• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

れいキチのブログ一覧

2014年11月12日 イイね!

晩秋幕末探訪記!〜京都編〜第2部

晩秋幕末探訪記!〜京都編〜第2部毎度ぉ〜♪れいキチですっ!(‘ー’*)ゞ
朝は冷え込みましたが今日は気持ちの良い秋晴れ!


昨日は京都壬生の新撰組屯所での新撰組発足のお話と、それに纏わる芹沢一派、近藤一派のお話をしましたが…

その屯所の八木邸で壮絶なお話と「奥の間」にての臨場感溢れるガイドさんの案内に興奮し、その後に八木邸隣の和菓子屋「鶴壽庵」での抹茶と屯所餅(´~`)モグモグ


その興奮も冷めやらぬまま新撰組屯所八木邸から徒歩5分ほどで




新撰組のお墓「光縁寺」

拝観時間 AM9:00~PM5:00
拝観料¥100

中に入るとコチラにも案内人の方がおり、
新撰組のお墓に纏わるお話をしていただけます


新撰組の墓前で手を合わせ「光縁寺」を後にし、再び来た道を戻り、もう1つの屯所「前川邸」へ訪れましたが、今は前川邸は個人の住居になっている為、公開はしておらず、土日祝日(AM10:00~PM5:00)のみ、玄関(隊士の行き来した当時の勝手口)で、前川邸オリジナルグッズ他、新選組に関するグッズを販売している感じです(^^;;





前川邸を後にし、壬生寺にて近藤勇像を拝見しようと思いましたがコチラはタイミング悪く、観光客が大殺到!(>_<)


仕方なくコチラから少し離れ、徒歩で15分程ありますが、昨日も「芹沢鴨暗殺事件」で触れました島原の花街、揚屋「角屋」に向かいます(^_^;)



その壬生寺を離れようかという道中


壬生寺の傍に建てられた石碑を収めながら1枚と思いスマホ構えたその時!(◎_◎;)















鋭い方はすぐにお気づきかと(^◇^;)



前期3Drの白黒レビン!しかも当時ナンバー!


まさか!の遭遇 ぉお!!(゚ロ゚屮)屮
きっと光縁寺にて新撰組の墓前にて手を合わせたご利益⁉︎


こういう偶然の出会いもあるのがブラリの
良いところ( ´艸`)ムププ


別な意味で興奮を覚え、再び「角屋」へ!
σ(^_^;)


山陰本線沿いの街中をテクテク歩き、丹波口駅を過ぎ、中央卸売市場を過ぎればすぐの








島原花街の「角屋」に到着!

あの長州藩士「久坂玄瑞」が密議の場所としても使用していた証が!ぉお!!(゚ロ゚屮)屮


入り口には




「新撰組刀傷の角屋」という石碑が!





実際、柱に刀傷らしきモノが!(◎_◎;)


新撰組の誰かが酔って付けたのでしょうか?





刀を格納する為の引き出しもありました時代を感じさせます ( ‘-’ )( ,_, )うんうん





さすがは島原花街1番の揚屋だけあって、台所も広〜い(^.^)


さらにズ〜イッと中へ進むと




大変立派な大宴会場の「松の間!」
ぉお!!(゚ロ゚屮)屮





その立派な松の間から望む大庭園の、これまた立派な白砂の上に張り出した龍に見立てた「臥龍松」の「雄姿」が見事です!
この庭の「臥龍松」を望めるコトから「松の間」との名がついています


ちなみにこの「臥龍松」
初代の「臥龍松」は枯れてしまい現在は
2代目であります


角屋が壬生の屯所から近かったこともあり、新撰組局長級の宴会もたびたび催されたと
言われています

あの近藤勇も遊んだと言われ、新撰組は、
玄関の刀掛に刀を置かず部屋に持ち込んでいたようで、緞子の間、青貝の間に3か所、前庭の柱などに刀傷をつけています

1863年6月、新撰組初代筆頭局長・芹沢鴨は乱暴狼藉を働き、角屋主人に7日間の閉店を申し付けた(角屋の暴挙)1866年、新撰組がお代も払わなかったため、10代・徳右衛門は1ヶ月間の営業休止を行ったようです


「角屋」での新撰組と勤皇の志士との間での乱闘はなかったようですが、ただ、芹沢鴨は「角屋」での宴会の後に粛清されたと言われています

1863年9月16日(18日とも)、新撰組は島原の角屋で宴会を開きました

それがこの「松の間」と言われています

その後、芹沢らは、芸妓と八木家で再び宴を開き、深夜、寝込を襲われ粛清を受けました

刺客の中には土方歳三、沖田総司らも加わっていたと言われています


この「松の間」にてガイドさんの案内により芹沢鴨は粛清当夜はマトモに歩けないほどに酔い、八木邸の屯所まで駕篭に揺られて帰ったとか?


