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マツダ株式会社

X605 復権への道程
2014年01月11日
アメリカから帰国した花岡信平は、RE研究部長の山本健一にいった。「ロータリーでやるんです。東洋工業が生き残る道は、それしかない。スポーツカーを二年以内に出すんです。」

企画書の立案は、自動車企画部製品企画室課長の吉本正三郎が担当プランナーとなり、基礎設計やデザイン・チームのスタッフ七人から成る混成部隊を編成して、作業を進めた。
吉本は早稲田大学商学部出身で、40歳。石油ショック前に、四人のチームでアメリカ西海岸の市場調査をして以来、「ロータリー・スポーツはアメリカで成功する」という確信を抱き、成功の条件を研究していたから、企画書の立案は、その延長線上で考えることができた。
スタッフたちは議論を重ね、年明けの1976年(昭和五十一年)1月には、企画書案をまとめた。
新車のコード番号は、1976年の「6」と、その年の五番目の開発車を意味する「05」を組み合わせて、「X605」と呼ぶことにし、企画書案には、『X605製品化企画書』という表題がつけられた。
企画書案は、1月に自動車企画会議にかけられ、細部について再検討を命じられたが、基本的な点では、「これでいこう」ということになった。
企画書案は、まず「開発の基本方針」として、
1.X605はマツダ車のうち、独自性のあるRE専用の最もスペシャライズした商品として開発し、国内では、サバンナ・クーペのモテルチェンジ車として導人し、米国では、REライト・スポーツとして導入する。
2.製品魅力を最大限実現するため、専用レイアウト(フロントミッド)、専用ボディのRE専用車とする。
3.目標コストの実現、早期開発、及び十分な信頼性確保を最重要課題とする。
上記実現のため、バリエーション・仕様・装備の種類削減割り切りを図る。
4.使用するエンジン機種を含む八項目を列記し、さらにX605の性格づけをする「コンセプト」として、次のような定義を記していた。
▽ 世界の若者を対象ユーザーとする。
▽ 若者が潜在的にクルマに対して持っている夢(製品魅力)を手の届く価格で提供する。
▽ エンジン・シャシー・ボディを含めて、完全なRE専用車とする。
▽ 製品魅力で若者の心をかきたて、再びRE車ブームを喚起する。
▽ マツダの独自性を主張する最もスペシャライズした商品により、国内では一歩進んだスペシャル・スポーティーカーとし、米国ではライト・スポーツカーとする。
どこの自動車メーカーでも、新車開発の企画書には、花々しいキャッチ・フレーズが列挙されるようだが、X605の場合は、開発担当者たちの熱気が、そのまま文章の中で躍っていた。
それでも企画書案の文章は抽象的な表現にとどめてあるが、文章の陰には、もっとリアルな戦略目標の設定があったのである。
とくに重要なのは、「若者の手の届く価格」という点だった。
ポルシェ級のスポーツカーになると、価格が高いから、大衆レベルでは簡単に手は出せない。問題は、国産のスポーツカーである。その意味で対抗車となるのは、ニッサンのフェアレディだけであった。
フェアレディは1960年(昭和三十五年)に初登場して以来、何度もモデルチェンジを重ね、一定の市場を確保していた。自動車評論家から、「スポーツ派をとりこにする実力を持つ車」と評されるだけの実績があった。
そこへマツダ車が真正面から切りこむことは、難しい。
国内市場を見た場合、乗用車の需要は一ヵ月平均約二十五万台である。つまり二十五万台の車を呑みこむプールめがけて、各メーカーが手持ちの車種を放りこみ、シェアを奪い合うわけである。
そこで二つの戦略が生まれる。対抗車種に負けないだけの魅力を持った新車で、なぐりこみをかけて、シェアを強引に拡大するか、二十五万台プラス・アルファの潜在的需要をねらって、まったく新しいタイプの車種を投入するかである。もちろん、これら二つには重なり合う部分も出てくる。
X605は、後者の道に重点を置くことにしたのだった。
フェアレディは人気がある。しかし、価格は平均180万円ぐらいだから、所得水準の高い中年層なら比較的容易に手が出るが、大衆レベルの若者となると、手を出すにはいま一息といったクラスになっている。市場調査のデータによると、150万円以下のスポーツカーが出れば買いたいという潜在的需要層が、かなりあることがわかっていた。
こうした国内マーケッティングの戦略検討の中心になったのは、販売部乗用車課の34歳の鍋島勝志だった。
「スタンダードの価格を150万円弱のところに設定して、安いというイメージを作っていくのだ。製造上のコスト・コントロールには苦労するだろうが、マーケッティング戦略からは、そこをねらうしかない」鍋島の目標設定は、そういうものだった。
150万円以下のポッカリと空白になっている未開拓の市場。そういう市場を、いくらでも新商品を呑みこむという意味で、「バキューム・マーケット」という。
「X605はバキューム・マーケットをねらえ」これが、企画書案の裏にある具体的なターゲットの重要なポイントの一つだったのである。
アメリカ市場におけるねらいも、まったく同じだった。
企画書案が、トップによって一応オーソライズされると、設計もデザインも、いよいよ本格的な作業に入った。
基礎設計の内山昭朗は基礎レイアウトを煮詰めるうちに、一つの難問にぶつかっていた。
それは、サスペンションの形式をどうするかという問題だった。
リア・サスペンションとして用いることにしていたのは、レース仕様のサバンナRX3が使用していたワットリンク・タイプと呼ばれる構造のものだった。ワットリンクは、ボディと車輪の位置関係を正確に維持できるように、中央の支持点(ピボット)の動きが、見事な幾何学的軌跡を描くように設計されている。このため、高速車の高い操縦安定性を確保する機構としては、最適だった。
「ワットリンク・タイプのサスペンションを、X605にも使用することによって、高い操縦安定性を引き出し、常勝のサバンナRX3のイメージを継承してほしい」内山は、広報サイドから、かねてそう要望されていた。
ところが、ワットリンク・タイプをRX3と同じような配置で取りつけると、安全上問題が生じるのだった。
それは、X605のデザインからきた制約だった。X605は、ガラスのハッチ・バックによるショート・テールを強調しようとしている。そのため、後部のガソリン・タンクが車軸に近寄らざるを得なくなり、追突されたときにガソリン・タンクがワットリンクの槍のような形をした支持点(ピボット)に激突して破れ、引火するおそれがあるのだった。
車体後部のクラッシュ・ゾーンについては、十分なスペースを設けるように、アメリカの規制で決められているから、RX3と同じような考えで、ワットリンクを採用したのでは、アメリカに輸出できなくなる。もともとアメリカ市場を本命として開発しようというのだから、それではまるで意味がない。かといって、ショート・テールのデザインを修正するわけにはいかない。
内山は、支持点(ピボット)の向きだけを、前に向けたらどうかと考えて、その動きを実験してみた。しかし、そうすると、車体がロールしたときに、ボディと車輪のバランスがまるで崩れてしまうのだった。
内山は頭をかかえた。連日考えたが、名案は浮かばず、夜も眠れなくなってしまった。
ようやく冬も終わろうとしていた。桜のつぼみがふくらみ、広島湾を渡る風もやわらいできた。
小学校一年の長男の誠夫は、春休みになって、家で遊んでいる。内山は、ある日帰宅すると、息子がおもちゃの縮尺器を使って、線を画いているのを、何気なくながめていた。
すると、誠夫は、縮尺器のアームをつないでいるボルトを外して、勝手な使い方を始めた。
内山は航空工学を専攻しているから、製図器には通じている。息子の面白い使い方を見ているうちに、彼は頭の中にひらめきを感じた。《そうだ、ワットリンクも同じだ!》
誠夫は、縮尺器の両端を留め、山形に折れ曲がったアーム(腕)のほぼ中央に鉛筆を入れて、線を引いて遊んでいる。
縮尺器は、片方の端に鉛筆をつけて拡大図を画くのが、普通の使い方だが、誠夫は本来鉛筆をつける端のところを留めてしまい、アームの中央だけを動かしているのだ。
アームの中央の鉛筆が画く軌跡は、双曲線になっていたが、鉛筆の位置をずらすと、曲線の曲がりぐあいが変わり、
ある位置では、面白いことに、直線が書ける。誠夫は子供だから、なぜそうなるのか、理屈などはわからないままに、
無心にいろいろな線を画いて、楽しんでいた。
しかし、内山は、鉛筆の左右のアームの長さが違っても、直線が書けるという点を、見逃さなかった。
《この原理を、ワットリンク・タイプのサスペンションにそっくり適用すれば、うまくいくはずだ。
ワットリンクの支持点(ピボット)を中央に配置したままで前向きにすると、ピボットが、後輪の車軸の中央にあるギア(デフ)の、ふくらんだケーシングにぶつかってしまう。
ぶつからないようにするには、ピボットの位置を、右か左にずらさなければならない。ずらすと、左右のロッドの長さが違ってくるが、山形に折れ曲がった縮尺器と同じような機構にすれば、ピボットは、左右同じ長さのロッドを使ったのと同じように垂直に動き、ボディと車輪の位置関係にアンバランスを生じないですむ…》
