2012年07月03日
講義なんて面白い物かな?と思いますが。
さて、過少消費説には、下地がありまして
具体的な議論は、1820年前後に行われています。
全般的過剰生産恐慌の可能性と原因の是非に対しての論議です。
下地は1783,93,97,1810,15,19年の過渡的恐慌の原因が何によるものであったか。
対立軸は
シモンディ、マルサス側の重商主義の色が濃い、貨幣数量説に繋がるような、今でいうフロー→ストックの主張と
セーとリカードの重農主義の色の濃い、自由放任に基づき過剰生産による恐慌は原理的にあり得ないという主張
あら、今の新自由主義とマクロ経済学の対立と一緒ですね(笑)
これは面白いと思うと同時に、人はこの頃から進歩してないのかなとも思います。
ハイエクまでいけば、過剰生産がデフレ→低金利を引き起こし、負債を増大させ、バブル崩壊に至ると考えられるんですが、そもそも時代が違います。
恐慌は原理的に勝手に起こりえる物なんです、政府のせいにしようが市場せいにしようが同じ事ですが、政府は市場の大前提ですと、自由の定義では説明しました。
私達は政府という社会制度を前提として必要としますし、恐慌は色んな理由で起こりえます。
その意味では政府も市場の一部であると考えるのが普通なのです。
シモンディ、マルサスの考察は非常に興味深い物でした。
彼らは消費(需要)に注目し、労働者や投資家の消費が不十分になる可能性から、全般的過剰生産恐慌の必然性を主張しました。
つまり貯蓄(ボトルネック)によって貨幣制度側に機能不全が起こるとした訳です。
ここで注目すべき論点は、後の有効需要に繋がる、フローの構造は供給とは切り離された消費中心の物であるとした考え
重商主義に基づき貨幣制度側に限界(貯蓄というボトルネック)があり、そのせいで機能不全が起こるという考えは、利潤がマネーサプライから来ているというマネタリズムにも直結します。
現代経済学を考えれば解るとおり、この二点は後の世に大きな影響を残す斬新な考え方でした。
この過少消費説、実はアダムスミスの見えざる手を部分否定する説です。
市場は均衡に向かい、政府が介入しなくても上手くいく→自由放任
この均衡は完全ではなく恐慌が不可避だと、するのが同議論だからです。
当ブログの立場から言えば、自由放任に出来ない程度に、市場の均衡は少し不完全な物であり、均衡が正義であるという倫理観も、間違っているものだとします。
不均衡が恐慌をもたらすのは歴史から見て明らかですし、市場が均衡に向かうのは倫理観からくる正義ではなく、単に真理の一部だからです。
このシモンディ、マルサスによる不完全な部分への指摘が後年の有効需要や貨幣数量説に繋がったと考えれば、アダムスミスの当初主張した完全なる均衡、見えざる手の万能論は間違いであったと皆さん気づく事が出来るでしょう。
自由放任の欠陥の指摘は、重農主義の流れに反する論議でした、宗教的な背景もあります。
対立軸が出来るのは自然な流れでした。
過少消費説に対立するセーとリカードに注目すべき論点は、アダムスミスの自由放任とセーの法則に固執(需給を一致させる事によって、有効需要を否定した)する事によって、後の古典派の供給を中心とした労働価値説の考え方に道を示したといったところでしょう。
具体的には、限界効用などですがいい加減に長いので(古典派は内容的にも面白くない物ですから)割愛。※偏向ととってもらっても構いません
過少消費説を巡る議論は、その後にほぼ10年毎に起こり続けた恐慌の発生を根拠に、
リカードとセーの主張は不支持、
シモンディとマルサスの主張は、
貯蓄の普遍性を恐慌の原因にした場合には、万年恐慌が発生してしまうのが、過少消費説の矛盾点だと指摘され放置されます。
ただ、今ならこの論争にはトドメを指せるでしょう。
まず、利潤の概念説明→後年の利子率の研究
貿易収支によって利潤の元であるマネーサプライが必然的に制限される事
ストック→フロー過少消費説の一面的な正しさ
ハイエク負債の増大とバブル
フローは消費中心であるという考え方
ここら辺で充分でしょうかね。※使いすぎか?(笑)
恐慌回避のためには、負債の(不良債権の緩和を目指した)一部デフォルト、マネーサプライの直接供給、フローのボトルネックの解消→物価の是正
大恐慌の対策には、これらの政策が必要な事になります。
