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2012年08月25日 イイね!

ブロック経済の評価2

ドイツの戦後賠償にみる、スタグフレーション(デフレ)の波及効果ですね。

時代背景からやりましょう。

大まかな流れは、

時代背景→賠償へのプロセス→ドイツのハイパーインフレ→欧州不況

となります。

この時期のケインズにも注目したいところ。

例によってWikiから

『ドイツからフランスに運ばれる物納賠償 (1920年)

1918年11月18日、ドイツ帝国が申し出た休戦はアメリカに受理され、休戦協定が締結された。この休戦協定ではアメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領が唱えた「十四か条の平和原則」と、1918年2月11日の「四原則」と「民族自決・無併合・無軍税・無懲罰的損害賠償」、9月27日の「五原則」を加えた「ウィルソン綱領」が将来の講和条約の原則となるとされた。この原則の中には「無償金」も含まれていた
。この背景には、反帝国主義者によって賠償金が貪欲な略奪と同義であり、併合と同種の野蛮なものであると見られていたことがある。イギリス
政府はこの綱領が講和の基礎になることについては不服であったが、早期休戦成立のために承認せざるを得なかった
。首相デビッド・ロイド・ジョージは1月5日の会見で賠償金要求を否定していたものの、基本的な主張としては「完全な復旧、完全な賠償、有効な保障」が講和条件であり、「賠償なくして講和は不可能である」「それは復讐的であるといった問題ではない、報復するといった問題ではない。償金はあらゆる意味で本質的なものである」と、賠償要求の可能性を崩してはいなかった
。また、ジョルジュ・クレマンソー首相のフランスも最大被害を受けた国として賠償を譲ることは出来なかった。フランスは安全保障の観点からも賠償によって産業を復興させなければならず、同時にドイツを弱体化させることが必要であった
。また、英仏は戦費のためアメリカから膨大な借り入れを行っており
、賠償金無しに返済は困難であった。ただし伝統的にヨーロッパから孤立した地域にあるイギリスと、ドイツと接するフランスの間ではドイツの脅威に対する恐怖の差異があった』




WW1の終戦経緯はご存知でしょう、予期しない長期の総力戦とスペイン風邪により、欧州は社会インフラに壊滅的なダメージを受け、国民の不満の高まっていたドイツの休戦の申し出によって講和しました。

この戦後処理ですね、敗戦国に対する賠償に関する議論が、今回の記事の第一の焦点になります。

背景は、賠償はないとの建前の下でですね、戦費回収とドイツの封じ込めだけ狙う戦勝国と覚えれば良いか。

引き続き、記事の続きを引用

『イギリスの大蔵省A課はドイツに課す賠償額策定の任に当たっていた。1918年には責任者にジョン・メイナード・ケインズ

が就任した。A課は11月に「ドイツの支払い能力は高めに見積もれば40億ポンド、楽観的に見れば30億ポンド、慎重に見れば20億ポンド」になるという見通しの報告書を作成し、閣議に提出した。しかし一部閣僚は納得せず、

オーストラリア

首相のビリー・ヒューズを委員長とし、イングランド銀行総裁ウォルター・カンリフ(en)らを委員とする委員会が新たな報告書を策定した。この報告書では

連合国戦費すべてをドイツに支払わせるという前提で作成され、大戦前のドイツ貯蓄を基準として賠償請求額は240億ポンドにするべきであるとした

。おりしも12月の総選挙が迫っており、好戦的な

ノースクリフ系の新聞が対独強硬的なキャンペーンを行ったことで、ヴィルヘルム2世の裁判や全額賠償を求める世論が高まっていた

。ロイド・ジョージは11月29日に「ドイツはその能力の限界まで戦費を支払わねばならぬ」
と声明し、12月11日には戦費全額を賠償させると言明した上にヒューズ委員会による240億ポンドという具体的な賠償請求額を公表した。このことによって

タイムズ紙なども対独強硬な主張を掲載し、賠償金要求の声はさらに高まった。しかし選挙の結果、ロイド・ジョージ自身の与党である

自由党はむしろ議席を減少させ、右派の保守党の勢力拡張に繋がった』



ナショナリズムが糞の役にも立たない好例かと思います。

ドイツ賠償については、イギリスの大蔵省A課という所が算定をしまして
そこの責任者にまだ若かった有名でもないケインズが就任、過去の統計からドイツにとって支払い可能な賠償金を算出しました。

