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2013年01月19日

本田宗一郎の息子(博俊)

本田宗一郎の息子(博俊) 父と同じく求めた、心から信じられる「女房役」。その男に裏切られ、長きにわたる裁判闘争を強いられることになるとは。70歳目前にして刑務所に入る「長男」の葛藤を徹底取材で追った。

初めに検察のシナリオありき

 ホンダの創業者・本田宗一郎は世襲を良しとせず、長男の博俊(69歳)を会社に入れなかった。博俊自身も「宗一郎の息子」と見られることを嫌い、宗一郎とは距離を置いていた。ただ「車好きの血」は争えず、30歳でエンジンメーカーの無限(埼玉県朝霞市)を設立。F1で4勝するなど、モータースポーツ界で知らぬ者のない存在となった。

 その本田博俊が6月末までに小菅拘置所から刑務所に移送され、受刑者となった。脱税の罪をこれから2年にわたって償う。

「本田宗一郎の息子の会社が査察を受けた。脱税事件に発展するかもしれない」

 そんな情報が流れたのは10年ほど前のことだった。実際、博俊が社長の無限は2001年7月に関東信越国税局の査察を受け、脱税容疑で厳しい取り調べを受けていた。

 以来、調べはさいたま地検に移され、'03年7月1日に博俊は逮捕された。否認のまま270日を浦和拘置所で過ごしてから、長い公判が始まる。'06年5月25日にさいたま地裁で無罪判決を受けた喜びもつかの間、'07年9月19日には逆転有罪判決。上告するものの最高裁第一小法廷が'11年1月27日までに棄却を決定した。

 脱税事件としては極めて特異である。

 その最も大きな理由は、博俊には「たまり(不正に蓄財された資産)」がないことにある。脱税は資金を隠匿するために行うものであり、国税当局はその「たまり」を見つけ出して脱税の証拠とする。ところが博俊の事件では「所得隠し資金」が複雑な経理操作を経て、無限元監査役の広川則男が実質的に経営する会社の土地と広川と親しい女性のKが住む土地に流れていた。

 広川とKが博俊のダミーというのなら脱税事件は終結する。ところが構図はもっと複雑で、実は広川とKはさまざまな手法で博俊からカネを収奪していた。「2つの土地の約30億円」はその一部に過ぎず、2人は博俊と14件もの民事訴訟を争ってもいる。

 つまり「信頼していた2人に騙された」というのが博俊の主張。これに説得力があるのは、民事訴訟はすべて博俊側の勝訴(一部和解も含む)に終わり、刑事事件も含めて唯一の敗北が前述の東京高裁の「脱税10億円で懲役2年の実刑判決」だからである。

 博俊は一連の裁判に持てるエネルギーの大半を注いだ。PwC会計士事務所の数人の公認会計士や税理士、光和総合法律事務所の石川達紘弁護士(元名古屋高検検事長)などでチームを編成、これまでに各種の公判対策で20億円以上の資金を使っている。

10年の公判のなかで、博俊に一貫していたのは冤罪への怒りだ。「本田家から資産を収奪した男女の罪」を問わず、「広川が脱税事件の主役でそれを認めた博俊が準主役」という構図のまま裁かれ、懲役に服することが我慢できなかった。10年にわたって事件を追った本誌も冤罪だと考える。

「出所して、自分の考えとやり方で存分に戦います」

 と今回、博俊は本誌と〝連帯〟することはなかった。ただ戦後日本を代表する経営者の本田宗一郎の長男が脱税で受刑者となったという事実は、いま議論になっている「司法の在り方」「検察捜査の在り方」に様々な論点を提起している。
本田博俊が受刑者となるまでを振り返りたい。

有名人を父に持つ辛さ

 ホンダの原風景は静岡県の浜名湖畔にある。博俊はそこで'42年4月12日に生まれた。10歳でホンダの東京進出にともない家族で転居すると、博俊は埼玉県の白子にあるホンダの研究所に出入りし、バイクの車体やエンジン部品、外国のレーサーマシンに触れることで時がたつのを忘れた。

 ただそれも中学時代まで。高校時代は、喜怒哀楽が激しく家では「明治生まれの暴君」として振る舞う宗一郎に反発、口もきかなくなる。反抗期ともいえるが、それが無限設立の頃まで続いたというから、「有名人を父に持つ辛さ」もあった。

 16歳でバイクの免許を取った博俊には「バイク仲間」ができ、ツーリング、モトクロスレースなどで青春時代を過ごす。当時の仲間には生沢徹、浮谷東次郎、林みのる、式場壮吉、徳大寺有恒という後のモーターレース界の錚々たるメンバーがいて、「ジャッキー」というあだ名の鈴木正士(レーサー鈴木亜久里の父)がリーダー的存在だった。

