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2010年03月14日

【HR】姉川合戦解説 ~裏に眠る歴史の連環~

【HR】姉川合戦解説 ~裏に眠る歴史の連環~  
織田信長公の
天下取りにおいて

重要なヤマ場のひとつ

姉川の合戦です。





ソースです。

姉川合戦

原文。菊池寛



       原因

 元亀元年六月二十八日、織田信長が徳川家康の助力を得て、江北姉川に於て越前の朝倉義景、江北の浅井長政の連合軍を撃破した。これが、姉川の合戦である。
 この合戦、浅井及び織田にては、野村合戦と云う。朝倉にては三田村合戦と云う。徳川にては姉川合戦と云う。後に徳川が、天下を取ったのだから、結局名前も姉川合戦になったわけだ。
 元来、織田家と朝倉家とは仲がわるい。両家とも欺波(しば)家の家老である。応仁の乱の時、斯波家も両方に分れたとき、朝倉は宗家の義廉に叛(そむ)いた治郎大輔(たいふ)義敏にくっついた。そして謀計を廻(めぐ)らして義敏から越前の守護職をゆずらせ、越前の国主になった。織田家は宗家の義廉に仕えて、信長の時まで、とにかく形式だけでも斯波の家臣となっていた。だから、織田から云えば、朝倉は逆臣の家であったわけだし、朝倉の方から云えば、織田は陪臣の家だと賤(いや)しんだ。
 だが、両家の間に美濃の斎藤と云う緩衝地帯がある内は、まだよかった。それが、無くなった今は、早晩衝突すべき運命にあった。
 江北三十九万石の領主浅井長政は、その当時まだ二十五歳の若者であったが、兵馬剛壮、之(これ)を敵にしては、信長が京都を出づるについて不便だった。信長は、妹おいちを娘分として、長政と婚を通じて、親子の間柄になった。
 だが、長政は信長と縁者となるについて条件があった。それは、浅井と越前の朝倉とは、代々昵懇(じっこん)の間柄であるから、今後朝倉とも事端をかまえてくれるなと云うのであった。信長はその条件を諾して、越前にかまわざるべしとの誓紙を、長政に与えた。
 永正十一年七月二十八日、信長は長政と佐和山で対面した。佐和山は、当時浅井方の勇将、磯野丹波守の居城であった。信長からの数々の進物に対して、長政は、家重代の石わりと名づけたる備前兼光の太刀を贈った。この浅井家重代の太刀を送ったのは、浅井家滅亡の前兆であると、後に語り伝えられた。
 然るに無力でありながら陰謀好きの将軍義昭は、近畿を廻る諸侯を糾合して、信長を排撃せんとした。その主力は、越前の朝倉である。
 信長は、朝倉退治のため、元亀元年四月、北陸の雪溶くるを待って、徳川家康と共に敦賀表に進発した。
 しかも、前年長政に与えたる誓書あるに拘(かかわ)らず、長政に対して一言の挨拶もしなかった。信長が長政に挨拶しなかったのは、挨拶しては却(かえ)って長政の立場が困るだろうとの配慮があったのだろう、と云われて居る。
 決して、浅井長政を馬鹿にしたのではなく、信長は長政に対しては、これまでにも、可なり好遇している。
 だが、信長の越前発向を聞いて、一番腹を立てたのは、長政の父久政である。元来、久政は長政十六歳のとき、家老達から隠居をすすめられて、長政に家督を譲った位の男故(ゆえ)、あまり利口でなく、旧弊で頑固であったに違いない。信長の違約を怒(いか)って、こんな表裏反覆の信長のことだから、越前よりの帰りがけには、きっと此の小谷(おだに)城へも押し寄せて来るに違いない。そんな危険な信長を頼むよりも、此方(こちら)から手を切って、朝倉と協力した方がいいと云った。長政の忠臣遠藤喜右衛門、赤尾美作(みまさか)などは、信長も昔の信長とは違う、今では畿内五州、美濃、尾張、三河、伊勢等十二ヶ国の領主である。以前の信長のように、そんな不信な事をやるわけはない。それに当家と朝倉とが合体しても、わずか一国半である。到底信長に敵するわけはない。この際は、磯野丹波守に一、二千の兵を出し、形式的に信長に対する加勢として越前に遣わし、只管(ひたすら)信長に頼った方が、御家長久の策であると云ったが、久政聴かず、他の家臣達も、久政に同意するもの多く、長政も父の命に背(そむ)きがたく、遂に信長に反旗を翻して、前後から信長を挾撃することになった。
 越前にいた信長は、長政反すると聞いたが、「縁者である上、江北一円をやってあるのだから、不足に思うわけはない筈だ」と、容易に信じなかったが、事実だと知ると、周章して、這々(ほうほう)の体で、間道を京都に引き上げた。此の時、木下藤吉郎承って殿(しんが)りを勤めた。金ヶ崎殿軍として太閣出世譚(ものがたり)の一頁である。
 信長やがて、岐阜に引き上げ、浅井征伐の大軍を起し六月十九日に発向して、浅井の居城小谷に向った。それが姉川合戦の発端である。