実はこの「松の間」




コチラだけ空調設備が整っています(^^;;



というのも
大正14年(1925)に一部焼失してしまい、翌年にそのままの形で再建した経緯がある為、
「松の間」だけ国重要文化財から外れています


「角屋」は明治5年(1872年)まで営業した後、お茶屋に編入され、昭和60年(1985年)まで空調設備の整った
「松の間」だけを宴会に使用していました


昭和27年(1952年)、島原が開かれて以来現存する唯一の揚屋の遺構として国の重要文化財に指定されましたが、先ほども触れましたように、「松の間」のみは大正末期、火事により焼失してしまい、指定されず、2012年に登録有形文化財に登録となっているようです


一般公開をされてなかった「角屋」でしたが平成元年(1989年)より1日30人限定で内部公開が始まったようです


更に平成10年(1998年)4月より
「角屋もてなしの文化美術館」として開館され平成19年(2007年)現在家名は十四代目に継承されており、当代が館長を勤めているそうです

現在一般公開は1階部分のみ
損傷部分の保存を考え、2階座敷見学には事前予約が必要となっている。所蔵品は約1万1千点にのぼるとか!(◎_◎;)




この「松の間」から望む2代目「臥龍松」をご覧ください


茶室屋根の赤い矢印部分に高架が見て取れると思います


実は「松の間」でのガイド中にもその高架を通過する山陰本線の「音」でガイドが中断するほどでした(ー ー;)


隣接する山陰本線高架部分の騒音を巡り、JR西日本との間で長らく係争状態にあったが、平成20年(2008年)に、コンクリート製の高架に砂利を入れる等の対策をとることで騒音の軽減を図るという内容で和解に達したそうですよ(^_^;)


何にせよ時代の流れと共存しながらの文化遺産を受け継いでゆくというのは、色々な障害を乗り越えてこそなのだなと実感させられました





昨日の壬生の「八木邸」に続き「前川邸」
「光縁寺」と、新撰組の志士たちや西郷隆盛久坂玄瑞なども贔屓にしていた
「角屋」と新撰組所縁の地の軌跡を辿りましたが、何処も「一見の価値あり!」


「まだ行ったコトないよ」

という方

「改めて」

という方も機会があれば是非訪れてみてくださいね!(^_−)−☆


散歩コースとしても適度な距離ではないかなと思います(^ ^)
前川邸は土日のみの一般公開なのと「角屋」の2階を見学予定されたい方は事前予約を忘れずに!



明日からはもう少し南下して、
文久2年(1862年)に発生した薩摩藩の
尊皇派志士の鎮撫事件や
慶応2年(1866年)に発生した伏見奉行による坂本龍馬襲撃事件で有名で、その坂本龍馬も常宿としていたと言われている


「寺田屋」


そちらをご案内したいと思います(^O^)




〜京都編〜第3部へ ♪チャンチャン♪(^ ^)

Posted at 2014/11/13 09:52:36 | コメント(1) | トラックバック(0)
2014年11月11日 イイね!

晩秋幕末探訪記! 〜京都編〜第1部

晩秋幕末探訪記! 〜京都編〜第1部昨日はさぶくて、今日はまた暖かい…


って予報だったのにさぶい:;(∩´﹏`∩);:

もうそんな急激な寒さに即座に対応出来る若さはありませんので徐々にお願いしたい…

そんなれいキチですσ(^_^;)


どうでもイイけど、昨日は一気に冷え込んだせいか古傷の腰と大腿骨が……(~_~;)


暑がりな吾が輩は暑いのが苦手で動きが鈍くなりますが、寒いのは寒いので古傷が悲鳴を上げ始め、動きが鈍く……
どっちにしても鈍いやろ!ヾ( ̄o ̄;)オイオイ



さて、そんなじぃじぃ話は置きまして、
いよいよ京都編に突入!(^o^)/


ちなみに京都編は巡った所も沢山ありますので幾つかに構成を分けてお送り致します(^^;;




まずは宿泊先のホテルにて、窓から気持ちよく日の出を見ながら起床!



これから臨む京都といえば、至る所に幕末の志士たちの軌跡が散りばめられておりますので、時間の許す限り廻って行く為には、まず腹が減っては何も出来ませんので(^_^;)





豪華なウィンダミアホールにて朝食を!


ビュッフェスタイルでホテルでしたので、らしくパンで洋食っぽく決めようかとも思いましたが、柄でもないので




思いっきり(^^;;
しかも朝から取り過ぎじゃねぇ?(・_・;


まぁこれから京の都にて幕末の志士たちの
軌跡を辿るにはガス満にしておかねば…
(´~`)モグモグ



京都の吾が輩の訪れたいリストに入ってる中で、大阪から向かうのに1番近い場所から順に廻って行くコトに(*^-')b





まずは壬生寺のすぐ近くの




現在は和菓子屋「鶴壽庵」さんとなっておりまして、代表銘菓は「屯所餅」




その横にありましたぁ(^o^)/


新撰組最初の屯所八木邸!(^ ^)


コチラは¥1000(抹茶、屯所餅付き)で、
ガイド付きで見学が可能!
八木邸内部は撮影厳禁(>_<)

八木邸は昭和58年に重要文化財に認定されたようです

ガイドさんが

「天井を見てください、とても低い所が有りますね!」

「今の若い人は立ったままで通れない高さです!」


それはこの八木邸の中では「刀」を振り回してはダメ、抜いてもダメですという事で、高さ制限があったとか?

