• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

ゆーりっく2のブログ一覧

2015年05月01日 イイね!

資本主義と民主主義論

調べてみると、非常に類似した記事の多い題材ですが、今回も、資本主義と民主主義論というテーマを書こうかと思います。

前回の記事では、消費者肯定もしくは否定を、そのまま人権肯定と否定に落とし込み、需要主義と反需要主義を定義しまして
国家が市場に足らない需要を産み出すケインズ経済学が、一般に言われる反リベラル、反民主主義的な認識とは異なり、本質的には我々一般人(消費者)に対して、非常に優しい頼れる味方であり※味方はケインズ経済学だけではありませんが、消費または消費者の肯定である需要主義こそが、人権発展の苗床になりましたよと書きました。
この人権発展の結果が、通常我々の認識してる民主主義ですね。
消費の肯定の世界というのは、究極的には、生産者でない、職に溢れた人々をも消費者として定義し肯定する世界だからです。
ケインズ経済学は愛に溢れた経済学とも言えましょう。
または、民主主義が愛に溢れているともとれるか。
消費肯定という需要主義は、かつては、市場を介し、需要をして必要な人、必要な所に財、またはサービス、そして投資を送り込むという資本主義に非常に親和性の高い方策でした。

対して、反需要主義、消費を否定して、供給を重視する共産圏のあり方、消費者を蔑ろにする南米のエリート主義、または世界恐慌の折に失業率を無視した新古典派、セイの法則、サプライサイド経済学、これらの反需要主義は、一般のリベラル的な、または民主主義的な認識とは異なり、我々一般人(消費者)にとっては客観的に見れば完全に敵であり、結果として人権を蔑ろにする一派になってきましたよとしました。
彼らの主義主張は、仮にリベラルを標榜しようとも、需要、消費者の否定、即ち富の独占者または、生産者、総じて供給側以外の総ての人、消費者側の人権の否定に向かわざるを得ない時があったからです。
反需要主義は、市場を介し、需要をして必要な人、必要な所に財、またはサービス、そして投資を送り込むという資本主義には、非常に親和性の低い方策です。
反需要主義では、肝心の需要がなく、投資、財、サービスを送り込む方向が需要(消費者)にはなく権威にあるからです。

かつて、反需要主義に向かった同じような時代がありましたね、重商主義の時代です。
今の時代が需要主義、もしくは、反需要主義、どちらに向かうかの話もありますが、その前に、

需要主義側(消費者肯定)を、非常に、民主主義的な経済のあり方だとした時に、
その需要主義と親和性の高い資本主義を、アナロジーによって仮に民主主義と捉えたなら、実際の民主主義と資本主義の差異から、資本主義の本質に迫れるのではないかと、そういう事を書きました。
似たような題材は有名処では、ケインズの自由資本の問題、エマニュエル・トッドの自由貿易の問題で指摘されてますね。

さて、本題。
この題材に関わるにあたりまして、私は民主主義について調べる事になりました、民主主義の根幹は、市場原理とよく似てまして、何かしらのフローによって起こる問題への対処療法、即ちは現実問題への無知の知によるアプローチで、殊に他の政治に対して優位性を発揮する政治体系ですよとしました。
即ち、多極的なボトムアップによる利害関係の対処療法政治が、民主主義となります。
民主主義とは何であるか、私たちは、多極主義、即ち多数決による対処療法によって生まれた、共同幻想、即ちリベラルや人権を民主主義の本質と題しますが、多極主義と対処療法による他の政治体型への優位性が、民主主義の本質ですよと私は書いてしまいます。
この優位性が何故、生まれたのか?
新たな問題が多く産まれ、新たな対処療法を必要とする産業革命があったからだとどこかで書きましたね。
ベストな対処療法を産み出すのには、多極主義によるボトムアップが最高の手段なのです。
そして、需要が需要を産み出す産業革命から20世紀の終わりまでの時代には、新たな技術を需要が産み出し、産まれる社会問題を多極主義で解決する、需要主義(消費主義と民主主義)側が常に勝者となってきました。
そして、忙しい需要主義の勝者時代には、多極の極の主体が、集団に傾くか、個人に傾くかで民主主義はその色、対処療法をも大きく変えてきました。
需要主義と反需要主義に落とし込めば、反需要主義は集団主義側になりますし、需要主義は個人主義側になります。

