• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

かずっち@大阪のブログ一覧

2012年10月17日 イイね!

京都仁丹樂會といく、下京の仁丹町名表示板~仁丹好きには宝のような辻子から、木製・琺瑯35の仁丹を辿る~

 
まいまい京都~京都を歩こ。




10月14日(日)の午前中はタイトルにも有りますように「京都仁丹樂會といく、下京の仁丹町名表示板~仁丹好きには宝のような辻子から、木製・琺瑯35の仁丹を辿る~」という「まいまい京都」(http://www.maimai-kyoto.jpさんの企画に参加して参りました。まいまい京都さんでは多くのコースの設定が有りますが、今回のこのコースは初お目見えです。

4年程前からブロンプトンを使っての京都散策が趣味となっておりますが京都市内を流していると時々目につくのが
「仁丹町名表示板」です。それはこんなやつです。
新しい仁丹町名表示板


京都に行った事がある人なら見た事が有るかもしれないですね。
下京区北小路通油小路東入米屋町

なんだか歴史を感じるくらい古めかしいものからピカピカのものまで市内を走っていると目にすることがあり気になってそれらをウェブで調べると何やらこれだけでも面白そうな世界が広がっております。

そうやって出会ったサイトが「京都仁丹樂會」http://jintan.kyo2.jp)さん。見ると古写真や過去の地名や道路表記などから論理的に設置時期や設置ルールなどを推理、説明されており読み物としてもかなり面白いサイトでした。
ここを参考にしながら京都散策をしたりして数ヶ月が経過した頃、なんとタイムリーにも「まいまい京都」さんの秋のコースに仁丹町名表示板のコースが発表されたのです。しかも自分の休みのスケジュールと合う!これは何かの縁だ〜!ということで申し込み、先日参加した次第なのです。



仁丹と言えば、明治26年創業の現在の「森下仁丹株式会社」(本社は大阪市)が販売している丸い小さな銀粒の口中清涼剤のことです。今の若い人は馴染みが無いかもしれないですが、フリスクやミンティアといった菓子とは違って菓子ではなく16種類の生薬を閉じ込めた「医薬部外品」の総合保健薬なんですよねー(知らなかった・・・)。
この森下仁丹さんが広告を兼ねて街の辻々に掲げた町名表示板が今も京都の市内に数多く残っているのですが今回はそれを皆で探しながら広告看板から色んなことを知る事が出来るというツアーでした。
ガイドをしてくださったのはわたしが何度もサイトを覗いていたあの「京都仁丹樂會」さん達!!これは胸躍りますね。
京都仁丹樂會さん

さらに、森下仁丹株式会社から広報のハナダさん、広報アシスタントのホソノさん、ウェブ&FB担当のミキさんのいわゆる「森下仁丹美人3人娘」が随行し協力サポートしてくれました(お土産も有り難うございました)。



京都市営地下鉄の四条駅で集合、そこから徐々に下り西本願寺までの道のりを歩いて35枚の仁丹町名表示板を見る事が出来ました。
まずは表記の原則的なルールなど基本的なレクチャーを受けます。
仁丹町名表示板の表記の原則について


このような古写真に映り込んでいる仁丹町名表示板を見つけて時代考証をし、おおよその設置年代を割り出していく方法を紹介してもらいました。スゴい!
推測の域を出ませんが、ほぼ昭和10年頃までに町名表示板の設置は終わったと思われます。
歴史的資料から表示板の設置時期を論理的に考証する




観光地ではないごく普通の素の京都の路地を20人ほどでぞろぞろ歩きました。
まいまい中



詳しい説明を聞きながら皆で確認中





どの位置に設置されているかとか細かく書くとこの手のものは所謂“宝探し”の要素も有り面白くなくなるので随分“はしょり”ますが(・・・と言っても表示板の住所を見たらどこか一発で分かりますけどね)、


こんな初期の頃のしかも色味まではっきりと見る事が出来る木製のものや(地元の方に大事にされているのでしょう、百歳近い表示板となります、当初表示板はこのような木製だったようですが、すぐに耐久性に優れる琺瑯(ホーロー)製に変わりました)、
状態のいい木製仁丹町名表示板


並んで掲げられているものや
過去にはこういう風景が多く見る事が出来たのでしょうか


おそらく建家が無くなったのだろうが、誰かが電信柱に移設したものや(現時点で電柱に取り付けられているものは確認されているので18枚との事)
電信柱に移設されたと思われます