まあ、リーマンショック以降と照らし合わせて、非常に常識的な政策だと思いますが、色々な考えがあるので特に誰彼の意見を否定も肯定もしません、バブルの大きさもあるでしょうが、どうにも放置だけはあり得ないのは指摘しておきます。
不均衡の是正がクライシスで起こる時に、フローは一部停止します、社会はフローの停止を何ヵ月我慢できますか許容しますかと、安保からしてもあり得ません。
見えざる手は万能ではない事、高々均衡するという事実に正義を持ち出す意味はない事、一般認識しやすい経済とは消費側のフローを中心とした物であること。※ミルのセイの法則への批判、生産につながらない消費(非生産型の消費)の増大による経済刺激策の有効性ですね、これもフローは消費側に中心があるとした示唆に溢れています。
ここら辺で過去の時代の人も納得出来るハズです、経済学は道筋をきっちりとしながら発展しましたからね。
以上の説明で、セーの法則を巡る過少消費説の議論の重要さは解るでしょう。
ところが、巷にはどうもこの議論の紹介は今少ないようです。
何してるんだともいう話。

Posted at 2012/07/03 23:49:45 | |
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2012年07月03日
えーと、先に重農主義の説をしなければなりません。
重農主義とは、土地と生産が深く結び付いた物であり、重商主義が重視した貿易収支(貴金属の溜め込み)よりも、土地(農業)によって得られた余剰生産物を元にした自由放任によって、経済は発展する物だと主張したもの。
この考えはアダムスミスに大きな影響を与えています。
現代の供給を考えると、この土地から得られる余剰生産物こそが、経済の元だという重農主義単一の考えは有り得ません。
たとえば知識のウェイトが土地よりも遥かに大きい事が解っているからです。
土地が無くても供給(たとえばサービス)の出来る現代と違い、時代背景からしては、仕方なった面もあります。
・重農主義
フランソワ・ケネー
1758『経済表』
重商主義が唱えた貨幣(貴金属)の蓄えは富の源泉ではなく、土地から産まれる余剰生産物こそが富の源泉であるという考え方。
当ブログとしては、マネーサプライも余剰生産物も、両方が富の源泉であるのだとしておきましょう。
さて、重農主義(1758ー)からヒントを得たアダムスミスは経済のフローに価値を見出だし、1776ー1789『国富論』で経済のフローの概念が発見されます。
そのフローの概念は、フローの内容である需給、需要と供給の受け渡しがどういう物であるか、という議論に発展していきます。
この需給の議論で唱えられた仮説の一つが、
・セー(セイ)の法則1803
ジャン=バティスト・セイの主張した、貨幣の中立性かつ需給の一致です。
Wikiから引用
【セイの法則(セイ法則)とは、「供給はそれ自身の需要を創造する」と要約される経済学の法則。
セイは、経済やビジネスの好転、あらゆる購買力のさらなる増強は、ただ生産力の増強によってのみなされるのだとの社会的な洞察をもっていた。
そこで不況の原因が行政府による消費支出の不足や、通貨としての金の調達・供給不足にあるとする分析に対して、その批判の矛先を向けていた。】
引用ここまで、
ここを読む人は、1980年代アメリカのサプライサイド政策の失敗をご存知でしょう、セイの法則は欠陥理論です。
現実には生産力の増強だけでなく、貿易収支、マネーサプライと物価、ケインズの有効需要、そしてハイエクのバブル(負債)理論ですね、そのどれもが経済には、必要不可欠な考え方となります。
どれもが単体では既に否定されているため、ミックスした考えが主流なんです。
セイの法則は、重農主義の主張である、自由放任と余剰生産物という考え方に縛らた結果、需給の本質を探るという姿勢に進歩が見られません。
需給を一致させるという誤った基本方針をとってしまいました。
アダムスミスの提示した余剰生産物に関係の無い人的資源によるフローの価値も遠ざけています。
この欠陥理論、セイの法則の正否を巡った対立が、後年のマネタリズム、マルクス経済学に繋がるであろう、過少消費説です。
多少ドロドロした言い方をしていますが、ある一面ではセイの法則の考え方も必要不可欠であり、健全であるというフォローはしておきましょう。