その結果は「ドイツの支払い能力は高めに見積もれば40億ポンド、楽観的に見れば30億ポンド、慎重に見れば20億ポンド」

ドイツの社会インフラは崩壊していましたから
イギリス政府の予想より低い物となりました、これに納得いかない閣僚により

新たな委員会が発足

『大戦前のドイツ貯蓄を基準として賠償請求額は240億ポンドにするべきであるとした。』

歴史的な失敗でもあるドイツ賠償の算定は240億ポンドになります、その根拠は社会インフラの混乱していない戦前ドイツの貯蓄の全額に相等するものでした。

これらの一連の流れはWW2への足取りとも言えます。

ケインズは深く悩んだでしょう。

イギリスの算定結果を受けたヴェルサイユ条約の流れは、さらにナンセンスな物でした。


『1919年1月からパリ講和会議が開始され、賠償問題が協議された。この会議の当初で最も紛糾した争点は、「フランスによる

ザールラントの領有」、「フランスによるライン川左岸占領の継続」、そして「賠償金」であった。3月25日からはウィルソン、ロイド・ジョージ、クレマンソーに

イタリア首相ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランドを加えた4人で会議が行われた。クレマンソーは強硬に賠償要求を行ったが、ロイド・ジョージはあまり長期にドイツを拘束することは復讐心をかき立てるとして反対であり、「賠償支払の期間は出来るだけ短くしなければならない」と説いた。

一方で巨頭会談とは別に、1月23日には賠償委員会が設立された。慎重派のケインズは委員会に出席できず、ヒューズやカンリフといった強硬派がイギリス代表となった。アメリカ代表は賠償を損害の補償に限定しようとしたが、ヒューズらは戦費をも含めるべきと主張した

。ウィルソンは戦費を含めることは認めないと指示を送った
。これに対してイギリスとフランスは、対米債務の削減があれば賠償金削減があるとほのめかしたが、3月8日に

アメリカ財務省はいかなる債務削減にも応じないと拒否回答した

。行き詰まりを打開するために3月10日に設置された米英仏専門家の三者委員会はドイツが支払い可能な額を考慮し、3月15日には総額1200億マルク(600億

金マルクと600億パピエルマルク

)という賠償額を勧告した。ロイド・ジョージやクレマンソーも現実的な路線に転換し、イギリスは委員会代表にケインズを加入させた

。しかし保守党や新聞世論を背景とするヒューズやカンリフ、ジョン・ハミルトン (初代サムナー子爵)

(英語版)常任上訴貴族
の抵抗は強かった。3月26日に米英仏の三政府案が提出されたが、アメリカが最大1400億マルク、フランスが1880億マルク、イギリスは2200億マルクと開きは大きかった

。ロイド・ジョージとクレマンソーは講和会議での決着を諦め、決定を先送りすることにした。一方で賠償に軍人

恩給を含めるべきとする英仏の主張がアメリカを屈服させ、条約にはドイツの恩給支払いが盛り込まれることとなった

。ケインズはこの流れに抗議して会議の途中で帰国した。

6月28日にヴェルサイユ条約が署名された。第八編231条で大戦の結果生じた損失の責任は「ドイツ及びその同盟国」にあることが明記され、232条ではドイツに完全な補償を行う能力が無いことを確認した上で、損失に対する補償を行うべき事が定められた。ヴェルサイユ条約では一定の物納による賠償が定められた。賠償金については占領軍費用として1921年4月30日までに200億

金マルクに相当する物資・金を支払い、400億マルクの無記名債権を発行することが定められたが賠償金総額については決定されず、独立の

賠償委員会を設置して後に協議されることとなった。また、116条によって

ロシアの賠償請求権は留保され、正式政府の成立後に協議されることとなった。』



政治目的に欠けた人類史上かつてない大戦の行く末は、各国の財政破綻だったのです。
そして各国は、その破綻を、賠償によってドイツに負わせようとしました。
それがヴェルサイユ条約の本質です。

途中で退席したケインズ(国に帰りました笑)は、このナンセンスなヴェルサイユ条約を批判するために、「平和の経済的帰結」を出版、賠償の結末と行く末を欧州不況と次の大戦だと予想します。
※この著書によってケインズは有名になります。
ケインズが政治に戻ってくるのは、この予測をあてたためですが。

この予想について、1929年にオリーンとケインズが議論を繰り広げています。

内容は、国際貿易上でのドイツ不況の波及効果です。

ドイツが貧困になっても欧州経済に問題は無いか。
ドイツは賠償金を支払えるか。
おかしい、オープンソースが見つからない(笑)(笑)

まあ、ドイツには賠償能力がなく不況は欧州経済に波及しますよというのがケインズ

ドイツが不況でも、安価にドイツから資源を奪える欧州は好調に成長しますよというのがオリーンという構図です。

オリーンの構築した伝統的な貿易モデル、ヘクシャー=オリーンモデルには注目すべき点があります。

『財の価格は究極的にはその投入物の価格によって決定されるからである。』

投入物の価格に賃金を導入すると
賃金競争によって財の価格は低下し続けるのです、その賃金競争が賠償によってひきづられ続けたのがWW1後の欧州経済でした。

これは金融恐慌の不良債権のスパイラルによる、出口的な賃金競争力とほぼ同じ構造かと思います。

んー、一つの記事にまとまりませんね(笑)(笑)

次の記事はドイツのハイパーインフレからやります。
Posted at 2012/08/25 20:02:24 | コメント(0) | トラックバック(0) | モブログ

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