 日大豊山高校を経て日大理工学部に進学するが、肌に合わず芸術学部に転部、工業デザインを専攻し、工業デザイナーを目指すようになる。大卒後は米国への留学を決意、準備をしていた矢先に結核が発覚し、2年間の療養生活を余儀なくされた。その間、自宅で暇つぶしに作ったのが、ホンダS800をベースにした車の「神威」だった。

 ここから3年間、博俊の履歴書は空白となる。「世界を見て回ろう」と放浪の旅に出たのだった。結果として40ヵ国以上を放浪してから日本に戻るが、普通の人生コースは外れている。好きな自動車に絡む仕事に就きたいが、ホンダに入るという選択肢は最初からない。そんな時に友人の生沢が「日本には英国のコスワースのようなレース専門のエンジンメーカーがない。やらないか」と声をかけてきた。29歳の時である。

「エンジンは難しいぞ」

 相談すると宗一郎は一言そういった。ホンダを含む他の車関係の先輩や知人も同意見である。だが博俊は諦めず、'73年3月、無限を設立した。

 同じ年、ホンダは創立25周年を迎えた。宗一郎は表明していた通り同年10月に退任、会長のようなポストにとどまらず二代目社長を河島喜好に託して、「潔い出処進退」と話題になった。そして引退した「親父」を安心させたいというホンダ幹部の〝配慮〟から、ホンダは設立したばかりの無限にレース用エンジンの発注をするという〝暴挙〟を決断。ホンダと無限とのつきあいはこうして始まった。

ホンダが'92年9月に「F1の活動休止」を表明すると「F1の火を絶やしたくない」というホンダの要望を入れて、無限が設備増強、工場も新設してF1に参戦。ホンダ栃木研究所が無限に協力・支援することにもなった。F1の成績は最初こそ伸び悩んだが、モナコ・グランプリで優勝するなど都合4勝をあげている。これによって無限の名は世界的になった。

ホンダから送りこまれた男

 ただ財務は悪化する一方。というよりホンダの支援なしには立ち行かなかった。
無限再建計画は、'91年8月の「宗一郎の死」から早くも9ヵ月後に始まっている。「マルM(無限)計画」と名付けられ、無限はホンダからの支援の見返りに40%の出資を受け入れた。経営幹部を送り込まれ、実質的な支配下に置かれた。それでも無限の経営は改善しない。そんな中で博俊に積極的にかかわってきたのが、ホンダから監査役として送られてきた広川則男だった。

 博俊と同年齢。小柄だが、落ち着きがあって押し出しが強い。横浜国立大学卒業後にホンダに入社、二度の海外勤務を経験、ホンダフランスやイギリスのホンダファイナンスで要職を務めている。なによりホンダとの対立を深める博俊に理解を示し、協力を惜しまなかった。むろんそれも計算ずくだったのだが。

 広川が無限の社外監査役に就任するのは、'93年のことである。博俊は「しょせんホンダからの出向者」と思って接していたが、広川はうまく博俊の心の〝揺らぎ〟につけ込んだ。「ホンダから正当な評価をもらい、F1の業務委託費やその他のレース関連資金について増額交渉したらどうか」と博俊に勧めた。

 無限にいても顔はホンダの方を向いている役職者ばかりだったので、博俊にはありがたかった。しかも広川は口だけでなく、「ミニ事業懇談会」を開いて協力した。無限がホンダに〝不満〟を訴え、支援を要請する場である。実際、'96年2月19日にホンダ青山本社の会議室で開かれた「ミニ事懇」では、無限の累損解消、借入金の圧縮などといったことをホンダの協力の下で進めることになった。

 広川の〝努力〟が無限を救った—。こう感じた博俊はそれまで以上に広川を信頼し、ホテルのラウンジやレストランで会食を重ね、無限の経営やホンダとの確執のみならず、本田宗一郎記念館の建設構想、遺産相続など本田家のことまで相談するようになった。

 博俊はそこに「宗一郎と藤澤」の関係を思い浮かべていた。藤澤とは「本田宗一郎の女房役」と言われた藤澤武夫のこと。黎明期のホンダに入社して以来、設備投資、工場建設、売掛金回収といった経理・財務面をすべて仕切り、製造と技術に徹する宗一郎を支えた。

 ただ広川は藤澤とは違った。ホンダで30年以上も経理マンを務めてきた広川は、知識と知恵と人脈の限りを尽くして博俊を落としにかかったのだ。

「こちらはプライベートバンク(PB)のスペシャリストです」

 広川がレストランでそうKを紹介したのは、'96年3月末のことだった。30歳前後の派手ではないが美人のKは、その落ち着きで博俊を信用させた。PBとは富裕層向けの銀行のこと。語学から各国の金融税務の知識を有していなければならず、バンカーとしては商業銀行などより格上だ。

 しかし実はKはPBに勤めたこともなければ、金融知識すらない。都内の高校を'83年に卒業、事務系の専門学校を出てホンダに嘱託社員として入社し、プレス対応窓口で受付をやっていた。'89年に退社した翌年、渋谷のトータル・プランニングという会社に就職する。代表は広川の実父である恒鬼だが、実質的には広川の会社だった。

「チーム広川」はKだけではなかった。広川はパリで「元フランス政府高官」を名乗る仏人金融マンを博俊に紹介したし、意のままに扱える銀行員、国税OB税理士、ホンダOBなどを仲間に引き入れるだけでなく、他の無限の幹部を金銭で籠絡までしていた。

 そのうえで広川は博俊と確認書を取り交わす。'96年6月26日、ホテルオークラのコーヒーラウンジだった。博俊と広川が「共同」して様々な事業達成に向け鋭意努力し、誠意を持って対応することを確認したもの。「無限の事業構想及び戦略の提案と具体的実施・推進」などから「本田宗一郎記念財団の設立と運営」「ホンダ興産の吸収と相続税対策」までを含んでいた。

狙われた本田家の財産

 こうした文書が存在していることをもって、東京高裁は「記念財団」の設立や相続税対策が「共同」して行われていると判断し、博俊の脱税を認めた。だが脱税工作の果てに〝浮いたカネ〟は博俊のものになっていない。「チーム広川」は脱税事件で立件された28億円のほかに、さまざまな方法で博俊からカネを収奪している。

 例えば確認書にある「ホンダ興産の吸収と相続税対策」。ホンダ株を持つ本田家資産管理会社のホンダ興産は、79%の株を宗一郎夫人のさちが持ち、残りを博俊、長姉・恵子、次姉・允子が7%ずつ所有していた。広川は「三人の子の持ち分を博俊にまとめ、ホンダへの博俊の発言権を高めるとともに相続をシンプルなものにする」と提案した。

 そのために広川はチームメンバーの仏人金融マンを使い、仏銀行から61億円を借り入れさせ、姉たちに30億円を支払って相続税対策を済ませ、31億円をプール。その後31億円を引き出して、本田宗一郎スピリッツなる会社に入金、勝手に費消した。

 本田宗一郎スピリッツをはじめ、刑事、民事事件に登場する会社はほとんどが広川の〝所有物〟である。先ほどの「確認書」にあるように、広川はホンダ対策、本田宗一郎記念館建設、相続税対策の三つを請け負い、そのために本田宗一郎スピリッツ、ヒロ・コーポレーションといった会社を幾つも設立している。普通に考えれば本田家の会社であり博俊が代表のはずが、例えば登記地を変えて同じ社名の会社を2社設立したり、社名変更を繰り返すなどの手口で企業の正体を見えにくくし、実は自分のものだという事実を隠して本田家の資産を奪ったのだ。

 その実例が本田宗一郎記念館名目で信託銀行員に探させ、購入した二つの土地である。

 '00年3月27日、広川の会社であるラムジー(旧トータル・プランニング)は港区元麻布に約100坪の土地を購入、価格は3億5700万円だった。だが翌年の'01年2月20日、ラムジーはKに1億8000万円で売却、Kは約9000万円をかけて3階建ての豪邸を建てている。また'00年7月31日には港区の国道沿いの一等地約430坪をヒロ・コーポレーションが約25億円で購入、ヒロ・コーポレーションも広川の会社だった。

'11年5月9日、東京地裁の705法廷で博俊がKに対して起こしている民事訴訟の証人尋問が行われた。黒のスーツに黒メガネ。以前より少しふっくらした印象のKが、博俊側の弁護士に尋問された。Kは土地購入代金の8000万円(残りの1億円は事件発覚後のトラブルで遅れ、'07年3月に供託)と上物代金9000万円を'00年から'01年にかけてキャッシュで払っている。弁護士はその原資を聞いていた。Kは個人的な蓄えを自宅に置いていて、残りは金融債などの売却でまかなったと言う。

—お父さんが亡くなって20年以上もたって、給与取りのあなたが原告の仕事を手伝うようになって突然、元麻布の豪邸を持つことができたというのは、まるでシンデレラ姫のような話だと思うのですが、いかがですか。

「お父さん」というのは、相続した父親の遺産を手元(家)に置いていたと言ったためで、原告とは博俊のこと。Kは短く答えた。

「私はそうは思いません」

 Kがシンデレラ姫なら広川は何になるのだろうか。

 さいたま地検での取り調べは'03年3月28日から始まった。関東信越国税局の査察から一年半が経過しており、すでに広川を「主」、博俊を「従」とする検察のシナリオは出来ていた。

 さいたま地検3階の30代半ばの検事の部屋で、事情聴取が繰り返された。広川と共同でホンダを脅し、カネを出させ、脱税を計画した—。このシナリオ通りに供述させようとする。否認のまま、同年7月1日に逮捕、手錠をかけられ、裸にされて身体検査、地検隣の拘置所に移された。

 通路側に鉄製の厚いドアと食事の出し入れをする小窓。壁側にはプラスチック板で覆われ、鉄格子のついた窓がある。調度品は折りたたみのちゃぶ台が一つ。それに手洗い場とトイレ。この3畳半で博俊は9ヵ月を過ごした。

 法人税法違反の被告でここまで長く拘置所にぶち込まれることはない。裏を返せば、「脱税しました。申し訳ありません」と認めなければ、「詐欺横領」という別の事件構図が浮上、裁判所が博俊を被害者と認定するのが検察は怖かったのではないか。

検察の「野心」に応じた高裁

 たとえば合計12回43億5000万円のカネが、ホンダ→無限→エムジーエステート(本田家の資産管理会社)→HSSC(後に本田宗一郎スピリッツ)と流れ、時に還流、最終的にHSSCにホンダ(無限)のカネが26億2000万円も投じられた一件である。HSSCが広川の会社なのだから、脱税したのではなく収奪したと見るのが自然だろう。ただHSSCが広川の会社だとは思わなかったという博俊に対し、検事はこう断定するのだった。

「広川を簡単に信じたのはおかしい」

「おかしくないというならお前はバカだ」

 検事は頭ごなしに「脱税を認めろ」と言ったわけではない。主犯が広川だと承知しているが、「騙されたからといって無罪は通らない」と主張。早く罪を認めて、広川については後で「詐欺横領で訴えればいいじゃないか」とさえ言った。

 検事には著名人・本田宗一郎の息子を自白させたいという野心があった。さいたま地検にも「10億円の脱税」という久々に大きな事件を手がける高揚感があった。ただ博俊は落ちない。心が折れて「自白」と受け取れなくもない調書にサインはしたが、「広川の提案に乗りはしたが脱税を指示した覚えはない」という「直し」を入れ、結局否認。意地のぶつかり合いが、9ヵ月の長期勾留となった。

 結果的にさいたま地検は恥をかいた。42回の公判が開かれたうえで、さいたま地裁の下山保男裁判長は「無罪判決」を下した。「有罪率99・9%」の刑事司法の常識が覆ったのだ。

 しかし双方が控訴、検察側から新たな証拠や証人申請はなく、公判は博俊が裁判官質問を受けた1回だけだった。博俊弁護団に緊張が走る。裁判官質問は、「逆転有罪の際のセレモニー」ということがあるからだ。

 杞憂ではなかった。東京高裁の田中康郎裁判長は博俊を再び地獄に突き落とした。「被告人を懲役2年に処する」—。おそらく博俊には、長い判決文を読む裁判長が何を言っているかが理解できなかっただろう。判決文を読み返しても脱税する意図や意識があったとは書いていない。田中裁判長が言いたいのは、「脱税の内容は把握していなかったものの、脱税の了承はしていた」という一点。そこを突き、「有罪率99・9%」の神話を守ったのだ。

 後は最高裁に託すしかなかったが、憲法問題などに触れるものでない限り、最高裁が高裁判決を覆すことはない。無為の3年半、生殺しのような期間を経て、ようやく服役。未決勾留が長いため仮釈放は早そうだが、来年4月12日の70歳の誕生日は刑務所で迎えることになりそうだ。

「博俊さんが拘置所内にいた時は、気候がいいせいもあってよく眠れて、快適だったということでした。本当に封筒などの『袋貼り』をやっていてビックリしたのですが、単純軽作業で余計なことを考えさせないということでしょう。刑務所で規則正しい生活を送り、一日も早く出所したいはずです。家族や仲間は、来年5月頃を期待しています。

 彼が出所してから取り組みたいのが、司法制度にモノ申すこと。自分の名誉回復はもちろん、苦労して初めてわかった日本の司法制度の歪みを訴えたい。そのためには私財を投げ打つ覚悟です」(博俊の知人)

 1年は長いようで短い。残りの人生を懸けて司法制度と戦うという本田博俊の反撃に注目したい。

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Posted at 2013/01/19 13:28:26

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