民主主義というかあらゆる政治形態では、その主体、多極の極が集団側にあるか、個人側にあるか、重要であり、資本主義でも、その主体、多極の極が、集団側にあるか、個人側にあるかが重要になってくるようです。
もしくは、極の共存もありえますが、その多極のモデルをしてマズローの主張が有効になってくると私は考えます。
マズローのモデルから、我々消費者にとってどのような極のあり方が望ましいのかの理想論ができるからです。

20世紀の後半からは、即ち現代では需要主義をして人権を育ててきた、資本主義の極が、個人という消費者から、自由資本という企業という集団に移り変わり、投資というサービスが人権、即ちは需要主義をすり抜け、需要が需要を産み出さない、投資の呼び込みのみが有効という、投資主義とも呼べる新たな局面が産まれました。
新たな反需要主義の台頭という局面ですね。
現在、問題視されているグローバリズムでは、企業や自由資本が、投資という資本主義においてとても重要なサービスを、需要主義から反人権主義とも呼べる反需要主義へ売り渡してしまったのです。
その最たる理由は、民主主義の強みと呼べる新たな問題への対処療法が有効にならなくなった、そもそも新たな問題が産まれなくなった、社会が停滞し始めたという所にあります。
イノベーション理論でいう所の横の拡張ですね、このような横の拡張では対処療法は、既存の物をコピーするだけで済んでしまい、民主主義はその優位性を発揮できないのです。
遅れて来た独裁政権、反人権、反需要主義が、コピーのみで民主主義に追い付いて来ました。
そして、国内でも反人権、反需要主義、反消費者、反個人主義が広がりを見せつつあります。

・では、民主主義、資本主義における極のあり方とはいったい何なのか?

こちらの答えの方が先に出てしまっていまして、言語化するのに根拠が長くなりました、次の題でやりますよ。

以上
Posted at 2015/05/01 21:17:02 | コメント(0) | トラックバック(0) | モブログ
2015年04月23日 イイね!

さてさて、資本主義と民主主義の相違点

えーと、久しぶりの投稿になります。

最近、帰納的経済モデルの帰決の妥当性と
資本主義と民主主義の相違点について考えてます。

20世紀は経済学にとって非常に面白い時代でした、産業革命の終末期で世界がデフレ化→WW2という巨額の財政赤字による公共事業→ケインズの作り出した需要管理主義VS共産圏による供給主義→需要主義と民主主義の勝利という時代です。

私はかつてこのブログでですね、民主主義の発展は、一般に重商主義で悪とされる、需要(消費者)の肯定(保護)という側面によってなされたとしました。
需要して自らに投資した側が勝者なんだと、これが資本主義の特徴でありまして、需要のために消費者を保護するのは当たり前である。
今各国は需要を無視して、投資の呼び込みにやっきになってますが。
その意味では、個人が産み出すには足らない需要(消費)を、国家が作り出すというケインズ経済学は、消費者、つまりは人、我々一般人に対して非常に優しい経済学でありました。
競争原理によってパレートから外れ生きる価値を失った人たちを、消費者として生かす意味がケインズ経済学では出来たからです。
一方の供給主義、即ち共産圏では、競争原理によって人々が経済的に生きる価値を失わないにしろ、人権は蔑ろにされました。

この対立構造、需要主義と反需要主義と名付けてしまいますが、これはそのまま消費者の肯定と否定という対立構造、即ち、民主主義と反民主主義の対立という構造におとしこむ事ができます。
民主主義の特徴というのは、マズロー的な個人の価値観と、対処療法の尊守であり
反民主主義というのは、マズロー的な価値観即ち多極的な個人を蔑ろにした社会であり、対処療法の無視、即ちは無法、汚職です。

この民主主義という構造は、常日頃から再定義される資本主義に対して、はっきりしています、両者の相違点をアナロジーによってはっきりさせ、もしかしたら、資本主義と民主主義は同一の物ではないのかなと。
もしくは資本主義の本質的構造に迫れるのではないのかなとするのがこのテーマの目的です。

まあ、只の近況報告ですので

以上
Posted at 2015/04/23 19:49:46 | コメント(0) | トラックバック(0) | モブログ
2015年03月04日 イイね!

社会学への解法

えーと、昨今問題になっている様々な社会問題に対してですね、多種多様で様々な見識と色々な解決案をお聞きしますが、
何故、これほどまでに、世論はまとまった意見にならないのか?