       戦前記

 京都から岐阜に帰って準備を整えた信長は、六月十九日二万有余の大軍を催して、岐阜を立ち、二十一日早くも浅井の本城なる小谷に迫って町家を焼き払った。しかし、浅井が出でて戦わぬので、引き上げて姉川を渡り、その左岸にある横山城を攻めた。そして、横山城の北竜ヶ鼻に陣して、家康の来(きた)るを待った。六月二十七日、家康約五千余騎を率いて来援した。
(家康に取っても、大事な軍(いくさ)であった。信長より加勢を乞われて、家康の諸将相談したが、本多平八郎忠勝、家康に向って曰く、「信長公を安心の出来る味方と思っているかも知れぬが、そうとは限らない。折あらば殿を難儀の軍などさせ戦死をもなさるように工(たく)まぬとも限らない。今度の御出陣殊(こと)に大事である」と。家康その忠言を欣(よろこ)び、わざと多くの軍勢を引きつれずに行ったのだ。出先で敗れても、国許が手薄にならぬ為の用意であった)
 長政も、越前に使を派して朝倉の援兵を乞うた。然るに、義景(よしかげ)自ら出張せず、一族孫三郎景健(かげたけ)に、約一万の兵を与えて来援せしめた。
 長政は、朝倉に対する義理から、……好意から信長に叛(そむ)いているのに、肝心の朝倉義景は、この大事な一戦に自ら出向いて来ないのである。隣の家(うち)が焼けている裡(うち)は、まずまずと云う考えなのである。尤も、そうした暗愚の義景を頼りにしたのは、長政の不覚でもあるが……。
 長政、朝倉の来援を得て、横山城を救わんとし、二十五日小谷城を出で、その東大寄(おおよせ)山に陣を張った。翌二十八日には、三十町も進み来り、浅井軍は野村に朝倉勢は三田村に展開した。
 かくて、織田徳川軍は姉川を挾んで浅井朝倉軍と南北に対陣した。
 今南軍即ち織田徳川方の陣容を見るに、

 織田信長(三十七歳)
  ――二百四十余万石、兵数六万、姉川に来りしものは、その半数――
    第一陣 阪井 政尚(まさひさ)┐
    第二陣 池田 信輝│
    第三陣 木下 秀吉│
    第四陣 柴田 勝家├(兵各三千)
    第五陣 森  可成(よしなり)│
    第六陣 佐久間信盛┘
    本陣 信長(兵五千余)

   横山城への抑え
    丹羽 長秀(兵三千)
    氏家 直元(兵千)
    安藤 範俊(のりとし)(兵千)

 徳川家康(二十九歳)
  ――六十余万石、兵数約一万六千、姉川に来りしもの約五千――
    第一陣 酒井 忠次(兵千余)
    第二陣 小笠原長忠(ながただ)(兵千余)
    第三陣 石川 数正(兵千余)
    本陣 家康(兵二千余)

 外に信長より家康への加勢として
    稲葉 通朝(兵千余)

