2014年03月14日
さて、前回に引き続き、個人主義をテーマにして、その境界線を明確にし、何が社会にとって有益なのかを探ってみましょう。
当ブログの立場としては、資本主義=個人主義の台頭⇔大量消費社会⇔イノベーション理論分野の技術革新への応力増大⇔『資本主義』下のケインズ理論の妥当性の増大⇔インフレーションメカニズム(ポランニー)
まあ、フローにするとこんな感じで、資本主義とは、個人主義による大量消費が、イノベーション理論分野の主には技術革新による、インフレーションメカニズムを促し、他の古い通貨(通貨、資源及び古い産業)を圧倒し続ける社会で、インフレーションメカニズムが市民生活を支え、それにはケインズによる需要(借金)理論こそが有効ですよという立場を取っています。
抜き出すと、個人主義というのは、インフレーションメカニズムにこそ支えられていて、よくリベラル層に反発される社会(全体)主義的な、ケインズ理論というのは、むしろ個人主義の味方ですよという
リベラル(当ブログはリベラルのつもりなんですが)には、到底容認されない(であろう)内容になっております。
気に食わない部分は、差し引いて読んでもらって結構です。
まあ、言われなくても、誰もがそうするんでしょうけれど。
では、本題、ここの所のテーマでですね、個人主義の境界線まとめが必要になりました。
というのは、インフレーションメカニズムが、ケインズ理論でも機能しなくなった以上は、個人主義(による今までの市民生活水準)が崩壊する危険があるんだと。
そして、これからは、市場経済と力関係において、3すくみであろう、国家と通貨が台頭しますよとしました。
では、資本主義を支えてきた、個人主義というのは、いったい何なのか?
どうすれば社会が上手くいくのか?
この命題の設定から、今、インプットを進めています、えーと例えば、前回紹介した一神教と国家、または、国家は何故衰退するのかなども読んでますが、適当に要素集めをしていますよと書きました。
例えば、一神教と国家に出てくる、柵を作る人と柵を作らない人ですね、個人主義の極致はこれだと思います、柵を作る人。
我々日本人の多くが持つ価値観、農業をする人たちの価値観、個人主義です。
そして、柵を作らない人、共同体主義、集団主義、遊牧人の価値観。
ネオリベなんて面白いですね、彼らは相手によって、柵の理論を使い分けます。
柵を作らないのが世界の主流で、かつ、個人主義(柵を作る人、エリート主義)が世界の主流なんだと。
個人主義の価値観の極致は、中国の小皇帝、小公主と書いても差し支え無いでしょう。
一人っ子政策下で、わがままに育った世代は干渉を嫌います。
身近に同じような人物(長男教から人格障害を患っている人)を見知っていると、これが一番のチャイナリスクだったりして、と思っていますが、
単に共同体下で育って無い、もしくは強力な個人主義思想下で育った人は、個人主義の傾向にあり、個人主義を支持するであろうという、シンプルな論理は、意外に強力なのかなと思います。
えーと、一人で平気、所有する物は全部自分の物、自己責任ですね。
本来の個人主義とはかけ離れていますが、個人主義支持層のポジショントークの大体の原因は、自分の生活から来てたりしてと思ってしまいます。
かつ、貧困層と富裕層から支持される思想は、大抵がここに落ち着きます。
つまり、個人という柵を作る人ですね。
・共同体主義、集団主義
対してイスラムの生活なんてのを聞くと、共同体主義というのは、互助かつ共有物としてそもそも所有しない物があるという独特の感覚があります。
同書のダカールラリーのペットボトルに名前の逸話なんてのは、日本人の価値観からかけ離れています。
白黒ではなく、個人主義の境界線はどこに引くべきか、迷ってしまうようなエピソードです。
