2012年10月08日
最近、殊更に思うのが、人の思考は、評価方法に左右されるとい物。
評価方法とその規準に、人の行動が左右されるなんて、ちょっとバカらしい話に聞こえるかもしれませんが、
哲学的には、自己と世界の境目が、評価方法によるバイアスを逃れられないとかで、方向的には合ってる気がします。
この評価方法の主流が、科学に見られる、論理哲学からの実証主義だったりするのかなあと、思ったりしてたんですが
大多数は、パーソナリティなりアイデンティティなりをベースにした、自己に都合の良い評価方法を取っているものです。
ご存知、功利主義にも繋がる話ですね。
ここら辺の話を一度しておきたいなあと、常々思っていたので、今日はそんな話。
私は、論理哲学だけは、ほぼ完全といえる程度で扱えます。
まあ、スイッチのオンオフだけの話ですので、特に難しい話でもなく、個人的に時間がかかるのはご愛敬。
この論理哲学を扱っていると、大抵の言葉は立体である事に気づきます。
例えば雪の中に入る定義は様々な物があり、客観的な定義だけでも立体になると、そんな所。
とある言葉の定義の全体を、論理で整地すると構造体になる。
別段珍しくもない話なのかもしれませんが、こういう評価方法って大事なんじゃないかなと思います。
全体をフローにして、欠落部分に気づかない人を、時おり見かけるものですから。
功利主義だけでなく、解りやすく構造体にしたらどうなのかなあと。
それで、構造体として話すとですね、前提としては意外と受け入れて貰える事が多いんです。
その後で訳の解らない主張で否定される事は、多々ありますが、
大抵の事象は破綻の無い構造体になるんじゃないかなあと
常々思うんですよね。
これは論理を使えば当たり前の事なんですが、ベクトル別のオンオフが論理じゃないですか。
構造体にならない理由が解らないんですよね。
定義付けから厳密な論理ベースの議論なんて最近はした覚えが無いんですが、
なんにつけても答えなんて、そこら辺に転がってる構造体のオマージュでしか無いんじゃないかなと。
まあ、科学史を知ってれば、その多角的なアプローチ方法のテクニックから、他の分野への応用の話になるんですが、
どうにもマニアックな話だからなあ。
まあ、自分の評価方法を知っていて損は無いんじゃない?
以上です。

Posted at 2012/10/08 18:41:43 | |
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