これらの意見の相違、不協和音は、只の個々のポジショントークではなく、知識的なネック、ボトルネックによる特徴的な階層毎の相違によるものでは無いのだろうかと。
では、そのボトルネックとは何なのだろうかと。
最近、そういう事を常々考えてまして、まず個々で使ってる解法そのものが違うのでは無いのだろうか?
という、とある答えに行き着いた訳でございます。

今回の記事は
・社会学への解法

と題しまして、軽い分析哲学的な問題へのアプローチ方法、ここら辺を書いていこうかと思います。

実は、問題へのアプローチの流れは決まってまして

問題の分析(認知)→解決方法の提案(判断)→実行

この流れの中の到るところで、その時使うべき解法が解らないと、または解法がある事自体知らない、権威的な提案が絶対的に正しいと勘違いしている、よって最終的に出る意見が出すべき結論と全く違うという現状になると、この解法を知らない事は、多数決の合意形成にも反する事に繋がります。
解法を知らない人々はコントロールが容易だからです。

実際に、他をコントロールしたがる一定の層は、溢れ出た問題を解決に導く事は一切考えずに、どうしたら問題を他をコントロールするために使えるかを念頭に解決案を出します。
一種のサイコパスと呼ばれるような人の思考方法です。
そのような他にコントロールされるための解決案を優先した状態を放置すると、より問題は複雑化し大きくなります。

・個々がきちんとした社会問題へのアプローチをとる事が、民主主義の大前提である、そのために、正式なアプローチ方法を知ろう

正式なアプローチの結果出来た合意形成なら、ある程度正しいのではないだろうか?という正しさを保障しない本末転倒な考え方ですが、民主主義の強みは社会問題への対処療法ですから、その内正しくなるでしょうと、これが一般的な考えですね。

・認知へのアプローチ

では、認知へのアプローチ方法を書いてみましょう、問題の把握は最大の難関でもありまして、個人の知識をベースに問題の把握能力が飛躍的に伸びる、または低下するという、難点を帯びています。
一番肝要な点は、他をコントロールしたがる層は、この認知にこそ介入してくるという事です。
実は、前述した知識量による問題の把握の差は、他からの認知への介入によってより大きくなる事が多いのです、ですから、認知においては、自ら問題を分析する解法とその分析時間をもっていなければなりません。
また、最初に得た知識は他からの介入というバイアスのかかっている物と覚えておきましょう、そして自身の認知が不完全であるならば、その問題における判断も出来ないとも覚えておきましょう。
社会学へのアプローチの基本という物は、時間と解法の正しさなのです。

・社会問題の認知へのアプローチは、一般的には、帰納的アプローチと、シンメトリー(左右対称性)的アプローチを用いる。

帰納的アプローチとは、論理学で用いる帰納法の事です、問題提起をそのまま受け入れずに、過去の類似例または同一の例を並列に用いて、提示された問題提起及び解決案が、実際に解決されたのと同様の方向に向いているかで、その問題提起が実際に正しいかどうかを確認(真偽判定)します。
我々が歴史を勉強するのは、この帰納的アプローチのためにあります。
帰納的アプローチを知らないのに歴史を勉強しても一切が無駄です。
これは解法を知らないのに、問題を知るのと同じだからですね。
また、帰納的アプローチを用いない認知は認知とは呼べません。
帰納的アプローチでは、提起された問題は、過去の類似例もしくは同じ問題と、恐らくはほぼ同一問題であろうから、帰納的アプローチ内で例外は起きない、という並列化による真を問う論理となっています。
この帰納法による論理は、科学の反証可能性にも用いられていますが、極めて強い根拠、論理構造内の抜け穴を用いなければ、その例外を認めないという相当強い論理になります。
ですから、きちんとした帰納法を用いていれば、全く逆の認知にはなりにくいというメリットを持ちます。
また、判断に対しても、帰納的アプローチは有効に作用します。
つまり、帰納法とは知識内において、変な例外を認めないという論理です。
知識量が真偽の強固さのベースになりますよね。

・シンメトリー(左右対称性)的アプローチ

帰納法と同様に強力な論理になるのが、このシンメトリー的アプローチです。
前述した帰納的アプローチと、このシンメトリー的アプローチは両者を組み合わせて使うのですが、二つの強力な論理によって、認知における真偽判定の内容をより強くします。
基本的に、社会問題はひとつの要素ではなく、複数の要素によって出来ています。
複数の要素をそれぞればらして一つにして、何が問題の核なのかと考える事が社会学への解法となりますが、
この要素、単一で真となる要素は完全なシンメトリー(左右対称性)を保っているという特徴的な論理構造を持っています。
シンメトリーであるという事は、逆にした時に一切の狂いがないという事になります。

例えば話題の
円安なら不況になる→
このシンメトリーは
→円高なら好況になる
です

このシンメトリーに帰納法を組み合わせますと、円高不況という例外が生まれますね。
ですから、円安なら不況になるという問題提起は、シンメトリーと帰納法によって完全な偽となります、逆もまた然りです。
よって、通貨問題+景気問題は、単一の要素ではないという事が解りましたね。
シンメトリー的アプローチの面白い所は、左右対称性の方向性が同一ではなくとも強くなると、問題提起がより正しくなるという特徴を持ったところにあります。
よって、円安なら不況になるという問題提起はむしろ全くの出鱈目に近くなります。

・シンメトリー的アプローチによる左右の非対称性の発見は、問題の核を教えてくれる

さて、社会問題では要素毎に全くのシンメトリーを得る事は中々出来ません。
ですから、むしろ、シンメトリーによる真偽ではなく、左右対称性からどう外れているのか、これを非対称性と言いますが、非対称性の追求の方がシンメトリー的アプローチの本質と言えます。

例えば、人間の素晴らしさとは何なのか?
このような問題も左右対称性の綻びからアプローチします。
素晴らしさを考えるには、悪辣非道が完全な対になっているかを確認するのです。
また、左右対称性を持ってない要素を探して見るんですね。

では、今回はここまで。
Posted at 2015/03/04 20:01:27 | コメント(0) | トラックバック(0) | モブログ
2015年01月01日 イイね!

恒例の一年予想ですね

明けましておめでとうございます、年末にやってましたが遅れました。

えーと、前年度2014の景気は予想屋にとって非常に難しい物になりました、国内においては、全て消費税と日銀リスクに集約されます。
国外においては、どの道不透明とは言いましたが、結果的には緊縮国と新たな理財商品に走ったアメリカとの明暗が完全に解れるという象徴的な為替の流れと各国の株価更新、原油暴落と、ここまで材料が揃っていると今年は非常に楽しみな年になるかと思います。
前年度2014は各国当局が株式に非常に気を使いました。
国内の株価については、ドル円との相関が完全に切れました、114付近攻防での日経の動き及びGDP等の指標でですね、これ以上の為替水準では6割とも言われる国外勢はドルベースで保持しし続けてもマイナスになることが確実視されてまして、非常に不安定な相場と見てましたが、大幅下落する所で日銀が介入しました。
当面はこの水準を維持するのかなと見ることが出来ますが、中国を除いて各国とも万事この調子でたいした好材料も無いのに大幅下落に必ず反発して高値更新するといった完全な官製相場が続いています、このような相場を予想屋は予想すべきではありません、非常に心苦しい年でした。

今年の注目は中国のバブル崩壊の軟着陸で緊縮がセットになるのか、ならないのかですね。
これで180゜相場の状況は変わるかと思います、ただし理財商品で自力回復したアメリカに関しては、消極的選択肢としてのバブルですがベストな状態が当面続くのではないでしょうかと見ています。
というか、アメリカで稼げないくらいなら他はもっとダメという調子ですね。
先行指数としてダウに注目するのもありでしょう。
それと、ギリシャ不安が同国の選挙で再発しました、EUはいつ解体するんでしょうね、以外とあっけない物だとは思いますが、そんなに遠い未来なのかな?

以上
Posted at 2015/01/01 15:05:40 | コメント(0) | トラックバック(0) | モブログ
2014年12月30日 イイね!