そんな話を進めながら「奥の間」に案内され


「どうぞ楽にしてください」


と着座を促され、その「奥の間」にてガイドが始まりました
※ここで非常に残念なコトに八木邸内部は撮影禁止(☍﹏⁰)。



新撰組が京都にやってきたのは「152年」前の「1862年」でした。

その頃の京都は尊皇攘夷の嵐が吹き溢れ、治安が悪く、大変怖い不安定な都となっていたようです

その治安維持の為に幕府は「守護職」を儲け会津藩主「容保公」が
担当しますが、そこに「徳川14代将軍」が京都に来る事になりました

しかし、その時の「武士」はサラリーマン化して「刀」が使えません

そこで「江戸」で集められた「腕自慢」の武士達が「234名」が「中仙道」を通って
「16日」かけて京都にやってきたそうです
当時、脱藩者、剣士、農民、儒者などの素性の知れぬ浪士の集まりの為、表街道の東海道を使用せず、中山道を使用させたとも言われています


引率は「清川八郎」だったそうで、着いたところがこの壬生でした

ところが清川の本当の狙いは将軍警護ではなく尊皇攘夷先鋒で、それらの行き違いや思いの違いがあり、すぐ江戸に帰る命令が出て
「2日滞在」で江戸に引き返す事になったそうです

しかし、江戸に帰らず「13名」が幕府の為に働きたいと言って京都に残りました


それが神道無念流の芹沢一派と天然理心流剣術道場・試衛館の近藤一派の2グループでした

それが後の「新撰組」になるのですが、
当初は清川と袂を分け、清川が江戸に帰った後ですので食べて行けず「会津公」に嘆願し許可が出て、この八木邸の前の
「前川邸」に「松平家お預・新撰組」の
看板を立てたそうです


これが新撰組のスタートでした!


旗揚げ当初は天狗党の前身である玉造組に参加し、玉造村(現茨城県行方市玉造)を拠点として横浜で攘夷を決行するため石岡、潮来近辺の豪商、豪農を後世までトレードマークだった鉄扇片手に回り、資金集めに奔走した芹沢と武士らしい道筋を辿ったのに対し、試衛館にて天然理心流剣術を学んでいるとはいえ片や東京多摩の田舎の百姓上がり…
※後に芹沢は献金強要の罪で入獄したが安政の大獄の恩赦で出獄


芹沢一派は郷里に戻れば再び獄舎に戻される者も!


近藤一派は百姓に戻り田舎での畑仕事が…


互いに郷里に戻る理由がない…というより、むしろ戻りたくない立場から残留をしたとも言われています(^^;;


しかし、芹沢一派と近藤一派のその立場の差は、先ほども述べたように歴然でしたので
神道無念流の「芹沢鴨」が新撰組の
初代筆頭局長の座に着いたようです


そしてその後は、隊員募集し、そこに荒くれ者が入隊し人員が増え、問題が噴出しはじめたので「土方歳三」が「局中法度」なる規則をつくり新撰組を管理しました

その法度違反がもとで近藤一派との度重なる対立関係から皆様ご承知の
「芹沢鴨暗殺事件」が起こるわけですが
芹沢・新見などのグループはこの部屋に
「6人」で住んでいました

近藤・土方のグループは向かいの前川邸

1863年(文久3年)9月18日の、まだ夏の暑さが残る雨の夜に「松平容保」の圧力を受けていた近藤一派の土方グループが、島原花街の揚屋「角屋」 (新撰組や西郷隆盛、久坂玄瑞なども贔屓にしてい料亭)にて「芹沢鴨」を接待し、たらふく酒を飲ませて泥酔させ、屯所の八木邸で寝込みを襲い殺害したのは…


正に吾が輩たちがガイドさんの話に耳を傾けているこの「奥の間」!(◎_◎;)


そこの壁までが「血」で真っ赤になっていて壁の塗り替えや修理が大変だったそうです……


ガイドの方は、正に吾が輩たちが座って聞いている部屋のアチコチを指差しながら話し、さらに…


泥酔のところを斬られたので血飛沫が天井まで上がり、天井だけ貼り替えをしていな為、未だにその時の血飛沫が残っています!
(・_・;

と、ガイドさんが指差す天井へ目を凝らすと……



たしかにアチコチに血飛沫が:
(;゙゚'ω゚'):プルプル


「新撰組」がこの「八木邸」に住んで
「2年半」が一番輝いていた時代だったそうです


「禁門の変」を含めて長州・薩摩・あるいは土佐など、尊皇攘夷派の武士との熾烈な戦いはこの「八木邸」の「この部屋」から「近藤も土方も沖田」も出陣して行ったそうです

その後、新撰組は「八木邸」から
「西本願寺」へと本体を移しました

ところが「お寺」と「新撰組」は上手く行かず「お寺」がお金をだして「不動村」という場所に屯所を移転するわけですが、
すぐ戊辰戦争が始まり戦いに敗れた
「新撰組」は東へ東へと敗退し後退していき幕末から明治へと時代は移り変わっていきました


平山五郎と芹沢の愛人のお梅はこの
「奥の間」で即死、芹沢は斬りつけられながらも起きあがり、隣の部屋へ逃げ込みますが部屋の入り口にあった文机につまずいて倒れたところを、上から襖をかぶせられて自由を奪われ、滅多突きにされて殺されてしまいます!(◎_◎;)

八木邸には、このときの文机が今でも置いてあり、またそのときに出来たという鴨居にも刀傷が残っています ぉお!!(゚ロ゚屮)屮


当夜一緒にいた平間重助は逃亡し、そのまま行方知れずとなったまま…


また、平山と寝ていた糸里は、たまたま厠へ行っていたため無事だったようです(^_^;)

暗殺のあった翌朝、近藤勇が何も知らない様子で八木邸へ駆けつけ、長州藩の放った刺客の仕業と断定しました


この事件の後、新選組は近藤勇以下試衛館の面々が支配するようになります


芹沢鴨に関しては度重なる乱暴狼藉が語られていますが(代表的なものが角屋での暴挙)一面ではスケールの大きい人物だったようで、長倉新八の回想録では、「国家有事のときに横死したことは、国家的損害だったと心ある者の一致するところであった」と述べられています


どうやら酒が入るとダメになる酒乱癖があったようでして、呑むと人格が乱れてしまう方だったようです(^_^;)


そんな壮絶な暗殺劇を、正にその凶行がなされた部屋で聞くのも臨場感タップリでして
:(;゙゚'ω゚'):プルプル


撮影が厳禁なので、それが画像でお伝え出来ないのが残念ではありますが



近藤勇



芹沢鴨



土方歳三



沖田総司

そんな新撰組の志士たちのそれぞれの思いを感じるコトが出来た貴重なお話と時間!


