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Miki.Raikkonenのブログ一覧

2020年05月17日 イイね!

もしかしたらメジャーな會津歴史登山(苦)

もしかしたらメジャーな會津歴史登山(苦)猪苗代が生んだ医聖、野口英世博士が護ってくれてるのか、未だ発症者の出ていない会津です。まあ人口が喜多方市を入れても15万程度だし…「陸の孤島」なんて言わないでね(苦)。

先日果たせなかった任務遂行の為、今日は息子と小田山公園にやって来ました…てなワケで第4弾です!

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元来ここは中世会津の支配者、葦名氏が築いた山城でした。標高372m、付近には葦名氏ゆかりの名刹古跡が多数存在します。現在は公園として整備され、四季を通じて散策が楽しめます。お~ウグイス鳴いてる(笑)。

おっと、いきなりクマ注意!
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私の公園に対する概念が狭義なんですかね…息子に「マイコーの様にムーンウォークしてフォーな、」と指示(苦)。一応スマホでラジオかけましたよ。

寿山廟跡上・下
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葦名氏3代~9代の廟所らしいですが、良く判っていないそうです。
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ふむふむ…(苦)
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なるほど…(苦)
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ここから恵倫寺に下りれば帰りは近いんだろうけど…クマさん怖いなあ(苦)。
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つづら折りの登山道ですが、北面が開けている場所が在ります、新政府軍砲陣跡です。
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戊辰会津戦争も籠城戦、精鋭の守備隊も戻り、堅城を誇る鶴ヶ城に新政府軍も攻めあぐねていましたが、城を眼下に収めるこの山の存在を知らせる者がおり、砲陣が敷かれる事となりました。
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飯盛山より全然視認が容易です。直線距離にして約1.5㎞、鍋島藩所有のアームストロング砲は2㎞以上の射程が有り、大打撃を受けました。
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その後はご存知の通りです。

折角なので山頂付近まで行ってみます。大手口跡ですね。
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二ノ郭跡には名家老筋の丹羽氏の墓域が在ります。
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主郭跡には会津藩名家老田中玄宰の墓が在ります。
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天明の大飢饉後の藩政改革、今日の会津の伝統産業の基礎となる殖産興業の奨励、藩校日新館を創設し教育改革を行うなど、会津藩が天下の雄藩となる基礎を築いたその人です。「我が骨は鶴ヶ城と日新館の見えるところに埋めよ」との遺言により、この山頂に墓が設けられました。幕末の田中玄清(土佐)は曾孫に当たります。

下山します。 R118 千石バイパスまで一度下ります。

途中、葦名家廟所入口が在りました。
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別名「花見ヶ丘森廟」と呼ばれ、葦名氏10代~19代の墓地と言われています。勉強してから伺います(苦)。

最後は河井総督攻略戦に向かいます(苦)。
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Web上の諸先輩方の投稿で分かりました、石碑が在るんですね。
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建福寺再訪です。
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ヤエザクラは残っていましたが、丁度シダレザクラの盛期を回避する形になってしまいました(苦)。

保科正之公の会津拝領に従って移った『お供寺』の一つです。以来、士族の寺として隆盛を極め、会津でも最大級の寺社領を持っていました。戊辰戦争で寺宝は略奪され、堂宇全てが焼き払われましたが、明治に入り、鶴ヶ城御殿の木材を使って再建されました。

そして河井継之助埋骨遺跡ですが…これも諸先輩方の投稿で何となく予想が出来ました。路地をこのまま山手の方向に…突き当りの民家群を回避して山肌が見えると…在りました(笑)。
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結構険しい所に在るのは、容易に暴かれない様にする為でしょうか…実際、新政府軍が城下に建てられた彼の仮墓から遺骨を持ち出そうとするも、中身が砂石で生存を疑い恐怖したとか(苦)。
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岐路に立ち、困っていると左手に見た様な石碑が…在りました(喜)。
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戊辰北越戦争を戦い、八十里越を経由して会津藩領へ撤退する途中、膝の傷から破傷風を併発し、会津塩沢村(現只見町)で落命しました。遺体はそこで荼毘に付され、先に建福寺に避難していた長岡藩主、牧野忠訓公の元に届けられ、この地に埋葬されました。後に従者により掘り起こされ、長岡の河井家に送り届けられます。石碑は長岡の方向を向いています。

「おめさん、よお分がったのう、がしかし、骸はこごじゃねんがてえ」
「存じております、八十里越(R289)が整備された暁には必ず栄涼寺の墓前に伺います」
「そいがあ」

前職の恩人や仲間達にも会いたいですしね。役所広司さん主演、今秋公開予定の映画が楽しみです(笑)。

フリを置いてた自社まで戻り、夕食に頼んでおいた懇意にさせて貰ってる料理店の名物ソースかつ弁当をテイクアウト。
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有意義な一日でした(笑)。
Posted at 2020/05/17 23:27:27 | コメント(2) | Local | 日記
2020年05月11日 イイね!

十分メジャーな會津歴史ジョギング(苦)

十分メジャーな會津歴史ジョギング(苦)休校措置で水曜日でも1日中家族と一緒に居られる…かと言って何処かへ連れて行ってあげられる訳ではないジレンマ…ジェダイ寺院(苦)訪問も新潟の実家帰省も取り止めました。

ステイホームで勉強は出来ても運動は中々出来ません、ブローオフ開きっ放し状態な息子がかわいそうで、人混みを避けたジョギングを提案しました…って事で第3弾!入念に準備運動をして…スタートです!(笑)

…あれ?あれ?あれれ?(苦)

ここで重大な戦略ミスに気付きます…もう息子のペースに併せられなくなっていたのです(苦)。

一昨年の鶴マラの練習以来一緒に走っておらず、その間に息子が陸上を始めた事、そして先般の歴史散歩で自身を過信してました(苦)。

しかも往路はほぼアップヒル…タービンブロー状態な息遣いで何とか飯盛山の麓までやって来ました(苦)。
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おお…(驚)

観光自粛のお願いと営業自粛要請で、写ってるのは息子だけ、こんな参道初めて見ました。

直ぐに引き返すつもりでしたが、これならばと白虎隊十九士の墓参りをして来ました。

参道、石段を登り切った中腹の広場に白虎隊十九士の墓が在ります。
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戊辰戦争後、新政府は埋葬を許可しませんでしたが、山主や有志により内密に仮埋葬、3年後漸く合葬が許され、山主も土地を献上、現在の場所に改葬されました。
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先般と同じく、現在の世界的苦境をお救い下さる様、息子と英霊達に祈念しました。

反対側に在る自刃の地へ下りてみます。
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丁度中間に先述の飯沼貞雄(貞吉)の墓碑が在ります。
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隊士たちの壮絶な最期の場所、白虎隊士自刃の地です。
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『♪南鶴ヶ城を望めば~』…隊士像は鶴ヶ城の方向を眺めています。
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薄暮の迫る街、直線距離にして約2.6㎞…
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トリミングします…正直、見辛いです(苦)。
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城下が炎上するのを天守が炎上と誤認したとされるのが通説ですが、それは飯沼貞吉が否定しています。戸ノ口原での完敗、このまま帰城を試み拿捕されるなど以ての外、城下を火の海にしてしまった事を悔い、自ら命を絶って行きました。

広場に戻り正面石段とは別のルートで下山します、宇賀神堂が在ります。
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元来は三代藩主松平正容公が弁財天を神像として建立したそうですが、墓碑を改修した際に十九士の霊像も祀ったそうです。

更に下ると戸ノ口堰洞穴が在ります。
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猪苗代湖から水を引く為に掘られた長さ約150mの堰です。

猪苗代湖畔の戸ノ口原の戦いで敗れた白虎隊士達は、新政府軍に押さえられた街道を避け、馴れ親しんだ飯盛山のこの洞穴を水に浸かり、命からがら退却し、自刃に至ります。

この上流が以前、会津三十三観音巡りで訪れた滝沢観音傍の不動滝、不動川となります。

現在でさえ、あんなに険しい林道を…ってもう走るの?も少し講釈させて…(苦)

復路はほぼダウンヒル、経験と老獪さで何とか息子について行けました(苦)。
Posted at 2020/05/11 18:11:22 | コメント(1) | Local | 日記
2020年04月29日 イイね!

無冠帝

無冠帝本来のスケジュールであれば4/5にベトナムGP、4/19に中国GPが開催される筈でした。両GPとも延期という形になっていますが、状況は現実的ではありません。

先日、本来第9戦にあたるカナダGPの延期も発表されました。更に各国政府のイベント禁止要請に伴い、第10戦にあたるフランスGP、第14戦にあたるベルギーGPも延期、オランダGPに至っては中止が確実視されています…とか言ってたらフランスGPの中止がアナウンスされました、賢明な判断だと思います。

そもそも開幕自体が楽観的な状況ですが、オーストリアで、イギリスで、2週連続、3週連続、無観客…などという案も真実味を帯びて来ています。コース逆走という興味深い案も出ましたが、シムレースならまだしも、ランオフエリアの問題から先ず有り得ないでしょう。

タイトル画のハノイ市街地コースは特に楽しみにしてました。ロングストレートと両端のヘアピンは、まるで往年のベルリン、アヴス=レンネンを思い起こさせます。上海もその年の趨勢を占う意味でも毎年、重要視されるレースでした。

そんな我々ファンを楽しませようと、公式サイトやメディア各社も、過去レースのリプレイや技術解説、インサイドストーリーなどを公開してくれています。先述の様に、現役のドライバー達が参戦するシムレースも盛んになっています。

様々なカテゴリーで様々なシリーズが開催されていますが、F1直系のシリーズでは、シムレース歴1週間(!)のルクレールが快勝、次戦もアルボンとの死闘を制し、開発シミュレーターに慣れてるとは思いますが、非凡な才能を見せつけています。

インディカーのシリーズでは、東日本大震災の影響で使用出来ない、もてぎのオーバルコースが復活。母国レースとなる佐藤琢磨選手も参加して話題となりました(笑)。

そんな先日、また一人のレジェンドがこの世を去りました。

F1創成期のヒーロー。何に乗せても速く、唯一逃したのがF1のタイトルだけ。メルセデスの活動休止やフェラーリとの共闘目前の大事故など悲運のレース人生。また、58年選手権におけるホーソーンとの一件や、ライバル達に迷惑が掛かると引退するスポーツマンシップと潔さ。端正なルックスも相俟って、人々の称賛と尊敬を一身に集めていました。90歳の大往生。

先般の帰省で、故郷の大好きな酒蔵からこの酒を偶然買って来ていました…

僭越ながら彼に献杯を…
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Rest in Peace … Sir Stirling Moss
Posted at 2020/04/29 15:58:45 | コメント(1) | Monologue | 日記
2020年04月23日 イイね!

ちょっとマイナーな會津歴史散歩EXTENDED(笑)

ちょっとマイナーな會津歴史散歩EXTENDED(笑)お~この前のパーツで『アンカー』作った?(笑)

…走らせたいから某家電量販店連れてけ?(苦)

仕方ない…じゃ、またやるか!会津歴史散歩!(苦)

翌週、先回巡り切れなかった所をメインに+αを交えながら再散策、流石にマシン、メンテボックスを持ちながらは辛いので、フリを某家電量販店に置かせてもらってスタート!(苦)

先ずは山本覚馬・新島八重生誕の地碑を目指すのですが、ちょうど鶴ヶ城(会津若松城)を通った方が近いので県立博物館、三の丸から…

佐川官兵衛顕彰碑です。
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先回の北越潜行の詩碑、新島八重像の並びですが、かなり文化センター寄り、クルマで目前はよく通るのですが、4年ぶりの表敬訪問(苦)。

お濠で甲羅干しをする亀さんを横目に、鶴ヶ城に登城仕り候(笑)。
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本丸をほぼ一周して、この正門(鉄門)前からの構図が好きです(笑)。

その傍らに上杉謙信公仮廟所跡が在ります。
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跡を継いだ上杉景勝の会津加封に伴い、春日山城から移されたのですが、城内の西南の隅に安置されたという記録が有ります。城郭が当時と同一である確証も有りませんが、「城内」が本丸内を指すのであればこの辺りという事です。

関ヶ原の後、米沢減封に伴い米沢城(現上杉神社)へ、そして現在の上杉家廟所に歴代藩主と共に祀られています。

桜には早かったですが梅がちらほらと。

西出丸経由で R118 に渡ります、国道沿いにすぐ日新館跡碑が在ります。
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隣は新築経費を寄付した御用商人、須田新九郎頌徳碑ですな。

この城の向い一帯が藩校日新館だったのですね…商業高校と小学校が存在するのがその名残かも知れませんね。

実際の藩校は焼失しましたが、当時の図面や資料が残っており、市内河東町に會津藩校日新館として完全復元されています。

その端にあたるのかな…山本覚馬・新島八重生誕の地碑が在ります。
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全くもって民家の前です(苦)。
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実際はもう50m西だとか…同志社によって建立されますが、思うに快諾してくれたのがこちらの御宅かと。

「明日よりはいづこの誰か眺むらん なれし大城に残す月影」
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会津藩が降伏し開城前夜に詠んだといわれる八重の歌が刻まれています。

そのまま裏通りを北上、某小学校の向かいに…在りました、日新館天文台跡です。
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日新館の、そして江戸時代の天文台としても現存する唯一の遺構です。現存部分は凡そ半分ですが、露台の高さはほぼ原状を保っていると推定されています。

映画『天地明察』で、会津中将保科正之が安井算哲(渋川晴海)を庇護している様に、天文学も盛んだった事が伺えます。昨年、日本天文遺産の第1回として藤原定家の「明月記」と共にこの天文台跡が選定されました。

 R118 に戻り、会津のメインストリート?神明通り方向に向かいます(苦)。

いつも御榊でお世話になってる生花店付近が…飯沼貞吉生家跡です。
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壮絶な最期を遂げた白虎士中二番隊唯一の生き残り、歴史の貴重な証言者となりました。後に逓信界に進み、日本の電信電話の発展に貢献しました。

神明通りまで来るとアーケードの下に石柱が在り、小路を入ると…
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瑞雲山興徳寺、蒲生氏郷公墓碑です。
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信長に愛され、秀吉に畏れられた家臣想いの勇将、燕尾形兜で有名ですね。

黒川を若松と改名し、文化産業の振興、現在の会津若松の礎を築いたのは彼です。因みに「鶴ヶ城」の通称も、その城の容姿も然る事ながら、幼名の「鶴千代」から、家紋の「舞鶴」からとも言われています。

「空風火水地」の五文字が刻まれた五輪塔で遺髪が納められてるそうです…稽古堂(生涯学習センター)の裏の杜はココだったのか(苦)。
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そのまま繁華街を抜けた一角に、甲賀町口郭門が在ります。
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城下に16カ所設けられた郭門の現存する唯一の郭門、大手門として機能、最重要防衛口でした。

『八重の桜』ではここを攻め落とされ負傷した家老田中土佐(佐藤B作さん)が、同じく六日町口から撤退して来た家老神保内蔵助(津嘉山正種さん)と、医師土屋一庵邸で「生まれ変わっても」「また会津でな」と、微笑みながら互いに刺し違えて自刃したシーンが一番泣けました…今、思い出しただけでも画面が歪みます(涙)。

…失礼(苦)、この地点もなだらかなクランク状の路上ですし、市内にはクランク状の交差点が数多く残っています。城塞都市の名残ですね。

某家電量販店でテスト走行、まだシビアになる以前だったので、同年代のプレーヤーと小一時間交流を楽しんだ後…

河井総督の埋骨遺跡も見ようと大寶山建福寺に赴きますが、境内には無く少々時間を要しそう(苦)。
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仮埋葬地ですけどね。「おめさんにはわがらんこて」と声が聞こえた気がしました…流石、河井総督、簡単には攻略出来ません、てか勉強不足、出直して来ます(苦)。

小田山公園にでも駐車して、アームストロング砲の射程を確認しながら、ゆっくり拝見しようと思います(笑)。因みにここのシダレザクラも見事で会津では有名です。

この日の最後は義母に教わったらしく、自宅近くに氏郷公墓そっくりな墓が在ると息子が言うので、そちらに行ってみました。

確かに某ドラッグストアの裏に在りました、蒲生忠郷公墓碑でした。
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氏郷公の孫ですね。鶴ヶ城の天守を五層に改築したと伝わっています。夭逝したため改易、加藤嘉明が入部します。その加藤家も二代で改易、そして保科正之、会津松平家へと時代は進みます。

旧跡巡りは二次元の知識が、四次元のイメージになって頭に入るので好きです。会津は重厚な歴史を持つ街、ネタには事欠きません。また何かの機会に散策、投稿出来ればと思います。(゚∀゚)b
Posted at 2020/04/23 17:23:00 | コメント(1) | Local | 日記
2020年04月15日 イイね!

ちょっとマイナーな會津歴史散歩(笑)

ちょっとマイナーな會津歴史散歩(笑)幕末、維新期の会津を語る上で外せない人物に秋月悌次郎がいます。

大河ドラマ『八重の桜』では北村有起哉さんが好演していました。

藩校日新館、昌平坂学問所に学び、会津屈指の秀才として知られ諸国を遊学、藩主松平容保が京都守護職を拝命すると公用方に抜擢されます。八月十八日の政変の主導など活躍するも佐幕派の不興を買い蝦夷地へ、ある意味、彼の不在が招いた戊辰戦争でした。後に教育者に転じ、同僚となった小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)をして、「神が姿を表すとしたらこの老先生の様な姿だろう」と言わしめた人物です。

一昨年の初夏、新聞で生家跡に説明版(その前年に石碑)が建った記事を見かけ、拝見したいと思っていました。3月も中旬、休校措置で暇を持て余してる息子を連れて、散歩がてら会津の歴史的モニュメントを見学して来ました(笑)。

駅前の自宅から弊社の近所を流れる阿賀川の支流、湯川の畔、湯川町を目指すのですが…こちらを知ったのも最近の事、毎朝、目前を通勤していました(苦)。
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…幼稚園じゃありませんよ(苦)、西軍墓地です。
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薩摩、長州、大垣、肥州、備州、新政府軍の戦死者約150名を弔っています。
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無断で墓地には入れませんが、道路脇に一際大きな薩摩藩の墓碑が在りました。

敵軍を参って友軍を参らない訳には行かないので(苦)、七日町の阿弥陀寺へ。
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東軍墓地です。会津藩士約1300名を弔っています。
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門扉には『葵の紋』、西南戦争で殉死した佐川官兵衛達や、戊辰戦争の全責任を負い自害した萱野権兵衛の遥拝碑も見えます。その一角に…
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新選組最強三剣士の一人、三番隊組長、斎藤一の墓碑が在ります。
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維新期以降は藤田五郎を名乗っています。『八重の桜』ではDragon Ashの降谷建志さんが好演、新選組消滅後、終生、会津に寄り添った漢の御霊が眠ります。数々の作品で多数の俳優が彼を演じていますが、私はやはり、映画『壬生義士伝』の佐藤浩市さんが一番印象的です(笑)。

こちらには戊辰戦争後に鶴ヶ城(会津若松城)から移設された櫓、御三階も在ります。
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外観上は三階ですが、内部が四層になっていて密議の場所として使われたとか…鶴ヶ城の現存する唯一の遺構です。

戊辰戦争後の会津と太平洋戦争後の日本は似てる様な気がします。
問題は有りながらも平和な世の中に感謝すると共に、現在の世界的苦境をお救い下さる様、息子と英霊達に祈念しました。

そろそろ湯川町ですが、本町界隈でこんな案内板発見…
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…なんと、伊達政宗が母親に毒を盛られた地ですと!(苦)

間もなく、秋月悌次郎生誕地碑を拝見する事が出来ました(笑)。
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何らかの計画が有るのでしょうか…フェンスに囲まれた空き地の中に佇んでいます。
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御霊は東京青山霊園なので敬礼のみ、家格に苦しみそうな場所である事は伺えました。

そいや『八重の桜』の脚本では、川崎尚之助が山本家の居候だったので、秋月家(仲人役?)からの嫁入りの形を取ってましたね…時間に余裕が有れば、山本覚馬新島八重兄妹の生家跡や藩校日新館跡も回るのですが、日も傾いて来たので、また後日(苦)。
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鶴ヶ城方向へ歩を進め、山鹿町まで来ると在りました、山鹿素行生誕地碑です。
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江戸前期の儒学者、軍学者です。赤穂浪士にも影響を与えたとか…碑文は東郷平八郎の書。

実は本命はコッチ(苦)、直江兼続屋敷跡なのです。
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越後出身もあり、敬愛する智将の一人です(笑)。

鶴ヶ城は三の丸、県立博物館前まで来ると、近年新設された新島八重像の並びに…
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北越潜行の詩碑が在りました。
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戊辰会津戦争の降伏開城交渉も任され、猪苗代で謹慎を受けた折、越後水原口に詰めていた知己である西軍参謀、長州藩士、奥平謙輔から会津藩の健闘を称える文を受け取りました。

希望を見出した彼は、密かに謹慎所を抜け出し奥平の元を訪れます。会津藩への寛大な処置を願うと共に、優秀な少年を選抜し奥平に預けました。若者に未来を託す事で道が開ける事を願い、その願いは後に山川健次郎達が叶えました。

その帰途、束松峠で詠んだのがこの詩です。近年、本拠である会津坂下町束松峠にも建てられました。
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行くに輿なく、帰るに家なし
国破れて、孤城雀鴉乱る
治は功を奏せず、戦いは略無し
微臣罪あり、復た何をか嗟(なげ)かん
聞くならく、天皇元より聖明
我が公、貫日至誠に発す
恩賜の赦書、応に遠きに非ざるべし
幾度か手を額にして、京城を望む
之を思い之を思うて、夕べより晨(あした)に達す
愁い胸臆に満ちて、涙巾を沾(うるお)す
風は淅瀝として、雲惨憺たり
何れの地に君を置き、又親を置かん

幕末の会津の苦悩、悲哀を詠んでいます。

彼の司馬遼太郎先生も「幕末の会津に限って言えば、容保公は別格として、山川でもなく、佐川でもなく、秋月が一番好きだ」と語る幕末、明治を駆け抜けた会津の傑人…気に留め置いて頂けると幸いです(笑)。

落花は枝に還らずとも 今日の落花は来年咲く種とやら

「楽しかった~!」とは言うものの、聞くと私の講釈は殆ど忘れてしまっている息子…最後は褒美代わりにいつもの家電量販店に立ち寄り、パーツを買うてやりましたわ(苦)。

硬貨は懐に還らずとも 今日の硬貨は将来咲く種とやら (ノД`)・゜・。
Posted at 2020/04/15 00:26:03 | コメント(2) | Local | 日記

プロフィール

「Fも完了。エビタイモケーよ。(^^;A」
何シテル?   11/12 15:48
初代ヴィッツやエボⅢを散々改悪した反省か、最近漸く真面になって来ました(苦)。
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