
おはようございます♪(^.^)
またまた3日振りのBlog更新となりましたが、この3日間、吾が輩にとって意味のある、かなり内容の濃い時間を過ごしてきましたので
時系列にご紹介を(^_−)−☆
車のコトはあまり出てこないかな…σ(^_^;)
実は、とある場所に身内の建墓に出向くコトになりましてσ(^_^;)
その土地が吾が輩にとっては凄く尊敬する人物の生誕の地であり、前々から1度は訪れてみたいと思っていた場所だったコトから、こんなチャンスを逃す手はないと、職場には事前に訳を言って連休をいただき、建墓を兼ねての探訪旅行を決行するコトに(^-^)
まず、近頃の初号機のメンテに力を注ぎ込んでいたのには、実はこの3日間の予定が深く関係していたコトを断っておきましょう!(^_^;)
スタート地点は前回の8ヶ月前に訪れた関西探訪の時と同じく
仕事終わりで
♪開いてま〜すあなたのロー◯ン♪
メーターは253136km!
燃料計もほぼ?Full Max(`・ω・´)キリッ
これから目指す土地には本来鉄道か航空機を利用して赴く予定でしたが、生憎🎫が取れず...φ(。。*)イジイジ...
噂によると吾が輩が飛行機乗れないとか(^_^;)
そんな関係で急遽初号機にメスを入れまくった次第でありまして(^^;;
結果、蓋を開ければ酷い有様で、皆様にお恥ずかしい姿をお見せしましたがσ(^_^;)
なもんですから、ボヤボヤと旅行気取りだけでノンビリと…いうワケにはいきませんので
ダッシュ!≡≡≡ヘ(*--)ノ
定番の1回目の🚻休憩(^^;;
2度目の🚻休憩で浜名湖SAへ寄った以外はほぼ不眠不休状態で草津SAへ!
( ̄。 ̄)ボ~~~~ッ
さらに走れ〜走れ〜と…ダッシュ!≡≡≡ヘ(*--)ノ
これは8ヶ月前の関西旅行の時の画!
8ヶ月前は近くで初号機と撮影するだけで終えたパールブリッジという名の明石海峡大橋を渡り本州を離れ淡路へ!
なるとのうず潮で有名な大鳴門橋!
コチラを渡れば四国入り!
吾が輩、初の四国入り(^.^)
初の四国入りではありましたが、感動に浸っている余裕などなく、この後の予定も詰まっておりますので…ダッシュ!≡≡≡ヘ(*--)ノ
最終目的地の高知料金所を降り、まずは本来の目的である建墓へ!
内容が内容だけに画像等は一切ありませんが無事に済ませるコトが出来、一安心
ホッ…(*゚д`)=з
ちなみに高知出身の有名な方は?
高知東生さん!
芸名にも高知と入っているくらいですからご存知の方も多いかな?(^_^;)
それから龍馬伝にも出演されていた
広末涼子さん!
島崎和歌子さん!
このお2人も高知出身ですね(^-^)
もうお気づきの方も多いとは思いますが、
ココまで来たからには、あの場所?に訪れないワケには行きませんので…( ´艸`)ムププ
桂浜近くに建てられている
坂本龍馬記念館‼︎(^o^)/
ここまで820km、11時間!やっと念願叶ったぁ〜(>_<)
入り口入るなり
キャァ〜♪(>_<)♪
中へ入ると、もう吾が輩にとってはヨダレもんのお宝ばかりで興奮の坩堝‼︎(◎_◎;)
龍馬が描いた艦隊による戦闘の絵!
龍馬の愛刀
陸奥守吉行‼︎(むつのかみよしゆき)
残念ながら西郷隆盛を介し、兄権平より譲り受け、刺客の前に倒れるまで肌身離さず持っていた陸奥守吉行ではなく、その愛刀の同作者、刀鍛冶の吉行(本名 山岡平助)が手掛けた同等の陸奥守吉行(^^;;
ホンモノの陸奥守吉行の鞘には刺客から力強く振り下ろされた刀を辛うじて受けた刀傷が生々しく残っています
そのホンモノ愛刀陸奥守吉行は
坂本家が大切に持って居て、明治31年一家が北海道へ移住した時も持って行いったそうです(゚ロ゚屮)屮
北海道では坂本龍馬遺品展覧会などをやった時、その中に切り込まれた刀の鞘も展示され死ぬまで持っていた小型(長さ17センチ)のピストルなども写真に写っていましたが、
残念ながら大正2年12月釧路の大火に遭って焼けてしまったようです…(/ヘ ̄、)グスン
京都国立博物館の鞘は後に作ったもので、その鞘には大正2年の火災のことが書かれているそうです
刀は焼け跡から取り出されて、打ち直されたものを展示してあるはずですが、そのコトにより重要文化財指定から外れてしまったようですね…( ̄▽ ̄;)!!ガーン
ちなみに脱藩時に龍馬が帯刀していたのは
肥前忠弘(ひぜんただひろ)
コチラは模造刀でこの記念館に展示はされてませんので(^^;;
肥前忠弘といえば、龍馬の盟友とも言われ、軍艦奉行の勝海舟のボディーガードまで勤めた、あの人斬りで有名な
岡田以蔵の愛刀でもありました!
実はこの刀は後に龍馬から以蔵に、又は龍馬から半平太に、そして以蔵に渡り、暗殺に使われたとも言われているようですね
!(◎_◎;)
他にも脱藩寸前に行動が兄にバレて、脱藩前から持っていた「肥前忠弘」を1度兄に没収され、脱藩時に姉が龍馬に渡したとも言われてます
もう1つの説では
脱藩前に刀(肥前忠弘)を兄に没収され、脱藩時姉が兄権平の刀を渡したとも言われてます
龍馬脱藩後、役所に権平の刀紛失届けが出されています
そして龍馬脱藩後、姉お栄が刀紛失の名目で自害しています(・_・;
その言われている死亡日も本当の死亡日ではないようです… "σ(._.@)
墓も坂本家には入れないので別の場所に埋葬され、後に坂本家に入れたと言われてます
本当のところ、脱藩の重罪を坂本家に及ばせないため1人で責任をかぶり自害したとも言われています
このような経緯から、それが陸奥守吉行だと言う説もありますが、真実は分かりませんね
σ(^_^;)
ですが、脱藩時の龍馬は、やはり肥前忠弘
帯刀説が妥当ではないかと思いますがどうでしょう?(^^;;
コチラは龍馬が寺田屋にて、伏見奉行の捕り方に囲まれた時に、龍馬の警護に付いていた長州藩の槍の使い手、三吉慎蔵と共に難を逃れた際に使用し、龍馬を守ったスミス&ウエッソン社製・第2型アーミーの32口径6連式ピストル(全長25㎝)のピストル!
発砲の際に深手を負いましたが…
ちなみにコチラの2型のピストルは長州藩の
高杉晋作より寄贈されたピストル!
コチラのピストルは逃走の際に投げ捨ててしまったので現存はせず、コチラの龍馬記念館に展示されているのは同等の真物品!
ちなみに龍馬はもう一丁ピストルを持っていました!
それがこの画像にある下のスミス&ウエッソン社製・第1型1/2ファースト・イッシューの22口径5連式(全長17cm)のピストル!
コチラは薩摩藩に寄贈されたようです(*^-')b
龍馬は剣の達人でもありましたが、時代を先取りしてピストルも懐に忍ばせていたようです(^.^)
みなさんも龍馬といえばこの画を思い浮かべる方も多いと思われますが、この画の龍馬が右手を懐に入れているのは、龍馬が大切にしていた懐中時計を握っているとか、先ほどの小型の22口径を忍ばせていて、それを握っているとか、寺田屋にて襲撃を受けた際に発砲して負った傷を隠す為とか…
その辺も諸説色々言われていますが、それを想像するだけでも楽しかったり(^-^)
続きまして
コチラは龍馬が近江屋の屋根裏部屋にて刺客に襲われた時に、正に龍馬の座る後ろにあったと言われている掛け軸!
矢印の部分に血痕がクッキリと!(◎_◎;)
※コチラは複製 真物は京都国立博物館!
暗殺当夜、龍馬が奥で掛け軸を背に、慎太郎が対座するようにご覧のような位置関係だった時に襲われたと推察されてます
掛け軸の血痕の位置と龍馬が、ご覧ように座っていた状態で額を切られた際の血痕の高さの位置が見事に一致するようです
( ‘-’ )( ,_, )
うんうん
ちなみにコチラは慎太郎と龍馬の血痕が残された金屏風!
コチラも複製 真物は京都国立博物館!
その他にも龍馬が兄権平、姉乙女に宛てた
手紙の数々…
コチラは見学者多数で撮影断念(>_<)
そして2階では
先ほども掛け軸の時に触れましたが、龍馬が正に暗殺されたあの近江屋の屋根裏部屋が
再現されてました ぉお!!(゚ロ゚屮)屮
この部屋で先ほどのように慎太郎と対座してるところを襲われたのですね(・_・;
本来であれば近江屋が、坂本龍馬のために、土蔵を改造して用意した隠れ家にいたはずでした
この土蔵を改造した部屋は、万が一の時には土蔵から梯子(はしご)を使って、裏の稱名寺
(しょうみょうじ)に逃げられるようになっていたといわれています
今思えば、不幸なコトにこの日の龍馬は風邪気味で、たまたま母屋の2階の奥の八畳間の屋根裏部屋にて、訪ねてき中岡慎太郎と話をしていたようです
そしてあの惨劇を向かえてしまうワケで……
龍馬暗殺に関しては諸説色々と語られ、各々が独特な「龍馬暗殺の真相」を紐解こうと試みていますね(^_^;)
ここで龍馬暗殺を改めて振り返ると…
慶応3年(1867年)11月15日、奇しくも33歳の誕生日に龍馬は暗殺されました
(/ヘ ̄、)グスン
夜五ツ半(午後9時過ぎ)ごろ、龍馬は京都近江屋の2階の一室で同志、中岡慎太郎と話していました
突然、数人の刺客が押し入り、2人は息を飲む間もなく頭を斬りつけられ、龍馬は床の間に置いてあった刀を取りますが、遅く、さらに二の太刀、三の太刀を受けました
龍馬は脳しょうが吹き出すほどの重症を受けその場で絶命!
慎太郎も2日後に息絶えました…
薩長同盟、大政奉還を成し遂げ、世はまさに龍馬らの導きによって動きだそうとしていた矢先、もし、この後も龍馬や慎太郎が生きていたら…
それにもまして気になるのは一体誰が、何のために龍馬を殺したのか……
それでは諸説を紹介!
ー京都見廻組説ー
京都見廻組は京都市中の取り締まりを主任務とする幕府の警備隊!
幕府にとって倒幕を図る龍馬は敵!
さらに寺田屋事件で龍馬が幕吏数人をピストルで殺傷したとして行方を追っていました
今井信郎や渡辺篤ら元組員が後年、龍馬襲撃を証言しており、最も有力な説とされますね
ただ、それぞれの証言には食い違いが見られ「売名行為では?」との指摘もあって、真実と結論付けることはできません
ー新撰組説ー
新撰組は、京都守護職・松平容保公預かりで近藤勇を筆頭局長に京の町の治安維持に当たっていました
見廻組同様、幕府を護る立場で、多くの倒幕の志士を殺害しています
あの有名な攘夷派を討ち取った
「池田屋事件」でその名を轟かせました
元新撰組の伊東甲子太郎が暗殺現場に残された鞘(さや)を見て新撰組の原田左之助のものと証言したことなどから、真っ先に疑いが掛かりました
しかし、その後の調べでは処刑前の近藤勇をはじめ、隊士の誰もが関与を否定
後には伊東ら高台寺党の仕業では、との説も出て、諸説入り乱れる中で可能性は薄れました
この説は、油断をしていたとはいえ、剣豪の龍馬と慎太郎を倒していた刺客にしてはあまりにずさんに証拠の品々を残しており、ワザとらしささえ感じ、見るからに新撰組に罪をなすり付けようと怪しげな空気がビンビンします(ー ー;)
ー薩摩藩黒幕説ー
龍馬の味方のはずの薩摩藩
しかし、断固、武力による討幕を主張していた薩摩藩にとって、平和路線を訴える龍馬は革命後の地位確保のためにも目障り!という推察のもと唱えられている説ですね
黒幕には大久保利通や木戸孝允、西郷隆盛らが挙げられ、伊東甲子太郎率いる高台寺党に指示をしたのではないか?
あるいは見廻組に龍馬の所在を教えたなどと実行犯についてもさまざまな意見が出ている説
ー紀州藩説ー
慶応3年4月、龍馬が搭乗していた伊呂波丸と紀州藩の明光丸が衝突(伊呂波丸号事件)
紀州藩は巨額の損害賠償金を海援隊側に支払うことになりました
交渉に公法を持ち出すなど龍馬の働きが大きかった
このため、紀州藩が報復に龍馬を暗殺したとする説
後日、紀州藩の仕業と決め込んだ海援隊の陸奥源二郎が、同志とともに紀州藩士、三浦休太郎を襲撃する事件(結局、失敗に終わりましたが…)も起きていますが、真偽のほどは分かりません
ー土佐藩・後藤象二郎説ー
龍馬の「船中八策」を山内容堂に提案し、大きな功績を挙げた土佐の後藤象二郎
龍馬がいなければ手柄を独り占めできるともくろんだ後藤が、暗殺を企てたとする説
中岡慎太郎が死ぬ前に残した証言では、刺客は「こなくそ!」と斬りつけてきたと言われています
これは四国の方言で「この野郎!」の意味
奇しくも、同じ土佐藩士に殺された可能性も…
代表的なものを5つ上げてみましたが、これ以外にも「中岡慎太郎説」なんていう仮説もあったり(^_^;)
まぁごくごく一般的には京都見廻組説が有力なのでしょうが、殺人というのは得てして、その人物が居なくなって1番得をする人間や恨み辛みを持つ者が疑わしくなるのは何時の時代も変わりないコトを念頭に入れた目線で考えると…
「紀州藩説!」
「後藤象二郎説!」
この2つの説もまんざらでもなくなってきませんか?(^^;;
なぁ〜んて幕末の事件をそれなりに推察するのもなかなか楽しかったりします
( ´艸`)ムププ
そんなコトを考えながら龍馬記念館を後にし数百m降りて行くと…
坂本龍馬像が雄大な太平洋の広がる桂浜の前に「日本の夜明け!」を胸に力強く立つ姿が!(^。^)
ようやく実物が見れたぁ(^o^)/
龍馬も眺め、姉、坂本の仁王様と謳われた
乙女と剣術修行に明け暮れたよもしれぬ桂浜!(*^-')b
そんな初めて訪れた幕末の革命児
「坂本龍馬生誕の地!」
しかも龍馬の誕生月に訪れるコトが出来ました( ´艸`)ムププ
その世界観を存分に味わい土佐を後にしましたとさ!(^_−)−☆
大阪・京都編に続く!♪チャンチャン♪(^。^)