十勝にプチ移住して、道東を中心にあちこち回ると、北海道は廃線跡が多いのに気づきました。
十勝にもいくつか廃線があります。国鉄末期に廃線となった広尾線、士幌線、また一旦第三セクターになってから廃線となった池北線、そして、つい最近まで貨物営業を続けていた、十勝鉄道です。
十勝移住時に住んでいたところは中札内村や更別村が帯広市街地よりむしろ近く、広尾線の廃線跡や駅跡はなんとなくわかっていましたが、インターネットを検索していたらたまたま、十勝鉄道が自分の住んでいる家のすぐ近くを走っていたということを知りました。
十勝鉄道、つい最近(2010年ころ?)まで、帯広貨物駅と芽室町にある甜菜製糖芽室工場の間の貨物線を運行していて、その前は帯広駅から帯広市稲田にある帯広製糖工場までをこちらも貨物線で運行していたそうですが、それ以前には、なんと帯広から帯広の農村部に向かって、3つの路線を旅客営業していたそうです。
戸蔦線、八千代線、美生線の3路線がそれで、このうち私の住んでいたところの近くを走っていたのは戸蔦線でした。うちからわずか500メートル先を列車が走っていたなんて、いまの畑が広がる光景からは想像できません。ということで、ちょっとだけ十勝鉄道を研究してみることにしました。
十勝鉄道戸蔦線が廃線になったのは昭和30年代だそうで、そう考えると跡形もないのはうなづけますが、痕跡さがしてみます。
まず、十勝鉄道の研究をするならビート資料館に行かないと始まりません(と言いつつ実際はほぼ最後に行った感じですが)。貴重な十鉄(十勝鉄道の略)の資料がいまだに多く保管されています。写真もあり、こんな感じだったんだと感動しました。
まず目に入ったのがこの資料。帯広市と合併する前の川西村の地図です。十勝鉄道はそのほとんどを川西村区域で運行しておりました。
赤い線が十勝鉄道で、帯広駅前の帯広大通駅から稲田の製糖工場を通り、帯広畜産大の脇を通って川西へ。その後殖民区画の西二線を南下し、藤で戸蔦線と美生線(八千代線)が分岐。戸蔦線はさらに南下して清川まで西二線を進み、現在も存在する十勝鉄道清川農場の先でぐいっと西へ向きを変え、西四線あたりで再度南下、南太平を過ぎて東に振ってまた西二線に戻り、その先戸蔦別川のほとりの戸蔦が終着となります。キロ数にしておよそ30キロ程度。京王線でいうと新宿から高幡不動位でしょうか。特急で30分。まあまあ遠いです。
一方、藤で分岐した美生線(八千代線)は、殖民区画の20号線を西に進み、一旦芽室町(当時はたぶん村)の常盤まで行き、ここから南下して上帯広、広野と通って八千代まで行きます。こちらも30キロ程度。小田急線でいうと新宿から町田くらいですね。ロマンスカーで30分。そこそこ遠いです。
ちなみにわたしの住んでいたところは、戸蔦線が西二線からぐっと西に振って西四線にむかい西四線に到達するあたりが最も近く、私の住んでいたところは西五線なので丁度ひと区画、距離にして500メートル程度しか離れていなかったわけです。
もし十勝鉄道が今も運行していて、蒸気機関車が走っていたら、汽笛の音が結構近くに聞こえていたというわけです。
では一体汽笛は何時ころ聞こえていたのか?もし列車が走っていたら帯広まで何分くらいだったのか?が気になります。ということで時刻表。こちらも資料館に残っていました。
廃止直前の時刻表を見ると、戸蔦まで来る列車は一日二往復だったことが分かります。帯広までの所要時間をみると、戸蔦から帯広大通行の始発は、戸蔦を6時半に出て、帯広には8時半の到着ということで、約2時間。え?2時間? 距離的には30キロ程度なので、なんと時速15キロですw
自転車のほうが早いのではないでしょうか(平坦だし)w これは利用は厳しいです。そして帯広から戸蔦行の最終は4時半。帯広への通勤で使うのはほぼ無理ですね。
ちなみにクルマでは、戸蔦から帯広駅までおそらく40-50分もあれば行くように思います。
では、痕跡探しに参りましょう。さすがに昭和30年代に廃線になった十勝鉄道、痕跡を見つけるのは難しそうです。
ビート資料館前には、工場前駅のモニュメントが。方向的に帯広方向を向いてない気がするのですが、わざわざ移設することもないと思うのであっているのでしょう。
帯広のイオン帯広店や北海道ホテル付近には、とてっぽ通りという廃線跡があります。ここは昭和50年代まで貨物営業していたので残っているのでしょう。
昔の機関車も保存されています。この機関車では戸蔦まで2時間かかるのもわかる気がします。
製糖工場からぐっと南下して、清川農場付近で痕跡を探します。
もともと十勝鉄道は農作物の貨物輸送がメインだったことを考えると、駅跡にはちょっとした集落があり、倉庫や農協の建物があったと想像できます。
実際清川駅跡付近には、農協のAコープがあり、この辺だったのかなーという想像が掻き立てられます。
広野駅跡、戸蔦駅跡付近にもはやりAコープがあり。駅跡 = Aコープという図式は大きく間違ってはいなさそうです。
こちらは十勝鉄道清川農場付近。跡形もないですね。
こちらは清川農場から西にグイっと進路を変えた先、私の住んでいたところに最も近い場所です。おそらくこの辺かなー というところは畑ですが、なんとなく、路盤の跡が盛り上がっているような気がしませんか? 多分気のせいだとは思いますが、そう思ってみているとそう見えてきますw。
最後は、この区間で最も大きかったと思われる、藤駅跡へ行ってみます。
藤駅自体は西二線道路付近にあったと思われるのですが、そこから少し東にはいったところに桜山大仏という仏像(大仏というには小さいが)があり、その近くに、昔の藤駅がどんな感じだったかを示す碑がありました。
すこし引きで撮った写真がこちら。碑に書いてある商店が跡形もなくなくなっているのがわかります。
実際の藤駅は、木立のさらに奥。西二線道路沿いだったと思われますが、痕跡らしきものは一切ありませんでした。この碑だけが在りし日の藤駅の賑わいを伝えてくれます。
最後に、ビート博物館にあった資料にもどります。廃線となる前の川西駅の写真。川西以南が廃線になる前か後かはわかりませんが、戸蔦までの各駅もこんな風情だったのでしょうか。
想像が膨らみます。
次回行くときは自転車を入手して、ゆっくり廃線跡をめぐって痕跡を探したいと思いました。
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2020/11/22 22:05:25