現在の京都市広報板と仁丹表示板の熾烈な争いや(しかし住所表示の正確さは仁丹に軍配が上がる。このとき知ったのですが京都市役所やライオンズクラブさんが設置した現代の表示板は住所表示と設置場所が一致していないことがあるのですね。森下仁丹さんの表示板は本当に正確!)
京都市VS仁丹町名表示板





非常に見つけにくい場所にひっそり有ったり(しかも手前の表示板のほうが設置が新しいはずなのに我らが仁丹の方が褪せていないのがスゴい!)、
と思ったら裏側に発見



郷土愛に守られた仁丹が有ったり(過去ライオンズクラブの表示板が仁丹の上に設置されていた!)
今と昔。


立て替えした建物にも、改めて付け直された愛されている表示板を見たり、
下京区東中筋通花屋町下ル柳町


こんな絵になる路地の入り口に取り付けられていたり
珍しい、路地の入り口に仁丹表示板


ちょっと紛らわしい仁丹に似たものや
紛らわしいが仁丹ではないですね



ちょっと字がヘタッピなものや
過去のフィールドワークからの説明が興味深い



こんな姿になっても現役続行中の健気なものとかを見て来ました。
今もがんばってますよ!




 しかし、なぜ、森下仁丹さんはここまで京都市に情熱を注いで町名表示板を設置したのか、
平成になってから造った表示板は既に文字が擦れたりしているものが有るのに、昭和初期に設置した表示板はなぜ長期間にわたって風雨にさらされているのに文字が読めるのか(現代とは異なるものが使われていたのだろうか)、そもそも相当な枚数であったと思われる表示板をどのような方法を使って設置していったのか、なぜおじさんのマークが上に有ったり下に有ったりするのか、などなど謎は多い(※)のです。
仁丹町名表示板が有った場所にマンションが建ったり駐車場に姿を替えたりして行方不明になったものが沢山あるそうです。京都仁丹樂會さんのフィールドワークからの報告によると現時点で確認されている仁丹町名表示板は1200枚強との事。おそらく、大事に保管されているものが沢山有るのではないかと推測されます。

※ 残念ながら森下仁丹さんの社内にはその辺りの資料が大坂空襲の際に燃えてしまい無いのです。


参加を終えて思ったのは・・・もうこれは一企業の広告の域を超えた、京都の立派な文化財だと言っても過言ではない、そんな気持ちになりましたね。広告看板から京都の路地に関する歴史などを掘り下げる事も出来て改めて京都散策の奥深さを実感しました。やはり侮れないぞ、「まいまい京都」。

堀川通なのになぜ??




京都仁丹樂會の方々がどこかに眠っている仁丹町名表示板(埋蔵仁丹と名付けている)が日の目を見る様広報活動も行っていきたいと仰っていたのが印象的でした。
何も観光地だけが京都だけじゃない、こんなアプローチも有るんだということで、非常に楽しめたコースでした。京都仁丹樂會のみなさま、仁丹三人娘の皆様、まいまい京都事務局の皆様、有り難うございました。


いつも投票ありがとうございます→ なかのひと





Posted at 2012/10/17 00:01:31 | コメント(4) | トラックバック(0) | わたしの休日 | 旅行/地域
2012年10月16日 イイね!

10月14日(日)は鉄道の日でした。



 去る10月14日(日)は鉄道の日という事で各地でそれにちなんだ行事がありましたね。
わたしは午前中に京都市内に居りましたので昼からは梅小路公園に行き、そこにある梅小路蒸気機関車館(http://www.mtm.or.jp/uslm/に足を運んでみました。鉄道の日ということで無料入館できるのですね〜。
こちらには18台の蒸気機関車があり関西エリアに済むちびっ子たちには人気の場所の様ですがわたしは今までここに足を運んだ事が無かったんです。ニコンのD40を持って2時間弱ほどうろうろして来ました。


京都市有形文化財登録にされている旧二条駅舎を利用してのエントランス。
これは資料によると1904年築、1997年にこちらに移築されたもの。
中は蒸気機関車に関する資料館となっています。
旧二条駅舎


梅小路蒸気機関車館


普段の休日の混み具合を知りませんがやはり入館料無料と京都水族館が隣接している事、横の公園でも様々なイベントが開催されている影響で館内は家族連れで大混雑。

この日の見所としては「C62形2号機」の運転と日没後のSLのライトアップ展示、それにちなんだ開館40周年を迎えてのヘッドバッチを付けたSL四両の屋外展示でしょうか。
DSC_2430