思い思いに色々感じながら…




八木邸隣の和菓子屋「鶴壽庵」さんで頂く
抹茶と屯所餅がまた「最高」でした!(>_<)
皆様も行ったコトがない方は機会があれば是非とも1度足を運び入れてみてください!(^_−)−☆


次回は、芹沢鴨が暗殺当夜に新撰組に接待を受けたと言われている

「角屋」

コチラをご案内したいと思います(^ ^)



続〜京都編〜第2部へ



♪チャンチャン♪(^。^)

Posted at 2014/11/12 10:52:11 | コメント(3) | トラックバック(0)
2014年11月11日 イイね!

晩秋幕末探訪記! 大阪現代紀行編

晩秋幕末探訪記!  大阪現代紀行編昨日とは打って変わってさぶい:;(∩´﹏`∩);:
都心付近だけ悪天候な上に昨日より7C°近く低いとか(ー ー;)


愛機の暖機に時間を要する季節になって参りました…ども れいキチですσ(^_^;)


さて、昨日は車のコトからほぼ掛け離れた自己満World全開Blogでしたが、本日も昨日の続編で幕末のお話かと思いきや、宿泊先の夜の大阪での「ぶらり」話と、大阪ならでは?のお話を(^_^;)
まぁ ちぃ散歩的な感覚でご覧いただければ幸いです(^^;;


昨日は高知にて龍馬記念館&桂浜にて坂本龍馬World全開でお送りしました!


宿泊先が高知ではないコトで、チェックインの時間と駐車場の空き状況も気になるコトから早々に高知を後にして、来た道を再び戻る戻る ダッシュ!≡≡≡ヘ(*--)ノ
高知ではまだまだ気になる所が沢山ありますので、今度はもっとゆっくりと訪れたいと胸に決め…


4時間程掛けまして




8ヶ月前に訪れた大阪、難波駅隣のコチラ宿泊先のホテルに到着!




30階建て豪華なホテル‼︎(゚ロ゚屮)屮


予定チェックイン時刻を1時間押してましたので駐車場が気になりましたが、何とか空きがあり自走駐の6階に駐車!




宿泊客も多く、チェックインに30分程要しました(>_<)


部屋のカードーキーを渡され29階との案内にてEVにて29階へ!




立派な部屋です!(^-^)


その部屋の窓から望む景色は…




眺め良く大阪の街が望めます!(*^-')b




夜になると都会のイルミが何とも幻想的ではありませんか( ´艸`)ムププ


ここで、そんな大阪の街中を走っていて少し戸惑ったお話を(^_^;)




コチラの画を見てください!

分離帯を境に右折レーンがあるのが分かりますか?

ちなみに同じような状況で反対側には左折
レーンがあります


吾が輩、これが分からなくて右折したいのに分離帯より中側の右端を走っていたら右折出来ず、直線するしかなく(・_・;


で、なるほど!

右左折はあの分離帯より外側を走らなくては曲がられないんだなと気づき、分離帯より外側のレーンを走りますが……


まぁ路駐の車両が多く思うように走れなくてようやく自分が右折したい交差点に差し掛かると……


よく見たら分離帯より中側の右端に右折レーンがあって曲がってる車両いるし!(◎_◎;)


しかし場所によっては、やはり分離帯より外側を走らなければ曲がれない所もあったりで
(ー ー;)


画からも見受けられますが、表示板をキチンと見てなかった吾が輩が気づけなかっただけかもしれませんが、吾が輩の生息域方面にはあまり見られない光景と走り慣れない道に
戸惑いまくりましたσ(^_^;)
そういえば名古屋に赴いた時にも1番右端は直進で右折レーンは2番目なんてコトあったな…(^^;;


道路事情もその土地の特徴があったりもしますので新たな発見⁉︎だったり(^^;;


そんなこんなありながらホテルの部屋に到着し小休止してから、夕食を食べに大阪の夜の街へ徒歩で出撃!(^o^)/


場所が場所だけに…




やはりまた来てしまいました道頓堀!
( ´艸`)ムププ


ここへ来たらとりあえず…




たこ焼き!
今回はチーズとソースのハーフ&ハーフで(*^-')b


8ヶ月前にも食して分かってはいるコトですが相変わらずのふわトロで


まいうぅ〜(●>艸<)美味!!
学習能力ゼロなので口の中火傷しまくりww




で、ソースタップリのお好み焼きも(*^-')b


しかし、何時来てもこの道頓堀は大勢の人で賑わっていて活気があり、何か元気を貰えます(^-^)


異国の方も大変多く、これ吾が輩、出先ではよくあるコトなのですが、異国の方に道を尋ねられたりなど3度も話しかけられました
σ(^_^;)言葉の壁の前に自身が土地勘ないしww



仕事終わりで千葉→高知→大阪と、ほぼ丸1日ステアを握っていたせいか、食したら一気に程よい疲労が襲ってきまして(^_^;)



次の日の予定も考え、ホテルのお部屋に戻り早々に眠りましたとさ…


グゥ―(-c_,-。)―・・・zzZ



次回こそ京都編へ(笑)



♪チャンチャン♪(^_^;)

Posted at 2014/11/11 09:57:27 | コメント(1) | トラックバック(0)
2014年11月09日 イイね!

晩秋幕末探訪記! 革命児生誕の地編

晩秋幕末探訪記! 革命児生誕の地編おはようございます♪(^.^)


またまた3日振りのBlog更新となりましたが、この3日間、吾が輩にとって意味のある、かなり内容の濃い時間を過ごしてきましたので
時系列にご紹介を(^_−)−☆
車のコトはあまり出てこないかな…σ(^_^;)


実は、とある場所に身内の建墓に出向くコトになりましてσ(^_^;)



その土地が吾が輩にとっては凄く尊敬する人物の生誕の地であり、前々から1度は訪れてみたいと思っていた場所だったコトから、こんなチャンスを逃す手はないと、職場には事前に訳を言って連休をいただき、建墓を兼ねての探訪旅行を決行するコトに(^-^)



まず、近頃の初号機のメンテに力を注ぎ込んでいたのには、実はこの3日間の予定が深く関係していたコトを断っておきましょう!(^_^;)




スタート地点は前回の8ヶ月前に訪れた関西探訪の時と同じく


仕事終わりで

♪開いてま〜すあなたのロー◯ン♪





メーターは253136km!
燃料計もほぼ?Full Max(`・ω・´)キリッ

これから目指す土地には本来鉄道か航空機を利用して赴く予定でしたが、生憎🎫が取れず...φ(。。*)イジイジ...
噂によると吾が輩が飛行機乗れないとか(^_^;)


そんな関係で急遽初号機にメスを入れまくった次第でありまして(^^;;
結果、蓋を開ければ酷い有様で、皆様にお恥ずかしい姿をお見せしましたがσ(^_^;)


なもんですから、ボヤボヤと旅行気取りだけでノンビリと…いうワケにはいきませんので
ダッシュ!≡≡≡ヘ(*--)ノ





定番の1回目の🚻休憩(^^;;




2度目の🚻休憩で浜名湖SAへ寄った以外はほぼ不眠不休状態で草津SAへ!
( ̄。 ̄)ボ~~~~ッ


さらに走れ〜走れ〜と…ダッシュ!≡≡≡ヘ(*--)ノ



これは8ヶ月前の関西旅行の時の画!



8ヶ月前は近くで初号機と撮影するだけで終えたパールブリッジという名の明石海峡大橋を渡り本州を離れ淡路へ!







なるとのうず潮で有名な大鳴門橋!

コチラを渡れば四国入り!
吾が輩、初の四国入り(^.^)


初の四国入りではありましたが、感動に浸っている余裕などなく、この後の予定も詰まっておりますので…ダッシュ!≡≡≡ヘ(*--)ノ




最終目的地の高知料金所を降り、まずは本来の目的である建墓へ!


内容が内容だけに画像等は一切ありませんが無事に済ませるコトが出来、一安心
ホッ…(*゚д`)=з


ちなみに高知出身の有名な方は?




高知東生さん!

芸名にも高知と入っているくらいですからご存知の方も多いかな?(^_^;)


それから龍馬伝にも出演されていた




広末涼子さん!




島崎和歌子さん!

このお2人も高知出身ですね(^-^)



もうお気づきの方も多いとは思いますが、
ココまで来たからには、あの場所?に訪れないワケには行きませんので…( ´艸`)ムププ












桂浜近くに建てられている



坂本龍馬記念館‼︎(^o^)/




ここまで820km、11時間!やっと念願叶ったぁ〜(>_<)


入り口入るなり




キャァ〜♪(>_<)♪

中へ入ると、もう吾が輩にとってはヨダレもんのお宝ばかりで興奮の坩堝‼︎(◎_◎;)




龍馬が描いた艦隊による戦闘の絵!




龍馬の愛刀


陸奥守吉行‼︎(むつのかみよしゆき)


残念ながら西郷隆盛を介し、兄権平より譲り受け、刺客の前に倒れるまで肌身離さず持っていた陸奥守吉行ではなく、その愛刀の同作者、刀鍛冶の吉行(本名 山岡平助)が手掛けた同等の陸奥守吉行(^^;;


ホンモノの陸奥守吉行の鞘には刺客から力強く振り下ろされた刀を辛うじて受けた刀傷が生々しく残っています


そのホンモノ愛刀陸奥守吉行は
坂本家が大切に持って居て、明治31年一家が北海道へ移住した時も持って行いったそうです(゚ロ゚屮)屮


北海道では坂本龍馬遺品展覧会などをやった時、その中に切り込まれた刀の鞘も展示され死ぬまで持っていた小型(長さ17センチ)のピストルなども写真に写っていましたが、
残念ながら大正2年12月釧路の大火に遭って焼けてしまったようです…(/ヘ ̄、)グスン




京都国立博物館の鞘は後に作ったもので、その鞘には大正2年の火災のことが書かれているそうです


刀は焼け跡から取り出されて、打ち直されたものを展示してあるはずですが、そのコトにより重要文化財指定から外れてしまったようですね…( ̄▽ ̄;)!!ガーン


ちなみに脱藩時に龍馬が帯刀していたのは





肥前忠弘(ひぜんただひろ)
コチラは模造刀でこの記念館に展示はされてませんので(^^;;


肥前忠弘といえば、龍馬の盟友とも言われ、軍艦奉行の勝海舟のボディーガードまで勤めた、あの人斬りで有名な岡田以蔵の愛刀でもありました!


実はこの刀は後に龍馬から以蔵に、又は龍馬から半平太に、そして以蔵に渡り、暗殺に使われたとも言われているようですね
!(◎_◎;)



他にも脱藩寸前に行動が兄にバレて、脱藩前から持っていた「肥前忠弘」を1度兄に没収され、脱藩時に姉が龍馬に渡したとも言われてます


もう1つの説では

脱藩前に刀(肥前忠弘)を兄に没収され、脱藩時姉が兄権平の刀を渡したとも言われてます
龍馬脱藩後、役所に権平の刀紛失届けが出されています


そして龍馬脱藩後、姉お栄が刀紛失の名目で自害しています(・_・;


その言われている死亡日も本当の死亡日ではないようです… "σ(._.@)


墓も坂本家には入れないので別の場所に埋葬され、後に坂本家に入れたと言われてます
本当のところ、脱藩の重罪を坂本家に及ばせないため1人で責任をかぶり自害したとも言われています

このような経緯から、それが陸奥守吉行だと言う説もありますが、真実は分かりませんね
σ(^_^;)


ですが、脱藩時の龍馬は、やはり肥前忠弘
帯刀説が妥当ではないかと思いますがどうでしょう?(^^;;






コチラは龍馬が寺田屋にて、伏見奉行の捕り方に囲まれた時に、龍馬の警護に付いていた長州藩の槍の使い手、三吉慎蔵と共に難を逃れた際に使用し、龍馬を守ったスミス&ウエッソン社製・第2型アーミーの32口径6連式ピストル(全長25㎝)のピストル!
発砲の際に深手を負いましたが…


ちなみにコチラの2型のピストルは長州藩の
高杉晋作より寄贈されたピストル!
コチラのピストルは逃走の際に投げ捨ててしまったので現存はせず、コチラの龍馬記念館に展示されているのは同等の真物品!


ちなみに龍馬はもう一丁ピストルを持っていました!




それがこの画像にある下のスミス&ウエッソン社製・第1型1/2ファースト・イッシューの22口径5連式(全長17cm)のピストル!

コチラは薩摩藩に寄贈されたようです(*^-')b
龍馬は剣の達人でもありましたが、時代を先取りしてピストルも懐に忍ばせていたようです(^.^)




みなさんも龍馬といえばこの画を思い浮かべる方も多いと思われますが、この画の龍馬が右手を懐に入れているのは、龍馬が大切にしていた懐中時計を握っているとか、先ほどの小型の22口径を忍ばせていて、それを握っているとか、寺田屋にて襲撃を受けた際に発砲して負った傷を隠す為とか…

その辺も諸説色々言われていますが、それを想像するだけでも楽しかったり(^-^)



続きまして




コチラは龍馬が近江屋の屋根裏部屋にて刺客に襲われた時に、正に龍馬の座る後ろにあったと言われている掛け軸!





矢印の部分に血痕がクッキリと!(◎_◎;)
※コチラは複製 真物は京都国立博物館!




暗殺当夜、龍馬が奥で掛け軸を背に、慎太郎が対座するようにご覧のような位置関係だった時に襲われたと推察されてます


掛け軸の血痕の位置と龍馬が、ご覧ように座っていた状態で額を切られた際の血痕の高さの位置が見事に一致するようです
( ‘-’ )( ,_, )うんうん







ちなみにコチラは慎太郎と龍馬の血痕が残された金屏風!
コチラも複製 真物は京都国立博物館!


その他にも龍馬が兄権平、姉乙女に宛てた
手紙の数々…
コチラは見学者多数で撮影断念(>_<)


そして2階では




先ほども掛け軸の時に触れましたが、龍馬が正に暗殺されたあの近江屋の屋根裏部屋が
再現されてました ぉお!!(゚ロ゚屮)屮
この部屋で先ほどのように慎太郎と対座してるところを襲われたのですね(・_・;


本来であれば近江屋が、坂本龍馬のために、土蔵を改造して用意した隠れ家にいたはずでした


この土蔵を改造した部屋は、万が一の時には土蔵から梯子(はしご)を使って、裏の稱名寺
(しょうみょうじ)に逃げられるようになっていたといわれています


今思えば、不幸なコトにこの日の龍馬は風邪気味で、たまたま母屋の2階の奥の八畳間の屋根裏部屋にて、訪ねてき中岡慎太郎と話をしていたようです


そしてあの惨劇を向かえてしまうワケで……



龍馬暗殺に関しては諸説色々と語られ、各々が独特な「龍馬暗殺の真相」を紐解こうと試みていますね(^_^;)


ここで龍馬暗殺を改めて振り返ると…


慶応3年(1867年)11月15日、奇しくも33歳の誕生日に龍馬は暗殺されました
(/ヘ ̄、)グスン


夜五ツ半(午後9時過ぎ)ごろ、龍馬は京都近江屋の2階の一室で同志、中岡慎太郎と話していました

突然、数人の刺客が押し入り、2人は息を飲む間もなく頭を斬りつけられ、龍馬は床の間に置いてあった刀を取りますが、遅く、さらに二の太刀、三の太刀を受けました

龍馬は脳しょうが吹き出すほどの重症を受けその場で絶命!


慎太郎も2日後に息絶えました…


薩長同盟、大政奉還を成し遂げ、世はまさに龍馬らの導きによって動きだそうとしていた矢先、もし、この後も龍馬や慎太郎が生きていたら…

それにもまして気になるのは一体誰が、何のために龍馬を殺したのか……


それでは諸説を紹介!



ー京都見廻組説ー

京都見廻組は京都市中の取り締まりを主任務とする幕府の警備隊!
幕府にとって倒幕を図る龍馬は敵!
さらに寺田屋事件で龍馬が幕吏数人をピストルで殺傷したとして行方を追っていました

今井信郎や渡辺篤ら元組員が後年、龍馬襲撃を証言しており、最も有力な説とされますね

ただ、それぞれの証言には食い違いが見られ「売名行為では?」との指摘もあって、真実と結論付けることはできません


ー新撰組説ー

新撰組は、京都守護職・松平容保公預かりで近藤勇を筆頭局長に京の町の治安維持に当たっていました

見廻組同様、幕府を護る立場で、多くの倒幕の志士を殺害しています

あの有名な攘夷派を討ち取った
「池田屋事件」でその名を轟かせました

元新撰組の伊東甲子太郎が暗殺現場に残された鞘(さや)を見て新撰組の原田左之助のものと証言したことなどから、真っ先に疑いが掛かりました

しかし、その後の調べでは処刑前の近藤勇をはじめ、隊士の誰もが関与を否定

後には伊東ら高台寺党の仕業では、との説も出て、諸説入り乱れる中で可能性は薄れました

この説は、油断をしていたとはいえ、剣豪の龍馬と慎太郎を倒していた刺客にしてはあまりにずさんに証拠の品々を残しており、ワザとらしささえ感じ、見るからに新撰組に罪をなすり付けようと怪しげな空気がビンビンします(ー ー;)


ー薩摩藩黒幕説ー
龍馬の味方のはずの薩摩藩
しかし、断固、武力による討幕を主張していた薩摩藩にとって、平和路線を訴える龍馬は革命後の地位確保のためにも目障り!という推察のもと唱えられている説ですね

黒幕には大久保利通や木戸孝允、西郷隆盛らが挙げられ、伊東甲子太郎率いる高台寺党に指示をしたのではないか?

あるいは見廻組に龍馬の所在を教えたなどと実行犯についてもさまざまな意見が出ている説


ー紀州藩説ー
慶応3年4月、龍馬が搭乗していた伊呂波丸と紀州藩の明光丸が衝突(伊呂波丸号事件)

紀州藩は巨額の損害賠償金を海援隊側に支払うことになりました
交渉に公法を持ち出すなど龍馬の働きが大きかった

このため、紀州藩が報復に龍馬を暗殺したとする説

後日、紀州藩の仕業と決め込んだ海援隊の陸奥源二郎が、同志とともに紀州藩士、三浦休太郎を襲撃する事件(結局、失敗に終わりましたが…)も起きていますが、真偽のほどは分かりません


ー土佐藩・後藤象二郎説ー
龍馬の「船中八策」を山内容堂に提案し、大きな功績を挙げた土佐の後藤象二郎

龍馬がいなければ手柄を独り占めできるともくろんだ後藤が、暗殺を企てたとする説

中岡慎太郎が死ぬ前に残した証言では、刺客は「こなくそ!」と斬りつけてきたと言われています

これは四国の方言で「この野郎!」の意味

奇しくも、同じ土佐藩士に殺された可能性も…


代表的なものを5つ上げてみましたが、これ以外にも「中岡慎太郎説」なんていう仮説もあったり(^_^;)


まぁごくごく一般的には京都見廻組説が有力なのでしょうが、殺人というのは得てして、その人物が居なくなって1番得をする人間や恨み辛みを持つ者が疑わしくなるのは何時の時代も変わりないコトを念頭に入れた目線で考えると…


「紀州藩説!」


「後藤象二郎説!」


この2つの説もまんざらでもなくなってきませんか?(^^;;


なぁ〜んて幕末の事件をそれなりに推察するのもなかなか楽しかったりします
( ´艸`)ムププ


そんなコトを考えながら龍馬記念館を後にし数百m降りて行くと…





坂本龍馬像が雄大な太平洋の広がる桂浜の前に「日本の夜明け!」を胸に力強く立つ姿が!(^。^)
ようやく実物が見れたぁ(^o^)/




龍馬も眺め、姉、坂本の仁王様と謳われた
乙女と剣術修行に明け暮れたよもしれぬ桂浜!(*^-')b


そんな初めて訪れた幕末の革命児


「坂本龍馬生誕の地!」
しかも龍馬の誕生月に訪れるコトが出来ました( ´艸`)ムププ



その世界観を存分に味わい土佐を後にしましたとさ!(^_−)−☆




大阪・京都編に続く!♪チャンチャン♪(^。^)
Posted at 2014/11/10 09:41:06 | コメント(3) | トラックバック(0)
2014年11月06日 イイね!

ハチロク愛が足りないから…第2弾!

ハチロク愛が足りないから…第2弾!吾が輩の生息域の街路樹もすっかり色付き始めた今日この頃…


3日Blogの更新が空きましたが、この間、何をしていたかと言いますと…


時系列に(^^;;


まずは11/3

前日の8_cool_6さん宅にて、運転席側フロント、リアキャリパーお逝き大騒動奮闘記の際に




矢印の車高調の下側のロックリングが緩んでいたのをcoolさんにご指摘いただいていたのと、今後のコトを考え




配送合間に近くまで来たので、コチラにて




車高調レンチを購入!
今まで自身で持っていなかったので(^^;;

前日の入れ換えたキャリパーの確認も合わせて




次の日の11/4、出勤前にサクッと締め付け
(*^-')b


念の為に、助手席側も確認しましたが緩みはありませんでした(^^;;


それから見た目的にも気になり始めていた




オイルキャッチタンクのホース(^_^;)

ホースがこれだけ汚れてきたというコトは…





オシリ〜なを外したらオイルと混合気の
コラボレーション大量!(>_<)


中までジャブジャブ洗い流して乾燥後…




換えのホース入手!




新旧比較!




早速の装着(^。^)


ちなみに




パッド及びキャリパー交換後のフルードは漏れも無く残量はOK!(^_−)−☆



さらにハチロクスパイラルは止まる所を知らずに




先日のFRPボンネット配送の際にセンダゲージを微調整して、Full付近まで上がるようになった燃料ゲージ!


これが走行中に上がっり下がったりラジバンダリ(古っ) by ダブルダッチ西井(笑)


しかも燃料給油して満タンにするとゲージはエンプティ側へ全開!(ー ー;)


で、走行を始めると上がったり下がったりの再びのラジバンダリ状態(~_~;)


完全なる抵抗値迷走状態発症してますので、センダゲージを再び小細工して微調整!


燃料満タン後に調整して走行しても問題無しとなりました(^。^)


ちなみに前回の微調整はセンダゲージのフロート側のラインにて行いましたが、今回はフロート側の接点部側のステー部分の角度の微調整で事なきを得ました(^_^;)
とにかくシビアですわww


ハチロク魔のスパイラルはまだ止まりませんよ!σ(^_^;)


coolさん宅にてキャリパー交換を終え、辺りもスッカリ暗くなってしまったので、さぁ帰路に着こうとライト🔛にして愕然!(◎_◎;)





何か水入ってないっすか?┐(-。ー;)┌



ボヤていても仕方ないですし、出撃予定の今週末は台風の影響からか、天候も不安定で降雨が予想されますので対策に乗り出したのが昨日の11/5(^_^;)


ここで、吾が輩はトラウマ再燃!


というのも、以前、リトラカバーを外す際に横のカバーを留めている4本のビスの内、3本がお逝きになりドリルで揉んだ時の記憶が
(・_・;


そのカバー自体はビスも新しく入れ換えましたので難なく外せましたが……




ライト廻りの4本のビスの内2本はサビサビで完全に怪しい(ー ー;)


数秒後、案の定ネジ山死亡遊戯(~_~;)




こういう時の為のネジザウルス!(*^-')b




外してみれば金魚鉢になりかかりww
リトラなので、よくバルブが割れなかったもんだわと変なとこ
関心(^_^;)



目を凝らして見ればガラス廻りのシールが
死亡遊戯でしたので




コチラのシリコンシーラクリアタイプにて




廻り全体をコーキング!(^。^)


でもって




コチラも汚いので、外しついでに




シコシコ〜♪(^-^)


ここまでやってから配送へ!


数時間放置して乾いたら




元に戻してみれば、中の水分拭き取ったお陰でガラス面クリアの一石二鳥(*^-')b


な〜んて喜んでいられないのがハチロクスパイラル!





作業前には然程感じなかったのですが、運転席側がクリア感出た為に助手席側の不透明感が目立ちます(ー ー;)




助手席側も外して中を洗浄後、運転席側と合わせ、サビサビだったビスを打ち換えておきました(^_^;)


今週末はチョイと長距離移動になるので




コチラも




確認!


エアクリも確認しましたが、まだ大丈夫そうだったので今回は交換なし(^^;;



通常の配送業務終わりで夜の仕事もありましたので、速攻で帰宅し




某ホムセンでオイル購入と同時にオイル交換!


オイル抜いてる間にチョイと悪戯を




店内物色してコチラをゲッチュ!




換装前




換装後!
LEDに打ち換えついでにレンズも内外共にシコシコ〜♪


明るくなったのは良いけど、黄色くなったのがσ(^_^;)


まぁ白色入れれば仕方ないか(^^;;



この3日間は初号機のメンテに明け暮れた忙しい日々でした(^_^;)



そしてここでハチロク川柳でも(^^;;



♪故障箇所〜フタを開ければ〜また壊れ〜♪




お粗末様でしたぁσ(^_^;)





♪チャンチャン♪(^.^)
Posted at 2014/11/06 10:19:23 | コメント(3) | トラックバック(0)

プロフィール

「とうとう吾が輩の生息域にもアップップ!( ´艸`)」
何シテル?   12/22 20:28
れいキチです! 車に対してまだまだ未熟者ですが、ハチロクに対する熱さ!!は人一倍あります!(^^) DIYレベルもまだまだで、 myハチに対しても常に試...
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2025/9 >>

 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
282930    

リンク・クリップ

♪やめられない止まらないぃ♪ 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2014/10/31 08:23:50
Wの悲劇 プロローグ 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2014/03/01 22:14:46
これでも昔はバイク野郎でした(*^^*) 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2014/02/25 23:00:09

愛車一覧

トヨタ カローラレビン 真稲妻號 (トヨタ カローラレビン)
初号機を泣く泣く手放し、約3年半の歳月を要して、ようやくハチロク再来! 待ちに待ったハチ ...
トヨタ アルテッツァ 銀テツ (トヨタ アルテッツァ)
避けることの出来ない諸事情により泣く泣く手放した初号機に変わり、新たに入庫された 3S! ...
輸入車その他 謎 元祖レイきち (輸入車その他 謎)
基本わがまま(笑) 突然思いたったように四畳半一間のコースを 親の敵のようなブレーキン ...
ダイハツ ハイゼットカーゴ ハイゼくん (ダイハツ ハイゼットカーゴ)
2013.1.30に残念ながら次の乗り換え車両物色中にお亡くなりなったエブくんに代わり ...

過去のブログ

2022年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2021年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2018年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2015年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2014年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2013年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2012年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation