2012年06月13日
えーと、いまさら古典派を勉強すべきかという話です、過少消費説というセイの法則にまつわる論争がございまして
経済学において、需給の定義付けというのは、非常に本質的な話になります。
今の私の目的は1911貨幣数量説という歴史的なアイデアの発見に、フローチャートでたどり着きたいなという物。
貨幣の憂鬱という概念を持ち込んだケインズをして、経済学は既に完成しているように思えます。
モデリングも完成、このモデリングの円環の式がどうも貨幣数量説に繋がるぞという予測の前に、何故フィッシャーがマクロ経済学の発生以前に、この式を発見出来たのか。
経済の本質的な提議において、過少消費説という論争があったからだと思われます。
世に低賃金論を求める、重商主義への先祖返りとも言える新自由主義の話も、非常に面白いので合わせて考えてみましょう。
要は経済学の認識は、昔から変わらないんです。
(政治を動かすレベルの)金持ちが、自分に有利な論説をでっち上げ、世の中は貨幣の性質によってデフォルト(インフレ)する。
衆愚はほらみろ、経済学は間違ってるじゃないかと文句を言う。
ところが調べて見ると、物理学と変わらない順序立てた発見がなされている。
その始まりが18世紀アダムスミスのフローの概念の発見と、それに合わせた労働価値の発見でした。『国富論』
経済にはフローがある、フローとは需給である、フローに貨幣が繋がっている。
段階的な研究がなされてきました。
この哲学的な研究が経済学です。
(今は定量評価にしようとしていますが)
それでですね、実はアダムスミスから経済学の勉強をスタートすると訳が解りません。
円環的な絡まった知識を哲学の運用によって、整理してるんですが、高々フローの発見を長々と間違った(本質とは少し差異のある)言い回しで書いてあるからです。
ただ、フロー(労働価値)の発見は真に偉大な物でした。
ですから、アダムスミスから古典派が発展していきます。
この古典派の最大の問題提議、が需給とは何なのか?
セイの法則における対立です。
当ブログでは、需給の本質をモデリングから、物理的な供給と需給は異なる次元にあるものであり、需給とは流通によって密接に繋がる地域の労働価値=サービスの付加価値のフローの階層であるとしました。
実はこの主張はアダムスミスと変わりませんね、言葉自体が不完全な物ですから、私にはこれ以上簡潔に説明する能力はありません。
結論から言えば、物理的な供給が需給を作り出すというセイの法則は不完全な物でした。
ですからセイの法則では論争が発生します。
アダムスミス国富論について、歴史上ここまで(経済学においては、労働価値の提案と単なるフローの価値の発見だとする)簡潔な説明はなかったハズです。
フローチャートにするなら回りくどく説明する必要はありません。
次の記事では古典派の発展と過少消費説について書いてみましょう。

Posted at 2012/06/13 21:48:15 | |
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2012年06月11日
軒並み財政危機の欧州ですが、本来インフレの必要なところを、阿呆みたいにデフレを推し進めた結果、
皆、借金まみれになりました。
解決策が際限のない資金援助かデフォルトくらいしかないんですが、
これって、不良債権の積み重ね以外はインフレと同じだよねという話。
ユーロ圏外からの資金援助→バランスを取りながら共倒れか
ユーロの暴落しかシナリオは無いんですが、
→83円の円高は仕込みだったんじゃないの(笑)(笑)
悪性デフレの放置は、財政危機に繋がるという教訓ですね、供給は普及率に合わせて悪性デフレの分岐点がありますよという事→負債を残してフローが縮小してしまう。
結果マネーストックの不胎化です。
元並みにユーロの価値が落ちれば国際競争力がつくそうなんですが、輸入と借金の返済はどうするの?(笑)
という事で欧州の政情不安ですね、
なんだかんだ円高が進むでしょう。
前代未聞でお金刷るんですから。
実はアメリカも中国も悲鳴をあげています。
常識的に考えるとこのあとに二番底があります、WW2前のブロック経済に戻るでしょうね。
この二番底をどう誤魔化すつもりなのか。
自由貿易ではデフレが制御できませんから回復は不可能でしょう。
日本はどこにつくの?