 徳川家康の部将中、酒井石川は譜代だが、小笠原与八郎長忠だけは、そうでない。小笠原は、元、今川家の大将で武功の勇将である。家康に従ってはいるが、もし家康が信長へ加勢として上方(かみがた)にでも遠征したら、その明巣(あきす)に遠州を掠取(かすめと)らんと云う肚(はら)もないではない。家康もその辺ちゃんと心得ているので、国には置かず、一しょに連れて来たわけである。つまり、まだ馴れない猛獣に、くさりをつけて引っぱって来、戦争に使おうと云うのである。それだけの小笠原であるから、武功の士多く、姉川に於ての働きも亦(また)格別であった。
(『武功雑記』に、「此度(このたび)権現様小笠原与八郎を先手に被(おお)せ付けられ候(そうろう)。与八郎下心に挾む所ありと雖(いえど)も、辞退に及ばずして、姉川にて先手致し勝利を得申し候。其(その)時節与八郎家来渡辺金太夫、伊達与兵衛、中山是非介働き殊に勝(すぐ)れ候て三人共に権現様より御感状下され候。渡辺金太夫は、感状の上に吉光の御腰物下され候事也」とある。この小笠原は、小田原の時亡んだ。恐らく現在の小笠原長幹伯は、その一族だろう)
 家康が、到着した時、信長は遠路の来援を謝しながら、明日はどうぞ弱からん方を助けてくれと云った。つまり予備隊になってくれと云うわけだ。家康嫌って、打ち込み(他と入り交っての意ならん)の軍せんこと、弓矢の瑕瑾(かきん)であるから、小勢ではあるが独立して一手の軍をしたいと主張した。もし望みが叶(かな)わなければ、本国に引き返さんと云った。信長、左様に仰せられるのなら、朝倉勢を引き受けて貰いたい。尤も北国の大敵に向わせられるには、御勢ばかりでは、あまりに小人数である。信長の勢から、誰か撰(えら)んでくれと云った。と、家康は、自分は小国で小勢を使い習っているから、大勢は使えないし、心を知らぬ人を下知するのも気苦労だから、自勢だけで沢山だと云った。信長重ねて、朝倉と云う北国の大軍を家康だけに委したとあっては、信長が天下の嘲(あざけ)りを招くことになるから、義理にでもいいから誰かを使ってくれと、ひたすら勧めたので、然らば是非に及ばず、稲葉伊予守貞通(通朝、良通などとも云う)をかしてくれと云った。織田の勢より、ただ一人、海道一の弓取たる家康に撰み出されたる稲葉伊予守の面目、思うべしである。
 稲葉伊予守は、稲葉一徹で美濃三人衆の一人で、斎藤家以来名誉の士だ。茶室で信長に殺されかけたのを、床の間にかかっている韓退之の詩『雲横秦嶺(くもはしんれいによこたわって)』を読んで命を助かった文武兼備の豪傑である。
 戦い果てて後、信長、稲葉の功を賞し、自分の一字をやって、長通と名乗れと云う。稲葉悦(よろこ)ばずして信長に向って曰く、「殿は盲(めくら)大将にして、人の剛臆が分らないのだ。自分は、上方勢の中では、鑓(やり)取る者とも云われるが、徳川殿の中に加わりては、足手纏(まと)いの弱兵にて一方の役に立ったとも覚えず、自分の勲功を御賞めになるなど、身びいきと云うもので、三河の人の思わむことも恥し」と。自分の勲功を謙遜し、家康勢を賞め上げるなど、外交手段を心得たなかなかの曲者である。
 浅井朝倉の陣容は、次ぎの通りだ。

  浅井勢
 浅井長政(二十六歳)
  ――三十九万石、兵数約一万――
    第一陣 磯野 員昌(かずまさ)(兵千五百)
    第二陣 浅井 政澄(兵千)
    第三陣 阿閑(あかん) 貞秀(兵千)
    第四陣 新庄 直頼(兵千)
    本陣 長政(兵三千五百)

 朝倉勢(朝倉義景)
  ――八十七万石、兵数二万、姉川に来りしもの一万――
    第一陣 朝倉 景紀(かげのり)(兵三千)
    第二陣 前波新八郎(兵三千)
    本陣 朝倉 景健(兵四千)
               
『真書太閣記』に依ると、浅井朝倉方(がた)戦前の軍議の模様は、左の通りだ。

 七日の夜深(ふ)けて長政朝倉孫三郎景健に面会なし、合戦の方便を談合ありけるは、越前衆の陣取(じんどり)し大寄山より信長の本陣龍ヶ鼻まで道程(みちのり)五十町あり。直(じき)に押しかゝりては人馬ともに力疲れて気衰ふべければ、明暁野村三田村へ陣替ありて一息つぎ、二十八日の晨朝(しののめ)に信長の本陣へ不意に切掛り、急に是(これ)を攻めれば敵は思ひよらずして周章すべし、味方は十分の勝利を得べきなりと申しけるに、浅井半助とて武勇人(ひと)に許されしものながら、先年久政の勘当をうけて小谷を追出され、濃州に立越え稲葉伊予守に所縁あるを以て暫時かくまはれて居たりしかば、信長の軍立(いくさだて)を能々(よくよく)見知りてありけるが、今度(このたび)織田徳川矛盾に及ぶと、浅井を見続(みつ)がずば弥(いよいよ)不忠不義の名を蒙(こうむ)るべしとおもひ、稲葉には暇乞もせず、ひそかに小谷へ帰り、赤尾美作守、中島日向守に就て勘当免許あらんことを願ひしに、久政きかず。殊に稲葉が家にかくまはれしものなれば、いよ/\疑心なきにあらずとて用ひられざりしかば、両人様々に証拠をとりて詫言(わびごと)申せしゆゑ、久政も黙止(もだ)しがたく、然らばとて免許ありて差置かれけるに、此間(このあいだ)信長陣替の時丁野(ちょうの)若狭守と共に討つて出で合戦し、織田勢あまた討捕りしかども却て、丁野も半助も久政のにくみを受けながら、遠藤喜右衛門(きえもん)が能く取りなしけるに依(よっ)て、久政も漸(ようや)く思返し、此頃は傍(そば)近く出勤しけるにより、今日評定の席へも差加へられたり。然るに長政の軍慮を承り、御存じの如く某(それがし)は三ヶ年濃州に罷在(まかりあ)りて信長の処置を見覚えて候ふが、心のはやきこと猿猴(えんこう)の梢を伝ふ如き振舞に候へば三田村まで御陣替あらば必ずその手当を仕(つかまつ)り候ふべし。若(も)し総掛りに軍し給はゞ味方難渋仕り候はんか、今暫時(しばらく)敵の様を御覧ありて然るべきかと申しけるに、長政宣(のたま)ふ様、横山の城の軍急なれば、其儘(そのまま)に見合せがたし。敵の出で来るを恐れては勿々(なかなか)軍はなるまじ、その上に延々(のびのび)とせば、横山終(つい)に攻落(せめおと)さるべし。但し此ほかに横山を援(たす)けん術(てだて)あるべきや。今に於ては戦を始むるの外(ほか)思案に及ばずとありけるを聞て、遠藤喜右衛門然るべく覚え候。兎角する内に、横山の城中の者も後詰(ごづめ)なきを恨み降参して敵へ加はるまじきにもあらず、信長当方へ打入りしより以来(このかた)、心のまゝに働かせ候ふこと余りに云甲斐なし、早く御陣替然るべし。思召の如く替へおほせて、二十九日敵陣へ無二無三に切入り給はんには、味方の勝利疑ひ有るべからず。仮令(たとえ)ば敵方にて此方(このほう)の色を察し出向はゞ、その処にて合戦すべし、何のこはきことが候ふべき。喜右衛門に於ては必定信長を撃捕るか討死仕るか二つの道を出で候ふまじと思定め候、早早御出陣然るべしと申すにより、久政も此程遠藤が申すことを一度も用ひずして宜敷事(よろしきこと)無りしかば、此度許(ばか)りは喜右衛門尉(じょう)が申す旨に同心ありて、然らば朝倉殿には織田と遠州勢と二手の内何方(いずかた)へ向はせ給ふべきかと申せしにより、孫三郎何れへなり共罷向ひ申すべくとありしかば、長政いや/\某が当の敵は信長なり、依て某信長に向ひ候ふべし。朝倉殿には遠州勢を防ぎ給はり候ふべしと定めて陣替の仕度をぞ急がれける。遠藤喜右衛門尉は、兼て軍のあらん時敵陣へ紛れ入り、信長を窺(うかが)ひ撃たんと思ひしかば、朋輩の勇士に談(かた)らひ合せけるは、面々明日の軍に打込の軍せんと思ふべからず、偏(ひとえ)に敵陣へ忍び入らんことを心掛くべし。然しながら敵陣へ忍び入り、冥加有て信長を刺し有るとも敵陣を遁(のが)れ帰らんことは難かるべし。然らば今宵限りの参会なり、又此世の名残りなりと酒宴してけるを、諸士は偏へに老武者が壮士(わかもの)を励ます為の繰言とのみ思ひて、何(いずれ)も遠藤殿の仰せらるる迄もなし、我々も明日の軍に討死して、栄名を後世に伝ふべきにて候ふと答へしかば、喜右衛門尉も悦び、左様にてこそ誠の忠臣の道なれ、はや暁も程近し、面々用意にかゝらせ給へとて、思ひ/\に別れけり。

 かくの如く遠藤の決死は頗(すこぶ)る悲壮であるが、彼は、長政が初めて佐和山に於て信長と対面したとき、信長の到底頼むべからざるを察し、急に襲って討たんことを提議し、長政の容るるところとならなかった事がある。また、今度(このたび)長政が信長と絶縁せんとするや、到底信長に敵しがたきを知って極力諫止(かんし)せんとした。しかも、いよいよ手切れとなるや、単身敵陣に潜入して、信長を討たんことを決心す。実に、浅井家無二の忠臣と云うべきであろう。
 しかし、今度の戦い、浅井家に取って必死の合戦なりと思い決死の覚後をした者、他にもいろいろ、その中にも、最もあわれなるは浅井雅楽助(うたのすけ)である。雅楽助の弟を斎宮助(いつきのすけ)と云う。先年世良田合戦、御影寺合戦(永禄三年)終って間もなく、浅井家の家中寄り合い、諸士の手柄話の噂などした。その時、斎宮助、「我等が祖父大和守、又兄なる玄蕃などが働きに及ぶもの家中にはなし」と自慢した。兄雅楽助大いに怒って、かく歴々多き中に、その高言は何事ぞと叱りつけた。兄としては当然の話である。だが、斎宮助、衆人の前にて叱責せらるる事奇怪なりとて、それより兄弟永く不和になっていたが、姉川合戦の前夜、二十七日の夜亥刻(今の十二時)ばかりに、兄の雅楽助、弟斎宮助の陣所に行き、「明日討死をとげる身として何とて不和を残さん。今は遺恨を捨てて、名残の盃(さかずき)せん。父尊霊を見度くば互いの顔を見るこそよけれ」と、眼と眼を見かわしていたが、やがて酒を乞いて汲み交し、譜代の郎党共も呼び、ともに死別生別の杯を汲み交した。
 浅井方の悲壮の決心推して知るべきである。これに比ぶれば、朝倉方は大将自身出馬せず、しかも大将義景の因循姑息の気が、おのずと将士の気持にしみ渡っていただろうから、浅井家の将士ほど真剣ではなかったであろう。

