広島原爆 中沢啓治 「はだしのゲン」ゆかりの地を訪ねる2の続き。
再び広島を訪れる機会があったので、中沢さんたちが被爆後避難しようとした
皿山周辺や、しばらく間借りしていた江波界隈へ行ってみた。
皿山の北面は、昔は陸軍射撃練習場の的になっていた。
グーグルストリートビュー。
国土地理院HPから、1939年の航空写真。
皿山から右上へ斜めに伸びる細長い長方形の敷地が陸軍射撃練習場。
現在の皿山北面。山の形が皿のようだから皿山ではなく、江波焼という
皿をこの辺りで作っていたので皿山だそうだ。
コンクリ擁壁の根元は菜園や公園に続く通路になっていた。
中沢さんたち(啓治、母のキミヨ、8/6に生まれた友子(朋子)は、
被爆後木陰を求めて皿山へ移動した。しかし、木陰という木陰にすでに
被爆者がうずくまっており、諦めて元の川口町電停に戻った。
「
はだしのゲン自伝」より。
現在の皿山。
グーグルストリートビュー。
頂上の皿山公園。
松の大木が何本も生えている。戦前からの木もたくさん残ってるんだろう。
皿山中腹から見る陸軍射撃練習場跡地。手前のバスが停まっている
駐車場と、屋上駐車場がある建物が広電。その向こうが江波中学校。
原爆投下後、大量の遺体が射撃場へ集められ、燃やされた。
人骨が3メートルほどの高さに何十カ所も山積みになっており、
それを戦後米軍がブルドーザーで潰して均した。
「
はだしのゲン わたしの遺書」より。
国土地理院HPから、1945年8月11日、原爆投下5日後の皿山周辺航空写真(米軍撮影)。
画像からはもちろん確認できないが、すでに大量の遺体が射撃場に集められていたと思われる。
戦後、江波中校舎建替工事の際、大量の人骨が出土したそうだが
まだまだ眠っているはずだ。
中沢さんたちは、江波の三軒長屋にしばらく住んでいた。
江波時代は地元民からヨソ者といじめられ、ずいぶんひどい目に遭ったようで、
晩年の講演のときも、まだわだかまりが残っているような口ぶりだった。
長屋の近くに火葬場があり、中沢さんは火葬の手伝いをすることもあった。
手伝いをすると、食料をわけてもらえるからだ。
その火葬場の跡が、江波山に残っている。
江波山気象館への歩道を進むと、火葬場の門が見える。
グーグルストリートビュー。
長屋のあった場所も、この近辺じゃないかと思う。
「はだしのゲン」より。
火葬場の門。草むらにゴミが散乱しており、足場は悪い。
見上げると気象館がすぐそばに見える(右上)。
門の向こうはさらに草が生い茂っており、通るのが難しい。
イバラもあるので、引っかかると服が破けてしまう。
草むらの中にレンガが見えた。これが火葬場の炉だな。
正面側から。炉は2つ確認できた。当時は3つあったそうだ。
鉄製の扉が残っている。
下は灰の掻き出し口か。
周囲にはゴミの他に瓦もたくさん散乱しているが、火葬場建物の
瓦と思われる。
炉内部。片方は、天井が崩落している。
もう片方は形が残っていた。ここでも大勢の被爆者が焼かれたんだろう。
火葬場跡から急斜面をよじ登ると遊歩道に出る。
遊歩道から見た火葬場跡。ほんとに急斜面なので、登るのはまだしも
下るのは危険。まあ登山やってる人なら余裕だろうけど。
グーグルマップだと、大体赤丸辺りに火葬場跡がある。
気象館屋上から見た火葬場門。隣に虎の遊具があるミニ公園がある。
丸いのは砲台の跡か何かだろうか?
虎の表情。
虎の背中と気象館。
国土地理院HPから、1945年8月11日米軍撮影の江波山周辺。
広島地方気象台(現気象館)が確認できる。
火葬場と中沢さん一家が住んでいた長屋は、大体この辺りのはずだ。
拡大。
中沢さん一家は江波を出たあと、原爆ドーム近くの鷹匠町(たかじょうまち・現本川町)に移った。
鷹匠町を広島市の都市計画で立退き、吉島(よしじま)へ移り住んだ。
中学は江波中学に通った。
広島原爆 中沢啓治 「はだしのゲン」ゆかりの地を訪ねる4 無名戦士之碑~土橋へ続く。
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Posted at
2015/04/05 06:44:25