こんにちは!引き続き、欧州自動車博物館巡りの旅は“ムゼオ・ミッレミリア編 パート2”をお送りしたいと思います。今回は、戦後1947年より再開されたミッレミリアの結果と展示車についてレポートしていきます。
そして、1年以上更新してきたこの“欧州自動車博物館巡りの旅2013⇒2014”ですが、今回が最後になります。
(※ムゼオ・ミッレミリア後編に追加して、宿を取ったミラノの模様もちょい足ししているため、いつも以上にボリューミーかもしれません!!お時間に余裕のある時にご覧ください・・・^^;)
まずは、再開された1947年大会から
1947年大会はエミリオ・ロマーノ/クレメンテ・ビオンデッティ組の“Alfa Romeo 8C 2900B”が優勝と、戦前に引き続きアルファロメオが勝利を収めています。
1948年大会はクレメンテ・ビオンデッティ/ジュゼッペ・ナヴォーロ組の“Ferrari 166S”が優勝しています。フェラーリの創業は1947年なので、ジョアッキーノ・コロンボ設計のV型12気筒エンジン“コロンボ・ユニット”を武器に、創業の翌年にはミッレミリアを制覇したことになります。
こちらは、1940年代のレーシングスーツとドライビングシューズの展示。550もこんなレーシングスーツに革ヘル&ゴーグルで乗りたいですね♪
1948年 フィアット 1100S MM(Fiat 1100S MM)
フィアットはミッレミリア制覇を狙って、“フィアット1100”をベースにエンジンに手を加え、空力的なボデーを架装したこの“1100S MM”を製作しました。名称に付けられた“MM”は、当然“Mille Miglia(ミッレミリア)”を意味しています。
車両解説によると、この車両は1948年と1949年、そして1953年に、ロリーノ(Rollino)親子がミッレミリアに出場させた個体のようです。また、1988年の復刻版ミッレミリアにもロリーノ家によって出場したようで、親子3代にわたって“Fiat 1100S MM”をミッレミリアで走らせたとあります。
やはり、40~50年代のレース用ベルリネッタ(クーペ)は屋根後端からテールにかけて“すぼまり形状”の流線型をしていて、大なり小なりパウル・ヤーライの提唱した空力理論の影響が見てとれます。
1938年 フィアット 500B トッポリーノ フルゴンチーノ(Fiat 500B Topolino Furgocino)
前回にも登場した“フィアット 500 トッポリーノ”から派生したフルゴネット(カーゴ)タイプが、このモデルです。
“ASSISTENZA Mille Miglia(アシステンツァ ミッレミリア)”とあるので、ミッレミリアのアシスタントカーのようです。
1956年 オースティン ヒーリー 100/M(Austin Healey 100/M)
イギリスのラリードライバーであり、エンジニアでもあったドナルド・ヒーリーがオースティン社の“A90 Atrantic”のシャシをベースに製作したロードスターです。
この展示車両の“100/M”は、1953年のルマン24時間耐久レース用に90馬力から115馬力にアップグレードされた2,621ccの直列4気筒ユニットを搭載したモデルで、1956年までに640台が製作されました。
オースティン・ヒーリーというと、典型的なブリティッシュ・オープンスポーツの1台ですが、この個体は赤×黒ツートーンの塗り分けからか、“カロッツェリア・トゥーリング”や“ザガート”などの、イタリアのカロッツェリアで造られたバルケッタのような印象を受けるのが面白いですね^^;
1955年 オスカ MT4(O.S.C.A. MT4)
OSCA(オスカ)は、“Maserati(マセラティ)”を創立したエルネスト,エットーレ,ビンドのマセラティ兄弟が、経営難から“マセラティ”をモデナの実業家アドルフォ・オルシに譲渡した後(譲渡契約により10年後)、1947年に立ち上げたスポーツカーメーカーです。
“MT4”はオスカが製造した最初のクルマで、当初はフィアットのエンジンをベースに造られたマセラティ製の1,092cc,72馬力の直列4気筒エンジンを採用していましたが、1950年には新設計のDOHCユニットを採用し、1953年にこのエンジンは1,453cc,110馬力までアップグレードされました。
この展示車両は、1957年にランベルト・ジェロージによってミッレミリアに出場した個体のようです。“MT4”というとフロントに丸形のグリルを備えているモデルが有名ですが、この個体はフロントノーズが“マセラティ 200S”やフェラーリの“TR(テスタロッサ)”系のような造形をしているのも特徴的ですね♪
1949年大会はクレメンテ・ビオンデッティ/エットーレ・サラーニ組の“Ferrari 166 MM”が優勝。
1964年 - 1965年 ポルシェ 356 SC(Porsche 356 SC)
ポルシェが1948年に初めて製造したロードカー“356”。車両解説がないので詳細は不明ですが、356としては最終型と言える通称“T-6”ボデーを採用した356SCのようです。
厳密にいうと、この“T-6”ボデーの採用は1960年代に入ってからなので、ミッレミリアには出場していませんでしたが、それ以前の“356 Pre A”や“356A”はミッレミリアに出場していました。そういった意味もあって、この“356SC”は特別展示的な扱いなのかもしれません。
バンパーレスでカフェレーサー風の外装もさることながら、室内にも太めのロールケージを装着するなど、良い雰囲気に仕上げられています♪
1950年大会はジャンニーノ・マルゾット/マルコ・クロサーラ組の“Ferrari 195S”が優勝し、フェラーリが3連勝を記録しています。
1953年 モレッティ 750 スポルト(Moretti 750 Sport)
戦前にオートバイ用のエンジン製造で名を挙げたジョバンニ・モレッティ(Giovanni Moretti)は、戦後トリノで自動車製造を始めました。
この“750スポルト”は、自社製の748cc,75馬力の4気筒ツインカムエンジンを搭載したバルケッタのようです。
モレッティ750については“オートワールド編 part3”で、クーペボデーの“750 グランスポルト”を紹介しましたが、こちらはオープンボデーのバルケッタとなっています。
ややポンツーン形状のフロントフェンダーやサイドのエキゾーストに沿った切れ込みなど、クーペとは異なる造形がこのクルマの性格を物語っていますね。
競技用と割り切った作りなのか、よく見ると助手席側にはドアも設けられていないようです^^;
1951年大会はルイージ・ヴィロレーシ/パスカル・カッサーニ組の“Ferrari 340”が優勝し、フェラーリとして4連勝をあげています。また、前年優勝の“195S”がジョアッキーノ・コロンボ設計の小排気量(2.3リッター)V12を搭載していたのに対して、“340”はアウレリオ・ランプレーディ設計の大排気量(4.1リッター)V12ユニット通称“ランプレーディ ユニット”を搭載していました。
1954年 マセラティ A6 G2000(Maserati A6 G2000)
“A6”は、1947年から1956年にかけて製造された、直列6気筒エンジンを搭載したマセラティのクーペ及びスパイダーで、この“A6 G2000”は3基のウェーバーを備えた1,985ccのパワーユニットから150馬力を発揮したそうです。
マセラティA6は様々なカロッツェリアでボデー架装が行われましたが、展示車両には“Zagato(ザガート)”製のボデーが架装されています。
1951~1958年 ランチア アウレリア B20GT(Lancia Aurelia B20GT (V Seria))
“アウレリア”は、ランチアが戦後初めて開発したクルマで、戦前にアルファロメオで数々のグランプリカーを設計するなどの手腕を発揮していた天才エンジニア ヴィットリオ・ヤーノ主導のもと開発されました。
当時のランチアは、革新的なエンジニアリングで知られるメーカーで、この“アウレリア”でも、世界で初めて市販車にV型6気筒エンジンを採用したほか、トランスミッションとデファレンシャルを一体化してリヤに搭載するトランスアクスル方式も採用されていました。
1952年大会はジョバンニ・ブラッコ/アルフォンソ・ロルフォ組の“Ferrari 250S”が優勝し、フェラーリ4連勝を挙げています。3位には前述の“Lancia Aurelia B20”が入賞していますね♪
また、この年から小排気量クラスにポルシェ“356”や“356 SL”、ルノー“4CV”、パナールなどが入賞しはじめ、イタリア車一強だったミッレミリアから、国際的なレースとしての土壌が確立されてきていたようにも感じられます。
1952年 シアタ ダイナ グランスポルト 1400(Siata Daina Gran Sport 1400)
シアタ社は1926年にトリノに創業したメーカーのようです。シアタは1950年代に“フィアット1400”のコンポーネントをベースに、カロッツェリア・ボアーノ(Boano)でデザインされ、スタビリメンティ・ファリーナ(Stabilimenti Farina)で製造されたオリジナルのボデーを架装した、この“グランスポルト(Gran Sport)”と“グランスポルト スパイダー(Gran Sport Spider)”を製造しました。
個人的には、550のサイドウインドー製作時に苦労した、この↓巻き上げ式でないプレクシーグラス製の分割式サイドウインドがとても気になりました。50年代でコンペティティヴな雰囲気を出すにはやはり、このスタイルか・・・^^;
ちなみに、前半分がスライドする機構のようです。
1953年大会もジャンニーノ・マルゾット/マルコ・クロサーラ組の“Ferrari 340 MM”が優勝。フェラーリ5連覇と戦後のミッレミリアにおいて、フェラーリが圧倒的な強さ誇っています。
1954年 マセラティ A6 GCS/53(Maserati A6 GCS/53)
マセラティが、スポーツカーレースの世界選手権に向けて開発したクルマで、“GCS”の“CS”はCorsa & Sport(コルサ&スポルト:競技用、及びスポーツ走行用)を意味していました。
前述の“A6 G2000”の項でも記した1,985ccの直列6気筒ユニットは、170馬力まで高められ、1953年~1955年までの間に52台(スパイダー:48台,ベルリネッタ:4台)が造られたようです。
フロアの左右に2本通る太い鋼管フレームを基本にして、残りは細めの鋼管で骨組みを組み上げていく構造が、50年代当時のレース車両のセオリーで、明らかにロードゴーイングカーではないことが分ります♪
1947年 フィアット 1100 スタンゲリーニ(Fiat 1100 Stanguellini)
スタンゲリーニ社は、イタリアのモデナを本拠地として活動した自動車メーカーで、主にフィアット車をベースとしたレース用車両の製造を手掛けていました。
この展示車両も車両解説がスペックしか書かれていないのですが(汗)、フィアット1100をベースにして製作されたレース用バルケッタのようで、1,089cc,72馬力の直列4気筒エンジンを搭載し、車重は460kgに抑えられていました。
大型グリル内に収められたヘッドランプといい、リヤセクションのヤーライ理論的な独特の造形といい、この時代に数多生まれた“イタリアの虫”の中にあって、スタンゲリーニのクルマは空気力学を強く意識していたように思われます。
1954年大会は、アルベルト・アスカーリのドライブする“Lancia D24”が優勝しています。注目すべきは、総合6位にハンス・ヘルマン/ヘルベルト・リンゲ組の♯351ポルシェ“550”が入賞し、“S1500”クラスのクラスウィナーとなっています♪
1954年 チシタリア 202SC(Cisitalia 202SC)
チシタリアは、イタリアの元レーシングドライバーで実業家でもあったピエロ・ドゥシオが立ち上げた自動車メーカーで、1947年にはポルシェ設計事務所にミッドシップ4WDのGPカー“Typ 360”の設計を依頼したことでも知られています。
この“202 SC”は、フィアット製の1,089cc,60馬力の直列4気筒エンジンを鋼管スペースフレームに搭載し、ボデーはカロッツェリア“ピニンファリーナ”の手によるハンドメイドのアルミニウム製ボデーが架装されました。
また、この美しいピニンファリーナのデザインが、ニューヨーク近代美術館(MoMA)から“動く彫刻”と評され、自動車として初めて永久展示されることになったことも、このクルマにおける重要なトピックと言えるでしょう。このリヤビューの造形なんか、本当に美しいですね^^;
思わずチシタリアにウットリしていると、スタッフが「今日はニューイヤーイヴで14時閉館だから、下のフロアもあるから早く見て周った方がいいわよ!」と、わざわざ教えに来てくれました^^;
14時ってあと、15分しかな~い・・・涙
では、最後のセクションをサクッと?見ていきましょう!
1954年 キーフト 1100 スポーツ CS(KIEFT 1100 SPORT CS)
イギリス人のシリル・キーフトが、倒産したF3レースカー製造会社“マーウィン(Marwyn)”を買い取る形で、立ち上げたのがキーフト社(Kieft Cars)だそうです。
このクルマは、キーフト社が1954年に開発した2シータースポーツカーで、1,098ccのコヴェントリー・クライマックス“FWA”ユニットを搭載していました。
1955年大会は、スターリング・モス/デニス・ジェンキンス組の“Mercedes Benz 300SLR”が優勝しています。この300SLRは、平均速度157.65km/hの大会新記録を記録し、ゼッケンNo.の“722”とともに伝説となりました。
1953~1957年 バンディーニ 750 スポルト インテルナツィオナーレ(Bandini 750 Sport Internazionale)
バンディーニ社(Bandini Automobile)は、イタリアのフォルリ出身のエンジニア及びレーサーであったイラリオ・バンディーニが立ち上げた自動車メーカーです。
この“750 スポルト インテルナツィオナーレ”は、1953年~1961年の間に製造されたレーシングカーです。アメリカのクロスレー(Crosley)社の749cc直列4気筒をベースに、バンディーニオリジナルのツインカムヘッドを装着した72馬力のパワーユニットを、当時の航空機技術に由来する特殊鋼を用いた楕円鋼管スペースフレームに搭載して、車重330kgを実現していたようです。
1957年 ロータス 11 ルマン(Lotus 11 Les Mans)
ロータス11は、ロータスが1956~1958年まで製造していたレーシングカーで、コーリン・チャップマン設計の鋼管スペースフレームに、後に“マーコス”や“コスティン・ネイサン”などでも知られる航空機設計者フランク・コスティンのデザインした空力ボデーを備えていました。
この展示車両は最上位ヴァージョンの“Les Mans(ルマン)”で、1,098cc,100馬力のコヴェントリー・クライマックス“FWA”ユニットを搭載して、最高速度は230km/hに達していました。
航空力学由来ということで、基本的には“空気を受け流すカタチ”ですが、フランク・コスティンの設計する空力ボデーは、尻すぼまりのヤーライ理論とは一線を画した独特のふくよかな形状が特徴的ですね^^;
1954年 アストンマーティン DB2(Aston Martin DB2)
DB2は、アストンマーティン・ラゴンダ社が1950年に発表したスポーツカーで、アストンマーティン社の経営権が、ラゴンダ社とともにイギリス人実業家デイビッド・ブラウンの手に渡ってから2番目のモデルになります。以降のアストンマーティン車には、デイビッド・ブラウンの頭文字をとった“DB”が冠されることになりました。
パワーユニットは、ロールスロイスのベントレー買収によってロールスロイス上層部への不満からラゴンダ社に移籍していたウォルター・オーウェン・ベントレー(W.O.Bentley)設計の2,580cc,125馬力の直列6気筒ユニットが搭載されました。
1920年代のルマン連勝で知られるベントレーの栄光が、W.O.ベントレーとともにラゴンダ、そしてアストンマーティンへと受け継がれているのが興味深いですね♪
1956年大会及び、1957年大会のパネル展示が見当たりませんでしたが(見逃したかな・・・)、1956大会はエウジェニオ・カステロッティのドライブする“Ferrari 290 MM”が、
1957年大会は、ピエロ・タルッフィのドライブする“Ferrari 315 S”が、それぞれ優勝しています。
この年、ミッレミリアで大きな悲劇が起こりました。ゴールのブレシアまで約40kmの地点で、4位を走行していたスペインのアルフォンソ・デ・ポルターゴ侯爵のドライブする“Ferrari 335S”が、タイヤバーストが原因でクラッシュしてしまいます。この事故により、ポルターゴ伯爵自身とコドライバーのエドモンド・ネルソン、そして沿道の観客10名が死亡するという大惨事となりました。この事故を受けて、イタリア政府は、次年度からのミッレミリアの中止と、オープンロードを使用した公道レースの禁止を発表し、1927年から続いたミッレミリアの歴史は幕を下ろすことになりました。
ムゼオ・ミッレミリア(Museo Mille Miglia)のレポートは以上になります。車両解説はもう少し充実させてほしいですが、“世界で最も美しいレース”と言われた伝説の公道レース“Mille Miglia(ミッレミリア)”の世界を堪能できる素晴らしいミュージアムです。
これで、今回の“欧州自動車博物館巡りの旅”の予定すべて終了です。ムゼオ・ミッレミリアを後にして、年の瀬のミラノを目指します。
途中でこんな↑アルファロメオ ジュリアと遭遇したり、
E11欧州カローラ 3ドアハッチバックも、まだまだ走っています。
ミラノ市内に入りました。ミラノ市内は停められるところは路駐でいっぱい^^;
ちなみに↑のクルマはセアト イビーサ(SEAT IBIZA) 3ドアハッチバックです。
いかにも“ミラノ”といった感じの街並み。今夜はミラノのユースホステルに宿を取りました。
ミラノのユースホステル“ピエロ ロッタ(Piero Rotta)”に到着しました。ユースホステルは会員であれば、安価(欧州では20~30ユーロ程度)に泊れるドミトリー(相部屋)の宿です。ここのユースも、ミラノに来た際によく泊りました。
ロッカーに荷物を預け、ミラノ市内の散策に出かけます。ニューイヤーイヴなので人々は浮足立っていますが、たいていのお店はやっていません!爆
ミラノに来たら是非とも寄りたい自動車専門書店↓“Libreria dell'automobile(リブレリア・デ・ロトモビル)”も行ってみましたが・・・
やってませんでした^^;
ここは、ミラノのドゥオモ(Duomo)からメトロ(1号線)で2駅のPalestro駅を地上に出た所にあります。ボクも10年前に1度だけ入ったことがありますが、店内が世田谷時代の“リンドバーグ”のような雰囲気で、世界中の自動車書籍が所狭しと売られています。当時のボクは、レコードブレーカー(速度記録車)のストリームライナー形状への興味が強かったので、速度記録車について書かれた専門書籍を買った覚えがあります。
折角なので、ドゥオモまで歩いていくことにしました。
途中でボクスター(986)と911カブリオレ(997)に遭遇。
バイク用の駐車枠に無理やり停めているルノーのEV“トゥイジー(Twizy)”を発見^^;
ドゥオモ広場に到着しました!
ドゥオモ前には大きなクリスマスツリーも鎮座し、新しい年(2014年ですが・・・汗)を迎えようとしています。
年越しをドゥオモ広場で迎えたいところですが、翌日にはイタリアを出国するため、街歩きもそこそこにユースに戻り、荷物整理をしなければなりません!
思い出も、お土産もいっぱい・・・^^;
ヨーロッパの年越しは“花火”というのが定番のようで、ユースの近所でもそこここで、ドンパチドンパチ上がっています。
年が明けて約1時間後、「アグーリ!(←イタリア語で、あけおめ!の意)」と同じ部屋の宿泊客が帰ってきました!
彼はマルコというイタリア人で、聞けばユースの最寄り駅のもう1つ隣の駅からドゥオモまではメトロが動いているとのことだった。英語と片言のイタリア語で色々と日本のこと、イタリアのことについて話したが、こういう出会いも旅の醍醐味だったりするので、やっぱり最後はユースに泊って良かった^^;
2014年 1月1日 早朝
いよいよ、旅の相棒メガーヌともお別れする時が来ました。ミラノ市内で給油して、ミラノ中央駅のEuropcarにメガーヌをチェックイン。
最後の給油は、南仏のエズからミラノまで537.8kmを走り28.97リッターの軽油を飲み込んだので、燃費は18.56km/Lとなりました。相変わらず燃費いいですね♪
シュトゥットガルトからハンブルク⇒ブリュッセル⇒モナコ⇒ブレシアを経由して走り、ミラノまで3,127kmの充実のクルマ旅となりました。本当にありがとうメガーヌ!
ミラノ マルペンサ空港から日本へ飛び立ちました。
チャオ イタリア!そしてヨーロッパ!また来るからね~
これにて、“欧州自動車博物館巡りの旅2013⇒2014”のレポートは、おわりです。最終的には、更新に1年以上を費やしてしまいましたが、ヨーロッパの自動車博物館巡りの旅の面白さや醍醐味が、少しでも伝わてくれれば良いなと思います。
次の欧州自動車博物館巡りの旅へ、つづく
遅ればせながら、明けましておめでとうございますm(_ _)m
2015年も明けちゃいましたが(汗)、“欧州自動車博物館巡りの旅 2013⇒2014”はコート・ダジュールを後にしてイタリアに入りました。そして、今回訪れる“Museo Mille Miglia(ムゼオ・ミッレミリア)”が、この旅最後の博物館となります。
欧州自動車博物館巡りの旅 ムゼオ・ミッレミリア編も、やはり珠玉のクルマたちが展示される素晴らしい博物館で、とても1回では紹介しきれないので、2回に分けてレポートしていきます。(※毎度のことながら長編ですので、お時間に余裕のある時にご覧ください・・・^^;)
2013年 12/31早朝
メガーヌはイタリアの農業,工業の中心地として昔から多くの都市を栄えさせてきた肥沃なポー平原で朝日を迎えました。
この日も、日が昇るとやがて朝霧が立ち込めてきました。。
そうこうしているうちに、目的地Brecia(ブレシア)の郊外に到着。
↑ブレシア郊外で“Matra Simca Bagheera(マトラ・シムカ バゲーラ)”(←左の赤いの)を発見!!
ブレシアの中心街に近づいてきました♪
折角なので、駅前にメガーヌを駐車して
ブレシア駅構内のカフェ“BRICO CAFE(ブリッコ カフェ←イタリア各地の公共交通機関のターミナルでよく見るカフェチェーンですが、いつも名前に笑っちゃいます^^;)”で朝食にしました。ちなみにスタッフはぶりっ子ではなく、お兄さんでした!爆
ミラノ風カツレツの“コトレッタ”を挟んだサンドその名も“ミラネーゼ”とカプチーノ♪
やはり、駅でも本格カプチーノが飲めるのはイタリアならでは^^;
再びブレシアの街を通って、街の東にあるムゼオ・ミッレミリアを目指します
こちら↓が今回の目的地“Museo Mille Miglia(ムゼオ・ミッレミリア)”
名前が示す通り、Brecia(ブレシア)を起点にRoma(ローマ)を経由して、またブレシア(Brecia)に戻ってくるというルートを基本としたイタリアを代表する公道レース“Mille Miglia(ミッレミリア)”をテーマとした博物館です♪
入ると第1回 1927年大会から最後の1957年大会までの優勝マシンが描かれています。
こうしてみると1931年のメルセデス,1940年のBMW,そしてあの有名な1955年のメルセデス・ベンツSLR(♯722)による優勝以外は、ことごとく地元イタリア勢が圧勝していることが分ります^^;
Mille Miglia(ミッレミリア)の起こりは、イタリアのジャーナリストであるジョバンニ・カネストリーニが、1926年12月のある朝にミラノの自宅で“自動車業界を眠りから覚ますような全くセンセーショナルな何かを起こさなければ・・・”と思いついたことに始まります。
ある日、彼のもとにブレシアから3人の友人が訪ねてきました。彼らは、フランコ・マッツォッティ、アイモ・マッジ、レンゾ・カスタニェートの3人で、彼らは組織をまとめる才能に長けていました。
そして3か月後、伝説が生まれました。1927年3月26日、最初の1000マイル(ミッレミリア)レースが始まったのです。
ここのミュージアムはテーマがレースに因んでいることもあり、このような↓各年ごとのレース結果がパネル展示してあるので、このパネルとともに展示車の方も厳選して紹介していきます♪
ちなみに第1回大会の1927年はフェルディナンド・ミノーラ/ジュゼッペ・モランディ組の“OM665 Sport”が優勝を成し遂げたようです。
1930年 O.M. 469S
1927年優勝の“665 Sport”ではないものの、同社O.M.社が1930年に製造したのが、この“469S”で1,570cc、80馬力の直列4気筒ユニットを搭載しているそうです。
このO.M.というブランド、あまり馴染みがないですが“Officine Meccaniche”という1918年にミラノで創業した自動車とトラックを製造したメーカーのようです。また、創業時にブレシアの“Zust”という自動車会社を買収して自動車製造に乗り出したこともあり、地元ブレシアともゆかりの深いメーカーだそうです。
ちなみにO.M.社は1968年にフィアットグループに合併され、1975年には同グループの商用車メーカー“IVECO(イベコ)”に吸収される形で、自動車,商用車業界からブランド名が消えることになったようです。
※パネルの年号と、その付近にある展示車の年式がアバウトなのは・・・まぁ、イタリアン・ジョブってところでしょうか^^;
1928年、及び1929年大会はジュゼッペ・カンパーリ/ジュリオ・ランポーニ組の“Alfa Romeo 6C”が2連勝。
こちらは、1920年代 フランコ・マッツォッティのアビエータースタイル(飛行機乗り)のレーシングスーツの展示。
1931年 アストンマーティン LM7 ワークスチームカー(Aston Martin LM7:Work Team Car)
当時アストンマーティンの指揮をしていたイタリア系イギリス人の技術者アウグスト・チェザーレ・ベルテッリにより、1928年のルマン24時間耐久レースに向けて開発したレース専用モデル“LM”の7番目のクルマだそうです。
1930年大会はタッツィオ・ヌボラーリ/ジョバンニ・グイドッティ組の“Alfa Romeo 6C 1750GS”が優勝しアルファ3連勝を成し遂げています。
1927年 ブガッティ T37(Bugatti T37)
旧態化した“Brecia(ブレシア)”に変わる4気筒モデルとして開発されたのがこの“T37”で、新開発の1,496cc、60馬力の直列4気筒ユニットを、グランプリカー“T35”譲りのシャシに登載していました。
こちらはフロントのブレーキドラム周り。
ブレーキはプーリーを介したワイヤーによって駆動されています。当時エットーレ・ブガッティはこのワイヤーを使った機械式ブレーキに固執していて、その後も油圧ブレーキの採用を嫌ったといわれています。
この個体はブガッティ特有のアルミスポークホイールは採用していませんが、こういった細部からして美しいのは、このグランプリカーT35に譲りのT37系自体の美しさが際立っているからかもしれませんね♪
1931年大会は、始まって以来初の海外勢であるルドルフ・カラチオラ/ウィルヘルム・セバスチャン組のメルセデス・ベンツSSKが勝利を挙げています。
1929年 クライスラー 75(Chrysler 75)
1926年に直列6気筒エンジンを搭載した“Chrysler Six(クライスラー・シックス)”から始まる“70”シリーズの1929年モデルが“75”だそうです。
ミッレミリアにアメ車というと、あまりイメージがないかもしれませんが、当時の欧州のモータースポーツシーンにもアメ車の姿は見られたようで、↓このように、この個体は2012年のルマンクラシックにも出場したようです。
このランブルシートでも出てきそうなほど長いリヤトランク周りの造形↓がいい雰囲気ですね^^;
1931年 ラリー NC スポーツ(Rally NC Sport)
“Automobiles Rally”は、1921年~1933年までフランス パリ郊外のコロンブ(Colombes)で活動していた小規模な自動車製造会社だそうです。
このNシリーズは、1931年から始まるサルムソン(Salmson)製の1,300cc、45馬力の直列4気筒ツインカムユニットを搭載したクルマで、この“NC”はショートホイールベースでよりスポーティなモデルとのことです。
このシャフト&ロッドによる機械式ブレーキは前述のブガッティT37よりも確実性は高そうですね^^;
1932年大会は、再び地元イタリア勢のバコーニン・ボルザッキーニ/アメデオ・ビニャーミ組の“Alfa Romeo 8C 2300”が優勝しています。
1933年大会も、タッツィオ・ヌボラーリ/デーチモ・カンパニョーニ組の“Alfa Romeo 8C 2300MM”が優勝。
1934年大会もアキッレ・バルツィ/アメデオ・ビニャーミ組の“Alfa Romeo 8C 2600 Monza”が優勝とアルファ強しの様相を呈してきました^^;
1927年 ブガッティ T37A(Bugatti T37A)
前述の“T37”にスーパーチャージャーを装備したモデル。スーパーチャージャーは基本的には8気筒モデルのグランプリレーサー“T35B”と同様のものが使われたそうです。
1939年 アルファ・マセラティ プレーテ(Alfa Maserati Prete)
マセラティのレーシングカーをベースに、パワーユニットにアルファロメオの2,500cc、200馬力の直列6気筒を搭載したワンオフモデルで、最高速度は240km/hに達したそうです。
ワンオフモデルのようですが、このような↓“AMP”というエンブレムを付けられています。
また、粗めのボデーワークがこのクルマの“凄いオーラ”をさらに高めていますね^^;
調べてみてもイタリア語の解説が中心で、詳細情報がなかなか手に入らないですが、興味深いクルマですね♪
1935年大会もカルロ・ピンタクーダ/アレッサンドロ・デラ・ストゥーファ組の“Alfa Romeo tipo B 2900”が勝利を挙げています。
1948年 フィアット 500B トッポリーノ(Fiat 500B Topolino)
フィアット社が1936年~1955年まで生産していた初代“500”ですね。愛称の“トッポリーノ”はイタリア語で“小さなネズミ”を意味するそうですが、まぁ見たまんまですね^^;
1936年大会もアントニオ・ブリビオ/カルロ・オンガーロ組の“Alfa Romeo 8C 2900A”が優勝。
1937年大会もカルロ・ピンタクーダ/パリーデ・マンベッリ組の“Alfa Romeo 8C 2900A”が優勝、と完全にアルファの独壇場になっていますね^^;
1936年 ライレー 9 HP スペシャル(Riley 9 HP Special)
このクルマは第1次大戦と第2次大戦の狭間の時代に、英国で最も成功したライトカー(小型軽量4輪車)の1台で、コベントリーにあるライレー(Riley)社で製造されました。
パワーユニットは1,089cc,9馬力の直列4気筒OHVエンジンを搭載しているようですが、このエンジンがこのクルマの特徴といってもよく、なんとOHV方式ながら吸気バルブ用と排気バルブ用に2本のカムシャフトを持つツインカムOHV方式!!に半球状燃焼室(ヘミヘッド)を採用していたそうです。
1951年 フィアット 500C バルケッタ(Fiat 500C Barchetta)
前述のフィアット 500トッポリーノの“C型”をベース製作されたバルケッタだと思われますが、車両解説がスペック以外記載がないので詳細は不明です。750cc,24馬力の直列4気筒を搭載とあるので、エンジンにも大きく手が加えられているようです。
1938年大会も引き続き(笑)、クレメンテ・ビオンデッティ/アルド・ステーファニ組の“Alfa Romeo 8C 2900B”が優勝。1927年に第1回ミッレミリアが始まって以来、ここまで12大会中10回をアルファが優勝していることになります^^;
1939年大会は中止だったようで、次は1940年になります。
1940年大会は、フュシュケ・フォン・ハンシュタイン/ワルター・バウマー組のBMW328が優勝。ドイツ勢の優勝は、1931年のメルセデス・ベンツSSK以来の2度目ですね。
1948年 ザヌッシ フィアット フォンテバッソ スポルト(Zanussi Fiat Fontebasso Sport)
ヴェネト州バッサーノ・デル・グラッパのセバスチアーノ・ザヌッシが、フィアットのシャシをベースに造り上げた、ワンオフのバルケッタのようです。
パワーユニットは750cc,50馬力の直列4気筒エンジンを搭載し、車重は480kg。
ボクの550にも貼っていますが、この当時風のミッレミリアスタイルのゼッケン、とてもお気に入りです♪
ちなみに、この3ケタは出走時間(2時52分出走)を意味しています^^;
ロッソコルサに濃い目のブラウンの内装がイタリアン・バルケッタ独特で、素敵ですね!
1946年 アルファ・ロメオ 6C 2500 スポルト(Alfa Romeo 6C 2500 Sport)
戦前のミッレミリアにおいて圧倒的な勝利を収めていたアルファ・ロメオは、1925年~1954年の間に製造したロードカー,スポーツカーそしてレースカーに、この“6C”の名を冠していました。“6C”のネーミングは、搭載されていた直列6気筒エンジン(イタリア語で6 Cilindri)に由来しています。
1938年に導入された2500ccの直列6気筒モデルは、ロードカーとして最後の“6C”となりましたが、第2次世界大戦の勃発により自動車開発はストップしてしまい、1945年までに少量が作られるのみとなってしまいました。
この展示車両は、1946年に戦後初めて造られた“6C フレッチャ・ドーロ(Freccia d'Oro:黄金の矢の意味)”と呼ばれるモデルで、戦前の“6C 2500”に改良を加えて1951年までに約680台が造られたそうです。
1947年 ロヴェッリ・フィアット(Rovelli Fiat)
この時代に数多生まれたであろう、フィアットのシャシをベースとしたレーシング・バルケッタ、いわゆる“イタリアの虫”。
このバルケッタも車両解説がスペックのみですが(汗)、1,100cc,60馬力の直列4気筒エンジンを搭載し、ミラノのボデー架装工房と思しき“カロッツェリア・カスターニャ・ミラノ(Carrozzeria Castana Milano)”のバッジが備わっていました。
この時代は、まだ馬車のボデー架装から発展したボデー架装工房“カロッツェリア”全盛の時代で、当時の自動車製造は、自動車メーカーで製造したシャシをカロッツェリアに持ち込んで、好みのボデーを架装するという古き良き風習が生きていたようです。
後端が長い空力形状が、ヤーライ理論的な40年代らしい処理になっていますね^^;
1941年以降、ミッレミリアは第2次世界大戦の戦火のために、終戦まで中止となってしまいます。戦後になってミッレミリアが再開されるには1947年まで、待たなくてはなりません。
“ムゼオ・ミッレミリア編パート1”は以上になります。戦後のミッレミリアの模様は次回 “ムゼオ・ミッレミリア編パート2”にてお送りします。
長くなりましたが最後まで読んで頂きありがとうございますm(_ _)m
ベルギー ブリュッセルの自動車博物館“オートワールド”を出発した欧州自動車博物館巡りの旅は、大充実だった企画展“FERDINAND PORSCHE THE HERITAGE FROM ELECTRIC TO ELECTRIC”の余韻に浸りながら、次の目的地を目指しフランスへ入りました。今回のレポートにはミュージアムやクルマの歴史的な話題は出てきませんが、いつもより旅ブログらしい(笑)内容になっていると思います♪
(※毎度のことながら超長編ですので、お時間のある時にご覧ください・・・^^;)
2013年 12/29深夜
フランス入国を目前に控え、メガーヌのカーナビは突如高速を降りるルートを案内し始め(笑)、町ぐるみでクリスマスイルミネーションが飾られた田舎道をひた走ります。
最初は?でしたが、目的地までの距離に対して到着予定時刻が大幅に掛っていることから、オール下道でのナビゲーションを始めたな。。と気づきました^^;
そう、カーナビの設定が“Toll road(有料道路)を避ける”になっていたのです。シュトゥットガルトで借りて、今までドイツ⇒ベルギーと高速道路が無料の国を通ってきたので気づきませんでしたが、フランスは高速道路料金を徴収する国なのです。
気を取り直してフランスの高速道路“オートルート”A26号を南下します。
くしくもこの日は2013年12/29。ラジオからはニュースのたびに“ミハエル・シューマッハ”という単語が何度も聞こえてきました。フランス語は分りませんが、シューマッハに何か良くないことが起こったというのは雰囲気で伝わってきました。
途中、Saint - Quentin(サン・カンタン)近郊のUrvillers(ユルヴィエ)PAで給油をしました。GSのブランドはフランスと言えばお馴染みの“Total(トタル)”です♪
メガーヌはドイツのヴィルデスハウゼンPAでの給油から679.7kmを走り、42.84リッターの軽油を飲み込んだので燃費は15.8km/Lということになります。
Reims(ランス)近郊のランス‐シャンパーニュPAで仮眠ののち、A26号をさらに南下します。
12/30早朝
Troyes(トロア)でA26号とは別れてA31号⇒A6号と走り、Lyon(リヨン)の手前で夜が明けました。
朝靄はすぐに朝霧へと変わり、たちまちリヤフォグ必須のコンディションに変わりました。この辺りは霧が多いのか、前回コートダジュールからスイスへ抜けた時もグルノーブルあたりで霧に見舞われたことがあります。
こういった霧が日常的だからなのか、欧州車や欧州仕様車には標準でリヤフォグが装備されているのも納得ですね。ちなみに、霧と霧の合間でガスってないときでも、リヤフォグを点けっぱなしにしていると、追いつき際にパッシング&追い抜き際にリヤフォグ一瞬点灯で「点けっぱなしだぞ!」とご丁寧に注意してくれます^^;
Lyon(リヨン)市内を通過してA7号へ。まだ、若干の霧模様。
南仏に近づくにしたがってソレイユ(フランス語で太陽)も顔をだし、だいぶ上ってきたので、Valence(バランス)近郊のPont-de-l'iere(ポン・ド・リゼール)PAで給油ついでに朝食としました♪
この日の移動は、この旅の中でも最長移動区間となるフランスを北から南へ縦断する1000kmオーバーのルート。当然、南仏につく前に2回目の給油が必要となりました^^;
メガーヌはユルヴィエPAから661.7kmを走り、軽油44.55リッターを飲み込みました。燃費は14.85km/L、だんだん悪くなってる気もしますが(笑)、平坦だったドイツ,ベルギーに比べ、この辺りはフレンチアルプスも近く、結構アップダウンのある丘陵地帯だったのが効いたのかもしれません。。
Valence(バランス)からOrange(オランジュ)に抜けるこの辺りは、原発大国フランスの中でも乱立地帯らしく、右手にはTricastin(トリカスタン)原発を確認できました。
南仏という土地の影響か↑現行メガーヌCC(グラスルーフカブリオレ)や
↑フェアレディZカブリオレなど、空と仲の良いクルマも、多く見受けられるようになりました。
今まで南仏に来ても、ここまで晴れ渡っていたことはありませんでしたが、この日はまさに快晴!!
リュック・ベッソンに代表されるようなフランス映画の中の、眩しいくらいに発色の良い南仏の風景が目の前に広がっています^^;
Coudoux(クードゥー)でA7号からA8号へ分岐してから、コート・ダジュールらしいクルマをちらほらと見かけるようになりました!
997↑や993↓の“911 Carrera S”や
“マセラティ グランカブリオ”↓
など一気に華やかなラインナップとなってきました^^;
Nice(ニース)で一般道に降りて、
両替のためにニース市街地を散策。。
こんな↑いかにもフランスらしい適度にくたびれた初代“ルノークリオ”もまだ健在です。いい雰囲気、出してますね^^;
両替を済ませ、本日の最初の目的地へ向かいます。
ニースからは山道をのんびりと登りながら、
右手に地中海を望みつつ、気ままなコート・ダジュール ドライブを決め込みます。
この一見なんでもないようなドライブが、実は充実したひと時でもあります。
正にフランス映画の世界に紛れ込んだような高揚感が魅力的です。
この橋を渡れば、本日の第1目的地“Eze(エズ)”に到着です!
ここは、“地球の歩き方 南仏・プロバンス('10~'11年版)”の表紙を飾るほどにメジャーな観光地なので、訪れたことある方も多いと思います。
Eze(エズ)は地中海を見下ろす高い崖の上に造られた要塞集落で、その成り立ちから“鷲の巣村”などと呼ばれています。
細い路地を登っていくと頂上には見晴らしの良い植物園“Jardin d'Eze(エズ庭園)”があり、コート・ダジュールの海岸線を一望することができます。
ちょうど夕暮れ時だったため、最高に美しいサンセットを拝むことができました♪
今まで見た中で、5本の指に入る夕日かもしれません!綺麗だぁ~(´▽`)
しかし、Eze(エズ)に来た本当の目的はこちら↓
一見何の変哲もない“AVIA”ブランドのガソリンスタンドですが、2002年にリュック・ベッソンが制作・脚本を手がけた映画“THE TRANSPORTER(トランスポーター)”で使われたスタンドなのです♪
映画ではジェイソン・ステイサム扮する“運び屋フランク”が、MTのBMW735i(E38)で運びの任務中に休憩するシーンで使われています。気になる方は是非チェック!
折角なのでメガーヌも記念給油して、運び屋フランクよろしくオランジーナ(自分用)を買いました!
スタンドの店員に「ここ、トランスポーター1に出てたよね?」って聞いたら、嬉しそうに「そうそう、ここだよ~」なんて返してくれました^^;
地中海に沈む夕陽を背に次の目的地へ向かいます。
途中で、コート・ダジュールのCar Guyご用達?なガレージがカッコいい雰囲気だったので1枚パシャリ!
そして、本日の最終目的地に到着しました!
混雑していますが、追い抜くわけにはいきません。そう、ここは“モナコ・モンテカルロ!絶対に抜けない!!”なんちゃって・・・^^;
ちょうど、ホームストレートに出てきたのでそのままグランプリコースをメガーヌで走ってみましょう。
まずは、1コーナー“Sainte Dévote(サン・デボーテ)”を右に曲がり、
上り坂区間の“Beau Rivage(ボー・リバージュ)”を駆け上がります。
グラン・カジノが見えてきました!
カジノ前の車止めは見所の一つです。
ちょっとやんちゃなSLRマクラーレンが止まっていました^^;
“Casino Square(カジノスクエア)”を抜け、
“Mirabeau(ミラボー)”へ
その先には、モナコ名物の“Loews Hairpin(ロウズヘアピン)”が待ち構えています♪
ロウズヘアピンを過ぎると、下りの右コーナー“Portier(ポルティエ)”。
その先には、もう1つのモナコ名物“Le Tunnel(トンネル)”が待っています!
トンネルを出ると、“Nouvelle Chicane(ヌーベルシケイン)”になります。
本来のグランプリコースは、ここから先に見える並木の左を走るのですが、通常の道路は直進になっています。
駐車場にメガーヌを止めて、今度は歩いてグランプリコースを散歩してみましょう。
“Poolside Chicane(プールサイドシケイン)”のプールには氷が張られ、アイスホッケー場になっていました^^;
初めてモナコに来た時は鉄道の旅だったので、懐かしのモナコ‐モンテカルロ駅にも行ってみました。
モナコの街は地中海に面した山肌に這うように成り立っているので、駅はトンネルの中にあります。この未来的でもなく、かと言ってレトロかというとそうでもない、時代を超越した独特のエレガントな照明が、まるで着いた瞬間に“Monaco”に来たんだということを旅人に知らせてくれるようです。
そんなモナコ‐モンテカルロ駅は1コーナー“Sainte Dévote(サン・デボーテ)”の先にあります。
“Beau Rivage(ボー・リバージュ)”からホームストレート方面を振り返ると、モナコの美しい夜景を望むことができます♪
再びグラン・カジノへ
グラン・カジノの向かい側には“Hotel de Paris(オテル・ドゥ・パリ)”
グランカジノ前は相変わらずの盛況ぶりですね^^;
個人的には左のマセラティ スパイダーが良いですね。
こんな感じで、一種のカーウォッチングスポットとして観光地化しています^^;
“Casino Square(カジノスクエア)”もクリスマシーな感じでライトアップされています♪
グランプリコースに戻って、“Mirabeau(ミラボー)”から“Loews Hairpin(ロウズヘアピン)”を望みます。
“Le Tunnel(トンネル)”入り口
トンネルの中から入り口方面を望みます。
出口方面からマクラーレンMP4/12Cが走ってきました。
ヨーロッパは大都市以外では、ほとんどスーパースポーツを見かけませんがモナコだけは別格です。ウジャウジャいます^^;
“Nouvelle Chicane(ヌーベルシケイン)”からモナコの夜景を望む。
“Tabac(タバココーナー)”
タバココーナーの外側は駐車場になっています。メガーヌもここに停めました。
グランプリでピットが設営されるエリアには、クリスマスマーケットが出ていたので、ここで夕食にしました。
ジャガイモが主体のグラタンのようで、後で色々調べたところフランスの家庭料理で“Gratin Dauphinois(グラタン・ドフィノワ)”というらしいです^^;
腹ごしらえもしたところで、グランプリコースに戻ります。
“Poolside Chicane(プールサイドシケイン)”↑と、そこから海に延びる桟橋に停めてあったムスタング↓
寄り道ばっかりですが(笑)、グランプリコースは“La Rascasse(ラスカス)”の飛び込みへ。
“La Rascasse(ラスカス)”の由来は内側(右側)にあるレストランの名前だそうです。あ、La “Rascasse”って書いてある・・・^^;
そして、最終コーナー“Anthony Noghès(アントニー・ノーズ)”。モナコGP計画の発起人から冠したそうです。ずっとイタリア人の鼻みたいなカッコしてるからだと思ってました!爆
最終コーナーのファンジオも、クリスマスイルミにちょっと眩しそうです^^;
ホームストレートに戻ってきました。これでグランプリコースを歩いて1周したことになります♪
近年、F1やフォーミュラEなどでも市街地の特設コースが、いくつか観られるようになりましたが、やはりオールドコースとしてのモナコ‐モンテカルロ市街地コースには、近代的な市街地コースが逆立ちしても出せない魅力が詰まっています。
そして、そんなサーキットが普段は人々の生活に埋もれていて、地元民と近いところにあるのも大きな魅力だと思います。
カーラジオからは、フランスのアーティスト“Klingande(クリンガンデ)”の“Jubel”↑が流れてきて、コート・ダジュールがより一層魅力的に見えてきたところで、今回のコート・ダジュール レポートは以上になります。
永らくお待たせしました!秋のイベントシーズン到来で、しばらくご無沙汰していた欧州自動車博物館巡りの旅ですが、引き続きレポートしていきたいと思います^^;
さて、この旅のメインイベントとして大フィーチャーしてきたベルギーはブリュッセルの自動車博物館オートワールドで行われていた企画展 “FERDINAND PORSCHE THE HERITAGE FROM ELECTRIC TO ELECTRIC”のレポートも、いよいよ最後となりました。
今回のオートワールド 特別編③は、大きく3つのステージに分かれて展示されていたポルシェ展の3ステージ目(主にブッツィ・ポルシェ〈フェルディナント・アレクサンダー・ポルシェ〉の手によるポルシェ車とフェルディナント・ピエヒの手によるレンシュポルトの数々から現在まで)を中心にレポートしていきます。(今回も通常通り長編なので(笑)、お時間に余裕のある時にお楽しみください^^;)
1964年 ポルシェ 904 カレラGTS(PORSCHE 904 GTS)
レースシーンで成功を収めていた“カレラアバルト”及び“スパイダーシリーズ”に代わるGTカーとして、ブッツィ・ポルシェによって設計されました。
904は550Spyderに端を発する一連のSpyderシリーズとは異なるプレス鋼板製のボックス断面構造フレームと、軽量なファイバーボデー(FRP製)とをボルトと接着剤で結合することで相互に剛性を補完する構造を持っていました。
また、変速機には356に代わるプロダクションモデルとして開発が進められていた“901(911シリーズ)”の5速ギヤボックスが採用されました。
パワーユニットは911用の6気筒ユニットをベースとした6気筒レーシングユニットの搭載を前提に開発されましたが、カレラアバルト用の4気筒ユニット“フールマンユニット”が180馬力に達していたことから、この4気筒ユニットがキャリーオーバーされています。
また、最終的には生産された904のうち10台には6気筒ユニットが、さらに6台には8気筒ユニットが搭載されたようです。
今日では歴代レンシュポルトの中でも成功したモデルとして有名であり、日本グランプリでの活躍もあってか日本でも絶大的な人気を誇る904ですが、当時のポルシェ陣営としてはプレス鋼板製シャシの剛性をFRPボデーが補完するという挑戦的な構造のせいもあり、FRPの出来次第で1台1台の車両剛性に大きなバラツキが生まれることやFRPの経年劣化によるボデー剛性の低下など、なかなか手を焼いたクルマだったようです^^;
1965年 ポルシェ 911(PORSCHE 911)
ポルシェは成功作となった356シリーズに替えて、よりパワフルな後継車“911”を開発しました。この911シリーズによって、ポルシェは伝説的な地位を獲得することになりました。
当初“901”と呼ばれていたこのクルマは、後に“911”と名を変えて生産されることになりました。車体設計は904同様ブッツィ・ポルシェによるもので、この911開発チームにはフェルディナント・ポルシェの娘“ルイーズ・ピエヒ”の次男でもあるフェルディナント・ピエヒも含まれていました。
911シリーズは、その後も様々な進化を重ねて50年を経た現在でも生産される大成功モデルとなりました。
展示車両は'65年式ということで、初期のSWB(ショートホイールベース)ボデーにスチールホイール+ハブキャップを装着していますね。個人的には、この356Cから採用されたディスクブレーキ対応のPCD130,5穴の“鉄チンスタイル(めっきじゃない方が良いなぁ~^^;)”結構好きだったりします。
1967年 ポルシェ 912タルガ(PORSCHE 912 TARGA)
当時、米国でコンバーチブルモデルの横転時の安全性の面から規制強化への動きが盛んになり、その対応策としてブッツィ・ポルシェが開発したのが、このスティール製の固定ロールバーと取り外し式のトップ、そして開閉可能なビニール製リヤウインドウを備えたモデルでした。
この革新的なコンセプトは“タルガ(targa)”と呼ばれ、その後改良を重ねて今日でもラインナップされる人気モデルとなりました。
展示車両は、911シリーズが356シリーズと比べて高価格帯にシフトしたことから、ナインナップに加えられた4気筒モデル“912”のタルガです。
1973年 ポルシェ 911 カレラRS 2.7(PORSCHE 911 CARRERA RS 2.7)
このカレラRS2.7(Carrrera RS 2.7)は、簡素化された軽量ボデーに機械式燃料ポンプを備えた210馬力の水平対向6気筒エンジンが組み合わされ、1972~1973年にかけて1,590台が生産されました。そして当時、事実上最もポテンシャルの高いロードスポーツでありレーシングカーでもあったようです。
また、その素晴らしいエキゾーストノートとダックテールスポイラーは、伝統的なスタイルとなりました。
言わずと知れたナローポルシェのアイコン的存在“73カレラ”ですね。白+グリーンのカレラデカールの組み合わせは、初めて見たかもしれませんが、なかなかクリーンな印象でカッコイイですね♪
1971年 ポルシェ914/6(PORSCHE 914/6)
フォルクスワーゲンとポルシェにより共同で生産された4気筒のミッドエンジンスポーツカー“914”には、1968年より911Tの6気筒エンジンを搭載したポルシェ版の“914/6”が用意されました。
ちなみに、この展示車両は356時代に“ロードスター”のボデー架装をしたことでも知られるベルギーのコーチビルダー“D'Ieteren(ディーテレン)”のシンボルマークが貼られていました。
D'Ieterenは現在ベルギーにおけるフォルクスワーゲングループのディストリビューターを担っている様で、ブリュッセル市内にはD'Ieterenのコレクションを集めたギャラリーがあるようです。次回、ブリュッセルに来る機会があったら、こちらも是非行ってみたい^^;
1966年 ポルシェ 906 カレラ6(PORSCHE 906 CARRERA 6)
906カレラ6は、904カレラGTSに替わるレンシュポルトとして、フェルディナント・ピエヒによって設計されました。シャシ構成は、904でのプレス鋼板シャシとFRPボデーによる剛性の相互補完方式からは決別し、剛性の大半をスペースフレームが受け持ち、外板はFRPによるカウリングという構成となりました。
また、ロードゴーイングカーという一面も持ち合わせていた904とは異なり、純レーシングカーとして開発された906は、その後数々の進化を遂げながら伝説的な917まで続くポルシェ製レーシングカーの基礎を築き上げました。
1970年 ポルシェ 910/8 ベルクスパイダー(PORSCHE 910/8 BERGSPYDER)
ポルシェは長距離レースへ出場すると共に欧州ヒルクライム選手権へも意欲的に参戦しました。910は、904のプレス鋼板シャシをベースにしたヒルクライムレーサー“カンガルー”やコーリン・チャプマンがドイツGPのために持ち込んだロータスの足回り部品を一部流用したシャシを持つ“オロン・ヴィラール・ベルクスパイダー”での経験を経て、ヒルクライム車両として開発されました。
906からの外観上の大きな変更点としては、当時多くのF1マシンで採用され技術的に大きく進化していた13インチホイールを採用して、フロントフェンダー高が低められている点が挙げられます。
展示車両の“910/8 ベルクスパイダー”は、ヒルクライム専用にアルミ鋼管スペースフレームの採用や15Lの燃料タンク,ワイパーを廃止したミニマムサイズのウインドウ,ジェネレータ取り外しなど更なる軽量化が施されました。この軽量化技術は、後の“909ベルクスパイダー”で更にエスカレートし、908/3スパイダーへと継承されました。
1970年 ポルシェ 917K サイケデリック S/N:917-021(PORSCHE 917K PSYCHEDELIC S/N:917-021)
917は、革新的なレンシュポルトとして1969年に発表されました。917はアルミ鋼管スペースフレームシャシとFRP製カウリングからなる車体に、4.5リッター,520馬力の空冷水平対向12気筒エンジンを搭載していました。
この空冷水平対向12気筒エンジンは、既に生産が終了していたプロダクションモデルの販売名称(コードナンバーは902)と同じ“912”のコードナンバーであったことから開発当初、外部はその存在を全く知らなかったそうです^^;
917は数々の耐久シリーズで輝かしい勝利を収め、伝説的なレンシュポルトとなりました。展示車両のS/N:917-021は、1969年に製造された最初の25台の917のうちの1台で、フィンランドのプライベートチーム“AAW”が所有して、当初は黄色と赤のスポンサーカラーが施されていました。
1970年ルマンでのクラッシュ後、ポルシェがストックしていた917-012の部品の多くを使って修復された“021”は、’70年シーズン中に“サイケデリック”,“黄&赤のサイケデリックパターン”などに塗り替えられ、現在はこの“サイケデリック”カラーで余生を送っているようです。
1973年 ポルシェ 917K/30 スパイダー カンナム(PORSCHE 917K/30 SPYDER CANAM)
1972年からのスポーツカーシリーズは、レギュレーション変更によって“3リッター以下,最低重量650kg”という規定が設けられました。それによって、それまで培ってきた軽量化技術を生かすことが出来なくなったポルシェは、北米のCan-Amシリーズに917の活路を見出しました。
この917/30は、1973年のCan-Amシーズンにポルシェが投入したクルマで、917の空冷水平対向12気筒ユニットは5,374ccまで拡大され、ターボ過給により1200馬力を発揮しました。
1977年 ポルシェ 935/77 マルティニ(PORSCHE 935/77 MARTINI)
935は、911ターボをベースに当時のグループ5規格に沿って1976年に製作されました。ポルシェはレギュレーションの抜け道を巧く利用して、“911”のコンセプトをそのままに極限までモディファイされました。
この'77年モデルは、それまでのシングルターボに換えてKKK製の小型ターボを各バンクに備える改良が施された930/78ユニットを搭載し590馬力を発揮したようです。
1982年 ポルシェ 956(PORSCHE 956)
956は、FIAが1982年から施行した燃料消費量制限を設けた新規定“グループC”に則って開発されました。シャシ構造は、ポルシェ初となるアルミ製モノコックを採用し、グランドエフェクトを生み出す構造になっていました。
956は初年度から完璧な成功を収め、ポルシェは956とスタードライバー ジャッキー・イクスの活躍によって'82年の選手権を支配しました。
当時の耐久シリーズで最も多くの勝利を挙げたのは、この956とその改良版である962Cであり、ルマンでの6連勝のほか1982年から1994年までに5回の世界選手権制覇を成し遂げています。
個人的には、グループCカーとして生まれた962Cが、94年のルマンにレギュレーションの狭間を突いてナンバー付車両の“GTカー”として返り咲いた“ダウアー962GT”が強烈に印象に残っています。このGT1発足初年度に、既にポルシェに見破られた抜け道は、その後各メーカーがこぞって開拓しGT1消滅につながることにもなりました^^;
1978年 ポルシェ 911SC サファリ(PORSCHE 911 SC SAFARI)
1978年、3リッターの空冷水平対向6気筒ユニットを備えた2台の911SCが“イースト・アフリカン・サファリ(サファリラリー)”に向けて準備されました。
この2台のSCはビョルン・ワルデガルド/ハンス・ソルセリウス組が4位,ビック・プレストンJr/ロブ・ライアル組が2位でフィニッシュしました。
1986年 ポルシェ 959(PORSCHE 959)
このクルマが発表された'83年当時、この“959”は当時最先端の様々なテクノロジーが詰め込まれた革命的なクルマでした。その後、長い開発期間を経て1987年にリリースされました。
959は、その後のポルシェブランドの方向性を示す最新技術のショーケース的な役割もあり、後に続く911の4輪駆動仕様(カレラ4)の出発点にもなりました。
1986年 マクラーレン TAG MP4/2C フォーミュラー1(McLAREN TAG MP4/2C FORMURA 1)
TAG-ポルシェエンジンは、マクラーレンのフォーミュラーカー“MP4”のために、ヴァイザッハで開発されました。このエンジンはバンク角80°の1499cc,V型6気筒ツインターボで11500rpmで700馬力を発揮しました。
1984年にTAG-マクラーレンはニキ・ラウダとアラン・プロストのドライブで全16戦中12戦で勝利し、1983~1987年の間に25戦で優勝を成し遂げました。また、1984年にはニキ・ラウダが、1985年と1986年にはアラン・プロストが、それぞれワールドチャンピョンに輝いでいます。
2013年 ポルシェ 918スパイダー プロトタイプ(PORSCHE 918 SPYDER PROTOTYPE)
918Spyderは、2013年のフランクフルトショーで発表されました。ポルシェのエンジニアは次世代のハイパフォーマンスカーとして、内燃機関とモーターを組み合わせたシステムを開発しました。
この918は、後輪の駆動には“RS Spyder(LMP2カー)”に使われたユニットを改良した4600cc,608馬力のV型8気筒エンジンが用いられ、これに加えて前輪には2基の
モーターユニットが備えられ、合計で最大887馬力を発揮するそうです。これらの駆動比率はいくつかのモードがあり、前輪駆動,後輪駆動,4輪駆動の組み合わせから様々な駆動ヴァリエーションを選択できるようです。
展示車両は918のプロトタイプということで、パッと見ただけでもバンパーサイドのウインカー有無やサイドエキゾーストなど、市販モデルとは異なるディテールも有りますが、この“918 Spyder”は前述の959同様、ポルシェブランドのこれからを示す1台であることには違いないでしょう。
長きにわたって特集してきた企画展 “FERDINAND PORSCHE THE HERITAGE FROM ELECTRIC TO ELECTRIC”の特集も以上になります。
この“AUTOWORLD(オートワールド)”という自動車博物館も、総合自動車博物館としてボリューム満点でしたが、今回行われていたこのポルシェ展の充実のラインナップには只々圧倒されるばかり^^;
改めて、モータースポーツの本場“欧州”の底力を感じる企画展となりました。
欧州自動車博物館巡りの旅は充分な余韻と共にオートワールドを後にし、約1100km離れた次の目的地へと向かいます。
次回は自動車博物館巡りはおやすみして、プチ観光な休息日になります^^;
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ポルシェ その他 '93年式 Beck 550 Spyderです。 かねてよりミッレミリア好き、50~6 ... |
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