
僕は2012年に亡くなられた漫画家中沢啓治さんのファンで、講演にも2度ほど行ったことがある。
DVD「はだしのゲンが見たヒロシマ」を見ていたら、中沢さんの生家や被爆地点が特定されていたので、現地へ行ってみた。
まず被爆地点だが、中沢さんは小学1年のとき、神崎国民学校(現・神崎小学校)の裏門付近で被爆した。ちょうど校庭に入ろうとしたとき、顔見知りのおばさんから話しかけれ、話をしてる最中に被爆。
コンクリート壁や門柱が熱線を遮り、倒れた壁と街路樹の間にできた三角スペースのおかげで奇跡的に助かった。
「はだしのゲン」や「おれは見た」に繰り返し描かれている。
「おれは見た」は、はだしのゲン以前に描かれた作品。より中沢さんの体験に忠実になっている。
金の星社「原爆といのち (漫画家たちの戦争)」に収められている。
DVDでは、舟入中町の
「神崎小学校入口」交差点で、ここで被爆したと
中沢さんが言われていた。
画像キャプチャはDVD「はだしのゲンが見たヒロシマ」より
ここでいきなり疑問なんだが、被爆地点はもう少し南ではないだろうか。
現在の神崎小学校は、被爆当時から100メートルほど北東に敷地が移動している。
> 戦後、校舎がなくなったため本川、舟入両国民学校で授業を再開しました。1950年4月に神崎小として再発足。
> 同年9月に、戦前より北東に100メートルほど移動した今の場所に新校舎が完成しました。
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=26877
国土地理院のページに、1939年の航空写真があったので、現在と比較してみる。
現在(2001年)の神崎小学校付近
被爆前(1939年)の神崎小学校付近
現在の神崎小の南を東西に走る太い道路(2号線)は、戦前にはなかった。
現在の画像に、戦前の神崎小の位置を当てはめるとこうなる。
確かに、敷地が北東へ移動してることがわかる。
DVDで中沢さんがここで被爆したと言われていた神崎小入口交差点は、
現在の神崎小からまっすぐ西になるので、中沢さんが被爆したのはもっと南じゃないかと思うのだ。
神崎国民学校を拡大して被爆前/後の比較。
中沢さんが被爆したのは電車道(舟入通り)に面した裏門付近(矢印)だった。
矢印の下に街路樹があるのが見えるが、これが中沢さんが塀の下敷きに
なるのを救った街路樹ではないだろうか。
被爆前
DVD「はだしのゲンが見たヒロシマ」より
被爆後
赤矢印部分に、塀が切れたような場所があるので、おそらくここが
裏門だろうと思う。
中沢さん被爆地点は、現在でいうとスタープラザ舟入前付近じゃないだろうか。
グーグルストリートビュー
被爆直前シーン。「はだしのゲン」では、神山国民学校となっている。
目の前にいたおばさんは熱線の直撃を受けて即死した。
DVD「はだしのゲンが見たヒロシマ」より
「おれは見た」より
次に、神崎小学校の門柱が保存されているというので、神崎小へ行ってみた。
最近の小学校は警備厳重である。あらかじめ電話で確認し、インターホンで
断って敷地内に入った。
正門のすぐ近くに門柱は保存されていた。
以前ネットで見たときは、樹脂か木製の説明板だったが、石に変わっていた。
門柱は高さ170センチ台。あまり高くない。中沢さんから熱線を遮った門柱そのものかどうかはわからないが、小学校1年生で背が低かったので助かったんだろう。縦にヒビが入っているが、戦後人為的に2つに割られていたそうだ。
次に、中沢さんの生家があった場所へ行ってみた。
「はだしのゲン」で、ゲンの家族が焼け死んだ場所である。
DVD「はだしのゲンが見たヒロシマ」より
グーグルストリートビュー
正にこの地点で、中沢さんの家族が家の下敷きになって焼き殺された。
弟の進(すすむ)は画像の表札がある門柱下付近で頭を挟まれ、父の晴海(はるみ)は、画像左の隣家との生け垣の奥のほうで挟まれていたそうだ。
母・君江(きみえ)によると、姉の英子(えいこ)は一切声が聞こえず、即死だったのではないかということだ。
「はだしのゲン」より。
他人の家の前でウロウロするのは失礼だし怪しいのだが、感慨にふけってしまった。
もしも現地へ行く方がおられたら、当然だが現住人に迷惑のないようにしてほしい。
国土地理院の1939年の航空写真にも、中沢家が写っているはずだ。
おそらく赤丸あたりだと思う。
「はだしのゲン自伝」より、被爆前の中沢家。
西日の位置から、家の前の通りは東西だったことがわかる。
同じく「はだしのゲン自伝」より。家の倒壊シーン。
このように、弟は頭を梁に挟まれ、どうしても抜けなかった。
「おれは見た」より
広島原爆 中沢啓治 「はだしのゲン」ゆかりの地を訪ねる2へ続く。
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Posted at
2014/07/15 14:42:15