そもそも自説こそ正しいと主張するために、一面的に正しい重商主義を遠ざけ、後の世でいう貨幣中立説を唱えたのが、この手の主張によくある失敗です。
ドロドロするのはセイの自業自得、私のせいじゃありません、結果論としてそうなるのは当たり前なんです。
もっとも、需給一致という限定条件下で研究すべき分野としてセイの法則は再評価されていきます。
古典派と評される経済学の発展は、重商主義、重農主義を土台にして、アダムスミスのフローの発見から、様々な議論を通して行われています。
この議論の中核の一つを為すのがセーの法則の否定、過少消費説
シモンディ『経済学新原理』1819
マルサス『経済学原理』1820
ですね。
当時の見解としてもセーの法則は、特に重商主義の観点から真偽判定に疑問の残る問題でした。
重商主義と重農主義→アダムスミス、フローの発見→セーの法則→過少消費説
因みに、古典派経済学というと、重農主義の影響がつよい、労働価値説に依った学派という見方がありますが、全体を見ると正しくない言い方ですので、当ブログではその表現を控えておきます。
たとえば古典派であるマルサスがセイの法則を肯定していて、貨幣の中立性を支持していたというなら、笑えないジョークにしかなりません。
カテゴリーにするにも内容を考えた方が良いのではというのが、私の意見。
次の記事では過少消費説をやりましょう。

Posted at 2012/07/03 23:22:17 | |
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2012年06月21日
どこかのまとめブログで立てた仮説そのまんまで恐縮なんですが、
労働価値説ですね。→私本来が匿名議論好きの議論肯定派ですので、どこにでも顔を出します。
サービスの対価とは何なのか?
当ブログとしての結論を出してますので
古典派から貨幣数量説の発展の前に書いちゃいましょう。
・地域的な賃金格差から解るように、サービスの対価というものは、本来自分で決められる物が、競争関係上の妥協で均衡を保ってる物に過ぎない。
→競争関係の生まれづらい詐欺の世界では、100億集めた話題が国内に新しい。
この競争関係に製品の質の競争が入っていたりして、
近年でも自由市場の有効さが叫ばれていますが、
サービスの対価→物価
とは自主的に個人が決める物であるというのを提議しています。
これアダムスミスの一解釈としてそのまんまなんですが、意外と深い提議なんです。
物価→貨幣の価値とはサービスの対価の延長上にあります。
このサービスの対価が実は個人の自らへの労働への価格決定権の集まりであること。
自由市場が真に有効なのは、この価格決定権が最適パレートを満たす条件に叶っている場合に限る。
その正体がストックのフロー化→インフレなんですよと、
ちょっと小難しい話になりましたが、
市場原理の正体について、サービスの対価→労働価値説を挙げています。
この根拠をもって経済政策を、
貿易収支を重視したサプライサイド政策、小売りの脱企業化、雇用の最適化(シェア)
この3つの柱に絞って主張しています。
話題の税制問題はフローの取り分の割合の話でしかありませんから、好きにすればという立場ですね。
まあ広く浅く分配したほうが良いとは思いますが。→一極集中しても死に金にしかならないので
ただ、どう考えても今の時代に財政が経済問題の柱にはならないでしょ。
とんちんかんな事をして戦争か内戦でもする気ですか?
欧州もフローに問題が出たから、財政危機になったんですから。
財政危機の問題を税制で何とかする…
あ、付加価値税でスペインだかの税収が減りましたね、
緊縮財政が有効需要を減らすのと同じで、増税はその緊縮財政を民間に押し付ける物です。
結局は税制問題は本当に取り分の割合の話でしかない訳で、
大事と言えば大事なんですが…、
このフローに問題の出たご時世に解決もないくだらない事でなんだかなァと。
じゃあ税制改革で欧州は回復するの?って話ですね。
しませんよねぇ。

Posted at 2012/06/21 22:51:34 | |
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2012年06月21日
今でも考えます、ニクソンショックは、とんでもコペルニクスだったのか?