内山の頭の中は、台風一過の青空が広かるように、たちまち整理されていった。ワットリンクのピボットの位置を右にずらして配置すると、都合のよいことに、ピポットは、ギア(デフ)のケーシングの脇に隠れるような恰好になった。槍のようなピボットが隠れることは、追突されたときに、ガソリン・タンクの安全を守るのによい。
そればかりではなかった。ケーシングの脇の余分な空間を利用できることによって、ワットリンク機構の占めるス
ペースが、小さくてすむようになったのである。それは、アメリカの規制どおりに、車体後部に十分なクラッシュ・ゾーンを設けても、前田らのデザイン・チームが描いていたショート・テールの引き締まったラインを、全面的に採用できることを意味していた。
こうして内山は、「ワットリンクで高い操縦安定性を実証したサバンナRX3のイメージを継承してほしい」という広報サイドの要望と、ショート・テールでキュートなイメージを作りたいというデザイン・チームの構想と、追突時の安全性の維持という、三つの条件を、同時に満足させることに成功したのだった。
この新しいワットリンクは、後にパテントになるが、内山は新車が完成してから、感慨をこめて車体後部のラインをながめたものだった。
《このワットリンクを思いつかなかったら、リアのオーバーハング(張り出し)は、50ミリから70ミリは長くなって、せっかくのデザインを台無しにしていたろうな》
基礎レイアウトをどうするかは、このように単に機能面だけでなく、ボディのデザインにまで深くかかわり合いを持っているのだった。
そして、サスペンションのように、目立たないがきわめて重要な機構の、レイアウト上の壁を破るアイディアが、子供の遊びからヒントを得たものだったというのは、いかにも幸運だった。
発明や考案には、そういう偶然がからむことが少なくない。だが、その偶然は、けっして降って湧いたように与えられたものではなかった。問題を解決しようと、ぎりぎりまで努力し苦悩した積み上げがあってはじめて、偶然のヒントを見逃さないだけの目を持ち得たのだった。
基礎レイアウトが大体まとまると、デザイン・チームは、デザインを四案に絞り、それぞれのクレイ・モデル(粘土模型)を作った。大きさは、実物の五分の一だった。
四つのデザインの最大の相違点は、やはりヘッドライトとリアのガラス・ハッチのスタイルだった。
ヘッドライトは、ライトを出したままの「カニ目」のものが三種、リトラクタブルのものが一種だった。
前田らは、リトラクタブル・ヘッドライトを理想としながらも、慎重論の強い社内の空気から、控え目に一種だけ、リトラクタブルのモデルを作ったのだった。
慎重論とは、東洋工業として技術的にはじめての試みであるリトラクタブルの機構が、故障しないだろうかという不安感からきたものだった。X605は、ロータリーと東洋工業の再生をねらって、市場に出すものである。もし故障が生じれば、それがたとえレシプロの車と同じものであっても、「ロータリーだからだ」といわれかねない。そういうハンディキャップを克服するには、新車は、「ノン・トラブル」で登場させなければならない。
そういう考えが、いわば無言の至上命令になっていたのだった。そういう気の遣いようは、後発の技術に挑戦する企業の宿命でもあった。
四つのクレイ・モデルを、トップに見せると、案の定、リトラクタブル・ヘッドライトの案は落とされ、オーソドックスな「カニ目」のデザインが採用された。
「故障でライトが出なかったら、いかん」
「凍りついたら、どうするのか」
「コストがかかるのじゃないか」
というのが、リトラクタブルをやめた理由だった。
デザイン・チームは残念がったが、ともかく採用された一つの案を基に、全度は実物大のクレイ・モデルを作った。
クレイ・モデルには、シルバー・グレーの色が吹きつけられた。ガラスははめてあっても、室内は粘土が詰まっていて何もないが、それ以外の外観は、実際の車と同じイメージを漂わせていた。
「カニ目」のヘッドライトを除くと、全体にキュートな感じがよく出ていた。
実物大のクレイ・モデルは、そのままトップから承認された。実物大モデルの段階になると、三回も四回も手直しを求められるのが普通だが、X605は、一回でパスした。
実物大のクレイ・モデルが決まると、デザイン・チームは、その図面作りに移った。
立体的な曲面でできたモデルを二次元の図面にするには、コンピュータが動員される。クレイ・モデルの表面を計測用の針がなぞっていくと、コンピュータがその情報を処理して、自動製図機で地図の等高線図のような図面を画いていくのである。
もっとも、自動製図機はきれいな線を引かないので、デザイナーたちは手を加えて、ボディ・ラインの図面を完成させた。
図面が完成すると、念のため、今度はその図面どおりにクレイ・モデルを作り、もとのモデルと違っていないかどうかを調べ、そのうえで、いよいよ図面は設計チームに渡された。
インテリアの図面も画かなければならないが、開発の時間を急ぐので、インテリアは後回しにして、でき上がった図面から渡すという作業になった。
各部での作業が進行する中で、1976年(昭和五十一年)7月28日、松田杜長や関係の役員、部長らによる自動車企画会議が開かれ、「X605は企画案にそって開発する」との最終決定が下された。
それまでは、あくまでも「案」の段階であったものに、企業化への最終的な「GO」サインを出したのだった。しかも、具体的な方針の第一項目に、「マツダの『最特別商品』として開発する」といううたい文句を入れるほどの力のいれようだった。
その年の冬がやってきた頃、いぜんとして問題点として残っていたのは、ヘッドライトとリアのガラス・ハッチだった。
デザイン・チームも設計チームも、表向きには「カニ目」のヘッドライトで、試作を進めていたが、誰しもが心の中では、何とかリトラクタブルにしたいと考えていた。
すでに実物大のクレイ・モデルができたとき、住友銀行から派遣されていた副社長の村井勉は「カニ目」のヘッドライトを見て、「まるでコルゲンコーワだな」というせりふを吐いていた。
X605は腰の低いデザインになっていただけに、普通の乗用車以上にライトがギョロ目になって、まるでコルゲンコーワの広告に使われているケロヨンそっくりなのだった。どう見ても、スポーツカーのラインをぶち壊していた。
村井がそういうのだから、社長の松田がOKを出しさえすれば、リトラクタブルの採用に踏み切れる。しかし、松田は慎重だった。
松田を正面から説得する役をしたのは、研究開発副本部長の渡辺守之だった。
技術に詳しい松田を説得するには、それだけのデータをそろえなければならない。渡辺は、ライトを引っこめたほうが、スポーツカーとしての空力特性がよく、逆に固定式の「カニ目」にすると、空気抵抗が大きくなって、エネルギー・ロスが生じることを科学的に示すデータなどを、部下に作らせた。
デザインの前田らも、一策を講じていた。現場の好きな松田は、時々設計やデザインや実験の部屋をのぞきにくる。
前田は、そのチャンスをつかもうと、実物大のモデルから「カニ目」を削って、ライトを引っこめた状態のノーズに作り変えておいた。
松田が部屋にやってくると、前田は待ってましたとばかりに、クレイ・モデルのノーズのところを指差して、「どうですか」聞いた。
松田は、「いいな、これは」といった。
松田も、もともとリトラクタブル自体に反対していたわけではなく、信頼性を心配していただけだったから、実物大のモデルでライトを引っこめた状態を見せられると、やはり心を動かされたようだった。
その頃、基礎レイアウトの作業を終えた内山は、X605の量産設計のための設計プロジェクト室に移ることになったので、渡辺のところにあいさつに行った。
「ごやっかいになります」内山が頭を下げると、渡辺は、「内山君、何かいいたいことがあるんじゃないか。商品に対するあなたの意見を聞かせてくれないか」といった。
内山はこのときとばかりに、ヘッドライトについての考えを述べた。
「車の育成のために、市場的にいちばん大切なのは、ファースト・インプレッションです。ケロヨンのヘッドライトを最初に市場に出したら、後でリトラクタブルにチェンジしても、ユーザーはいつまでも最初のケロヨンのイメージで、この車を見ます。おまけに、ケロヨンの評判が悪いから修正したと見られるのが、オチです。商品づくりについて、私がいちばんいいたいのは、そのことです」
渡辺は、「わかった。おれもそう思うのだ」といった。
渡辺が松田の説得に成功したのは、その日の午後だった。
このときのことを回想して、渡辺は、「トップに対する説得は、一日ですんだけれど、そこに至るまでの間、説得のためのデータを作るのが、ひと苦労でしたよ」と、語る。
重要なセリング・ポイントとなるリトラクタブル・ヘッドライトは、こうして採用されることになったのだった。
リアのガラス・ハッチは、もっと難しい技術的な問題に直面していた。
デザイン側の理想は、リア・ウインドウを両サイドまで枠なしの一枚ガラスで作って、ハッチにすることだった。
だが、実験研究部や設計部のボディ設計課から、一枚ガラスにした場合の難点が示された。
難点の第一は、湾曲したガラスとボディを密着させようとしても、大量生産の際の誤差によって、隙間が生じ、雨水が漏れたり、高速走行のときに空気が漏れる音がしたりするおそれがあることだった。
もう一つは、追突されたときに、一枚ガラスでは壊れやすいという、安全上の弱点だった。
さらに、ガラス・メーカーの日本板硝子の技術開発部からは、湾曲した一枚ガラスを使うと、ドライバーが後ろを見たときに、外の景色や後続車がゆがんで見えるから、やめたほうがいい、という回答があった。