共同体よりのポジショントークに走る人は、兄弟がいて平等に扱われたりした人が多かったりするのかと思います、ここを支持する層は、伝統的に中産階級です。
自分達の働く企業という共同体を支持する層ですね。
個人主義の価値観の極致が小皇帝としたら、共同体の価値観の極致は、イヌイットです。
独りでは生きていけないので、女性を含めて社会で共有する。
共同体という柵を作る人、または、柵を作らない人たち。
・ここ200年は歴史的な例外として個人主義が強力だったと仮定しよう
えーと、必要も無いのに新しい物が出来たので買い換えると、日本の大量消費社会に代表される、個人の所有、これはインフレーションメカニズムが機能するときに、より強力に作用するようです。
個人消費は、社会のエンジンとされてきました。
逆に言えば、共同体主義なんてのは、インフレーションメカニズムが作用する時には、例えば資源がなければ脆弱な社会なのです。
彼らは、借金してまで消費(投資)しておまえたち正気の沙汰かと思っています。
ところが、資本主義時代は、借金して消費(投資)するほうが、圧倒的に強いと、イノベーションの時代ですから。
何故、国家は衰退するのか、この本では、個人主義が、社会に与えて来た強力でより良いイノベーションを説明しています、まあ、同書と当ブログの見解は、リベラルが是か、個人主義が有に働く時があるかで全く違う方向ですが。
特に、環境が個人主義に与えて来た影響は、個人的に興味深い。
農作物が取れすぎると、個人主義が発展しないという物ですね。
・個人主義⇔資本主義の分水嶺について模索しはじめよう
リベラルリベラルと言って、社会がより良く発展しないなら、それはもう個人主義ではなく、どうしようもない主義でしかない。
近年は、反ケインズ理論として緊縮が是と騒がれるようになっています、緊縮は、個人主義に相反する方向性として認識した方が良いと思いますが、明らかに反個人主義を掲げていると、そういう認識の人は少ないように見えます。
個人主義の、貧困層と富裕層なんて、特にこのダブルスタンダードを用いていますね。
ケインズ理論が通じないとなると、自ずと、所有しない省消費社会⇔共同体主義の目が出てくるのは自然な事なのです。
つまりは、シェア、デフレ、省エネが正しいと。
商売ではその方向がより儲かってますね。
市場が正しいと仮定すると、個人主義の時代が終わり、共同体主義の時代がすぐそこまで迫っている。
今、マクロ的な政策面で、これ等(シェア、デフレ、省エネ)を主張する人は、実はリベラル(リベラルというか個人主義者のポジショントークですが)ではなく、個人主義者が意に反した反個人主義を主張しているというのが本質かと思います。
少なくとも彼らは個人主義のアンチテーゼ的存在で、共同体主義者ではない事が多いようです。
まあ、本来模索すべきは共同体主義と個人主義の妥協点ですから、反個人主義は今の社会に破壊しかもたらさないでしょう。
これも対義の方向に向かわないと予測出来るのは、面白いところ。
日本では、実は、共同体主義者と個人主義者の向かうところが、現実を介して同じ方向に一致していて、それでもどこに向かっているの解らずに反発しあっている。
世界の、それでも消費を是とする個人主義が正しいんだというリベラル層とは異質ですよね、彼らはネオリベラルから舵を取り返せるのかな?
話が横にそれましたが、社会的にうまくいく、個人主義の境界線
分水嶺は、その時の社会情勢によって変わり続けると仮定できるですね。
これは、共同体から学ぶべき物を学んでいるだけでは、中々気づけない論点です。
即ちは、インフレーションメカニズムによる社会転換の概念です。
やはり、マルクスの焼き増しになるのかな。
ケインズ理論は資本主義下では、むしろ庶民の味方。
今の世の中だと、逆の考えの人が多くないですか?
