その瞬間、西山は寒気がしたと思った。
10月とはいえ、北緯12度である。高い気温と湿気こそあれ「寒さ」とは無縁である。巡航での睡眠時に空調のきいた部屋での釣床でさえ快適とは感じるものの寒いとまでは到底いきはしない。
ましてや、今は戦闘態勢で南方作戦進撃中である大和の対空兵装座であるのだからいささかの冷気など感ずるはずもない。
数分前の目まいと吐き気から風邪をひいたか先に散った英霊の御霊の悪戯かとも一瞬思ってもみたが、どうにもおかしい。
己の身体の不調や気のせいではない。
確実に外気温度が冷気の類であることに疑いない。
「おい、貴様おかしいとは思わんか? ここはハワイより南ではなかったのか? それとも南洋の明け方とはこういうものなのか?」
宮司が13mm機銃の弾薬箱を持つ手を摩りながら問うた。
西山は小さく「俺にはわからん・・・」と呟いた。
「わからん・・・」と栗田は手にした双眼鏡を見ながら、つい口走ってしまった。艦隊指令長官である以上「わからん」などということは許されない立場であるのだが、この時ばかりは全ての意味において正しい発言であった。
確かに一時間ほど前まではスコールなどの影響があったとはいえ「敵ラシキ艦影二見ユ」という西村部隊からの入電もあった。
しかし、現在は入電はおろか駆逐艦隊、一等巡洋艦の羽黒・鳥海すら認めず、第一、本艦前方に進撃していた巨艦戦艦長門の雄姿すらない。
いくら日の出前とはいえ野戦訓練も充分にしてきた連中がそうそう目前の味方艦を見失うはずもない。
作戦打ち合わせのために乗艦していた第二艦隊参謀小柳がやはり双眼鏡を手に栗田長官に問いかけた。
「あの二艦が西村の打電してきたものでしょうか?」
「だとしたら、我々は艦隊ごと何か巧妙な罠にひっかかったかも知れんな・・・本艦以外の艦隊艦及び状況はどうか?」
「それにつきまして」と戦闘艦橋に上がってきた艦長森下が報告をする。
「目下我々のいる状況が合点がいかないことばかりなので正確には申し上げにくいことを前提で解釈願いたいのですが」との言葉に無言で栗田はうなずいた。
「どうやら我々はタクロバンどころか、想像もつかぬところに向かっているのかもしれません。日の出の予想方位と方位極からのみ推定させた結果、現在本艦は北緯63度付近を西南西にむけて速力14節で航行中です。目視・電探共に当艦隊艦と思われる艦影は確認できず。代わりにといってはですが、本艦右舷二時方向距離360と400に未確認戦艦二を確認。また電探に270度550に艦影反応二以上とのことです」報告がされるやいなや第一戦隊宇垣中将が森下に食ってかかった。
「馬鹿な!! では、我々はレーダーごと敵の目くらましにあい、知らぬ間に本土すら通り抜け北海へ待機していた敵艦隊の中へと導かれたとでもいうのか?」
「事実を申し上げております!過程など小官にはわからんのです」
では貴官はどう解釈されるのか?と森下が宇垣に嫌味半分で訊きかけたその時である。
「報告!後楼指揮所より大和後方に島影。一部に冠雪を確認!」
栗田は発令した。「状況不明なるも敵艦確認後、本艦の火力をもって撃滅すべし」
下令されると艦橋は和気立ち、その和気立ちは瞬く間に全艦に広がっていった。
「では、戦闘を第一戦隊司令官にお任せする」
「了解いたしました。合戦準備!!」
宇垣司令は、大声で命令をしたあとポツリと言った。
「寒いわけだな・・・」
ギュンター・リッチェンス司令は、驚いていた。
狼狽とはいかないまでも、ここ数日執拗にくいさがる英国巡洋艦二隻に加えて、レーダー反応にもなく突如として現れた正体不明艦はどうやら戦艦である事実に回避すべきか戦闘すべきかの判断を秒単位で迫られることになってしまったのだ。
「どうせ、我々以外は全部敵なのです。プリンツ・オイゲンとで敵艦を撃沈し進路を確保しましょう!」
「しかしね、リンデマン艦長・・・」リツチェンスは渋い表情でビスマルク艦長に向かい、ゆっくりと諭し始めた。
「会敵の度に砲戦をしていては、我々の本来の目的を達せられぬではないか。不用意な戦闘は避ける命令もでているのだからな」
このリッチェンスの言葉に今度はリンデマンの方が苦虫を噛み潰した顔になった。