1971当時アメリカドルの切り下げ問題というのは、それなりに深刻な事態でした。
※ソ連に経済的なトドメをさすかの冷戦下だったしね
量的緩和下かつデフレによる利子率の中期スパンの維持という仮説は、それなりに根拠が必要だったというか、
ここら辺に経済学が既にこの頃、後追いじゃないという気配を感じます。
だって、根拠無しで貨幣制度をそれまでの論理と真逆に動かすなんて、おかしいじゃないかという話。
論理の飛躍は無いハズなんだけどなァ。
結果的に欧米資本は共産との市場競争に勝つんですが、これはアメリカの借金の効果もあるよね、という話で。
共産との市場競争の結論は、アメリカドルの切り下げがあったらそこまで差はつきませんよねえ。
※世間には経済で共産が負けたと大々的に宣伝されてきましたが、戦争で特需も利用したし、これは恐慌の先伸ばしでしょう?
この逆算の考えに行き着かないなら、行き着かないで良いんですが、
そうしたら、ニクソンショックは
どの根拠で選んだという、どうしたって、とんでもコペルニクスということになります。
それから
今回のアメリカの量的緩和だって、このトンでもコペルニクスに内容は変わりはしない。
マクロ経済学には、貨幣数量説を取り入れた発表されてないモデルがあると考えてしまうのが
今、一番自然な考えなんですよね。
元から、経済学には安保に直結する部分が有りますし、発表されない部分があっても何ら不思議には思いません。
という事でこの類いの知識は暗部なんじゃないか
と危惧してしまったりします。
さて逆算が可能だという事実を前提にした場合、面白い物でそのモデルのフレームがある程度見えてしまいます。
・量的緩和→貨幣数量説に反するデフレによる利子率の中期スパンの維持
国債負担をデフレで中期相殺するという理論構築が、
前述したIS-LMモデルの延長で1971政策実行の少なくとも半年前には既にあり、
延長とは価格の硬直性の解決に貨幣数量説と労働価値を組み込んだもの。
ここまでヒントが出てしまっているというのは、何というか、
間違った事を無視できる布教に、そんなに自信があるのかなと感じてしまいます。※まあ無視すりゃいいんですが。
価格の硬直性がある種の完全競争のような特殊な仮定だというのは、丸見えというかそれが前提ですし、そんなもの今でも前提に使うなよとは思ってしまいますね。
それがケインズの貨幣の憂鬱であることは、半ば以上は間違ってはいないでしょう。
インフレするにも、マネーサプライが足らないから不況化する、古くから説かれている景気循環説の単なる掘り起こしで
あーでもない、こーでもないと無駄な理論の焼き増しを今の時代に重ねる必要があるのか、理解できませんし。
そこのところ
どうなのか一度ケインズ辺りに聞いてみたいですね。※三途の川を渡らないといけませんけれど
結局は危惧に行き当たるでした。
元に戻るまえに面白い話があるので少し書きましょう。
市場原理の話ですね。

Posted at 2012/06/21 22:37:22 | |
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2012年06月20日
ちょっと放置してますが、
ハイエク型のバブルを除けばケインズの失敗は明確であるハズなのに、正しいと仮定する愚かさがここにはあります。
・三面等価の原則という失敗作
IS-LMモデルも三面等価の原則も、短期の価格の硬直性を前提にしています。
つまり、間違ってるのは解ってたんだけど、これ以上先に踏み込まなかったんだよね。(条件を絞って考えるために)
この致命的な問題を後の世は時間選好率に集約してますが、本来なら価格の硬直性と繋げなければならなかった。
ようは単なる誤魔化し。
で、実際にはあるハズなんです、きちんとした式が、どこに行ったんだろう?
これが、マクロ経済学の闇の部分かもしれないと、足踏みしてますが、
IS-LM分析に価格の硬直性を組み込むだけの話であって、
価格の硬直性のアイデア自体は貨幣数量説のほうにある。※及び労働価値
まとめると非常に簡単な話になってます。
というか、
何故
気付かないのか?
気付かないフリをしているのだろうか。
供給能力の所在と価格の決定権こそが市場原理である。
こんな結論に達してますが、
いやはや、暗部というか、
それとも、ただのまぬけなのか?
怖い怖い。

Posted at 2012/06/20 23:16:25 | |
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