとえば財政支出→負債や有効需要)に求めているのが、近代から現代の経済だと言うのが私の経済観にも合いますね。

ただし、近代から現代にかけて雇用(ある種の供給や需要)の種類が増えた事も視野にいれなければなりません。

話を統括すればアダムスミスとマルクスの提唱した、雇用ベース(彼らは需給の間にあるものを労働価値説としていました)かつ需要(消費)サイドの世界が垣間見えてきます。

提議した命題による需給の構造は

・供給を固定した場合の需要過剰

供給ベース→需要(人口)調整(命題は淘汰)→雇用ベース調整

及び

・供給能力を一定と仮定した場合の需要不足

雇用ベース調整→需要(人口)調整(淘汰)→供給調整

※ひとまず貨幣世界は置いておきましょう。

リカードとマルサスのセイの法則を巡る議論での
供給と需要の行き違いの原因は、明らかに雇用ベースの世界概念の未定義でした。
リカード→すべての国民は消費のために供給する。
供給を分類すべきではない。

では、消費サイドの雇用ベースの世界とは何なのでしょうか。

供給と需要(消費及び人口ととっても良いでしょう)が均衡によって淘汰を含め一致に向かい、その均衡を雇用と貨幣が果たす、単に経済を需給として理解してきた人にもピンと来るものがあるハズです。

この価値観は既存の経済学を取り入れた上で、古典派の労働価値説にも直結します。

それで私が議論に参加する時、古典派と言われるのですが、どうなんでしょうね、古典派?
他の理論ももちろん念頭においていたりします、そもそも~原理派の人は議論に向いていなかったりするので、話の通じない事は多々あるのですが。

次の記事で雇用ベースの話を少ししてから
ごく単純にした経済史というものに戻りましょう。
Posted at 2012/07/08 12:39:14 | コメント(1) | トラックバック(0) | モブログ
2012年07月06日 イイね!

カールマルクス『資本論1867ー1894』利潤と資本の再発見

それにつけてもおやつは…さんの資本論は、歴史的な意義も持ち、その赤い関連から、アレな人たちと、逆のアレな人たち両サイドを惹き付けます。

経済学史のフローチャートでいうと、単なる利潤と資本の再発見なんですが、

アレな人たち両サイドの潜在需要からして、(まあ既におじいちゃん世代でしょうけど)先にブログの立場を、書いておかなければならないでしょう。

当ブログは、両サイドの立場や考えなど、知った事ではありません。

では説明。

マルクス経済学以前の流れは解りましたね、需要を放置して労働価値説と自由放任にとらわれた、供給サイドからのアプローチ、古典派経済学ですが、その労働価値説の流れを組みつつ、概念として利潤と資本(ストック)という枠を再構築、見えざる手という均衡(自由放任)の崩壊を数理によって予言、同時に世の資本主義を批判したのがマルクス資本論でした。

アダムスミスのフローの発見から、ようやく利潤とストックを明確に再定義したのがマルクスだったんですね。
(当時主流の古典派に、貨幣の中立性に反する貨幣的利潤という定義が明確にあるとは私には到底思えない。一応再定義としておきます)
この利潤の概念は貨幣数量説にも少なからず影響を与えているでしょう。

考えてみれば普通はそうだよな、というのがフローからある意味独立している、同資本(ストック)と利潤の概念。

マルクス経済学をかじった人ならお待ちかねでしょう、つまり、剰余価値の発見です。

マルクスは古典派経済学の労働価値説と同じく、供給サイドにとどまって経済の解釈を広げました。

つまり、
肯定→労働価値説
否定→自由放任

私からすれば、彼も古典派と呼んで良いんじゃないかなと思いますがどうなんでしょうかね。

後は面倒臭いので(深く突っ込む意義もあるとは思えませんし)、均衡崩壊予言の元ネタ(資本の有機的構成という数理からの予想)もあるのですが、現代で供給サイドにとどまった数理を学んでも意味がありません、割愛。
※マルクス経済学の理解には必要です。

次の記事で同時期の古典派経済学の限界効用に触れてみましょう。

・重農主義←対立→重商主義
・アダムスミス、フローの発見と均衡理論(見えざる手)

・過少消費説(恐慌を通した重農への批判的な指摘)
・重農主義(特に自由放任と労働価値説)に偏った古典派経済学
・マルクス資本と利潤の発見(自由放任部分否定、労働価値説)

18後半から19世紀当時、供給サイド(労働価値説)の研究が盛んだったんですね、こんなところになります。

多少ごちゃごちゃし始めましたがまだ解る流れでしょう。

ちなみに、経済フローへのアプローチは、ケインズを転機に、マクロ的な需要サイドからのアプローチが、主流に変わっていきます。

最終的に現代まで書くと解りやすいかな?
Posted at 2012/07/06 20:36:53 | コメント(0) | トラックバック(0) | モブログ
2012年07月04日 イイね!

過少消費説後の古典派経済学。

科学が後退するというのは、人類の歴史からすれば良くにあることで、セイの法則は、自由放任が真であり完全でもあるというための(※宗教的な価値観もあったでしょう)裏付けのためにつかわれた間違った理論でした。(需給の一致、貨幣の中立性)

過少消費説後、古典派は均衡による長期的な需給の一致を根拠に、供給のみを経済学(内容を言えばフロー)の中心と発展していきます。

これは、なんというか端から見ても、真っ当に成長したものではありませんでした。
※もちろん有意義な物もありますが、この失敗はマルクス経済学にも一部受け継がれます。
現代から見ると後退りに見えます。

限界革命に数理経済学を通して、供給側の経済学はミクロ経済学(の基礎)へと発展していくのですが、現代で主流とは言えませんし、内容も解りづらい物となっています。

これは供給した物は必ず消費されるという需給の一致を前提とした、ある種の仮想世界の極論に数理を通しているからです。

この需給一致という提議、マルクス経済学の完全競争と一緒です、経済の限界は供給側が決定し、需要は均衡によって供給に追い付くという勘違いは、勘違いなりの健全な成長をしますが、消費(需要)を中心した現実の経済とは次第に乖離していきます。

(※限界革命が時代に合っていた所からして、あくまで供給側のみ研究として見れば古典派の流れは真っ当と言える成果を残していますから、適正な表現ではないかもしれません。
自由放任を軸にするために需要を置き去りにした、供給側のみ経済学の発展という歴史ですね。
それが過少消費説後の古典派の時代です。)

この学問と現実経済の乖離の限界点は、世界恐慌に対する古典派経済学の無力でした。

当時の古典派経済学のケインズ派への批判は、自分達のやってきた事の否定に対する反発になります。

現代経済学で、まず最初に学ぶマクロ経済学(需要サイド)とミクロ経済学(供給サイドの発展)は、世界恐慌からの学派の住み分け事情もあるという事になりますね。

まあ、金儲けの裏事情なんて教科書では教えませんけど。

※均衡によって、不完全であれ、需要が供給に追い付くのであれば、供給の研究は需要の研究に役立つという見方も出来ます。
将来この均衡が労働価値の低下によって破れる事を予言したのがマルクスですね。
Posted at 2012/07/04 22:01:12 | コメント(0) | トラックバック(0) | モブログ

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