扇形車庫。
DSC_2362


DSC_2376


DSC_2443



機関車から出てくる煙を車庫外に排出するための煙突に繋がる部分。
DSC_2436

DSC_2394



そしてこちらが、今日客を乗せて動くC62。
館内を10分かけて1キロにわたり走ります。切符は売り切れでした。
C62とJR



DSC_2368



力強く子供たちを乗せて走っていきました。
見ていると服が煤だらけに (^_^;A
DSC_2419



館内ではNHKラジオの公開生放送もやっており、関西の鉄道会社の関係者の方達が参加しそれぞれのPRを熱く語っておられました。全国区の放送なのでローカルな話題などを分かりやすく説明されていたりし聞いているとなかなか面白かったですよ。


この場所はSL好きにはたまらない場所なのでしょうね。



いつも投票ありがとうございます→ なかのひと




Posted at 2012/10/16 08:14:23 | コメント(1) | トラックバック(0) | カメラ | 旅行/地域
2012年10月15日 イイね!

史跡 宇治川 太閤堤跡 発掘調査現地説明会に参加して来ました

史跡 宇治川太閤堤跡発掘現場 説明会



  10月13日(土)は朝から宇治川太閤堤跡 発掘調査現地説明会に参加して来ました。
宇治川太閤堤跡とは平成19年6月に宇治橋下流の宇治川右岸で発見された治水遺跡で、400メートルにも及ぶこの護岸遺構は豊臣秀吉によって築造された太閤堤の一部となっております。
16世紀末頃、堤は洪水などの増水で急速に埋没したと思われ、そのため当時の状況がよくわかる状態で残っていた訳です。


説明パネル



太閤堤を簡単に説明します。
まず豊臣秀吉は1592年から伏見城の築城を開始します。
徐々にその姿は本格的になり城すぐそばには宇治川の水を引き入れ舟入を造り城下町として発展していく事となります。1594年8月に秀吉は拠点を伏見に移す事となります。
この頃に堤防普請を家臣に命じ、宇治川の水流をすべて伏見城のもとに集め伏見港の交通としての機能を高めようとしたと思われます(この頃の秀吉は朝鮮半島へ派兵をしており都京都から近い所に水軍の拠点が必要だったと推測される)。
さらに奈良から京都へ繋がる大和街道を桃山丘陵を超えずに済む様に整備、新たな堤のルートを用いて伏見城下を通るようにし、1596年には大阪の淀川の堤も完成させこの堤の上を通る事により大坂城と伏見城を結ぶ京街道が整備される事となります。
太閤堤の築堤により、伏見には大坂・奈良・京都へ通づる陸路と、瀬戸内へ繋がる水路が集約される事により伏見が当時の日本の首都に近い機能を持つ事となる訳です。

まあそんなこんなで歴史的に見ても重要な意味を持つこの太閤堤。
そのため平成21年7月には国史跡として認定されるに至っています。
そして文字通り自分の目で見る事ができる最後のチャンスという事なのです。
というのも、このままの状態で置いておくと、真横を流れる宇治川からの水の浸透圧などで水などが入り込んでしまい痛んでしまうため(当たり前だよね。川の流れを変えるために造っているんだから)、保護するために元通りに埋め戻して、その上に全く同じものを再現し、史跡公園として整備し直す予定となっています。
今回、護岸施設を再現するために、太閤堤を発掘し最新の三次元測量を行なうことになりました( 今、ここ!)。



会場の様子です。朝10時からの説明会ですが、既に人だかりでした(平均年齢高め・・・)。
会場


説明会会場のようす


素人目にはさっぱりわかりませんが、これがそうです。
宇治川太閤堤跡発掘現場



宇治川太閤堤跡発掘現場




この三次元スキャナーを使って細かく測量していくそうです。
三次元スキャニングの説明中



測定したポイントにはマーカーを設置。
三次元スキャニング マーカー


宇治川の水の流れを受け止めるためにそれに負けない様、お城の石垣を積む技術が使われているのだそうです。
それが「石出し」と呼ばれる部分です。
宇治川太閤堤跡発掘現場(石出し)



拡大してみると・・・。
宇治川太閤堤跡発掘現場



会場の反対側にも行ってみました。
宇治川太閤堤跡発掘現場




今回の技術を体験出来るコーナーも有りました。
体験コーナー




実際の岩の中に三次元スキャニングしてそっくりに再現したものが紛れ込んでいます。
見た感じでは分からないです。
3次元スキャニングして復元された例



持ってみると軽いものが有ります。ひっくり返すとさらによく分かります。
3次元スキャニングして復元された例


こちらは測量データをコンピューター処理したもの。
3次元データ体験コーナー


後で調べると色んな遺跡などの文化財の調査業務実績がある会社でした。
iPadで3Dスキャンした仏像をぐりぐり動かしてみました。なかなか面白い。
立体デジタルデータ化された仏像


