2013年07月01日
あんまり内容の無い話なんですが、現状の取り組み内容が開発経済学に被るなという中で、
適当な疑問が、ぽつぽつと浮いてきます。
たとえば、色々考えた上で、通貨の価値に歴史つまりは時間は含まれるのとか、
時間なら代入すべき理論はどこかな代入かできるなど。
先進国と途上国の通貨の相対的な差異はどの程度までつきつめてるの
とかですね漠然とした提議があります。
さて、最近の記事の中で、おそらく我々の通貨は、創造の時に最大の価値を持ちますよとしました。
この内容もですね、じゃあ維持の時には、水流のように仮定して圧が抜けるのか、ならば圧の正体はなんなのか、それとも抵抗が大きくなるのか。
今は、こういう全般的な疑問について、どなたかとお話したいですねという所。
それでですね。
所謂、分散した低コスト体質を、社会に求める方々が居まして、それって私の理屈からはどうなるのかなという、今回は経済における低コスト高コストの話。
まず、分散してる以上、それは低コストではないでしょというのが、私の意見。
非効率で貿易収支にマイナスな上に、都市集積からしてイノベーションや需要密度も枯渇するから、少し集まった方が良いんじゃないかと思います。
そして、資源的低コストってどうなのかなとも考えてしまいます。
今までの資本主義は、資源的に高コスト体質でした。
つまり大量消費社会。
そのような社会では、選好率が重要になります。
高い金利がある以上、社会はあらゆる物を更新していかなければなりません。
ですから、投資しろ、物を買えという話になるんですが。
それらが何をもたらして来たというと
需要サイクルの短縮による、さらなるイノベーションの創造と、通貨循環によるより付加価値の増えた通貨でした。
社会主義圏はこれに敗れたのです。
貿易収支によりますが、高コスト体質側が勝ってきたのが資本主義です。
これに反するということは、需要サイクルの延長による不況と、通貨下落に直面するという事になるハズです。
本当に通貨って何だろうという話になるんですが
ここでも、創造の時に最大の価値になり、廃棄コストに対する非対称性を垣間見る事ができます。
まあ、廃棄コストの無視は、高コスト体質の単なるつじつま合わせにしかなりませんが。
本来、投資社会は需要サイクルの短縮や高コスト体質を望みます。
その投資社会の一部が、低コストと、均衡のとれてない財政支出と、通貨価値の上昇という矛盾を望むという社会現象、まるで子供のワガママのように見えますが、ワガママを通すにしても、なるようにしかならない、我が国は通貨価値の下落ではなく、あるうちに集めて担保しておくという道をとりそうですが、社会問題を控えて、矛盾の放置はそれなり問題になるでしょう。
ここら辺つきつめると面白そうですよね。
以上。

Posted at 2013/07/01 22:49:35 | |
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