京都の夏を彩る祇園祭。
その山や鉾で賑わう烏丸四条から三条あたりのエリアをBromptonを使って散策してみました。
ちょっと時間をかけて色々見てまわっていると普段見落としている様々な歴史的スポットがあることを発見。
当時は茶人や豪商や職人、儒学者などが屋敷を構え京都の中心だった事に思いをはせる事が出来ました。
そういう人たちに支えられていたからこそ現在も続いている祇園祭。
そんなエリアを紹介したいと思います。
まずは中京区・錦小路烏丸西入る・占出山町(うらでやまちょう)。
儒学者・「木下順庵邸址」がありました。将軍綱吉の侍講をつとめた人物だそうです。
中京区室町通四条上る東側。
「大黒庵 武野紹鷗(たけのじょうおう)邸址」。
大阪の堺からやってきた室町時代後期の茶人でわび茶を発展させた人物。
弟子にあのお茶の世界ではスーパースターの千利休などがいます。
隣に夷堂があったため恵比寿大黒に掛けて「大黒庵」と名付けられたという事です。
夷堂には名水「菊水の井」があり、これがためにここに庵を結んだとも伝え、現地からは「菊水」と掘り込んだ石の井戸枠が発掘されています。なお、祇園祭「菊水鉾」はこの名水に因むのは有名な事。
ちなみにこれが菊水鉾(2009年の宵山の画像です)。
「旧明倫小学校」、現・「京都芸術センター」。
石田梅岩の弟子で心学の普及に努めた手島堵庵(てじまとあん)が焼失した心学講舎・明倫舎を1789年にここに再建。その後明治2年(1869年)に下京第三番組小学校が建てられ、のちの明倫小学校と改名、(もちろん名前は明倫舎から取られている)、平成5年(1993年)に閉校となり平成5年(2000年)からは京都芸術センターとして使用されています。レトロ建築・登録有形文化財。
途中で古い琺瑯製の仁丹町名表示板を発見。
この看板についてもくわしいマニアが居るくらい奥が深い世界です。
大事にされていますね。
平成になってからの仁丹町名表示板もあるんですよ。これはこれでドラマがあって面白いです(
http://www.jintan.co.jp/pdf/horokannbansettishiki_20110210_file.pdf)
走っていると京都っぽい雰囲気のいい路地(ろおじ)が。
残念ながらこの先は行き止まりなのですが。
そして百足屋町(むかでやちょう)に来て、見つけたのは「茶屋四郎次郎屋敷跡」。
初代茶屋四郎次郎清延は本能寺の変を家康に早馬で知らせた事で知られる人物。
その後、茶屋は徳川家の御用商人となり朱印船貿易で京都三長者と言われる程の財を成す事となります。
この辺りは南観音山で有名な場所です。
ちなみに南観音山の南側には放下鉾が出ます。
北上して中京区蛸薬師通室町西入。「南蛮寺跡」を見つけました。
南蛮寺は安土桃山期、キリスト教宣教師が京都に建てた教会です。
1560年六角通室町西の民家を会堂とし、のち四条烏丸に移り再びここに織田信長の庇護を受け、オルガンティのやルイス・フロイスらが1576年に3階建ての教会を完成させ南蛮文化の中心となりました。
が、1588年豊臣秀吉のバテレン追放例(禁教令)で破却されることになります。
今じゃその面影すらないですね。
そして六角町へ移動します。
1686年、あの三井財閥の家祖、三井高利がここに両替店をもうけました。
その碑がこんな所に。「三井両替店旧址」です。
ちょっと分かりにくいですね。
なんと右の黒いアコーディオン式の門の中にありました。
新町通りを上がっていくと、レトロな「川崎家住宅」を見つけました。
京都市指定有形文化財になっていました。
今は紫織庵(
http://www.shiorian.gr.jp)という名前で「京のじゅばん&町家の美術館」として一般公開されていました。(入場料500円)
見ていると非常に凝った作りで和室部分を上坂浅次郎、洋館部分は武田五一が設計参与。京都の伝統的な「大塀造」建築の代表例といわれています。元々は江戸時代後期に荻野元凱がこの地で開業していた医院で大正15年、豪商・四代目井上利助氏が荻野元凱時代をそのままに、洋間を加えて新築したもの。
中には入らなかったけれどもなかなか見応えが有りそうです。
そして釜座町(かまんざちょう)へ。
この辺りは平安時代から鋳物師が住み着いて、釜や梵鐘を製造していました。
室町時代からは茶道の流行によりおおくの茶の湯釜がつくられる事となります。
徳川家康が大坂冬の陣のきっかけとした「国家安康」、「君臣豊楽」の銘文で有名な方広寺のあの梵鐘もここで鋳造されました。
ここは廣野了頓邸跡。細い見過ごしそうな路地の真ん中にありました。
了頓は安土桃山時代の茶人です。廣野家は足利家代々の従臣であり将軍義輝のときにこの地を領有。
了頓はここに茶亭を構え、茶道を広めたとの事。豊臣秀吉、徳川家康らがここを訪れたんですって。
敷地はかなり広く了頓は、一般人が六角通り~三条通りまでの自邸内を通り抜けることを許し、
この小道は「了頓図子(りょうとんずし)」と呼ばれました。
この名前が今も「了頓図子町」という町名として残っています。
<<参考記事>>
「Club DISCOVER WEST:ちょっと京都へ:上ル下ル西入ル東入ル」
http://cdw.jr-odekake.net/contents/k_contents/agaru/muromachi/muromachi9.html
そして了頓邸の表門が有った場所。「将軍御成門跡」です。
どうやら明治維新まであったみたいです。
この辺りは祇園祭のときは黒主山が出る所です。
「三条烏丸御所跡(さんじょうからすまごしょあと)」。
1133年頃鳥羽上皇の御所として使われていました。
1189年までと短い期間なのですが、源頼朝が官人として勤務していた事もあります。
「三条西殿跡」。スターバックスコーヒーの前に有りました。
「三条南殿跡」。
現在はみずほ銀行京都中央支店です。
この交差点付近が三条烏丸御所の跡となる訳ですね。
こんなものを発見しました。
「京都市道路元標」です。
烏丸三条交差点の南東、京都銀行の前に有ります。
東海道の上りの終点が三条大橋と言われていますがなぜこの場所なのでしょう?
帰宅してから少し調べると諸説有るようですね。半分色が違うのも気になりますね。
京都市内を南北に貫く烏丸通を南下すると左手に見えてくるのが「六角堂」です。
聖徳太子創建と言われています。
江戸時代までは祇園祭の山鉾巡行の巡行順を決める「くじ取り式」をここで行っていたそうです。
この六角堂、生け花発祥の地でもあるんですね。
隣には立派ないけばなの「池坊」の本部が有ります。
六角堂から少し南に烏丸通を下ると見えてくるのが「八坂神社御手洗井」(やさかじんじゃみてあらいい)です。
織田信長がこの地の井戸水が格別と聞き、町民に井戸を管理させ祇園祭の期間中のみ開錠して水を施したと言われています。今も町名に引き継がれ「手洗水町」となっています。祇園祭の期間の7月15日から24日までの10日間だけ現在も井戸が開かれます。
非常に狭いエリアで、すっかり近代的な街中にありながらも脈々と昔からの伝統や息づかいが感じられる、そんな場所でした。
簡単にルートをひいてみました。
もしもチャレンジされる方がいらっしゃるなら参考にしてみてください。
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