民主主義は上手くいかないんだってば

さて、民主主義をテーマにした記事、第3回目になりました。

前回までの記事では、政策圧力という概念と、経済膨張に対する立法府の処理しきれなくなった負担をボトムアップに託したのが、民主主義の本質と、そして民主主義の対義語でもある権威主義的なボトムアップとトップダウンの誤認について書きました。
置いてけぼりになってる読者は居ないかな、居ませんね。
今回はボトムアップを立法に押し上げる中間集団と数の論理について書こうと思います。

・ボトムアップを世論形成から立法に押し上げる中間集団

実は今回の記事を書くにあたり、中間集団の大体の構造を想定してしまおうと中間集団を学び直していたんですが、中間集団自体がどうにも録なものではない上に、構造概要も掴めないぞと。
それで、記事の投稿が遅れたんですが、まあ大体掴めたので本投稿と相成りました。
中間集団とは、一度走り出した車のような指向性の定まった集団です。
これがですね、中々言い得て妙といいますか、これ以上を中間集団に何を期待してもその定義からは外れるだけだろうと、何故なら政治において中間集団に期待されてる善意性というのが結構大きな課題でして、そんな物はそもそも想定さえ出来もしない物だからです、ですから本来からして中間集団なんて録なものではないという話ですね。
一言で言えば中間集団とは動き出した巨大な歯車のような集団です。
間に入った異物を粉々に砕くだけの前進する歯車。
中間集団には善意も悪意も無いのです。
この中間集団を例のごとくWikiから拝借しようとしましたが今回ありませんでした。
コトバンクさんから
>個人と全体社会をつなぐ、中間的な人の集まり。
これが中間集団です。

ボトムアップ(現場主義)によって問題提起された事例は、その事例が属する中間集団を通して世論に認知され、立法まで押し上げられます。
例えば、子育ての問題なら、子育てという現場から家族という中間集団を経て、親族か、さらに上の中間集団、日本なら政党ですか、政党という中間集団に問題が認知された後に世論が形成され、その問題が真に対処すべき問題であると世論に認知されたなら立法なり行政なりの動きがとられます。
私たちは、日々、様々な現場の最前線となり様々な体験をする事によって、問題となる事柄を開拓し続けているのですが、その問題が属する中間集団にもまた属してる事になります。
また、中間集団に属していないのであるなら、問題は問題として認知されず、解決は得られないという事になります。
そしてまた、中間集団に問題を提起をせずに、認知させようとしないのであるなば、その問題は無いものとして扱われます。

・それぞれの中間集団は、自己の利益の最大化を目指す

まるで中間集団とは企業であるみたいな言い分ですが、その通り、中間集団同士が対立しない物であれば、企業は中間集団から除外されます、所が中間集団というものは共闘もすれば対立もするのです、企業も中間集団の仲間と言えます。
今回の記事の名前にさせて頂きました、民主主義は上手くいかないんだってばは、実は、中間集団が決定的に対立する場合においては、数の論理は正統性を失い、民主主義は上手くいきませんよという内容にしようという意図からつけました。
中間集団はその単位から、他の中間集団の権利を犯してでも、自己の利益の最大化を目指そうとします、誰かがその中間集団の暴走を止め、社会全体の利益を補完しなければなりませんね。
その是非を問うのが、数の論理なんですが、中間集団の単位規模が大きすぎる場合、例えば民族レベルでですね、利益対立があり、片方が片方の利益を一方的に侵害出来るようになると、民主主義はその正統性を完全に失います。
つまり議会制民主主義とは、社会全体の中間集団の集合体による是非の取り合いでもある訳です。
中間集団を失ったに等しいと言われる我が日本の政治ですが、中間集団の復活が望まれる背景も書いておきましょう。

・トクヴィルの思想

トクヴィルはフランス革命時代(1805ー59)の人です
民主主義が安定的に機能するためには中間集団が不可欠と説きました。
説明したとおりに中間集団は動きだした後の巨大な歯車で、個々では抗えないような圧力を発揮します。
これに対してバラバラの個人は、思想自体が不安定で、すぐにデマゴーグや独裁者に操作されます。
人は中間団体に属し、というか中間集団に属さないと問題提起の権利自体を持ち得ないのですが、中間集団において議論を交わし、お互いの立場について想像しあうことによって、政治的な能力を高めていく。
そして、中間集団で人間が交際、議論することによって社会全体の利益を理解出来るように相互性が育成されると説きました。

以上ですね、民主主義について、民主主義とは、社会全体の中間集団による個々のボトムアップ(現場主義)の集積方法である。

民主主義のテーマはここまで。
Posted at 2014/12/30 20:46:01 | コメント(0) | トラックバック(0) | モブログ

プロフィール

ゆーりっく2です。よろしくお願いします。
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2024/4 >>

 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
282930    

過去のブログ

2015年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2014年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2013年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2012年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2011年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation