ポルシェファンの方々、長らくお待たせしました~^^;
欧州自動車博物館巡りの旅 オートワールド編は、いよいよ2013.12/6~2014.1/19までここオートワールドで行われていた企画展“FERDINAND PORSCHE THE HERITAGE FROM ELECTRIC TO ELECTRIC”をレポートしていきます♪

今回の“欧州自動車博物館巡りの旅”を実行するきっかけになったのは、実はポルシェミュージアムでもプロトタイプミュージアムでもなくこの企画展でした。まぁ、期間限定開催ということもあって「いかなくちゃ!(笑)」となった訳ですが・・・^^;
何を隠そうこの企画展、この開催時期だけはシュトゥットガルトの本家ポルシェミュージアムも顔負けのラインナップがヨーロッパ中から集められているのだから正に圧巻です!!
特筆すべきは戦前にDr.フェルディナント・ポルシェが開発したクルマ達です。これらのクルマは、ポルシェが自動車製造会社となる以前のため、その時々にDr.フェルディナント・ポルシェが所属していたり、設計依頼されたりしたメーカー自身の歴史でもあり、なかなか一堂に会することは難しいのですが、この企画展ではそんな戦前の素晴らしいクルマ達の多くが集められ珠玉のポルシェワールドを造りだしていました。
ちなみに、このポルシェ展のサブタイトルにもなっている“FROM ELECTRIC TO ELECTRIC”を体現しているのが、この展示↓

この2台、実はどちらもハイブリッドカーなのです!!
今回はオートワールド特別編①として、大きく3つのステージに分かれて展示されていたポルシェ展の1ステージ目(主にDr.フェルディナント・ポルシェが開発したクルマ)を中心にレポートしていきます。(お察しの通り長編なので(笑)、お時間に余裕のある時にお楽しみください^^;)
1901年 ローナー・ポルシェ ミクステ・ハイブリッド(LOHNER PORSCHE MIXTE HYBRIDE)

もともと電気分野に興味のあったフェルディナント・ポルシェの技術者人生のスタートは電気機器メーカーでした。そこで既に特許を取得していたハブモーター(インホイールモーター)の技術とガソリンエンジンを組み合わせたハイブリッドカー“ミクステ・ハイブリッド”を開発しました。

このクルマは、ダイムラー製のガソリンエンジンで発電し、その電気エネルギーで2.5馬力のハブモーターを駆動するいわゆる“シリーズハイブリッド”方式だったようです。
これが前輪に内蔵されたハブモーター。
後端にはエキゾーストパイプが備わることからエンジンが搭載されていることが分かります。
量産ハイブリッドカーの代名詞というと“21世紀に間に合いました!”のキャッチコピーでデビューした“PRIUS(プリウス)”が有名ですが、ハイブリッドカーのアイディア自体は20世紀初頭に、既にフェルディナント・ポルシェによって実現していました。
自分は、ポルシェが現行のポルシェ製ハイブリッド車にこの“ミクステ”の名称を与えないのをずっと不思議に思ってますが、商標権かなにかの関係でもうとられてしまっているのでしょうか。“パナメーラS ミクステ・ハイブリッド”なんて、歴史とモダンの融合で正にポルシェらしい名称と思うんですけどね^^;
1910年 オーストロダイムラー ADM プリンツ ハインリッヒ(AUSTRO DAIMLER ADM PRINZ HEINRICH)

このクルマは、フェルディナント・ポルシェがオーストリアのオーストロダイムラー社の技術部長を務めていた1910年に開催された“ハインリッヒ皇太子レース”出場を目的に造られたクルマで、このレースはポルシェ自身のドライビングで見事優勝を飾っています。

パワーユニットは2,010cc,20馬力の直列4気筒エンジンを搭載し、空力的なチューリップ型の専用ボデーが搭載されました。
1922年 オーストロダイムラー ADS R“サッシャ”(AUSTRO DAIMLER ADS R“SASCHA”)