というよりは
中韓印辺りが安保で問題になりそうですが。
新興国がこの借金を背負えば良いんですけどね(棒

Posted at 2012/06/11 20:44:00 | |
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2012年06月11日
今度構造を入れて流れをまとめます(笑)
経済学は重商主義からの流れなんですか
重商主義の貿易収支の考え方に、間違いは見つかりません。
Wikiから引用
重商主義、トマソ・マン1630年頃
マンによれば、交易こそイングランドの富を増大させる唯一の方法であるが、交易を通じて富を増大させるにはいくつかの方法がある。
第一は消費を減らし、輸出に振り向ける財の量を増すこと。
第二は土地その他の国内の天然資源を有効活用して、輸入の必要を減らすこと。
第三は外国の原料を使って国内で生産した財にかかる輸出関税を低減すること。
第四は需要変動の少ない財を輸出することである。これは価格が高ければ高いほど貨幣が増えるからである。
ここら辺からアダムスミス国富論(1776ー1791)への流れは、時代背景が面白い。
アダムスミスは貿易の拡大から、増大する経済のフロー成長の価値に気づいて、貿易収支=国富の考えに基づいて国内に蔓延した低賃金論→国富論をですね、平等という倫理哲学観と経済成長フローの価値によって否定し、高賃金による国富論を世に広めます。
これがアダムスミス「国富論1776ー1791」。
貿易収支は単なる経済の出口であり、低賃金論はフロー成長を加味していないという内容。
政府の役割や市場の役割についても書いてます。
新自由主義と真っ向から対立しているのも面白い。
見えざる手→利己心も判断工程の数に置き換えると企業化に対立している。
何より平等主義ですね、人は倫理観というものを大事にします、物事が広まるキーワードは平等なんだなと思い知らされます。
ではここら辺の構造
出口である貿易収支に対して、経済フローの成長を金額に直してしまいましょう、経済フローの増大が貿易赤字を越える時にプラスになりますね。
さらに、経済フローの成長は投資として有効です。
東アジアの新興国の経済成長と同じ理屈ですね。
新興諸国は経常赤字によって成長しました。
経済フローの成長の内容は、フローの増大と利潤の移動(再投資率)と負債です。
要は貿易収支に対するフローの発見ですね。
これをアダムスミスがしました。
労働価値説の基礎も築いています。
そして、スミスの考えた
見えざる手→マーシャル均衡
フロー→マルクス利潤の発見に続きます。
ここら辺は、単体で解説するべきでない話なんですが
市場の見えざる手→市場原理主義
これはアダムスミスを曲解した結果になるかと思われます。
労働価値説を唱えたスミスは、利己心による労働価値の判断を見えざる手としています。
→これはそのまま元締め利潤調整仮説ですね
労働価値の判断の工程数が減れば、見えざる手は働かないのです。
市場原理は価格調整に正当性と能力の強弱がある、当ブログと立場は全く同じです。
スミスへの批判もあります、当時の事情として当然完全な情報など取り扱えなかったのですべき批判ではありませんが、
フローの発見止まりだからこそ、自由主義を推奨してしまった。(ただし、スミス自身は政府の投資を認めている)
曲解になるかどうかだと、自由主義をある程度取り入れる事も出来るよという考え方もあります。
ケインズは現在の経済学はアダムスミスの解釈に過ぎないと言ったそうですが、貨幣数量説や有効需要などは明らかに延長発展の考えです。
まあ、ケインズまでいくと長いのでここまで。

Posted at 2012/06/11 19:58:19 | |
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2012年06月08日
