前回明らかにしたように日本の木版画家、川瀬巴水は日帝強制占領期間に我が国を訪問して「朝鮮
八景」を木版画で残した。今日紹介する<牡丹峰(モランボン)浮碧樓(プビョクル)>はその中の一点だ。
暗雲がいっぱいの空から雨が降る。そんな雨が降る大同江(テドンガン)では船頭が艪を漕いで、清
流絶壁の上、浮碧樓では韓服を着た二人が大同江を眺めて話をしている。
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▲川瀬巴水<牡丹峰浮碧樓>茶色木版画42.5×29cm
この作品は表現技法と色彩が典型的な日本版画技法に忠実だ。しかし私はこの版画を見るたびに川
瀬巴水が日本画家なのに当時、私たちの民族の悲しみと痛みを深く洞察していたし、そのような理解
の中でこの版画を作ったという考えを消すことができない。浮碧樓には私たちの民族の歴史が宿って
おり、川瀬巴水は訪問当時、水原華紅門、智異山泉隠寺まで訪ねて行くほど我が国の文化と建築物
に関心を持っていたので、浮碧樓の歴史に対してもある程度知って訪ねたのだろう。だからこそ浮碧
樓を単純な風景画でなく歴史の深さが込められた文化遺産として表現できたのだろう。
浮碧樓は高句麗広開土大王3年(393年)永明寺の付属建物で建てられたが12世紀に浮碧樓に改名
され、礎と石段の一部は高句麗時代に作られたもので今の建物は光海君6年(1641年)に再建された
ものだ。(中略=楼閣の説明)
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▲伝キム・ホンド<浮碧樓宴会図>部分図(国立中央博物館所蔵)
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▲伝キム・ホンド<浮碧樓宴会図>部分図の一部拡大図
朝鮮時代、浮碧樓でくり広げられた宴会を絵画に移したこの絵は、当時の平安監司の威勢をよく見せ
ている。単元キム・ホンド(1725~1806頃)が描いたと伝えられるが、絵の幅が2メートルを越える大作
で一人で描いたと見るには無理があり、彼の画風と違った部分もあって、名前の前に「そのように伝え
られる」という意味の「伝」を付けた。
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▲日帝強制占領期間の実際の浮碧樓
華々しい「過去」を持つ浮碧樓だったが、朝鮮王朝が歴史の中に消えて、その栄華も共に消えた。川
瀬巴水はこういう姿の浮碧樓を見た。恐らく虚しい心情であったかも知れない。いや、この姿では絵に
ならないと判断したのだろう。それで彼は下に降りて船に乗って浮碧樓を望む綾羅島(ヌンラド)に行っ
たのだろう。雨は降らなかったかも知れない。ただし、暗雲がいっぱいで朝鮮の空と朝鮮の人の胸中
に降る雨を描きたかったのかもしれない。
それなら雨に降られて艪を漕ぐ船頭も書き込もうと。朝鮮人が風雨と荒々しい川の水を破って独立の
その日に向かって進むことを願う心を現わすために。そしてそのような気持ちで浮碧樓の上に白い外
套を着た朝鮮人二人を描いたのではなかっただろうか想像してみる。もし川瀬巴水にそのような心が
なかったとすれば、前回紹介した2つの版画でも白い服を着た人々を強調しなかっただろう。彼が私
たちの民族と文化を愛情を持って眺めようと努力したという推定は、下に紹介する<朝鮮の高尚な人>
でも確認することができる。
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▲川瀬巴水<朝鮮の高尚な人>茶色木版画43x30.5cm
イ・チュンニョル
ソース:(韓国語) 日画家の切ない朝鮮愛?
http://www.jpnews.kr/sub_read.html?uid=845§ion=sc53§ion2=%EC%9D%B4%EC%B6%A9%EB%
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妄想乙w
Posted at 2009/07/10 23:17:31 | |
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