以上

Posted at 2014/03/14 23:35:17 | |
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2014年03月13日
最近の私のアウトプット期間が、ダメ過ぎるという理由で(笑)
インプット期間に切り換え、興味のある本から読んでますが、一神教と国家という本が、意外と面白い。
私なんかが本を選ぶ理由というのは、大抵が、本屋に行って興味の関連系統の網を張りながら、目次のパッと読みをしてですね、
で、目次で大体の中身に関して間違えてないか、興味があるかを確認してから、取り合えず買うと。
本を買うときは、毎回そうなんですが(というのを毎回書いてるかな?)、宗教関連というのは我々日本人にとっては、とにかく謎の多い分野ですよね、特に今の中東情勢と宗教状況。
これは、確認したい事柄ですよね。
で、目次までたどり着いたんですが、パッと見て第3章お金は回すべし、ため込みは止めなさい、なんかは宗教関連と繋がる時に、特に回避したいジャンルとなっておりまして、ため込み式を前提として出来上がってる現実問題とは乖離しがちな内容になる事が多いです。
特にイスラム社会では金利関連。
そういう偏見をもって(むしろ自分が偏見を持っていることを、理解する事によって、偏見を排除しやすくなる)、読んだ同書なんですが、今のアラブ社会の確認に対して、意外と面白い内容となっております。
巨大共同体と国家の関係ですね、これは、国家と企業の関係にも転用可能ですから。
EUなどの、それまでの歴史とは決別し新たに出来たと勘違いしがちな巨大な共同体に対しての答えですね、何故、過去の巨大共同体が消えて来たのか、国家という枠組みの本質は何なのか、まあ国家なんてのは単なるヤクザの縄張りでしかないんですが、何らかのヒントを与えてくれる良書かと思います。
私なんかは、今のイスラム社会の混乱は、世界的な一般民間人の需要の消失に伴い、資本主義ピラミッドの下層側に居る国家群が、順次、先進国の国家主義に飲み込まれていく現象なんだろうと思っていますが、既存の出来事での類似関連の方が、論理としては強力な物が多いんです。
我々は、おそらく、共同体の主体の切り替わりを経験する事になります。
私としては、これから最も脆弱となる、資本主義で、主体となってきた個人主義、これは崩壊しますよと、予測していますね。
その時に、カリフ制ですね、天皇制みたいな物ですが(一緒にすると怒られるかな?)、共同体の主体が、他を超越するような物に置き換わる事が過去にあったと、これが合理性からして妥当なプロセスだったのかな?
妥当だとして、概念的にはどんな構造なのかなと。
個人的には、そんな事を考えてしまいました。
そして、関連しそうな本をまた漁ると。
最近はそんな事をしています。
通貨に対しては、核の3すくみが、負債を通して恐らく不均衡系であると予想される(特にデフォルトと賃金の下限がある)事から、通貨は循環しませんよという予測で動いています。
まあ、循環するのは、あくまで持続可能性に対する負荷(雇用)なんですよね。
この特性は、コモンズに見られます、コモンズでは、不必要に負荷を循環させません。
所得が負荷で、均衡するとは限りませんから(そもそも負荷で均衡するハズがない)、通貨は使っても循環するとは限りません。
ですから、恐らくは同書の3章否定と。
では、ここら辺で。
以上

Posted at 2014/03/13 19:27:34 | |
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2014年03月04日
えーと、単純にこれ書きたかくて同テーマに取り組んだんじゃないの?と、疑われるような内容になるかと思いますが、前回の記事の論理を、他の事例で焼き増しした時にも例外なくこうなりますよと。
ポジショントーク抜きに、取り組んでいただきたいと思っています。
ブラック企業の是非ですね、特に過労死と自殺においては、社会悪かはともかく例外なく、過労死させてしまった企業は悪であるとされています。
個人では、過労死や過労自殺は悪では無いと主張する方もおられるかもしれませんが。