       朝倉対徳川戦

 姉川は、琵琶湖の東北、近江の北境に在る金糞(かねくそ)岳に発した梓(あずさ)川が伊吹山の西に至って西に折れて流るる辺りを姉川と称する。尚(なお)西流して長浜の北で湖水へ入っている。姉川というのは、閻魔(えんま)大王の姉の竜王が此の川に住んでいるから姉川と云い初めたという伝説があるが、閻魔大王の姉に竜王があるという話はあまり聞かないから、之れは土俗の伝説に過ぎないであろう。野村、三田村附近では、右岸の高さは六七尺以上で、昇降には不便であったらしい。只(ただ)当時の水深は、三尺位であったというから、川水をみだして逐(お)いつ逐われつ戦ったわけである。
 六月二十八日午前三時に浅井軍は野村に朝倉勢は三田村に展開した。
 払暁を待って横山城を囲んでいる織田軍を攻撃せんと云うのであった。ところが信長が二十七日の夜敵陣にたくかがり火を見て、敵に進撃の気配あるを察し、それならばこちらから、逆撃しようと云うので、姉川の左岸に進出していたから、浅井朝倉軍が展開するのを見るや、先ず織田徳川の軍から、弓銃をもって、挑戦した。これは浅井朝倉勢にとっては可成り意外だったろう。
 三田村の朝倉勢に対するものは家康、野村にある浅井軍に対抗するものは信長勢であった。
 先ず徳川朝倉の間に戦端が開かれた。家康は、小笠原長忠を先陣とし、右に酒井忠次、榊原康政、左に本多平八郎忠勝、内藤信重、大久保忠世(ただよ)、自分自身は旗本を率いて正面に陣した。
 本多忠勝、榊原康政共に年二十三歳であったから、血気の働き盛りなわけであった。
 朝倉方は、黒坂備中守、小林瑞周軒(ずいしゅうけん)、魚住左衛門尉(さえもんのじょう)を先頭として斬ってかかった。徳川家康としても晴れの戦であったから、全軍殊死して戦い、朝倉勢も、亦よく戦った。朝倉勢左岸に迫らんとすれば、家康勢これを右岸に逐い、徳川勢右岸に迫らんとすれば、朝倉勢これを左岸に逐いすくめた。
 其の中(うち)徳川勢稍(やや)後退した。朝倉勢、すわいくさに勝ちたるぞとて姉川を渡りて左岸に殺到したところ、徳川勢ひき寄せて、左右より之れを迎え撃った。酒井忠次、榊原康政等は姉川の上流を渡り、朝倉勢の側面から横槍を入れて無二無三に攻め立てたので、朝倉勢漸く浮き足立った。徳川勢之に乗じて追撃したので、朝倉軍狼狽(ろうばい)して川を渡って退かんとし、大将孫三郎景健さえ乱軍の中に取り巻かれた。其の時、朝倉家に於て、唯一の豪の者ときこえた真柄十郎左衛門直隆取って返して奮戦した。十郎左衛門は此の度の戦に景健後見として義景から特に頼まれて出陣した男だ。彼は講釈でも有名な男だが、北国無双の大力である。その使っている太刀(たち)は有名な太郎太刀だ。
 越前の千代鶴という鍛冶が作り出した太刀で七尺八寸あったと云われている。講釈では余り幅が広いので、前方を見る邪魔にならぬよう窓をつけてあったと云う。それは、嘘だろうが、重量を減すため、ところどころ窓があったかも知れぬ。が一説に五尺三寸と云うから、其の方が本当であったろう。だが真柄の領内で、この太刀を担(かつ)げる百姓はたった一人で、常に家来が四人で荷(にな)ったというから、七尺八寸という方が本当かも知れない。
 之に対して次郎太刀というのもあった。其の方は六尺五寸(一説には四尺三寸)あったと云われている。
 直隆、景健の苦戦を見て、太郎太刀を「薙刀(なぎなた)の如く」ふりかざし、馬手(めて)弓手(ゆんで)当るを幸いに薙ぎ伏せ斬り伏せ、竪(たて)ざま横ざま、十文字に馳通(はせとお)り、向う者の兜(かぶと)の真向、鎧(よろい)の袖、微塵になれやと斬って廻れば、流石(さすが)の徳川勢も、直隆一人に斬り立てられ、直隆の向う所、四五十間四方は小田を返したる如くになった。かくて孫三郎景健の危急を救い漸く右岸に退却した。だが、ふり返ると味方が、尚左岸に苦戦してひきとりかねている者が多いのを見て、さらば、援(たす)けえさすべしとて引き返す。
 此時朝倉方の大将、黒坂備中守、前波新八郎、尚左岸にあり奮戦していた。前述して置いた小笠原与八郎長忠は、他国の戦に供奉(ぐぶ)せしは、今度が初めての事なので目を驚かせる程の戦せんとて、黒坂備中守に馳合った。二人とも十文字の槍だったが、小笠原の十文字稍々(やや)長かった為めに、黒坂が十文字にからみとられ、既に危く見えたのを、小笠原槍を捨て、太刀をひきぬいて、備中守の兜を真向に撃ち、黒坂目くるめきながら、暫(しば)しは鞍にこらえけるを、二の太刀にて馬より下へ斬って落す。黒坂撃たれて、朝倉勢乱れ立ち、全軍危く見えし所に、真柄十郎左衛門及び長男十郎三郎直基(なおもと)馳(か)け来って、父は太郎太刀、子は次郎太刀を持って縦横に斬り廻ったので、徳川勢も左右に崩れ立ったので、越前勢漸く虎口を遁(のが)れて姉川を渉(わた)りて退く。真柄父子殿(しんがり)して退かんとする所に、徳川勢の中より匂坂(さきさか)式部同じく五郎次郎同じく六郎五郎、郎党の山田宗六主従四人真柄に馳(か)け向う。真柄「大軍の中より只四人にて我に向うことかわゆし」とて取って返す。式部手鑓(てやり)にて真柄が草摺(くさずり)のはずれ、一鑓にて突きたれど、真柄物ともせず、大太刀をもって払い斬りに斬りたれば、匂坂が甲(かぶと)の吹返しを打ち砕き、余る太刀にて鑓を打落す。式部が弟五郎次郎、兄をかばわんとて、立ち向うを、真柄余りに強く打ちければ、五合郎が太刀を元(はばきもと)より斬り落し、右手の股(もも)をなぎすえた。五郎、太刀の柄ばかり握って、既に危く見えけるを、弟六郎と宗六透間(すきま)もなく救(たす)け来(きた)る。
 真柄太刀とり直し、宗六を唐竹割に割りつけたが、其の時六郎鎌鑓にて、真柄を掛け倒す。流石無双の大力の真柄も、六十に近い老(おい)武者であるし、朝より数度の働きにつかれていた為めだろう。起き上ると、尋常に「今は之れ迄なり。真柄が首を取って武士が誉れにせよ」と云った。
 六郎、兄の式部に首を取れと云ったが、式部手を負いて叶い難し、汝取れと云ったので六郎走りかかって首を打落した。『太閤記』では、匂坂兄弟が真柄一人にやられているところに、本多平八郎忠勝馬をおどらせ馳せ来り、一丈余りの鉄の棒をもって、真柄と決戦三十余合、北国一と聞えたる勇士と東国無双と称する壮士とが戦い、真柄が老年の為めに、遂に忠勝に撃たれることになっている。
 併(しか)しこれは、勇士真柄の最期を飾る為めに本多忠勝の為めに撃たれたことにしたのであろう。真柄と忠勝とが、三十余合撃ち合ったとすれば、戦国時代の一騎討として、これに勝るメイン・エヴェントはないわけだが、本当は矢張り、匂坂兄弟に撃たれたのであろう。
 子の十郎直基(隆基という本もある)は、父が撃たれたと聞くと、せめて父が討死せしところを見ばやと、馬を返す所を、青木所左衛門出で合い、「音に聞えし真柄殿、何処(どこ)へ行き給うぞや、引返し勝負あれ」と呼びければ、「引くとは何事ぞ、悪(にく)い男の言葉哉(かな)。いでもの見せん」と云うままに、父に劣りし太刀なれど、受けて見よやと、六尺五寸の次郎太刀打ち振り、青木の郎党が立ち塞がるを、左右に斬って落す。所左衛門、鎌鑓を打ちかけ、直基が右手の肱(ひじ)を斬って落す。直基、今は之れまでと思いけん、尋常に首を授く。
 越前勢一万余騎の中、真柄父子の勇戦と、この尋常の最期とは、後迄も長く伝えられたとある。尚『太閤記』によると、直基は討死する前に父のかばねと父が使っていた太刀とを郎党に持たせて、本国へ返したようにかいてある。戦争中、そんな余裕は無いように思われるが、併し昔の戦争は、呑気(のんき)なところもあるから、そんな事があったかも知れない。
『三州志』によると、加賀の白山神社の真柄の太刀と伝称し来(きた)るものあり、柄が三尺、刀身が六尺、合せて九尺、厚さ六分、幅一寸六分あり、鎌倉の行光の作である。行光は正宗の父である。ところが越前の気比(けび)神社に真柄の太刀の鞘(さや)だけがある。其の鞘には、小豆が三升入る。此の鞘の寸法と白山神社の鞘の寸法とは、少し違っているという事である。
 姉川の沿岸は、水田多く、人馬の足立たず、殊に越前勢は、所の案内を知らざる故、水田沼沢の地に人馬陥り、撃たるる者が多かった。真柄父子を始めとし、前波兄弟、小林瑞周軒、竜門寺、黒坂備中守等大将分多く討死した。之に比べると、案内を知った浅井方の討死は少かった。
 こう書いてくると徳川勢は余り苦心をしていないようだ。併し朝倉勢に、裏切り組というのがあり、百人位の壮士を選び、各人四尺五寸、柄(え)長く造らせたる野太刀を持ち、戦いの最中、森陰から現われて、不意に、家康の旗本へ切りかかった。為に旗本大いに崩れ立ち、清水久三郎等家康の馬前に立ち塞がり、五六人斬り伏せたので、漸く事無きを得た。
 之れは後年の話だが、徳川頼宣(よりのぶ)がある時の話に「加藤喜介正次は、常に刀脇ざしの柄に手をかけ居り候に付き、人々笑ったところ、加藤喜介曰く『姉川合戦の時、朝倉が兵二騎味方の真似して、家康公の傍(そば)へ近付き抜きうちに斬らんとした。喜介常に刀に手をかけ居る故、直ちに二騎の一人を斬りとめ他の一人は天野三郎兵衛討止めた。此の時家康公も太刀一尺程抜き、その太刀へ血かかる程の事なり。だから平生でも刀の柄に手をかけているのだ』と云ったと云うが、喜介よりも其の朝倉の兵はもっと勇敢だ。敵の中に只二人だけ乗り込み討死す。而も二人の首の中に『一足無間(むげん)』と云う、誓文を含んでいたと云う。さてさて思い切った、豪の者なり」と、褒めたというが、これで見ても、かなり朝倉方もやった事が分る。
 朝倉勢が姉川を越えて、徳川軍に迫った時は、相当激しかったのだろう。

