2012年09月04日
さて、ドイツのハイパーインフレの他国への波及効果ですね、欧州不況。
ドイツのハイパーインフレから
・ルール占領
概要は簡単、Wikiから引用してしまいますよ。
『ルール占領(ルールせんりょう)とは、第一次世界大戦敗戦国ドイツと、戦勝国フランスとの間での、「ヴェルサイユ体制
」における賠償金の支払いをめぐる紛争により、フランス軍とベルギー軍がドイツのルール地方を占領したことを指す。
背景
第一次世界大戦後の講和において、フランスはドイツに対し、経済と軍事面で厳しい要求を行った。この結果、ヴェルサイユ条約
において、ドイツは、戦争による全ての損害を賠償する義務を負うことが定められた。賠償金の額は、最終的にその後の連合国の協議で決定されることとされ、当面は1921年4月までに200億金マルクが求められた。連合国側は、1920年6月のブローニュの会議で2690億金マルクを要求し、1921年1月のパリの会議でもこの要求を繰り返した。ドイツはこの金額を拒否し、削減のために外交的な努力を行ったのに対し、1921年3月8日に、フランス・ベルギーの連合軍が非武装地帯とされていたデュイスブルクとデュッセルドルフに軍を進め、ドイツに圧力をかけた。
連合国側は、1921年5月に、賠償金の総額を1320億金マルクとし、ドイツは年20億金マルク、かつ輸出額の26%以上を支払うように求め、ドイツが拒否した場合はルール地方を占領するという通告(ロンドンの最終通告)を行った。賠償金削減に努力してきたドイツのフェーレンバッハ内閣は、この要求によって連立政権内部が紛糾し、総辞職した。それを受けて5月10日に成立したヴィルト内閣は少数与党であったが、ドイツ議会は最終通告の内容に同意した。こうして、1320億金マルクという、ドイツにとって非常に過酷な賠償金の支払いが確定した。
占領の経過
ドイツにとって賠償金の支払いは厳しいもので、1922年に入ると、連合国側は金銭による支払いをあきらめ、鉄、木材、石炭等の現物による支払いを求めた。しかし、現物による支払いも、順調には進まなかった。
1923年1月11日から16日に、現物による賠償が遅滞しているのはドイツが故意に遅らせているためだと主張し、石炭とコークスによる支払いを確保するためと称して、フランス・ベルギー軍がルール地方全域の占領を開始した。これがルール占領である。
ドイツでは、1年半で退陣したヴィルト内閣の後を受け、賠償金問題を視野に、アメリカと良好な関係を有すヴィルヘルム・クーノが1922年11月に首相に就任していた。クーノは占領に対して受動的な抵抗運動を呼びかけ、炭坑や工場、鉄道、行政は全面的にストライキを行い、占領に抵抗した。ストライキに参加した労働者の給料は、政府が保証した。給料の支払と税収の減少でドイツの財政は破綻し、生産が急減した状況で紙幣が大量に発行された結果、ドイツ経済はハイパーインフレーションへと陥った。8月に入るとドイツ各地で首相に反対するストライキが行われるようになり、議会の支持を失ったクーノ内閣は、在任わずか9ヶ月で退陣へと追い込まれた。
クーノに続いて首相に就任したグスタフ・シュトレーゼマンは、経済立て直しを緊急の課題として大連立内閣を組織し、占領の終了を求めてフランス・ベルギーと交渉した。しかし、フランスが妥協しなかったため、シュトレーゼマンは、占領が続いていた9月26日に、抵抗運動の終了を宣言することとなった。また、
デノミネーション
を実施し、インフレを沈静化させるのに成功した。しかし、1923年11月にヒトラーらが起こしたミュンヘン一揆の処理をめぐって連立政権内部で対立が生じ、3ヶ月で首相を辞任することとなった。その後、シュトレーゼマンは次のマルクス内閣の外相として賠償問題に努力し、賠償金負担を軽減する1924年8月のドーズ案を受け入れた。これにより、ルール地方の占領がようやく解消されるところとなった。ドイツ経済は、占領により、数十億金マルクに相当する重い打撃を受けたとされている。』
安価な(賃金による)石炭とコークスが出回って、供給をドイツのみにした不況が欧州に広がり始めます。
※戦勝国首脳はドイツの安価な資源と競争力の喪失により、自国が好況になると予想していた、これはケインズの予想と逆ですね。
得をしたのは、インフラの無傷なアメリカでした。
ドーズ案とミュンヘン一揆にも触れたいところですが、ハイパーインフレはドイツの中央銀行からの見方もあります。
上はほぼ全文でしたからURLのはりつけで良かったか(笑)
・中央銀行
『中央銀行の独立性がもたらした弊害の最悪の事例として、第一次大戦後のドイツにおけるハイパーインフレーションが挙げられる。当時のドイツの中央銀行である
ライヒスバンクは政府からの独立性は高く、総裁は第二帝政期を引き継いで終身制であり、
宰相は任命権はあっても罷免権はなく、国会(ライヒスターク)は総裁人事に関与出来なかった。
そのため私企業の手形割引を濫発して通貨が大増発され(いわゆる「パピエルマルク」)、1兆倍のインフレが発生。日常の経済活動遂行にも障害が発生した。政府はハイパーインフレ抑制のために当時のライヒスバンク総裁
ルドルフ・ハーヴェンシュタイン
の罷免を考えたが、終身制に阻まれ実現出来なかった。
1923年11月20日にハーヴェンシュタインは急死するが、その1週間前に、国内の土地を担保とする新通貨の発行によるインフレの収束を主張してきた
ダルムシュタット及び国家銀行頭取ヒャルマル・シャハト(ドイツ民主党の結党メンバーでもあった)が
フリードリヒ・エーベルト大統領より新設された国家通貨委員(Reichsw hrungskommissar)に任命された。シャハトの協力によりドイツ・レンテン銀行(
Deutsche Rentenbank )が設立され、国内の土地を担保とする新通貨
レンテンマルクの発行によりインフレが収束した。シャハトは同年12月にライヒスバンク総裁に就任している。
ドイツ(1990年の東西統一前は西ドイツ)の中央銀行だったブンデスバンクはこのハイパーインフレーションへの反省から、通貨価値の保持を最優先としていた。ブンデスバンクの影響を強く受けている現在の
欧州中央銀行(ECB)も「物価の安定」が第一義的目的となっている。一方、アメリカのFRBはその政策目標が「物価の安定」と「最大の雇用」となっている。これは、
世界恐慌で25%とも言われる失業率を記録した経験からである。実際、1970年代中頃まではFRBはほぼ財政政策による高金利の火消し役となっており、1970年代における高インフレの原因を作っていた。このため、ブンデスバンクとFRBは金融政策の方向性について衝突することが多かった。
現代においては、政府のインフレバイアスに対する中央銀行の独立性が低かったり、中央銀行がインフレ抑制に積極的でなかったりする国の通貨は信認されにくい。』
政府の保証したストによる財政破綻に対して、中央銀行が、市場のマネーサプライを用立てたとあります。
これはサブプライムの時のFRBの行動とどう変わるのか、疑問の残る所になりますね。
不換(ふかん)紙幣のレンテンマルクの成功にも注目。
紙幣の価値について経済学的に大きな話です。
これもほぼ全文(笑)
・レンテンマルク
『レンテンマルク (Rentenmark) は、ドイツにおけるハイパーインフレからの経済立て直しのため、1923年から発行された臨時通貨。不換紙幣である。
概要
第一次世界大戦で敗戦国となったドイツは、ヴェルサイユ条約によって1,320億金マルクに上る莫大な賠償金を科せられた。1914年7月に1米ドル=4.2金マルクだった為替レートは、ルール問題の影響も受けたインフレの進行で1923年1月に1ドル=7,525マルクとなり、ライヒスバンクは次々にパピエルマルクと呼ばれる超高額紙幣を増発、地方政府や企業もノートゲルトといった臨時通貨を濫発した。その結果、対ドル為替レートは同年7月に1ドル=16万マルク、8月に462万455マルク、9月に9,886万マルク、10月に252億6,028万マルク、11月には4兆2,000億マルクにまで暴落してしまった。
当時のヒルファーディング大蔵大臣はレンテンマルクの導入を決定したが更迭され
、銀行家ヒャルマル・シャハトがライヒ通貨委員となり、ドイツ・レンテン銀行(Deutsche Rentenbank, Rentenは地代、利子、年金の意)を設立した。ドイツ・レンテン銀行は国内の土地を担保として11月15日にレンテンマルクを発行する。レンテンマルクとパピエルマルクの交換レートは1:1兆と決定された。ドイツ・レンテン銀行の通貨発行量は32億レンテンマルクに制限され、国債引受高も12億レンテンマルクに制限された。レンテンマルクは法定通貨ではなく不換紙幣であり、金との交換はできなかった。しかしながらレンテンマルクは広く国民に受け入れられ、ドイツのインフレは沈静化した。このインフレの収束は「レンテンマルクの奇跡」(Wunder der Rentenmark) と呼ばれた。
翌1924年8月30日には、レンテンマルクに、新法定通貨であるライヒスマルクが追加された。レンテンマルクとライヒスマルクの交換比率は、1:1である。当初の予定では、レンテンマルクは1934年までに全てライヒスマルクに置き換えられることとなっていたが、実際にはその後もレンテンマルク紙幣が発行され、1948年まで通用している。1949年には、ドイツ・レンテン銀行の資産をもとに
ドイツ農林金融公庫 (Rentenbank) が設立された。』
ハイパーインフレ時には、人々は紙幣を使わず物々に移行することが確認されています。
経済学の定量評価に使われる、紙幣自体の価値がまず絶対ではありません。
どう絶対で無いのかを考えると、
『キャリートレードを通して、(景気判断による)金利政策をベースに、通貨の価値がバランスされたのです』
まあ、最近の話になりますが、意外な所で実証されました。
まず、通貨の価値にフロー(景気)の評価が入ると予想出来ますと、
これは重大な提議になるかと思われます。
要は価値のある紙屑であると、
そしてサブプライムでは世界同時不況によって、通貨のバランスに向かうスタビライザーであるハズのキャリートレードも解消、通貨安競争へと突入します。
ここでは、不安定な通貨に対しての為替というシステム自体に不備がまだあるという事が垣間見えるかと思います。
歴史では、このドイツ発による不況の輸出(スタグフレーションの波及)が、のちの各国によるブロック経済の支持に繋がっていきます。
そういえば、不換紙幣による市場の回復は、日本でも行われましたね。
昭和恐慌対策です。
まあ、Wikiはらくちんですと(笑)
スタグフレーションの波及効果をどう防ぐか、ブロック経済から学びましょう。
次辺りで(笑)

Posted at 2012/09/04 23:57:31 | |
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