豊臣秀吉の情熱に触れる事が出来たそんな説明会でした。
歴史的背景などを知る事によりさらに面白みが増しますよね。
相変わらず自分の勉強不足を痛感した瞬間でもありました。
興味がある人は下にある関連情報URLを参照くださいませ。



【番外編】
良い天気で気持ちよいので序でと言ってはナンですが、現場近所の恵心院と、放生院へ寄って来ました。
どちらも大好きな場所です。
恵心院



放生院


(この日の使用カメラは リコー CX4)


いつも投票ありがとうございます→ なかのひと




Posted at 2012/10/15 19:33:21 | コメント(1) | トラックバック(0) | わたしの休日 | 趣味
2012年10月10日 イイね!

トキナーのAT-X 107 DX Fisheye(10-17mm F3.5-4.5)

トキナーのAT-X 107 DX Fisheye(10-17mm F3.5-4.5)
 

 先日の連休最終日、ニコンのD90に新しいレンズ、トキナーのAT-X 107 DX Fisheye(10-17mm F3.5-4.5)を持ってBromptonで京都散策して来ました(つまり先に書いた明倫地区散策の前のお話となります)。

こいつの特徴は
・APS-Cサイズ専用に開発した魚眼ズームレンズ
・焦点距離10mm時に対角線画角約180°の画角を実現
・最短撮影距離0.14m
といった所でしょうか。

少し前の記事からちょくちょくこいつを使っての絵は出していましたが、ちゃんと外に持ち出すのは初めてです。


世界遺産 東寺。
東寺~南大門


17mmですとこんな具合です。
東寺


位置を変えずに10mm側で撮るとこんなにワイド。
東寺



京都水族館。3連休という事も有り随分活気がありましたね。
京都水族館



ちょっと北上して島原大門へ。新撰組のお話などで有名な場所ですね。
京都市指定登録文化財。
「1641年に設けられた日本最初の公許の花街である島原。
当時四周は堀と塀で囲まれ,門はその東辺北寄りに設けられていたが,明和3年(1766)に現在地に付け替えられた。現在の門は慶応3年(1867)に建てられた。
控柱の上にも屋根をのせる高麗門形式である。」とあります。
島原大門


裏はこんな感じ。
島原大門



久々に前を通りました、輪違屋さん。
現在も営業されている置屋兼お茶屋です。
「観覧謝絶」(いちげんさんおことわり)の札が玄関にかかっております。
1688年創建、現在の建物は安政4年(1857)の再建となっています。京都市指定登録文化財。
輪違屋



10mmですとちょっとクセがあって撮る被写体を随分選びそうですけど17mm側だとふつうの広角レンズとして使えますのでカバンに入れておくと面白いものが撮れそうな気がします。
これからの紅葉の時季が楽しみです。


いつも投票ありがとうございます→ なかのひと


Posted at 2012/10/10 00:15:45 | コメント(5) | トラックバック(0) | カメラ | 趣味
2012年10月09日 イイね!

京都・祇園祭を受け継ぐまち・明倫エリアを散策

  

京都の夏を彩る祇園祭。
その山や鉾で賑わう烏丸四条から三条あたりのエリアをBromptonを使って散策してみました。

ちょっと時間をかけて色々見てまわっていると普段見落としている様々な歴史的スポットがあることを発見。
当時は茶人や豪商や職人、儒学者などが屋敷を構え京都の中心だった事に思いをはせる事が出来ました。
そういう人たちに支えられていたからこそ現在も続いている祇園祭。
そんなエリアを紹介したいと思います。


まずは中京区・錦小路烏丸西入る・占出山町(うらでやまちょう)。
儒学者・「木下順庵邸址」がありました。将軍綱吉の侍講をつとめた人物だそうです。
  木下順庵邸址



中京区室町通四条上る東側。
「大黒庵 武野紹鷗(たけのじょうおう)邸址」。
大阪の堺からやってきた室町時代後期の茶人でわび茶を発展させた人物。
弟子にあのお茶の世界ではスーパースターの千利休などがいます。
大黒庵 武野紹鷗(たけのじょうおう)邸址



隣に夷堂があったため恵比寿大黒に掛けて「大黒庵」と名付けられたという事です。
夷堂には名水「菊水の井」があり、これがためにここに庵を結んだとも伝え、現地からは「菊水」と掘り込んだ石の井戸枠が発掘されています。なお、祇園祭「菊水鉾」はこの名水に因むのは有名な事。
大黒庵 武野紹鷗(たけのじょうおう)邸址



ちなみにこれが菊水鉾(2009年の宵山の画像です)。
菊水鉾 提灯





「旧明倫小学校」、現・「京都芸術センター」。
石田梅岩の弟子で心学の普及に努めた手島堵庵(てじまとあん)が焼失した心学講舎・明倫舎を1789年にここに再建。その後明治2年(1869年)に下京第三番組小学校が建てられ、のちの明倫小学校と改名、(もちろん名前は明倫舎から取られている)、平成5年(1993年)に閉校となり平成5年(2000年)からは京都芸術センターとして使用されています。レトロ建築・登録有形文化財。
旧明倫小学校(現・京都芸術センター)



旧明倫小学校




途中で古い琺瑯製の仁丹町名表示板を発見。
この看板についてもくわしいマニアが居るくらい奥が深い世界です。
大事にされていますね。
古い琺瑯仁丹町名表示板


平成になってからの仁丹町名表示板もあるんですよ。これはこれでドラマがあって面白いです(http://www.jintan.co.jp/pdf/horokannbansettishiki_20110210_file.pdf
新しい仁丹町名表示板





走っていると京都っぽい雰囲気のいい路地(ろおじ)が。
残念ながらこの先は行き止まりなのですが。
路地とBrompton



そして百足屋町(むかでやちょう)に来て、見つけたのは「茶屋四郎次郎屋敷跡」。
初代茶屋四郎次郎清延は本能寺の変を家康に早馬で知らせた事で知られる人物。
茶屋四郎次郎屋敷跡



その後、茶屋は徳川家の御用商人となり朱印船貿易で京都三長者と言われる程の財を成す事となります。
茶屋四郎次郎屋敷跡



この辺りは南観音山で有名な場所です。
南観音山

南観音山



ちなみに南観音山の南側には放下鉾が出ます。
放下鉾




北上して中京区蛸薬師通室町西入。「南蛮寺跡」を見つけました。
南蛮寺は安土桃山期、キリスト教宣教師が京都に建てた教会です。
1560年六角通室町西の民家を会堂とし、のち四条烏丸に移り再びここに織田信長の庇護を受け、オルガンティのやルイス・フロイスらが1576年に3階建ての教会を完成させ南蛮文化の中心となりました。
が、1588年豊臣秀吉のバテレン追放例(禁教令)で破却されることになります。
南蛮寺跡


今じゃその面影すらないですね。
南蛮寺跡





そして六角町へ移動します。
1686年、あの三井財閥の家祖、三井高利がここに両替店をもうけました。
その碑がこんな所に。「三井両替店旧址」です。
三井両替店旧址



ちょっと分かりにくいですね。
なんと右の黒いアコーディオン式の門の中にありました。
三井両替店旧址




新町通りを上がっていくと、レトロな「川崎家住宅」を見つけました。
京都市指定有形文化財になっていました。
川崎家住宅



今は紫織庵(http://www.shiorian.gr.jp)という名前で「京のじゅばん&町家の美術館」として一般公開されていました。(入場料500円)
見ていると非常に凝った作りで和室部分を上坂浅次郎、洋館部分は武田五一が設計参与。京都の伝統的な「大塀造」建築の代表例といわれています。元々は江戸時代後期に荻野元凱がこの地で開業していた医院で大正15年、豪商・四代目井上利助氏が荻野元凱時代をそのままに、洋間を加えて新築したもの。
中には入らなかったけれどもなかなか見応えが有りそうです。
川崎家住宅



そして釜座町(かまんざちょう)へ。
この辺りは平安時代から鋳物師が住み着いて、釜や梵鐘を製造していました。
室町時代からは茶道の流行によりおおくの茶の湯釜がつくられる事となります。
徳川家康が大坂冬の陣のきっかけとした「国家安康」、「君臣豊楽」の銘文で有名な方広寺のあの梵鐘もここで鋳造されました。
御釜師(釜座町かまんざちょう)