私なんかは、企業倫理(企業コンプライアンス)に、確たる基準なんてものは無く、とある問題が社会の表沙汰になるまで、企業はまずモラルハザードを拡大させますよと、常々言っています。
そのために、新たな規制枠が必要になったり、企業倫理も、新たな社会問題という土壌によって、より発達するのですよと言っています
より良い社会には、まず、倫理観よりも、問題になったモラルハザードの前例があるのです、その規制というものが何故あるのかは、その規制の根拠になった問題を調べなさいと。
これは、私のポジショントークなんですが(笑)
先に個人の倫理観を語る人よりは、まともな論理となっているかと思います。
ようは、企業倫理という物は、前例の無い、もしくは規制の無い事例に関しては、無責任で良いという身勝手な論理が通じる分野なのです。
企業経営者は、勉学もせずに前例が無いと勝手に決めつけて、無責任な倫理を語るなと言いたいですね、これまた私のポジショントーク。
さて、同テーマで良く使っている論理構造は、ある共同体の社会効用の最大化に伴って、構造上の上下の共同体では、物理的な障害が生じる事がありますよ、その上で障害とならない同一方向性の社会効用の最大化となりうる事柄が、善とされるケースが多いですよとしています。
同構造による条件の絞り込みが、善のモデルケースですよとしていましたね。
例えば前回の道路のケースなんてのは解りやすかったと思います。
道路の社会効用の最大化(物流を滞りなく進める事)に反する渋滞は、構造上、道路の上部に位置する共同体、これは都市なんですが、都市の社会効用の最大化の、需要の高密度化によって起こるものです。
これが上下間の共同体の物理的な障害の発生なんですが、渋滞を解決するために、道路は都市の需要を分散させたりはしません。
最適解は、両共同体の社会効用の最大化の両立の方法にあります。
つまりこれが最善と。
今回は、この論理構造をブラック企業の是非、特に過労による自殺に適用したらどうなるかと、流用した場合にも、通じるのか?
そういう記事になります。
・では、ブラック企業における、共同体間の物理的な障害とはなんなのか?
ここで個々の事例を出さない(感情移入をさせない)のが、本来の当ブログの立場なのですが、共同体間の倫理的な問題の提示として、象徴的な事例がありましたので転載します。
と思ったんですが、検索にひっかからないな?外食産業で、父親も同企業社員、父親がカリスマ創設者の賛同者で、息子さんが数ヵ月で過労自殺したケースですね、確か提訴しなかったので消えたかな?
まあ、むしろ良いか。
あ、匿名のケースになりましたが、最近叩かれていたワタミじゃないですよ。
この事例のポイントは解りやすいかと思います。
この事例での、上下構造の共同体とは、下が家庭と、上が家庭が収入を依存する企業となります。
共同体間の物理的な障害とは、息子さんが過労自殺に至ったプロセス、つまりは、休日の無い長時間の拘束労働ですね、及び息子さんの死そのもの。
この事例を、モデルケースにして考えていただけたらと思います。
家庭という共同体の社会効用の最大化と、企業という共同体の社会効用の最大化、そして個人。
個人の死はそれぞれの共同体に負の影響をもたらしました、即ち死をもたらしたこのプロセスは、論理構造上の条件からの絞り込みによって悪となります。
そして、逆なら、善と言えるのです。
・企業のモラルハザードの温床となっている日本の概念
同事例のモラルハザードの典型的な温床となっている前例がありまして、丁稚奉公なんですよね、過去の賛美による社会貢献。
丁稚をWikiから拝借
『丁稚
丁稚(でっち)とは、江戸時代から第二次世界大戦終結まで行われた商店主育成制度。またはその制度によって入門したばかりの者をさす上方(関西)のことば。年季奉公の一形態である。また現代でも一般社員(ヒラ社員)が自嘲的に「まだ丁稚です」と比喩的に使う事もある。上方ことばの
丁稚に対して江戸(関東)ことばでは「小僧」である。
主人への道
10歳前後で商店に丁稚として住み込んで使い走りや雑役をし
、丁稚の中でも経験年数によって上下関係がある(丁稚の時の呼び名は
「*松」で、*には丁稚の一字が入る場合が多い)。丁稚の仕事は多岐に亘り、前述の他に蔵への品物の出し入れや力仕事が多く、住み込みの為に番頭や手代から礼儀作法や商人としての「いろは」を徹底的に叩き込まれる。また入り口付近に立って呼び込みや力仕事が主な仕事で、商品を扱う事は無い。丁稚奉公の者は、店が一日の仕事を終えたからといって終わりではなく、夕刻閉店した後には番頭や手代らから商人として必須条件である読み書きや
算盤を教わった。他店や客からは「丁稚どん」又は「小僧」「坊主」などと呼ばれる。
その後、主人(船場言葉で「だんさん」)の裁量で手代となる。小僧から手代までおおむね10年である。手代はその字の通り、主人や番頭の手足となって働く(手代の時の呼び名は
「*吉」「*七」等で、下位の番頭と同じである)。そして、番頭を任され(大商店では“小番頭”“中番頭”“大番頭”と分けられる時があり、呼び名は「*助」である)主人の代理として店向き差配や仕入方、出納や帳簿の整理、集会等の参列など支配人としての重要な業務を任されるようになる。
番頭となるのはおおむね30歳前後であり、支店をまかされたり暖簾分けされ自分の商店を持つことが許される。ただしそこに到達するまでは厳しい生存競争に勝ち抜く必要があった。江戸期の三井家の丁稚の場合暖簾分けまで到達できるのは三百人に一人であった。
報酬
基本的には主人と番頭を筆頭とした徒弟制度であるが、手代より上には給金が支払われ年季奉公の性格があった。手代までは店住まいであるが番頭より上は自宅を構え家族をもつこともあった。丁稚には給与は無く、衣食住が保障されたのみであった。お盆・暮れの年2回、小遣いや藪入りの際の実家への手土産、新しい衣服(お仕着せ)などが支給されることがあった。
店主としては商売の教育を施して飯を食わせるのであるから無給は当然であり、丁稚となる者にとっても商売の経験と将来的な独立への布石、また食い詰めた貧家からの丁稚であれば少なくとも飯が食えるというメリットはあった。この報酬体系から丁稚は、しばしば丁稚奉公(江戸言葉では小僧奉公)と表される。
奉公人の生涯は丁稚からはじまり番頭になるまで一つ商店ひとり主人の下で行われると考えがちであるが、奉公換えは頻繁に行われ、とくに優秀な手代は大店へ移ることで給金や賞金(現代でいうボーナス)が増えることからしばしば行われたようである。近江商人の場合は長年つとめた奉公人よりも中途採用の者が上の階職につくこともあり、能力主義が特徴であった。
丁稚制度の消滅
第二次世界大戦後、GHQの指令により労働法規が整備されたことや、義務教育の年限が9年に延長された結果、「長期間の住み込みによる衣食住以外は無給に近い労働」という丁稚奉公のスタイルを維持することが困難となった。丁稚を採用していた企業は近代的な契約による従業員に衣替えさせた。これにより、200年以上の歴史を持っていた丁稚制度は消滅した。これは、家族経営を主体としていた商店が、近代的企業へと変わっていくのと軌を一にしていた。
その後は商家を題材とした古典落語や、花登筐の作品あるいはそのパロディーとしての吉本新喜劇のコメディー(「あっちこっち丁稚」など)を通じて伝えられる存在となった。とくにテレビ放送創生期に放送された「番頭はんと丁稚どん」が人気を博し、当時は丁稚・小僧の制度が消滅していたことも関連して、この様な奉公人をさすことばとして丁稚が全国的に通用するようになった。
また、商店街などが地域活性化と職業への理解を深めてもらうため、中高生に業務を体験してもらうイベントを「丁稚体験」と呼ぶケースがある。(大阪など)』
丁稚奉公をすることによって社会貢献になるなんていう、無償労働の賛美ですね、日本のブラック企業の企業倫理のベースには、前例にこの丁稚奉公という勘違いがあるかと思います。
・物理的な障害があるとして、その障害がどのように悪だと検証すべきなのか。
まあ、上下両共同体の社会効用の最大化に、決定的に反する結果になれば、必然的に悪になるという傾向がありますよとしてるのですから、道路であるならば、それは上位である共同体の都市までもが機能しない、社会効用を無くすほどの渋滞となります。
上記の共同体の事例では、それが過労自殺に至るプロセスだったのです。
・企業側は、人材の交換が可能であるから、個人の過労自殺の悪影響が無いと言えるのか?
近年、何故企業倫理(企業コンプライアンス)が、騒がれてきているかというと、企業コンプライアンスが企業イメージに直結するからです。
ようは、最後まで社会に隠し通せたら別として、過労自殺や過労死は、企業という共同体にも悪影響ありありなんですね。
というのは、家庭という共同体単位や、個人という単位は、企業を利用する私たち消費者が普遍的に所属する守るべき共同体だからです。
・結局の所、過労自殺や過労死に至ってしまうと、企業は、家庭を欺けない
ブラック企業の是非について問うと、ここに行き着きます。
構造上で上位にある共同体は、下位の共同体の権利を侵犯出来ますよとしていますが、その両方の社会効用の最大化にも反する事、もしくは、下位とは言っても数によって力関係の変わる共同体にたいしてのモラルハザードは、社会問題として表面化した時に、悪として認定されてしまうのです。
私なんかは、過労自殺に至る前に、単純にケアだけすれば良いと思ってしまいますが、この記事はポジションによっては反発を呼びそうです。
反発する前に、前例を調べなさいと、言いたいですが。
特に、企業倫理は前例によって、作られると書いているのですから。
どこかに同じような前例主義こそが、企業コンプライアンスだという主張は、あるかな?
同テーマの記事では、前例から作られる企業論理の例外を探してみましょうかね。
以上

Posted at 2014/03/04 22:40:32 | |
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2014年02月24日
さて、善と経済3回目。
今回は社会効用の最大化と題しまして、同テーマを掘り進めたいと思います。
まあ、もうやったよという方もおられるかと思います、えーと、同テーマは、リチャード・アレン・ポズナーの弁と同じ事なんですよね。
当ブログでは、善の構造と、共同体の力関係の構造が同一ですよと、
その理由は、善の根拠が、共同体の社会効用の最大化にこそあるからなんですよとしています。
社会効用の最大化は、ポズナーの富の最大化と同じ事です。
・例えば、道路を共同体として見てましょう。
雪かきでも書いたかな。
道路の社会効用の最大化とは、より多くの物流を滞りなく円滑に維持する事です。
所が、道路より上位の共同体である都市は、社会効用の最大化の過程に、需要に密度を求めます。
必然的に、都市が成長する時には、都市ストレスである渋滞が産まれます。
渋滞が、下位の共同体である道路の社会効用の最大化に反する事であってもです。
この渋滞の解決策は、上位にある都市部の解体ではなく、様々な事が考えられて来ました。
えーと、ここ考えてみて貰った方が良いかな。
Uターンの場所、信号のシステム、車線数とか色々考えられますね
まあ、結果は書かなくて良いか。
道路を都市の下位の共同体として考えた時に、共同体間には、社会効用の最大化の過程において、物理的な障害がある事に気づけます。
家族の収支と国の収支にも同じような障害(差)があるようにです。
・では、社会効用の最大化において、共同体間に障害があるときは、どうすべきなのか?
その最適解を求める行為こそが法であると、ポズナーは言っています。
そして、法は善に従って決められる傾向にあると当ブログは書いているのです。
・何においても、まずは社会効用の最大化を、一度念頭にしてみて考える
これこそが、善と経済のテーマにおける最大要素となります。
人類は近代から様々な観点を身に付けました。
結果、民主主義を取り入れ、その民主主義の合理性は、社会効用の最大化から離れるケースも多々見られてきました。
民主主義が、時折、社会効用の最大化に反する理由は、民主主義の本質が、個人の放漫的な財政を求める欲にあるからです。
対して、民主主義の最も大きな合理性は、その多様性にあります。
多様性を失い、社会効用の最大化にも反する時に、民主主義は、その合理性を失います。
そして合理性を失った時に、民主主義は善とかけ離れた存在になる。
そのような善とかけ離れた物に、人はついて来ないと指摘しておきましょう。
社会効用の最大化は、民主主義を運営する上で、大切な観点となりえるのです。
・どのように、経済的合理性を求めるべきなのか?
私個人は独善的な人間ですので、明確に答えを書くことを避けます。
ただし、近年日本に欠けている観点は、社会効用の最大化、そしてその折り合いの付け方に対する情報の取り扱いにあると思っています。
同テーマは、国家主義にも繋がる、非常に危なっかしいニュアンスを含んでいます。
しかし、危ないからと言って、それが、取り組まなければ良い理由にはなりません。
一度同テーマのような自分の価値観と合理性ですね、これを考えてみる事によって、自分の立場をより明確にしないと、特に経済については考えられないと思っています。
個人の経済の考えなんて物の多くは、同テーマの結果から得られるポジショントークのような物なのです。
皆さんの、ご自分の経済についての考えも、結局は善や合理性、合理性の上での個人の価値観に行き着きますよと。
同テーマから得られる物で一番大きな物は、まず、経済の話をする前に、自分の立場や、本当に思っている事を考えようという物になるかもしれませんね。
凄く横道にそれた感がありますが(笑)
以上

Posted at 2014/02/24 21:32:43 | |
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2014年02月19日
前々回の記事で、市場経済と国家と通貨は、3すくみの構造状態にあると書きました。
詳しくは、資本主義は、市場経済=市場経済の成長=インフレーションメカニズムが、他の2項を上回り続ける時代の事だという話です、えーと、主に輪栽式農業等による農業革命と呼ばれる人口増加によってですね、そういう時代がきました。
結果、世界は国家規律を中核とした封建社会から、需要を中核とした資本主義社会に切り替わりました。
前々回の記事では、どのような構造の3すくみなのかを示唆しませんでした、というか想定もしてなかったのですが、3すくみ構造は多少理解に苦しむ構造のようです。
イノベーション理論からすると、少なくともイノベーション理論4項目を3分類に分配して3すくみの構造に落とし込み、かつ、通貨とその他の商品の違いを明確に残す、まあ通貨の絶対的優位性は、貨幣数量説にあるのですから、それが他の商品の時にモデル上で通じるかという話になると思うのですが。
・3すくみのジレンマによる世界恐慌の解明
私なんかは下手をしてもしなくても、リフレ派と分類されて良い人間ですので、世界恐慌の原因が、通貨の供給量にあると断定してしまっていますが
3すくみ内の通貨の優位性から、通貨が他の2項に優位する時、どのような事が起こるか、恐らくは世界恐慌の原因となるような要素が出てくるのではないか?
通貨の時代と呼んでみますが、金利辺りが中核になると思います。
市場経済の時代から、通貨の時代への過渡期に何が起きるのか?
ここら辺まで出来たら良いなと思います。
・他の思想と類似するのか?
この前に、3すくみになるか、4すくみになるか、それ以上なのか、結果は全く解りませんよと付け加えておきます。
3すくみ構造だと、確か3つの時代の移り変わりかな、そこら辺に類似すると思いますので確認。
で、3すくみ構造について参考になるものを、いくつか探して来ますので、一つのテーマとして取り上げて起きましょう。
例えば、食物連鎖ピラミッド
肉食動物、草食動物、植物
これも3すくみというか、リソースがあるので4すくみか、面白い均衡状態となっています。
要はこういうのを探してから取り組みますよと、そういう話ですね。
でも、このテーマ、考えようによっては、当たり前で簡単な話なんですけどね。
以上

Posted at 2014/02/19 21:49:07 | |
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