一枚ガラスにできないことは、デザイン・チームにとっては、痛手だった。
「一枚にできなくても、一枚ガラスと同じようなリア・ウインドウのイメージは、何とか実現したい」前田は、設計部や実験研究部との打ち合わせの席で、そう発言した。
「一目でマツダ車とわかるアイデンティティ(存在証明)を」という、前田の持論については、技術陣はみな理解し、賛成していたから、前田が求めているバック・スタイルを生かそうと、技術者たちは何度も集まっては、議論をした。
その結果、実験研究部の望月澄男や中矢裕助らか提案した三分割方式が、採用されることになった。
リア・ウインドウを、センターと両サイドの三枚に分け、両サイドは固定して、センターだけをハッチ式ドアにしようというのである。そして、ガラスのつき合わせ部分にフレームを入れるが、フレームをガラスの内側に隠して、外側からは見えないようにすれば、一枚ガラスに近いイメージにすることができるだろうという構想だった。
ボディ設計の実務上の責任者である渡辺守之も、自ら三分割方式を考えていたから、望月らの構想を全面的に支持した。
「海軍の零戦も、キャノピーに支えのフレームがあったけれど、別に不自然ではなかった。ガラスを三分割して、フレームを入れても、それほど目立たないようにできるんじゃないか」戦時中に東大工学部の航空原動機科で学んでいた渡辺は、いかにも飛行機に通じている者らしく、そういった。方針が決まると、車両組立技術課の井巻久一が、日本板硝子京都工場に通っては、目指す三分割ガラスの製作を可能にするための打ち合わせを続けた。
X605の試作一号車は、1977年(昭和五十二年)1月、デザイン・チームのイメージをほぼ満足させた形で、でき上がった。試作車は、擬装されて三次のテスト・コースに運ばれ、ただちに走行実験が開始された。
その性能のよさは、実験研究部の技術者やテスト・ドライバーたちを昂奮させ、たちまち虜にしてしまった。だが、彼らは昂まる感情を抑えて、試験項目のデータを取り、性能をいちだんとレベル・アップすることを追求した。
重要な課題は、正確な操縦性能を確保することだった。
日本の車は、一般にハンドルの遊びが多く、切れ味かよくない。しかし、X605はスポーツカーとして、ハンドルの「応答性のよさ」が不可欠である。と同時にマーケット・リサーチのデータは、ハンドルが「軽い」ことも求めていた。
ハンドルを「軽く」するには、ギアのレシオ(比)を大きくしなければならないのだが、レシオを大きくすると、ハンドルをたくさん切らなければ、車が向きを変えず、「応答のよさ」と矛盾することになる。
このように相矛盾する条件を共に充たすために、実験研究部増田忠之らのグループは、ギアのレシオをある程度上げる一方で、ハンドルの応答性に関係のあるリンクの角度を工夫したり、ステアリング・シャフト(ハンドル軸)の直径をミリ単位で大きくしたりするなど、微妙な“味つけ„に、日夜精力を注いだ。手直ししては、試作車で試験をするという繰り返しで、ステアリング・シャフトだけでも、六回も作り変えられ、はじめは直径25.5ミリだったものが、最終的には33ミリの太さに決められた。
どんな技術製品でも、その中には、多くの技術者たちのきめ細かい工夫や惜しみない労苦が、随所に刻みこまれているものである。完成品になってしまうと、みがきのかかった外板の中に隠されてしまうそうした微細な性能追求に、彼らは情熱を燃やすのだ。このような努力の積み重ねの上に、はじめて企業のノウハウが蓄積され、完成度の高い技術製品を生み出す素地がつくられていくものなのであろう。
実験研究部は、試作車の走行実験が始まると、十数人の技術者をX605開発に専念させた。
ハンドリング性能の開発は、操縦安定性能グループの保田紀孝(36歳)、田中建(30歳)、荒木伸裕(26歳)の三人が、つきっきりで取り組んだのをはじめ、ブレーキ性能は、制動性能グループの岩谷正人(33歳)と小笠原誠(29歳)、チェンジ・クラッチ・アクセルは、振動グループの中沢正史(36歳)と和田恭昭(32歳)、ドライバビリティなど走りの性能は、第二走行実験課の山本紘(36歳)と片倉正美(36歳)、振動・乗り心地・騒音などは振動騒音実験課の河野哲也(36歳)、橋本俊博(34歳)、伊藤勇二(36歳)らが、担当者となって、開発にあたった。
スポーツカーとなると、運転したときの感じがどうしても全体として固いものになりがちなのだが、彼らは、乗用車のようなソフトな感じを盛りこむことに腐心した。
例えば、X605のギア・チェンジのレバーは、レイアウトの都合で、つけ根が前へ寄っているため、グリップをドライバーの手もとに持ってくるには、レバーを曲げた形にしなければならなかった。ところが、曲がったレバーは、ドライバーの意志(手の動き)を、ダイレクトにチェンジ機構に伝えにくい。下手に作ると、ゴツゴツと機械を噛むような感じになってしまう。
そこで、振動グループの中沢と和田は、さまざまなレバーを作っては、試作車に取りつけて、グリップやシフトのしやすいレバーを求めたのだった。
自動車ほど、人間と機械のマッチングが求められる工業技術製品はない。計器や数字では表し切れないフィーリングを、ユーザーは重視するから、そうした“味つけ„役を担当する実験研究部のスタッフは、メカの微妙な改善で、性能やフィーリングがどのように変わるかを、徹底的に追求しなければならなかった。
ポルシェ924やBMW320を買い、実験室でデータを取ったり、三次のテスト・コースで乗りまわしたりしたが、そうした欧州車とは違った、ロータリーならではの持ち味を出すには、やはり自らの試作車で実験を繰り返し、独自の開発をしなければならなかった。
微妙な“味つけ„の作業だから、彼らは凝り性の男が多かった。陣頭指揮をしていた、実験研究部の増田忠之にしてからが、新しい部品ができたり、考えが浮かんだりすると、タ方であっても、「これから三次へ行ってくる」といって、自分の車で出かけるのだった。
夕方のラッシュ時だと、三次に着くのは、夜八時過ぎになる。暗いテスト・コースで、増田は試作車の部品を取り換えたりして、深夜になっても、自分が納得するまで乗りまわす。増田は相棒がいると、「性能やレスポンスの良し悪しは、限界ぎりぎりのところで実験してみないと、わからないんだ」と、よく口にした。
だから、増田は激しい乗り方を、あえてやることが多かった。実験研究部の中で、増田は、「中年暴走族」というあだ名がつけられていた。走行実験が開始されて一ヵ月余り経った2月24日の自動車企画会議は、X605の開発状況と市場の動向を検討した結果、「国内市場、アメリカ市場ともに売れそうである。生産は強気で臨む」との確認をした。
この席上、副社長の村井が、「ロータリーの燃費は大丈夫か」と、念を押すように質問すると、RE研究部長の山本は、「燃費改善には自信があります」と、ためらいなく答えた。
燃費問題がロータリーの一時的失墜の原因だったのだから、その原点を忘れて、性能やスタイルだけをよくしても、事業が成功するはずがないことは、誰しもが胸に刻みこんでいる。
ロータリー・エンジンは、すでにX605の開発に着手した段階で、燃費の40パーセント改善を達成していたが、対抗のレシプロ・エンジン側の改善も著しいため、40パーセントの改善で満足しているわけにはいかなかった。とくにロータリーは、低速走行時において、いぜんとして燃費のハンディキャップがあった。
40パーセント改善は、排気ガスの再燃焼システムに、排気ガス自体の熱を利用し、燃料の無駄使いを防ごうというサーマル・リアクター・システムの改良を中心にして、進められたものだったが、この方法で燃費を改善するには、ほぼ限界にきていた。
次の打開策は、サーマル・リアクター・システムを思い切って百八十度転換し、さらに新しい技術を開発する以外になかった。
その開発の重点は、燃料の混合ガスを薄くしても、確実に燃焼させることのできる強力な点火装置を実現することと、ロータリーに使用可能な排気ガス再燃焼用の触媒装置をつくることに置かれた。
点火装置ひとつを取ってみても、ロータリーとレシプロとでは、シリンダー内のガスの流れが違うから、レシプロの技術は使いものにならない。どうしても独自の発想と試行錯誤で、解決策を見出していかなければならなかった。
RE研究部の吉村重剛を中心にした実験グループは、従来三極だった点火プラグを四極にし(レシプロは通常二極)、さらに極間の隙間を適度に広げるなどして、着火しやすくした「高性能点火装置」や、新しい再燃焼触媒装置の開発に、二年後に成功し、燃費をさらに20パーセント改善させることになるが、試作車の走行実験が始まった頃には、はやくもその見通しをつけつつあった。
山本が「自信がある」といったのは、そうした客観的な状況をふまえてのことだった。
走行実験が進むのと並行して、重要な機構の性能や信頼度のテストも行われたが、とりわけリトラクタブル・ヘッドライトの信頼度テストは、慎重に行われた。
ライトを出したり、引っこめたりする作動を繰り返す耐久性テストは、三万回におよんだが、それだけやっても、リンクに多少のゆるみが生じた程度で、機構に故障は出ながった。
クライマックスは、氷結テストだった。
クライメット・テスト・ラボ(耐候性実験室)に、試作車を入れて、温度を氷点下15度にまで下げ、噴煙器で水をかけると、車体の表面には、たちまち10センチほどの氷が張りついた。
ヘッドライトは引っこめた状態にしてあるので、完全に厚い氷に被われている。それでもライトが立ち上がるかどうかは、この車が寒冷地で使えるかどうかにかかわる。
「じゃ、いきますよ」実験班の担当者が声をかけると、集まった技術者たちは、固唾を呑んで、ガラス越しに、氷に被われた試作車のノーズに、視線を集中させた。
担当者がスイッチを入れると、ノーズの厚い氷がバリバリと割れ、ライトが立ち上がってきた。
「やったぞ」
「これなら大丈夫だ」
彼らはそういって、笑顔を見せ合った。
しかし、万一の配線故障に備えて、彼らは、ボンネットを開けて、手動でランプを出せるようなバックアップの機構を設けることを、忘れなかった。
リトラクタブル・ヘッドライトについては、空気抵抗にどれぐらいの差が出るかを、風桐で調べる実験も行われた。
その結果、ランプを引っこめると、空気抵抗が6パーセントも小さくなることが、明らかになった。それだけ無駄なエネルギーを使わなくてすむわけで、最高速度の指標で見ると、3キロから4キロの差になっていた。
走行実験が始まってから九ヵ月後の9月下旬、実験研究部による細部の改善がほぼ終わり、量産用X605のプロトタイプ(原型)が作られた。
発売開始まで、あと半年を残すだけとなっていた。プロトタイプができると開発本部の幹部の試乗会が、三次よで行われた。
副本部長の渡辺守之も、自らハンドルを握って、高速走行に挑戦した。戦時中に航空工学をやった車好きの渡辺は、レーサーなみの操作を、つぎつぎにやってのけた。
180キロのスピードで、フラットな急カーブを回っても、車は安定した姿勢を崩さずに、忠実にハンドル操作に従った。
《これなら大丈夫だ》
渡辺は、胸をなで下ろすような気持ちで、満足していた。
車から下りた渡辺は、実験研究部のスタッフに、180キロで急カーブを回れたことを、笑顔で語ったが、ほめてばかりいないで、「ヒール・アンド・トウで回ると、ブレーキが甘い。フワッとして、カチッと決まらないんだ。もう少し直さなければいかん」といって、注文をつけた。
ヒール・アンド・トウとは、かかとをアクセルに、つま先をブレーキに、同時に乗せて、アクセルとブレーキの両方のペダルを同時にコントロールする高度なテクニックである。レース中に急激なシフト・ダウンをしなければならないときなどに必要となるテクニックで、一般の運転では不必要だが、渡辺は、そういう高度なテクニックにも応えられるだけの性能にしておけと、要求したのだった。
発売までの日程が、刻々と少なくなっていく中で、10月13日の常務会は、X605の名称を「サバンナRX7」とすることを決めた。
名称については、社内にいろいろな議論があったが、RX3のイメージを継承させたいという広報・宣伝サイドの意見が採用されたのだった。「7」は、ラッキー・セブンの語呂のよさから選ばれた数字だった。
11月7日、ベルギー人の世界的レーサー、ポール・フレールを密かに三次に招いて、RX7のプロトタイプに試乗してもらった。プロの腕による評価をしてもらうためだった。
この日、フレールに同行した実験研究部の望月澄男のメモ―――「2~3周して降りてくると、フレールは『エクセレント』といった。性能についても、『ポルシェ924、フィアットに十分対抗できる』という。社交辞令はあるにしても、かなり満足したと思える」
この頃になると、自動車販売本部や輸出本部の準備も活発になり、主要なディーラーを集めての導入会議が開かれるなど、社内の雰囲気は、しだいに高揚してきた。
技術面で最後まで難渋していたリア・ウインドウのガラスの問題も、日本板硝子の協力で、ようやく解決していた。
リア・ウインドウは、ガラスをセンターと両サイドに三分割することになったのだが、まず解決しなければならなかったのは、ハッチ・バックのセンター・ガラスが、サイド・ウインドウとのつき合わせ部分についているラバーの反発で、浮き上がらないようにしなければならないという問題だった。
このため、サイド・ウインドウのつき合わせ部分を最もいい形状にする工夫をしたり、センター・ガラスを当初の計画より厚い6ミリのものにして、重量をつけたりした。
もう一つの難問は、サイド・ウインドウの接着部分だった。
日本板硝子の第二技術開発部次長、村山青申と、製造部次長、泉富修によると―――「普通の車では、ガラスをウレタンで接着した部分は、金属フレームで覆ってしまうため、接着面が外部から見えるということはないわけです。
ところがRX7の場合は、センターだけでなくサイド・ウインドウもガラスだけなんですね。そうなると、どうし
てもウレタン接着部分がガラス越しに見えてしまって、美観上よくないばかりか、むき出しのウレタンは紫外線に弱いという問題も出てきました。
いろいろ苦心したのですが、結局、ウレタン接着部分に、加熱の工程で、38ミリ幅で黒い顔料を入れたセラミックをプリントすることにしました。これによって美観上の問題と紫外線の問題を解決することができたわけです」
こうした技術の積み重ねによって、リア・ウインドウを何とか一枚ガラスのイメージに近づけたいというデザイン・チームの要請は、量産レベルで実現することになったのだった。
この年、1977年(昭和五十二年)の師走になって、オーナー社長松田耕平が会長職に退き、山崎芳樹専務が社長に就くことが発表された。この人事が住友銀行の意向によるものであることは、誰の目にも明らかだった。
技術者たちの心情は複雑だったが、多くの者に共通していたのは、RX7を成功させることこそ、最優先課題だという意識だった。
すでに一月に発売していたレシプロ・エンジンのファミリアAPのヒットで、東洋工業は最悪の事態から脱しつつあったから、RX7でロータリーの復権をはかり、それを経営立て直しのペースメーカーとしなければならない段階にきていた。
年が変わって1978年(昭和五十三年)となり、発売日が近づくにつれて、RX7の開発に携わった者は、それぞれに期待と不安で落ち着かない気持ちになっていた。RX7の市場導入企画を立案し推進してきた商品企画室の鍋島勝志らは、3月に入ると、居ても立ってもいられなくなって、自分で出張計画を立てると、一ヵ月の予定で全国の販売店のセールスマン教育の行脚に出てしまったほどだった。
3月30日、RX7の発表会が東京、大阪、広島で開かれ、発表が開始された。続いて全国の販売店でも展示会が開かれたが、各地で東洋工業始まって以来の客が詰めかけた。
ちなみに、東京・渋谷のマツダファミリア城南の常務、古市侃は、「青山や六本木の三ヶ所のビルの店頭を借りて、二週間の展示会を開いたのですが、お客さんが次から次へやってくるので、夜の12時になってもシャッターを下ろせず、セールスマンが泊まりこまなければならなかったほどでした」と語る。
マツダファミリア城南の全車種を合わせた月販記録は、それまで102台だったが、この年4月は148台を記録し、そのうち百台がRX7だった。動員された未教育の新入社員ですら、一人平均四台を売るという異例のペースだった。古市は、経営危機の中で東洋工業から販売店などに出向させられて苦労してきた多くの社員の一人だっただけに、営業実績の急速な復調には、感無量だった。
どこの販売店でも似たような状況で、東洋工業の当初の販売計画が月二千台だったのに対し、4月の全国の受注台数は一万二千台に達し、このうち月内に引き渡しできたのは、九千台だった。
アメリカ市場での販売は、5月から開始されたが、国内以上の人気が集まり、品薄のため、七千ドルの価格に対し、千ドルのプレミアムがつけられたほどだった。
東洋工業は、RX7の成功で、確実に浮上のきっかけをつかむことができたのだ。
だが、自動車業界には、80年代の小型車戦争というきびしい試練が待ち受けている。
RX7がアメリカに導入されて間もない1978年7月から10月にかけて、基礎設計の内山昭朗は、アメリカ全土を思いのままに、車で走りまわった。
「目を開けて昼寝してこい」と、常務になった山本健一からいわれて、出かけたのだった。
その言葉を、内山は、「アメリカ市場抜きにして自動車商売は成り立たない。アメリカのユーザーの求めているものを、データでなく、本質的なところでとらえてこい」という意味に解釈した。本質的なところを見なければ、明日の開発の発想は生まれてこないからだ。
南カリフォルニアからヨセミテ、サンフランシスコ、デスバレーなどを、可能な限り車種を変えつつドライブし、走る車を見、人と話すうちに、彼は、80年代の車について、何かがおぼろげながら見えてくるような気がしてきた。
《80年代後半がほんとうの勝負だろう…独自性こそが…》
彼は頭の中を整理し、次に取り組むべき車について、自分なりにイメージをまとめて、帰国の途についた。
東洋工業内の空気は、RX7の成功後、大きく変わっていた。技術者も販売担当者も、「負け犬」根性から脱出し、危機乗り切りに不可欠の自信とやる気を取り戻したのだ。
翌1979年2月、RX7はアメリカ・デイトナの二十四時間耐久レースで、見事にクラス優勝し、二年前にRX3でリタイアを余儀なくさせられた雪辱を果たした。

著:柳田邦夫 『日本の逆転した日』より一部転載

セヴンデヴューは1978年3月30日。これぞまさしく祝うべきセヴンディなのである。

住所: 広島県安芸郡府中町新地3-1 マツダ株式会社

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