ここは廣野了頓邸跡。細い見過ごしそうな路地の真ん中にありました。
了頓は安土桃山時代の茶人です。廣野家は足利家代々の従臣であり将軍義輝のときにこの地を領有。
了頓はここに茶亭を構え、茶道を広めたとの事。豊臣秀吉、徳川家康らがここを訪れたんですって。
敷地はかなり広く了頓は、一般人が六角通り~三条通りまでの自邸内を通り抜けることを許し、
この小道は「了頓図子(りょうとんずし)」と呼ばれました。
この名前が今も「了頓図子町」という町名として残っています。
廣野了頓邸跡(了頓図子町)


<<参考記事>>
「Club DISCOVER WEST:ちょっと京都へ:上ル下ル西入ル東入ル」
http://cdw.jr-odekake.net/contents/k_contents/agaru/muromachi/muromachi9.html


そして了頓邸の表門が有った場所。「将軍御成門跡」です。
どうやら明治維新まであったみたいです。
将軍御成門跡



この辺りは祇園祭のときは黒主山が出る所です。
黒主山




「三条烏丸御所跡(さんじょうからすまごしょあと)」。
1133年頃鳥羽上皇の御所として使われていました。
1189年までと短い期間なのですが、源頼朝が官人として勤務していた事もあります。



「三条西殿跡」。スターバックスコーヒーの前に有りました。
三条西殿跡



「三条南殿跡」。
三条南殿跡



現在はみずほ銀行京都中央支店です。
みずほ銀行 京都中央支店




この交差点付近が三条烏丸御所の跡となる訳ですね。
烏丸三条交差点



こんなものを発見しました。
「京都市道路元標」です。
烏丸三条交差点の南東、京都銀行の前に有ります。
東海道の上りの終点が三条大橋と言われていますがなぜこの場所なのでしょう?
帰宅してから少し調べると諸説有るようですね。半分色が違うのも気になりますね。
京都市道路元標


京都市内を南北に貫く烏丸通を南下すると左手に見えてくるのが「六角堂」です。
六角堂

聖徳太子創建と言われています。
江戸時代までは祇園祭の山鉾巡行の巡行順を決める「くじ取り式」をここで行っていたそうです。
この六角堂、生け花発祥の地でもあるんですね。
隣には立派ないけばなの「池坊」の本部が有ります。
いけばなの池坊



六角堂から少し南に烏丸通を下ると見えてくるのが「八坂神社御手洗井」(やさかじんじゃみてあらいい)です。
織田信長がこの地の井戸水が格別と聞き、町民に井戸を管理させ祇園祭の期間中のみ開錠して水を施したと言われています。今も町名に引き継がれ「手洗水町」となっています。祇園祭の期間の7月15日から24日までの10日間だけ現在も井戸が開かれます。
八坂神社御手洗井




八坂神社御手洗井






非常に狭いエリアで、すっかり近代的な街中にありながらも脈々と昔からの伝統や息づかいが感じられる、そんな場所でした。



簡単にルートをひいてみました。
もしもチャレンジされる方がいらっしゃるなら参考にしてみてください。





いつも投票ありがとうございます→ なかのひと


Posted at 2012/10/09 19:20:26 | コメント(1) | トラックバック(0) | 自転車日和 | 旅行/地域

プロフィール

「[整備] #PCX エンジンオイル交換 https://minkara.carview.co.jp/userid/145806/car/3456826/8202626/note.aspx
何シテル?   04/26 16:14
★*・^;・:\(*^▽^*)/:・;^・*★ 皆様よろしくお願いします。 すっかり自転車&カメラ系ブログに変わってしまいました。すいません・・・。 20...
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2012/10 >>

 123 456
78 9 10111213
14 15 16 17181920
2122 2324252627
2829 3031   

リンク・クリップ

大阪DEEP案内 
カテゴリ:情報
2011/03/14 19:34:01
 
tac-phenでいこう!! 
カテゴリ:その他
2010/06/03 20:43:23
 
読書メーター 
カテゴリ:その他
2009/06/27 01:04:50
 

愛車一覧

日産 NV100クリッパー 日産 NV100クリッパー
自家用兼営業車。 このところ、自転車ばかりになりあまりにもクルマはどうでも良くなってしま ...
ホンダ PCX ホンダ PCX
置き場所整理のためバイクの整理をし、最終的にみんなが乗れる原付二種のスクーター一台だけを ...
カワサキ エストレヤ カワサキ エストレヤ
ツーリング用
ホンダ スーパーカブ90 ホンダ スーパーカブ90
どーしても欲しくてずっと探していたフルノーマル最終型90DXです。トコトコ散策用と致しま ...
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation