
『10年経ったら笑い話になる』
私人生の支えな言葉です。
ちょっとピンチな時に思い浮かべるし、若人への激励でも使います。
偉大な大先輩から贈られたこの言葉は、その当時は、まったく信じがたいモノでした。
ただ‐背後から肩をポンと叩いてもらって、背中越しにかけて頂いた‐優しさ‐は心に沁みました。
あれから20年経ったそうです。
世の中、辛い事や苦しい事に直面されている方が多々いらっしゃると思います。
10年以上そんな風な方もおられるかもしれません、万人に当てはまらないかもしれません。
それでも、この節目に私20年前‐“人生の格言”を贈られた頃を振り返ってみたいと思います。
(※思いっきり長話で、つまらない件なんでお暇で無い方はスルーして下さい)
約1年程の、いわゆる“遠距離恋愛”に合致する環境を経て、当時、埼玉県在住な私と兵庫県在住な嫁さんは所帯を持ちました。
私月1頻度の単身高速ドライブ面会に疲れ果てた2人のオチ‐みたいな感じでした。
嫁さん希望、嫁さんセッティングの神戸な神前結婚式を親戚のみで執り行い、翌日から白浜‐伊勢‐(小松基地)-加賀屋を堪能するドライブ新婚旅行をして、埼玉のワンルーム・アパートへ帰り着き、翌日から2日がかりで2DKのアパートへ自分達だけで引越して、稼ぎ人私10日ぶり‐初出社でした。
“これから益々バリバリ働くゼっ!!”
な私を待っていたのは、上司、先輩、同僚、後輩達の祝福は予想通りでしたが‐
もひとつオマケが昼過ぎの全社員通知な社長示達。
『リストラクション挙行しま~す』
えっ!???
新居なアパートに帰れば、新妻嫁さんが家具選びな折込広告を見ながら喜々として待ち受けておりました。
見ず知らずの土地、半日誰とも語らず‐の反動とばかりに機関銃のごとく明るくしゃべりまくる彼女。
『クビです‐』とも言い出せず、悶々と数日過した職場昼下がりの裏庭ベンチ‐肩を落とした紫煙中に、普段厳しかった先輩からかけられた言葉が冒頭の一言でした。
結婚式から1ヶ月後、嫁さん初里帰りなお正月‐
『!?・・ま、呑もう』
『婿殿、今日はめでたい正月だ。ま、とことん呑もうではないか』
義父の言葉にどれだけ救われた事か‐
私にとって、義父義母含め姉妹家族に会うのは4回目。
ご挨拶、結納、結婚式とトントンと必要最小限の面会の後、家族になったとは言えまだまだこれから‐のタイミングでこれ程“重い”話を、それも寿結婚式以来の再会で、いわゆる初里帰りに‐、それも初正月に‐、手土産で持って行くのは最大のプレッシャーでした。
それを寛容に受け止めてくれたのが、義父筆頭な新しい家族全員でした。
私『資格』を駆使して勤労しております。
その点では場所、給与額を問わずば、ある程度勤労先を選べる立場でした。
会社都合の退職と言う事で、失業保険も即日適用ならば、会社提示の一時金積み増しに目が眩み、お世話になった諸先輩方同様“後ろ足で砂掛け捲る”様に、希望退職を選ぶ事にして神戸に移住する英断を下しました。
2013年現在働いている職場‐への転職を狙って移住した訳なんですが、当時は“欠員も求人も無いヨ”とあしらわれ、履歴書だけ預かって貰い貯蓄を食い潰して1年位フラフラする覚悟だったのです。
『お嫁さん始め、ご親族に申し訳が立たない。定職の可能性があるのなら、是非親御さんの近くへ行きなさい』と我が両親にも後押しされた結果でもありました。
・・・一応長男なんだけど・・・
3月一杯で退職し、4月から神戸でプータロー生活がスタートしました。
新婚5ヶ月目にして‐完全無職‐です。
義父のツテでアパートだけは確保したものの、他は何のアテも無く。
