2013年03月22日
見たい書籍が見つからないという珍しい状態でして、哲学面で気晴らししてるんですが、気になる事がありまして。
今回ちょっとその事から。
哲学系の本をパパパーっと覗かせていただきますと、供給が先立って説明されるケースが多く見られます。
経済学の本もですが、供給と需要を混同する論理が、最近というか、昔からなんでしょうね、傾向があります。
なんのこっちゃと、思われるだろう事ですが、プロセスや需要を省いて、自分勝手な結論を需要として書いてるケースを見かける時が多いと。
例えば、哲学のお話で言えば、ギリシャ哲学の需要は以前書きました。
ギリシャ哲学の、需要部分は当時ギリシャに流入し続けた多種の宗教の正当性の是非が土台背景です。
それで哲学=論理をもって疑問を解消する事が需要されたんですね。
そして、古代ギリシャ人は奴隷制でとにかく暇だったんだと。
この需要の上で、ギリシャ哲学は、宗教を叩き台にする事によって、段階を踏んで醸成されていき
ローマ帝国の政治要因による多神教から、一神教への回帰で、宗教に是非を問える学問故に、潰されました。
そして、類似例をイスラム教に見つけましたね。
>政治要因による多神教から、一神教への回帰で、宗教に是非を問える学問故に、潰されました
ここまで、書いてある書籍が見つからないのは良いとしましょう。
問題は、暇人達が宗教を土台にしたという需要部分が書いてない書籍が多すぎるという事にあります。
はっきり言えば、大雑把な仮説でしかない供給部分は、需要がなければ書籍において最も無駄な類いの書き物です。
学問において、大切な部分は、需要から供給へのプロセスにあります。
需要→(哲学)→供給
と、今さらカントと同じ事を言ってるんですが
日本の教育も、これと同じ失敗をしてないかと思いまして、
これは、社会に需要され供給される人材の為にという分野なので、仕方ないと言えば仕方ない部分もありますが
教育における興味というかインセンティブの分野ですね。
供給を優先し知識面で需要したがるという特性を損していないか、と思ってしまいます。
俗に言うインプット、アウトプットの話なんですが、
哲学の需要というのはこのインプットにですね、関連する話です。
まとまらないので、以上(笑)

Posted at 2013/03/22 19:57:14 | |
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