このクルマは
ポルシェミュージアム前編でも取り上げた通称“サッシャ”と呼ばれるレースカー。このクルマもフェルディナント・ポルシェがオーストロダイムラー時代に開発したクルマで、1922年のタルガフローリオ出場を目指して4台が開発されました。
製作された4台にはそれぞれトランプのスペード、クラブ、ハート、ダイヤが描かれたようですが、ポルシェミュージアムの展示車両は“スペード”だったのに対して、この個体には“クラブ”が描かれています。
また、ポルシェミュージアムの個体はボデー色は白でオープンホイールだったのに対して、この個体は赤で更にヘッドライトやフェンダー等の保安部品が装着されてクルマ自体の印象も大きく異なっています。

この“サッシャ”はレース車両的な清い設計のクルマでありながらトランプマークで個体を区別していたりと洒落の効いたデザインで、個人的に好きなクルマの1台です。
1929年 オーストロダイムラー ヒルクライムレーシングカー(AUSTRO DAIMLER HILL CLIMB RACING CAR)

このクルマは、レーシングドライバーのハンス・シュトゥックのためにオーストロダイムラーの“ADRⅢスポーツ”をベースに製作したヒルクライム用のレースカーだそうです。

パワーユニットは、2,998cc,100馬力の直列6気筒エンジンを搭載して、最高時速150km/hを実現しました。
1934年 オーストロダイムラー ADR ベルグマイスター カブリオレ(AUSTRO DAIMLER ADR BERGMEISTER CABRIOLET)

フェルディナント・ポルシェがオーストロダイムラーに在籍していた時期に開発された“ADR”は、1934年のオーストロダイムラー社とシュタイアー社との合併まで生産が続けられました。
この展示車両はその“ADR”をラグジュアリーで高級志向のカブリオレに仕立てたモデル。3.6リッター,120馬力の直列6気筒エンジンを搭載していました。
1924年 メルセデス モンツァ 2L(MERCEDES MONZA 2L)

1923年にダイムラー社(“メルセデス”はダイムラー社の商標名)で開発が進められていたレーシングカーですが、トラブルが多い失敗作だったようです。フロントのラジエーターグリル上部に“メルセデス”のトレードマーク“スリーポインテッドスター”が2つ付いていることが確認できますね♪

この当時、取締役会との意見の相違でオーストロダイムラー社を去ったフェルディナント・ポルシェは、ドイツのダイムラー社に技術担当役員として迎えられました。ポルシェは、このレーシングカーを改良てし1924年のタルガフローリオに出場し、見事クリスチャン・ヴェルナーのドライブで優勝を遂げています。
1928年 メルセデス ベンツ 720 SSK(MERCEDES-BENZ 720 SSK)

ダイムラー社は1926年にベンツ社と合併してダイムラーベンツ社となりました。ダイムラーベンツ時代のポルシェの最高傑作とも言えるモデルが“Sシリーズ”です。
この展示車両は“S”→“SS”と進化してきたSシリーズの2シーター(ショート)ヴァージョン“SSK”で、名称は“Super Sport Kurz(スーパースポーツ ショート)”に由来しています。

7,069ccから300馬力を発揮する直列6気筒エンジンを搭載して、最高速度190km/hを実現していました。SSKは、ポルシェがダイムラーベンツ社を去った後も、当時のメルセデスのワークスドライバー ルドルフ・カラチオラのドライブで当時のスポーツカーレースの世界でも活躍しました。また、日本において“SSK”は、アニメ“ルパン三世”のルパンの愛車としても有名ですね♪
1936年 ヴァンダラー W25K ロードスター(WANDERER W25K ROADSTER) & 1934年 アウディ フロント UW カブリオ(AUDI FRONT UW CABRIO)

1932年、ホルヒ,ヴァンダラー,DKW,アウディのドイツの自動車会社4社は、当時台頭してきた外資系のフォード社やオペル社(GM資本)に対抗するべく、自動車連合“アウトウニオン(Auto Union)”を設立しました。
この頃(1929年)、ポルシェは自身が推し進めていた小型車導入案を取締役会で否決されたことに反発して、ダイムラーベンツ社を去っています。その後、ポルシェはオーストリアのシュタイアー社に着任するも、間もなくしてシュタイアー社はポルシェがかつて取締役会で揉めて飛び出したあの“オーストロダイムラー社”と合併することになりました。
この一件からポルシェは独立を決意し、シュトゥットガルトに“ポルシェ設計事務所”を立ち上げました。ポルシェ設計事務所は手始めにヴァンダラー社向けの2リッター直列6気筒エンジン搭載モデルを開発しました。

また、この2リッター直列6気筒エンジンは後にアウディの“フロント UW”↑にも搭載されたようです。
1934年 アウトウニオン GP タイプA シングルシーター(AUTO UNION TYPE A GP SINGLE SEATER)

当時、ポルシェ設計事務所はアウトウニオンのレーシングカーの開発も手掛けていました。いわゆる“750kgフォーミュラ”規格で開発されたこのマシンはポルシェの頭文字をとって“P-wagen(P-ヴァーゲン)”と呼ばれました。
当時の強豪グランプリカーが直列8気筒のフロントエンジン・リヤドライブであったのに対して、この“P-wagen”は4,358cc,295馬力のV型16気筒エンジンを前後重量バランスの最適化を狙いミッドシップに配置されました。この“P-wagen”でのミッドシップマウント採用は、後のレーシングカーの設計に大きな影響を与えました。

“P-wagen”は、このタイプAに始まり最終的にはタイプDまで年々改良され、戦前のグランプリにおいて、アルファロメオやブガッティ、そしてメルセデスと死闘を繰り広げました。
1937年 アウトウニオン V16ストリームライナー(AUTO UION V16 STROMLINEN WAGEN)

グランプリにて圧倒的な強さを誇ってきたアウトウニオン“P-wagen”は、1938年のレギュレーション変更で事実上の締め出しを受け、以降は主に最高速速度記録用に使われました。
展示車両はアウトウニオン GP タイプCをベースに、ポルシェ設計事務所のエンジニア エルヴィン・コメンダの手による空力的な“ストリームライナー”形状のボデーを纏っています。

当時、アウトウニオンとメルセデスは速度記録用のストリームライナーでアウトバーン上での最高速度記録を競っていました。アヴス,デッサウ,フランクフルト‐ダルムシュタット間など、ドイツ各地で行われたアウトウニオンのエースドライバー ベルント・ローゼマイヤー対メルセデスのエースドライバー ルドルフ・カラチオラの対決は、1938年ベルント・ローゼマイヤーの事故死という最悪のカタチで終結することになりました。
レコードブレイカー(速度記録車)には目がないボクは、このアウトウニオンのストリームライナーも、もちろんお気に入りです。個人的には、エンジンの駆動をきちんとタイヤで路面に伝えて実現する速度だからこその最高速度記録だと考えているので、近年のジェットエンジンの推進力を利用したレコードブレイカーに比べ、この時代のレコードブレイカーはある意味健全だと言えます。
1937年 フォルクスワーゲン ビートル プロトタイプ V30(VOLKSWAGEN BEETLE PROTOTYPE V30)

フォルクスワーゲン計画(国民車構想)は、大量生産を始める前に30台の試作車両を製作しました。それがこの“V30”と呼ばれるシリーズで、この30台はダイムラーベンツ社で製作されました。
市販モデルと比較して、ヘッドライト形状やルーフのプレスライン、スーサイドドア、そしてリヤウインドウの有無などに相違点が見られます。

個人的に、このリヤスタイルは当時最新の空力理論“ヤーライ理論”を体現していてかなり好みです^^;
展示車を通して、Dr.フェルディナント・ポルシェの半生を振り返ってきたオートワールド特別編①は以上になります。

ポルシェ展特集でありながら、今回はポルシェ車の全く出てこないポルシェ特集(笑)でしたが、この当時のドイツ及びオーストリアの自動車産業に与えたポルシェの影響は多大で、メルセデスもアウディ(アウトウニオン)もフォルクスワーゲンも何らかのカタチでポルシェの影響を受けて今日があることが見受けられる興味深い内容だったと思います。
この時代のクルマに目がなく、更にフェルディナント・ポルシェ特集ということで、かな~り熱く語ってしまいました(笑)が、最後まで読んでいただきありがとうございますm(_ _)m
次回は、オートワールド特別編②として、Dr.フェルディナント・ポルシェの開発した1930年代以降のクルマと356に始まるポルシェ車についてレポートします。