一緒に辞める事にした先輩方に囲まれていた関東では深く考えませんでしたが、独りぼっちになって鬱蒼とした気分であった様に記憶します。
若さ故に、打算も勝算も何も持ってはいませんでした。
程無く義父の知人が営んでいた建築関係のバイトをする事になります。
ここでも沢山の方々にお世話になりました。
今までの日常とまったく異なる世界を垣間見る事で自分の人生観や価値観に幅が広がった経験だったと思います。当時はかなり受身だったけれど‐
バイト君の割りに、顔も効く様になり、望む職場からの求人は無いものの衣食住に困る事も無くずるずる月日が経って行きました。
所帯を持ってから13ヶ月、無職になってから早10ヶ月、今年こそは吉報がありますように‐など思った2回目の正月明けにとんでもない事が起こります。
‐阪神淡路大震災‐
街はめちゃくちゃ、ライフラインは寸断、誰もの日常が崩壊した一瞬でした。

今思えば、背負うものが無い自分は‐マシ‐だったんだと考えます。
嫁さん実家がぐちゃぐちゃだった事と家族で寄り添い生きる事で精一杯だったので、何日も実家にとどまったと記憶しますが、落ち着いた頃、自分の住処へ戻ると数え切れない程、前職の先輩方から安否確認の留守電が入っていて泣けました。
と言うか、この先自分がどうなるのか不安以外の何もありませんでした・・・
バイト先の緊急復興工事な、てんてこ舞いも一段落して来た夏頃、いよいよ‐真剣‐に自分人生の舵取りを決断する事にします。
狙っていた職場を念頭に神戸へ移住した為、今までいくつかあった好意のオファーを袖にして来ましたが、自分の中で腕が錆びる焦りよりも、この街で生きていけるのだろうか‐の不安の方が大きくなって来ていました。
郷土愛‐を持たない私には、申し訳ない表現だけれど、神戸は人が普通に暮らして行ける街には思えない程、崩壊混沌としていました。
そんな折に愛知県岡崎と大阪南部の会社から立て続けにオファーを頂きました。
特に、愛知県な職場は雰囲気も良く、何より業務多忙につき現職よりも先に資格拡張してもらい事業拡大に手を貸して欲しい‐と言うやり甲斐あり、魅力的なオファーに感じました。
無職亭主ながら、生まれ育った土地で暮らし、復興に励まし合う友人に囲まれた嫁さんには申し訳ありませんでしたが、私の中では、ほぼ岡崎へ移住する覚悟でした。
但し嫁さんには面と向かって言い出すきっかけがなかなかありませんでした。
今でも嫁さんは
“唐突電話でビックリしただけで申し訳無かった”と詫び続けますが、バイト中に最寄の公衆電話から岡崎へ行く決意をした‐と電話した時の想像以上な嫁さんの動揺振りが後の人生の分岐点となりました。
そんな訳で結局大阪の仕事を選ぶ事にしました。
神戸に居続ければ、いずれ初心な職場の求人もあるかもしれない‐と思い直します。
大阪の会社が楽しければ、それはそれで働き続けてもイイだろうとも考えました。
もう一度、当初自分が狙っていた職場に確認するも、相変わらず求人予定は無い‐との事でしたから、決意を固め、大阪の会社でお世話になる事にしました。
実に1年8ヶ月振りの‐定職‐でした。
ところが、Door to Doorで2時間半の電車通勤を要する上、初心に還って業務前の自主清掃などしますので、定時勤務でも家を出るのは5時台、帰宅が21時台と冬の夜空ばかり見る日々に辟易でした。
さすがに毎日生きている心地がしない程消耗しましたし、蓋を開けたら給与がバイト時よりも安価である‐と言う体たらくでした。
定職の安堵感とは裏腹に、まだまだ人生の展望が描けない日々でした。
随分経って嫁さん曰く“
今だから言うけど、あの頃給料日前に50円しか無かった時があった”と笑って打ち明けられました。
それでも今まで一度たりとも嫁さんから家計の愚痴を聞いた事がありません。
嫁さんには感謝します。
それはそうとて、ココでも仲良くしてくれる同僚達が沢山出来て随分心理的には助かりました。
『資格』を駆使するものの、業務内容は前職と異なる会社で‐
“なんでもしますっ!! 新卒者の様にコキ使って下さいっ!!”と啖呵を切って頑張ったつもりです。
試行採用の半年が過ぎ、ようやく正社員の辞令を貰って同僚達に拍手で祝福された、その晩‐
当分封印する覚悟だった(2013年現在の)会社から求人の電話連絡がありました。
なぜ‐今‐・・・な気分でした‐半年前に予定無し‐と言われたのに・・・
3日程寝れずに悩んだ挙句、新たな同僚達の中でも特にお世話になっていた2人の先輩に事情を吐露すると、
“初心貫徹。君の人生何を選んでも僕らは仲間だ”と背中を押してくれました。
自分の不義理が後ろめたい一方で、人の情が身に沁みました。
こうして、私は僅か7ヶ月で大阪の会社を辞め、そして無職から2年1ヶ月目に‐望む‐職場へ身を置く事になった訳です。
人生は判らないものだな‐と思う事は多々あるけれど、魅力的に感じた岡崎の会社はその後、業務中の重大死亡事故を起こしてしまい会社整理されてしまいました。
あの時、公衆電話でのやりとりの結果が違う会話であったならば、自分はどうなっていたのだろう、或いは自分の人生は続いていたのだろうか‐など思ったりもします。
大阪の会社も世間の荒波にのまれ、私退職から10年後、戦後まもなく起業した長い歴史を閉じました。
とどのつまり、若かった事もありますが私は大した努力もせず(と言うか何をすれば判らなかった)、おろおろするだけの青二才でした。
だけど、沢山の人に助けられ、支えられて、ここまでやって来れたんだと感じる訳です。
また自分意志の及ばぬ所で、人生は翻弄されるものだとも感じます。
人の半生‐それぞれに波乱万丈なストーリーがある事でしょう。
私なんて序の口なのかもしれません。また、私人生にはまだまだ山も谷もある事でしょう。
‐でも、
明けない夜は無い筈です。
笑える日はきっと来るんだと思います。
どんなに辛い事があったって、それは年月が解決してくれる場合もあると感じます。
どうしたら良いのか判らない時は、流れに身を任せてもイイんだと思います。
そして辛い事にも意味はあるんだと感じます。
それが自分の巾となる時が必ず来る筈です。
『10年経ったら笑い話になる』
先輩は正しかったと思います。私は今、微笑む事が出来ます。

自分だけの成果であるとは到底思いません。家族達には一際感謝です。
ここまでの人生、自分であり続けられたのは嫁さん始め家族が寄り添ってくれたからだとつくづく思います。
だから仕事が終わればちゃんと家に帰ろうと思ってます。
‐必ず家に帰る‐のが私のルールです。
甘い新婚生活もへったくれも無かった我々は元々淡白・物欲無しな嫁さんにも助けられ、今まで行事も物質的なオブジェも取り交わした節目なんて皆無です。
つまらない事でスネる“姫”を一喝して説教した過日の晩。
“姫”は泣き寝入りし、私はPCにて“みんカラ”り、嫁さんは録画したドラマをヘッド・ホンにて視聴する暗がりリビングで‐
“あっ!! 今日で20年だったヨ”
“あっそ、“姫”のスネっぷりでめでたく無かったねぇ”
“ホントに~”
“明日‐元町ケーキ‐でも買って帰る??”
“太るからイランわ”
“あっそ‐”
健康‐、平凡‐、な20回目の結婚記念日が‐普通‐に過ぎて行きました。
‐長話おわり‐