「提督、プリンツ・オイゲンと敵艦とは距離40000しかないのですよ? この距離でも戦闘をしないで我々に逃げろと? 一体、何隻の敵艦をビスマルクの後ろにひっさげりゃ気がお済ですか?」
「キミ、口が過ぎるだろう!!」流石にこれにはリッチェンスも頭にはきたようだ。しかし、それでもなお彼は戦闘にはあまり積極的にはなれなかった。
「わかった、キミの言う事も一理あるだろう。ともかく時艱がない。戦闘準備には入ってくれ。ただし!ただしだ! 砲戦許可は私が下す。レーダー司令の命令はキミも分かっているのだろう? 勝手に戦端をきるなよ?」
とにもかくにもビスマルク艦長リンデマンはリッチェンス提督から戦闘準備をひんもぎることに成功したのだった。
大戦艦フッドと新鋭艦プリンス・オブ・ウェールズは28ノットで急速にビスマルクと思われる戦艦に接近しつつあった。
レーダーには38000に1艦、更に60000に2艦の反応がある。
本来、フッドはその巨体に似合わず31ノットまで出せるので、先行して先の1艦・・・恐らくはビスマルクであろうが、交戦を開始することも出来た。
ビスマルクに関しては、いくつかの有力な情報が既にホランド提督には伝えられていた。それによると、38cm砲8門で4万トン程度の戦艦であり、艦齢20年とはいえ改装による強化をされたフッドならば軽快なフットワークと砲戦力を活かせば対等に戦えるはずだ。速力は戦場でのインシャチブルをとることが出来、それゆえ砲撃力を遺憾なく発揮でき得る。ホランドは、それを選ぶことも出来た。
しかし、ここは総合戦艦二艦での火力にて完璧を期するのがセオリーというものである。
もうしばらくすれば敵艦も見えてくるだろう。そこからが勝負だ。
が・・・ホランド提督には、いくつか引っかかる点があった。
敵艦と思われる艦からは、ドイツ語ではない通信をキャッチしている。通信周波数もドイツのものではない。
第一、我々が敵艦だと思っている目標は、本当に敵艦なのだろうか?
そもそもトーヴィー艦隊司令より与えられた情報では、独艦隊はビスマルクとプリンツ・オイゲンの二隻ではなかったか?
ノーフォークのウォーカー小将からも追撃しているのは先の二隻だと確認している。 彼の戦隊にあるサフォークのレーダーは新型のものが配備されており、サフォーク自体、危険を犯して何度も奴らの鼻先をかすめて確認したことだ。間違いはあるまい。
では、残る一艦は何だ?
一番ぞっとする可能性は目標の正体がテルピッツであった場合だ。
もし、そうならばウォーカー戦隊の重巡二艦でプリンツ・オイゲンと闘い、我々は戦艦二艦で敵を一艦づつ各個撃破していくしかない。それは正直、頭が痛い話だ。
だが、その可能性はないこともホランドには分かっていた。
ビスマルクとテルピッツは大英帝国が特に警戒せねばならない艦であり、潜入しているスパイからの情報も逐一ロンドンに報告がされている。
信頼出来得る最新の情報からもテルピッツは未だ出航をしていない。
そうなると、残る独艦はシャルンホルストかグライゼナウ辺りということになるがシャルンホルストはブレストに、グライゼナウは先月に我が軍の雷撃で出撃不能にしたばかりだ。
つまり我々が目標としている手前の艦は軽巡程度の艦だということになる。これを出来るだけ速やかにほおむり去り後方のビスマルクに接近するのだ。
しかし、そうなると問題は防御力の差である。ビスマルクは最新鋭艦だけにフッドよりも強力な装甲が施されている。この差を逆転させる為には主砲数に勝る我々が出来るだけ急速に接近し、その火力をもって敵の防御力を撃ち破るしかない。
ビスマルクの主砲数8門に対してこちらは18門。数の上だけなら、こちらが有利である。もっともプリンス・オブ・ウェールズの主砲数をそのままカウントできないかもしれないが・・・
プリンス・オブ・ウェールズは、この迎撃戦に至っても完成艦とはいえなかった。
主砲でさえ初弾を発射した後は使えるかどうかの保障もないような状態にある。
「とはいえ、まさか全門沈黙することもあるまい・・・」
ランスロット・ホランド中将は、未完成艦と未熟な砲術員に多少の不安を感じてはいたが、新鋭艦の防御力と二艦の総合砲撃力がそれをカバーするとも考えていた。
現在の視界は17マイル。あと30分もすれば第一目標を視認出来るだろう。
14マイルまでひきつけて前方の砲で砲撃。その後はビスマルクとの距離をつめてから左に転舵。全砲門で攻撃をする。後は喧嘩の要領と同じだ。ぶん殴りあいは大概にして先にぶん殴った奴は、殴られた奴が怯むうちにボコボコに出来るものなのだ。
ここはアメリカのボクサー、デンプシーにならいデンプシーブローの集中打を浴びせ敵艦の戦闘力を一気に奪う。
これがホランドなりに考えた末の全速進撃である。
フッド乗艦のW・J・ダンダス士官候補生は、双眼鏡から見えるものを凝視した。
「あれがビスマルクなのか?!」
その艦影は今までみてきた、どの軍艦のシルエットとも異なっていた。
これだけの遠方からでもはっきりと分かる背の高い艦橋。独型らしい一本煙突。
何か得体の知れない威圧感をダンダスが感じた時、双眼鏡の中の黒いシルエットの数箇所が白とオレンジの混じった輝きを放った。敵艦が発砲を開始したのだ。
「敵は正気か?当たるわけがないだろう」
プリンス・オブ・ウェールズのジョン・リーチ艦長は敵艦の無謀としか見えない発砲の意味を図りかねた。
少しの時が流れ、敵の砲弾はプリンス・オブ・ウェールズの遥かに前方1マイル以上も外れた海上を叩いた。派手な水柱が9本上がった。
それをみたリーチ艦長は背中に悪寒が走った。
前方の敵艦は軽巡ではなかったのか? 9本の水柱ということは3連装砲塔が3基装備された艦だということだ。
それはいい。そういう艦も有るだろう。
だが何だ、あの水柱は?
16マイル先から撃ってきたということは、奴は戦艦並の射程を持っているということではないか!
更に2マイルほども先であの水柱ということは、かなりの大口径砲のはずだ。
リーチ艦長が呆気にとられているうちに、更に敵艦からの砲弾が今度は1マイル以内で水柱を上げた。
フッドとプリンス・オブ・ウェールズの遥かに前方とはいえ、安々と砲撃をしてきた敵艦に、いつもは戦時であろうがゆったりと指揮をとるホランド中将も腰を抜かすほど驚いた。
フッドのフィリップ艦長も驚きを隠せなかった。外れたとはいえ、今まで想定してきた敵とはどうも格が違うらしい。
つまり我々はビスマルク以外への注意を怠っていたのかもしれない。
眼前の敵は軽巡などではない。
場合によってはビスマルクに匹敵するクラスの戦艦で、姑息なヒトラーが大英帝国海軍の名誉を貶める最大のチャンスに送り込んできた虎の子なのかも知れない。
こっちは、巨大とはいえ老朽艦と未完成の新造艦。敵は最新鋭戦艦が二隻だ。これでは俄然分が悪い。
フィリップはホランド中将の次の命令を待った。
「ここでは、まだ主砲の有効な砲戦距離に達していない。このまま2マイル前進後、左舷回頭60度。完了後は全砲門で応戦だ!」
ホランドの命令をテッド・ブリックスは、直ちに伝声管で発光信号所に伝えた。更に危機を感じたホランドはKG5のトヴィー艦隊司令に同海域への至急なる増援を求めた。
「現在、ビスマルクではない戦艦と交戦中」
ブリックスが電信室に伝え終えた瞬間、フッドの真横に水柱が上がった。
それは、フッドの艦橋よりも何倍も高く感じられた。
・ ・ ・
「ううむ・・・いかんな・・・」
能村砲術長は唸ってしまった。
既に4回目の斉射にも関わらず未だ命中弾無し。如何に敵より不利な条件になろうとも初弾命中の自信があっただけに不本意この上ない。大和の15m測距儀の精度も大したものである。猛訓練もしてきた。各員の錬度は十二分に信頼に値する。なのに当たらんとは何事か? 命中弾の問題だけではない。今回は、分からんことが多すぎる。
「いかん、いかん」能村の独り言に対し下令を聞き漏らすまいとしていた砲術員が能村砲術長を直視する。
「いや、今のは気にするな」 そうだ、余計な事を気にしている場合ではない。敵艦は急速に接近しつつある。既に先頭の的艦との距離は24000しかない。主砲の最大射程の半分程度にまで接近されてしまった。だが4回目は近弾であった。これはどういうことか・・・そうか! 砲弾の初速が足りぬのだ。的艦は大和より東にいる。その敵に砲撃をした場合、北緯63度では赤道付近で同方向へ砲撃した場合よりも自転による加速が加算されない。おまけに正確な自艦の位置が割り出せていないのでは、いくら測距が正確に出ていても他の入力条件で九八式射撃盤は正しい俯仰角を算出出来ない。ならば射撃盤には、そこを加味した修正を人力で施せばよし。
能村はザックリとした数値を勘で弾き出した。
「おい、初速修正目盛りで初速が50mほど落ちたことにしろ」
大和は、十分ほど前に宇垣司令の下令で全主砲を敵艦に発射可能にすべく左に15度ほど転進をしていた。海図が無いために浅瀬がどこにあるのかも分からないが、ここでは珊瑚礁が育って浅瀬が点在することなどは到底考えられそうもない。
森下艦長は戦闘時とはいえ補給がいつ受けられるかも分からないので極端な燃料消費を現状では抑えるべく10分の4全速、即ち23.3ノット程度までの増速をした。
艦のいたるところから、寒さで手がかじかんだり震えがとまらないものが続出してしまったため外気に直接曝される部署については艦内の毛布などを自由に使用してよい旨の許可をだしたが「こんなことで、敵機が来襲してきたらどうするつもりか? 高角砲の俯角歯に布など挟まってはたまらんぞ」と小柳参謀は少々納得しかねているようである。
「それにいたしましても」宇垣司令が栗田艦隊司令長官に問う。
「左舷の敵艦は英国艦隊。一つはキングジョージだとしても、もう一艦は不明というのが少し気になります。また右舷の二艦は国籍さえも不明であります。もし、敵ならばいささか不利とも思いますが」
栗田は数秒間、左舷の敵艦隊を眺めてからゆっくりとクチをひらいた。
「はっきりしているのは、この艦は大和であることだ」
「戦場がどこかはともかく、敵主力部隊撃滅の好機である。ここは乾坤一擲の断行する以外の選択肢はないと判断する」
これを聞いた第一艦橋の全員は武者震いを覚えた。
瞬間、テレトークが騒ぐ。
「報告! 左舷的艦二艦、23000で回頭し始めました。的速27節」
「うまくないな。右舷の艦隊はどうか?」
「変化なし! ほぼ本艦と平行に移動中!」
次々と入ってくる情報に対し宇垣司令の檄が飛ぶ。
「敵艦隊は、本艦に対し平行砲戦を画策している。敵に先手をとられるな、全速力」
「了解、10分の10出力!」森下が下令をしたところで「司令、能村がいろいろと苦慮しておるのですが成果がえられず煮えておるようです。ついては、燃料を多少消費はいたしますが協力をしてやりたいのですが」
宇垣は一言だけ答えた。「命中するならそれで善し」
「有難う御座います」と一礼すると森下はテレトークで機関室に改めて下令した。
「機関出力10.5分の10全力!!」
大和は、連合艦隊において最も重要な位置を担う艦として造艦されたものであり、それゆえ万が一にも戦闘に支障を生ずることがないように信頼性を最重点として設計されている。動力についても同様であり特殊な冒険はなされていない。ただし、全てにおいてかつて経験がない巨大なシステム自体が既に冒険であるのだから、冒険に冒険を重ねることでカタログスペックだけが高性能ということでは生死をかけて闘うことが出来ない艦が出来上がってしまう。
信頼度を優先に大和の動力はロ号艦本式ボイラー12基から発生する蒸気を艦本式タービン4基で受け15万3550馬力を発生させた。
森下大佐の下令で、信頼の上に成り立つ余裕の出力が今、与えられた。
昭和16年10月20日の全力予行運転以来である。
325度の蒸気が25Kg/平方センチで直径130cm厚さ25mmのステンレスブレードのタービンを超高速で回転させる。減速ギヤボックスを介し628mmの4本の炭素鋼主軸が一瞬だけ身悶えした後、巨艦を強力に押し出しはじめる。
復水器は海水を長径250cm短径100cmの給水口より飲み込み、タービンにて仕事を終えた廃気蒸気を水に還元する。この時、北方ゆえの想定されていない低温海水で真空率は上がりタービン直後の終圧を想定以上に落とし込む。
出力は、公試運転時の16万5360馬力を大きく上回り17万4300馬力を発生させ、70000トンの大和をかつてない速度28.1ノットで快走させる。