
その日-
下校途中で友だちに会わないように走って帰宅した娘は玄関先で出迎えた母(嫁さん)の顔を見るなり慟哭のごとく泣き崩れたそうです。
その経緯を聞き私も心震えました。
娘の進路が決まりました。
親バカで語ると彼女は進学塾に通わず、自宅自習の努力を積み上げて来ました。
自分の立場で言えば、“勉強しなさい”など、口が裂けても言えた義理はありません、私自身が当時しなかったのだから。
でも、ある時から自分が必要と自覚したことに関しては、猛烈に勉強した自負もあったりします、そうでなければ仕事ができないからでもあるけれど。
受験勉強に取り組む娘には-
“努力をした人にのみ道は開ける” “全ての結果を左右するのは自分次第である”
とエールを送って来た1年でした。
そして、言わなかった言葉として、
“努力は他人の為ならず、当落いずれも君の人生に無駄にはならず”でした。
彼女には漠然とした夢があり、それを(結果的に)見出した経緯には私が関与していたかもしれません。
小学生になる頃、キッザニアへ連れて行ったことがありました。
偶然私が見かけて(待ち時間が少なかった理由だけで-)参加を促したのは製薬会社のブースでした。
この体験が大層楽しかったそうで、白衣を着て色々な実験をして薬を開発する人になりたい-と言うようになりました。
病気や怪我をして困っている人を自分が作った薬で助けてあげたい-と思ったそうです。
夢は大きくても良いし、その道のりが険しいことをまだ知らなくても良いでしょう。
時流れ-
普通の生活を平凡な成績で穏やかに過ごし、彼女は受験生になりました。
第一志望校を見つけたのは嫁さんでした。
娘は興味を示し、夏休み中のオープンスクールに家族で出かけ、本人はともかく我々両親もとても魅了された学校でした。
ただ-学力レベルはギリギリ合格基準に達するかどうか、と難しい関門となる見立てでもありました。
担任の先生との進路相談を重ねても楽観視できない、さらなる努力を-と言う見解が秋から冬にかけて続きました。
その内に、友だち達も各自志望校が決まりだして-、同級生の1人、それも小学生から同窓の男子友だちも同じ学校を志望していることを知り、二人で互いを鼓舞して来たそうです。
共に合格し、10年以上同じ学舎で過ごす記録を作ろう-と。
ただし、娘は最後の模試まで合格ラインの偏差値に僅かながら届かないまま入試日を迎えました。
多少気が楽だったことは、腕(運)試しで受けた私立校にすでに合格していたことでした。
入試当日は学校指導により二人して一緒に受験校へ出かけて行きました。
受験番号は1番違い、会場の座席も前後だったそうで、心強かったそうです。
試験を終え帰宅した当日、娘は達成感からか清々しく今日の印象を聞かせてくれました。
そして、得意であった2科目が難しく、苦手だった科目の方がむしろ手応えがあったなど明るく語ってくれました。
あとは、果報は寝て待て-です、合格発表は4日後でした。
ところが、翌日娘は泣き暮れることになりました。
持ち帰った問題を自己採点した所、合格点に達していない-と、朝からうなだれて泣くばかりだったと、仕事を終えて帰宅してから嫁さんに聞きました。
希望を捨てず、己を信じなさい-と言う位しか親にはできません。
人生には沢山の挫折があるものです、諦めてしまうのか、そこから何を得るかで未知なる可能性も変ることを知っています。
それは50才を過ぎて言える達観であって、人生初試練の娘には心潰れる絶対絶命な事柄だったかもしれません。
受験生がいる家庭ではどこも似たように子どもの感情起伏に気を遣うことでしょう。
合格発表の日は学内試験のある日でもありました。
学校の先生は、いつも通り通学し、学内試験を受けるよう子ども達を促しました。
午前中の合格発表の合否結果は、試験の間の休み時間に親に電話して確認するか、試験が終わってから職員室で確認するか-の2択だったそうです。
娘達は職員室へ赴き、先生から結果を聞くことを選びました。
また、娘からは出勤前の朝の段階で、父は会社で、母は自宅で、志望校HPで公開される結果発表を事前に見ておいて欲しい-と言われました。
娘が帰宅する時には、家族それぞれが別々の場所で結果を知ることになったのでした。
校内試験を終えた娘が職員室に向かうと、入口で男子友だちが待っていてくれたそうで-
1人ではドキドキするから一緒に入らないか-と声をかけられたそうでした。
娘も勇気づけられ、2人は揃って職員室に入ったそうですが-
あっ、一緒に来たか-と言う先生の咄嗟の言葉に一抹の不安が過ったそうでした。
そして数人の先生方に囲まれ、2人はHPの結果発表をプリントした紙を同時に渡されたそうです。
-あっ、 ない・・・-
と言う後ろの声に思わず振り返った娘は
いっぱいに涙をためた男子友だちと目があった刹那、
・・合格・・おめでとう・・・-
と彼に告げられたそうです。
その瞬間、娘は涙が止まらなくなったと-
再び泣きながら、帰宅した晩餐の場で私に語ってくれました。
娘は泣いて泣いて、代わる代わる先生に慰められ-
合格したのだから泣いてはいけない-と別室に連れて行かれ-
涙が一段落した時には独りぼっちで、もう男子友だちは帰宅した後だったそうでした。
先生方も双方の生徒に配慮をしてくださっさのではないかと思慮します。
泣き腫らした顔を誰にも見られないように、誰にも今呼び止められないように、学校から一目散に走って、帰宅した娘は玄関先で母親と顔を合わせ、堰が切れたごとくまた泣きました。
合格した娘の親だから言えるかもしれないけれど-
彼はなんて立派な男の振舞いだったことかと思います。
さぞかし悔しかっただろうし、辛かったでしょうし、
それでもなお、咄嗟に目前の友に祝福の言葉をかけられる優しさと強さは、
強く、清い心を持った人でなければできないように感じました。
俺にはできないことかもしれない-
いつか‐
時が過ぎて、貴兄はきっともっと強くなれる人なのだと私は思う。
男の人生は、沢山辛いことがあるのだけれど、過去の苦い経験の数だけ自分がそれを乗り越えられる力を授かるのを知っているつもりです。
そして、娘には言いました。
選抜と言う試練はこのように時に残酷で、
選ばれた人の影に沢山の選ばれなかった人がいて、
自分が選ばれることは、誰かを追い落とすこととも言える、
その差は実力だけではなくて、時に運であったり、巡り合せだったりもするのだから、
君は決して人前で天狗になってはいけないよ-と。
自分の栄光は自分の中で誇りに思って良いけれど、これからも人生で沢山の選抜があるし、君にも選ばれない巡り合わせがいつかきっと来るだろう-
その時、人を恨まず、妬まず、相手の栄光を讃えられる人になって欲しい。
彼がしてくれたように-
父さんはこの試練の中で、あなたにとって一番価値があった収穫が何かと感想を問われれば、お友だちからの祝福を受けた時に 流した涙が、心に止めどなく湧いた切ない想いこそが、一番大切なことだったと感想します。
どうか、彼が叶わなかった新たな学校での生活を、ときに辛い時は、彼からのはなむけのことばを思い返して、歯を喰いしばって精一杯挑戦を続けて欲しい、満喫して欲しい。
春が来る。
娘が栄光の架け橋を登りつめました。
そして、彼の春が、少しでも早くやって来ることを今は親子で祈るばかりです。