
10月中旬から尾張、江戸へと立て続けの出張で忙しい日々でした。
このまま師走へ突入の勢いです‐
そんな合間に通勤経路上の船着場‐豪華クルーズ船がよく停泊するポートターミナルのホールに大戦機の
三式戦闘機“飛燕”が一時展示されていると言うことで見物して来ました。
その後日‐東京出張に乗じて、現地休暇を申請し、年老いた(とは言え健在な‐)両親の居る実家へ寄って来ました。
そんなこんなな話を織り交ぜた小話など‐
私、実は大戦機はジャンル外であまり詳しくありません。
この“飛燕”は大変貴重な機体で国内に残存する唯一1機なんだそうです(と言う事を行った先で知りました)
川崎重工社の120周年記念と神戸港開港150周年のプレ・イベントの一環だそうですが、鹿児島から各務原へ移動し製造元の川重の有志方の手でレストアされ、わざわざ一時的に神戸で展示‐その後、再び各務原へ戻され、リニューアル・オープンする博物館へ収納されるそうです。
詳しい解説はこのボードを(興味があれば)参照頂くとして‐
驚いたのは戦後に福生飛行場(現:横田基地)で接収され、長く同地にて放置されていたんだそうです。
と言う事は終戦まで福生飛行場を拠点に我が故郷の空を舞っていたことでしょう。
さて、私の母方の祖父は、私が生まれる前どころか両親が一緒になる前に天に召されました。
近しい身内で唯一遺影でしか逢えなかったじぃちゃんです。
私が生まれた時に叔母達は“お父さんの生まれ変わりだ”と喜んだそうで、その後、折に触れてその話を擦り込みのように聞かされることになります。
正直まんざらでもありませんし、自分が本当に“じぃちゃん”の生まれ変わりなら良いけれど‐など思う事もあります。
じぃちゃんは零戦の整備員として立川飛行場で働いていたんだそうです。
この事は中学生頃に叔父から聞かされました。
なんでも風防の形状変更による性能改良に寄与した功績を認められ、天皇陛下に褒賞されたとかで、確かにそんな趣旨の報奨金が掲げられた大がかりな賞状が居間に飾られていた記憶があります。
とは言え、具体的に何をしていたかは、あまり知りません、母に言わせれば、終戦まで自転車で立川へ日勤し、家に帰るといつもニコニコして子どもを叱る事がなかった優しい父であった‐とのこと(位)でした。
終戦後は屋根補修のトタン屋さんになって、空いている時間は夫婦で自給自足用の畑を耕していたそうです。
そして、ある日突然、病気に倒れ、母が高校生の頃に他界してしまったとのことでした。
妻と成人前の息子1人、娘4人の子ども5人を残して‐
私自身がこの歳になり人の親になって空想すれば、さぞかし未練も多かったのではないかと思ったりもします。
残された祖母は苦労も多かったのだろうけれど、孫から見ればそれなりに人生を謳歌して祖父の分も充分に生き抜き、101才で天寿を全うしました。
で、私が社会人になって1年後位に祖母はこんな話をしてくれた覚えがあります。
「ある時、おとうさん(じぃちゃん)が帰って来て、今日は自分の家と畑を空から見たんだと教えてくれてな‐」
「わたしゃ、空から景色なんて見た事なかったから、おとうさん、どんな風に見えたい‐と訊いただよ‐」
「豆みたいに小さい家と畑が見えて、その奥に水たまりみたいな大きさで多摩湖が見えた‐と教えてくれた」
「あたしもお空から景色がみてぇもんだよぉ‐っておとうさんに言ったもんだよぉ」
‐と懐かしくも嬉しそう(誇らしそう)に語ってくれたのでした。
私自身は嬉しくて、やっぱりじぃちゃんは一整備工なんかじゃなくて、飛行エンジニア(技師)だったのだ‐と思ったものでした。
(※‐か、どうかは定かではありません、偶然輸送機にでも乗せてもらえた一整備工だった可能性も否定は出来ないけれど)
いずれにせよ、逢えぬ祖父は、私の憧れの人である魅力に付加価値が付いたのでした。
そもそも終戦間際‐いや、負け込んで来た時に試験やら開発やらやっている余裕が都下立川にあったのだろうか‐
など、いまだに疑問が無きにしも非ず‐で今日までなんの気なしに過ごして来たんですが‐
“飛燕”です。
福生飛行場で開発が続けられていたような解説がされてました。
と言うより、立川と福生は目と鼻の先です。
この機体はもしかして、じぃちゃんも見ていたんじゃないだろうか??
直接整備したり、携わったりしていなくても、この機体はじぃちゃんと同じ景色を共有していたんじゃないだろうか?
など、胸に去来したのでした。
タイミングよく帰省して、母に尋ねてみますと‐
祖母から聞いた祖父が空から家を見た話すら初耳だと驚き、喜んでくれました。
祖母(母)は祖父(父)が亡くなってから子ども達(母姉妹)にほとんど祖父(父)の話をしなかったそうです。
そう言えば、祖母は子や孫に与える為に、ずっと自給自足の畑弄りをする生涯だったようにも思います。
実家近所のウド畑
ただ‐
母曰く、おじぃちゃんは立川で仕事をしていたけれど、時々今日は羽村に行っていた‐と言っていたそうです。
福生(横田)を羽村と言ってもおかしくない位、横田基地はいくつかの市町村に跨っています‐勿論羽村市も。
所沢出身の祖父、横浜から嫁入りした祖母、東大和で生まれた母、その夫たる岐阜出身の父‐
そしてまた故郷を離れて神戸で暮す自分‐
今現代、(もしかしたら)祖父の傍にいた同じ機体を私が神戸で見ているのだとすれば、なんと因果な巡りなのだろう‐と思ったりしました。
今年は天候不順が影響したようで実家の柿木は、熟れきった柿とカチカチの柿が混在。
老人になった両親が獲りきらない上の方の実は鳥達のご馳走場になってました。
メジロが群れで餌場にしていました。
今も昔も変わらない平凡な武蔵野の景色‐
この退屈な平凡さが嫌で嫌でたまらなくて、外へ出て行った自分だけど、今となってはこの退屈な位、平凡な景色がたまらなく愛おしくて、望郷の念にかられるのも事実だったりする訳です。
何故か一戸建ての裏庭に豊作なミカン
皆様、故郷と親兄弟を大切になさって下さいませ。
とか哀愁に浸る哀秋
※くれぐれもじぃちゃんが恰好イイ人であったら良いと思う孫のエコ贔屓込夢想入仮説話です‐