どうも時系列にしないと頭に入らない、経済学。
貨幣数量説について、まとめましょう。
Wikiから引用
・フィッシャーの交換方程式
現実の統計値から貨幣量と物価の相関関係を分析するためのツールとしてアーヴィング・フィッシャーの"交換方程式"がある。これは貨幣量と物価の関係を、貨幣の"流通速度"あるいは"取引水準"といった概念を導入することで記述するもの。いわゆる
貨幣数量説の代表的なアイデアである。:
M*V = P*Q
M はある期間中の任意の時点tにおける流通貨幣(通貨)の総量
V は貨幣の"流通速度" (特定期間内に人々のあいだで受け渡しされる回数:貨幣の回転率のようなもの)売買契約の約定回数
P はある期間中の任意の時点tにおける物価水準(通常は基準年度を1としたデフレータ)
Q は"取引量" (特定期間内に人々のあいだで行われる取引量(quantity)の合計)
交換方程式は逐一個別の取引(単価pの商品をq個だけ取引するため、貨幣mを1回支払う)をマクロ経済全体で合計(∑v=1→V)したものとされる。これは数学上非常に明晰な記述であるが、現実にはマクロ経済全体における
流通速度V
(PQ/M)や取引量Qといった経済統計としては非常に観測・推計しにくい概念を導入しなければならない困難がある。
ー引用ここまでー
この説明の前に、数式についてお復習。
りんごとみかんは足せますよね、要はそういう事。
定量評価に直せるなら、数式に出来ますよ、雨+晴れは直接計算出来ないけど、不快度指数に直して和を求める事は出来ますね、不快度指数という統計が必要ですけど。
これを経済学に転用してますよという事→数理経済学。
フィッシャー(1867ー1947新古典派)の交換方程式は発想が魅力的です。
『M*V = P*Q』
これにたどり着いた過程が知りたいですね。
経済学で有名になる人は保守的な人が多いイメージです。
どうも知識系列の羅列→まとめに関して、経済学というのは失敗しているようです。
大体の理由は解りますけどね。→飯の種(教科書)として権威付けが大前提になってるからでしょ。
中でもフィッシャーの交換方程式は、非常に重要な意味を持っている数理になっているようです。
→結局はマクロ経済学の中核にもなっている。
→新古典派の延長がマクロ経済学である※順序が逆か
このアイデアからは利潤とは、大体がマネタリーストックからのサプライであり、
経済のフローがサプライのやりとり→利潤のやりとり→
究極的には、貨幣の増加が利潤である。
という示唆に溢れています。
さて、利潤とはフローから取り出せるマネーサプライの延長であり、資産や負債の増加量でもあるという簡単な定義に着目してみましょう。
当ブログでは富の定義として、減価率の低い交換可能な財の増加を提言しました。
経済の総量の金額的な評価→GDPによる評価が可能になります。
これがマクロ経済の本当の初歩の考えのようです。GDP
つまり、
フローによって保証されたマネーサプライの移動と、減価率の低い交換可能な財が、一般的な利潤であり、GDPでもあるという事になります。
そして、減価率もフローによって保証されます。
相互的な金額的保証が経済の一面である、という事ですね。
年表と流れを確認しましょう。

Posted at 2012/06/08 21:58:45 | |
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2012年05月29日
新自由主義だか何だか解らないサイトを普段読み漁ってるんですが、自由の定義に失敗してるなと、多々思うことがありまして。
普通の人が、気付けない
『自由の定義』について、簡単な論理構造を、提示してみましょう。
・自由とは?
経済では、安全保障の歴史は大前提です。
大多数の自由や、個人の自由も、この安全保障を大前提に定義されます。
つまり、自由には、『個人の自由』と『大多数の自由』があり、そのどれもが、『安全保障という大前提』によって初めて定義されます。
【安全保障⊇自由(多数、個人)】
この構造ですね、非常に簡単ですので、今一度、覚えて頂きたいと思います。
この構造に気づけない人が、自称新自由主義には多いようです。
安全保障という下に自由という発想が、初めて定義されます。
・まず、ここに気づけない人は話にならない→安全保障には金がかかる
俗に言う大きな(小さな)政府の必要性の、核心部は『安全保障』であり、その為の税制である事に気づけない人は、少々頭が悪い。
政府とは安全保障の肝である。
これは、古今変わらない普遍の原理です。
安全保障費の払えない国家は、自由の保証が出来ません。
簡単な話で払わない国があるなら、軍事力で潰せば良いんです。※過去いくつもの国が潰れて来たように
安全保障は、自由の対価と言ってもよろしい。
大前提への対価をどう捉えるか、簡単なリスクの話を、私たちは自由の定義の前に一度しなければなりません。
※この自由への正常なアプローチは他国においては機能していると言えますが
近年問題になっている社会保障は、この政府という定義の延長上にあります。
【安全保障(相応の費用がかかる)⊇自由(多数、個人)】
・東アジア金融危機であらわになった、経済での安全保障
安全保障費を払えない国はどうなっても良い、というか、潰されてしまうという事案がですね、経済でも起こりました。
これが東アジア金融危機です。
経常赤字を利用した、東アジアの経済成長路線は、経済への安全保障という面で欠陥がみられました。
この安全保障の欠陥で各国が、デフォルト危機に見舞われます。
→経済の成長と共に支払う安全保障費は莫大な物になっていくが
当時の東アジアは経済への安全保障という概念が無かった。
これは近年の韓国のウォン安への対応を見れば解りますね。
経済では外貨準備金という防衛費用が必要とされます。
この一連の危機を通して、国の自由の対価には、軍事と共に経済防衛という安全保障への支出も含まれるというのが、東アジア危機を通じて明らかになりました。
対価を支払えないなら潰れるしかない、それが市場原理として正しい姿だというのが、私の持論ですので、軍事と経済両面でですね、自由の前に一度防衛費の概念を考えていただけたらなと思います。
【安全保障(軍事、経済)⊇自由(多人数、個人)】
・今アジアで結ばれようとしている通貨防衛協定は、EUと同じ理由で失敗する
これは単純に言えば財源が違うからです。
各国が財政均衡や経済規律を守るならともかく、それぞれの国には異なる事情が存在します。
身の丈に合わず経済防衛費が払えないなら、それは財政での失敗ですが、あなたの国の国民や企業は増税を許しますか?
経済成長をするほどに、負担は増え続けますが、自由の名の元に増税を許さない人がいるでしょう。
多国籍の長期的な協力は利権という、国家主義に基づいて失敗する物です。
各国単位でですね、防衛費の足りなくなった国は、東アジアを元に直ちにデフォルトさせて、一律の財政均衡と防衛費を求めるようにするといいかもしれません。
【国際的な枠組みを守らない国は、防衛費を払ってないという事になりますので、潰せますよ→内政干渉の規制を緩めて自主的に潰すのが新しい主義には必要なんでしょう】
・自由へのアプローチ
このように自由は、社会の維持を前提として保証されます。
保証された上で、私たちは自由という定義について、初めて語り合えると、そのような性質を持つ物です。
私からすれば、自由とは、ある種の必然性や原理です。
自由にやっても良いが、欠陥があるなら、誰かにそこを付かれる。
これこそが、相互的な自由の原理で、安全保障への問題の帰決は必然性を帯びた自由へのアプローチとなります。
多人数で自由を求める時、自由は必ずしも定義したようにはならない。
互いの自由とは相反する物で、結果的に自由とは規則的な物になります。
それこそが律令の成り立ちの歴史であり、各種の社会的な規制ですね、その歴史でもあるのです。
・あらゆる、規制はその正統性を保証しないが、自由への路線は規制こそが決める
簡単に済ませますが、法治国家を基礎におく私たちの認識は、間の抜けた、単なる反規制や、反税制では無いハズです。
そこら辺の認識についてですね、今一度考えてみて頂けたらなと思います。
自由とは規則というレールの上に定義される、ある種の幸福という幻想なのです。

Posted at 2012/05/29 18:38:53 | |
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