       浅井軍の血戦

 浅井を向うに廻した織田勢の方は、もっと苦戦であった。浅井方の第一陣、磯野丹波守は勇猛無双の大将だ。其の他之に従う高宮三河守、大野木大和守その他、何れも武勇の士である。元来浅井軍は中々強いのだ。だから木下藤吉郎が、一番陣を望んだが許されなかった。それは、秀吉の軍勢は、多年近江に居て浅井軍と接触している為め、浅井の武威に恐れているだろうという心配だった。従って信長も長政を優待して、味方にしておき度かったのだ。丹波守を先頭に、総勢五千余騎、鉄砲をうちかけて、織田の一番陣、酒井右近の陣に攻めかかる。丹波守自ら鑓をとって先頭に進み、騎馬の強者(つわもの)真先に立って殺到した。
 右近の陣は鉄砲に打ちすくめられ嫡子久蔵(十六歳)を初め百余人撃たれて、敗走した。二番側(ぞな)え池田勝三郎も丹波守の猛威に討靡(うちなび)けられて敗走した。
『太閤記』によると第三陣の木下秀吉が奮戦して丹波守を敗る事になっているが、之れは秀吉中心の本だから、いつでも、秀吉が手柄を現すようにかいてある。本当は信長の陣が十三段の備えの内十一段まで崩れたというから、木下秀吉、柴田勝家、森可成の驍将(ぎょうしょう)達も一時は相当やられたらしい。一時は姉川から十町ばかりを退却したというから、信長の旗本も危険に瀕したに違いない。只家康の方が早くも朝倉勢に勝色(かちいろ)を見せ初めたので家康の援軍として控えている稲葉一徹が、家康の方はもう大丈夫と見て、浅井勢の右翼に横槍を入れたのと、横山城のおさえに残しておいた氏家(うじいえ)卜全と安藤伊賀とが浅井勢の左翼を攻撃した。こうした横槍によって、織田軍はやっと盛り返して浅井勢を破ったのだ。
 戦後、信長、「義濃三人衆の横槍弱かりせば我が旗本粉骨をつくすべかりしが」と云って稲葉、氏家、安藤三人に感状、名馬、太刀等をやったところを見ると、戦いの様子が分ると思う。それに家康の方が先に朝倉に勝ったので、浅井の将士も不安になって、みだれ始めたのだろう。
 徳川と織田とは、非常に離れて戦っているようであるが、最後には乱戦になったらしく、酒井忠次の払った長刀(なぎなた)のほこ先が信長勢の池田勝三郎信輝の股に当った位だ。後年、人呼んで此の傷を左衛門疵(きず)と云った。池田と酒井とは、前夜信長の前で、家康を先陣にするかしないかで議論をし合った仲なのだ。其の時酒井は、「兎角の評議は明日の鑓先にある」と云って別れて帰った。だから酒井の長刀が池田の股に当ったことは二人とも第一戦に立って奮戦していたわけで、双方とも前夜の言葉に違(たが)わなかったわけで、「ゆゆしき振舞いかな」と人々感じあったと云う。
 浅井勢の中に於て、其の壮烈、朝倉の真柄直隆に比すべきものは、遠藤喜右衛門尉だ。喜右衛門の事は前にも書いてあるが、喜右衛門は、単身信長に近づいて差違えるつもりであった。彼は首を提(さ)げて血を以って面(おもて)を穢(けが)し髪を振り乱し、織田勢に紛れ込み、「御大将は何処(いずこ)に在(おわ)しますぞ」と探し廻って、信長のいるすぐ側迄来たところ、竹中半兵衛の長子久作之(これ)を見とがめ、味方にしては傍目(わきめ)多く使うとて、名乗りかけて引き組み、遂に遠藤の首をあげた。久作、かねて朋友に今度(このたび)の戦、我れ必ず遠藤を討取るべしと豪語していた。友人が其の故を問うと、久作曰く、「我れ且て江(ごう)州に遊んで常に遠藤と親しむ、故によくその容貌を知っている。遠藤戦いある毎に、必ず魁(さきがけ)殿(しんがり)を志す、故に我必ず彼を討ち取るべし」と。果して其の言葉の通りであった。
 喜右衛門は、信長と戦端を開く時には、浅井家長久の為めに極力反対したが、いざ戦うとなると、壮烈無比な死に方をしている。浅井家第一の忠臣と云ってもいいだろう。
 浅井方の大将安養寺三郎左衛門は、織田と浅井家の同盟を斡旋(あっせん)した男だ。長政を落さんとして奮戦中馬を鉄砲で射られて落馬したので、遂に擒(いけど)りにせられて信長の前に引き据えられた。信長は安養寺には好意を持っていたとみえ「安養寺久しく」と云った。安養寺、言葉なく、「日頃のお馴染に疾(と)く疾く首をはねられ候え」と云ったが、「汝は仔細ある者なれば先ず若者共のとりたる首を見せよ」と云った。つまり、名前の分らない首の鑑定人にされたわけだ。小姓織田於直(おなお)の持ち来れる首、安養寺見て「これは私の弟甚八郎と申すものに候」と云った。また、小姓織田於菊の持ち来れる首「これは私の弟彦六と申すものにて候」と申す。信長、「さてさて不憫(ふびん)の次第なり、汝の心底さぞや」と同情した。
 竹中久作が取りたる首を見すれば、
「之れは紛れもなく喜右衛門尉にて候。喜右衛門尉一人諫(いさ)めをも意見をも申して候。其の他には誰一人久政に一言申すもの候わず。浅井の柱石と頼みし者に候」と云った。
 其の後信長、安養寺に、此の勢いに乗って小谷に押しよせ一気に攻め落さんと思えど如何と聞いた。安養寺笑って、「浅井がために死を急く某(それがし)に戦の進退を問わせ給う殿の御意こそ心得ぬが、答えぬのも臆したるに似ているから答えるが、久政に従って小谷に留守している士(さむらい)が三千余人は居る。長政と共に退却した者も三千余人は候うべし。其の上兵糧、玉薬(たまぐすり)は、年来貯えて乏しからず、半年や一年は持ちこらえ申すべし」と答えた。
 この安養寺の答で、秀吉が小谷城進撃を進言したにも拘わらず、一先ず軍を返した。その後、浅井は尚三年の久しきを保つ事が出来た。或書に、此の時、秀吉の策を用い、直ちに小谷を攻撃したならば、小谷は一日も支える事が出来なかったのに、安養寺が舌頭に於て信長に疑惑の思いを起したのは、忠節比類無しと褒めてある。
 信長は、安養寺が重ねて「首をはねよ」と云うをきかず自分に従えよとすすめたが聴かないので、「然らば立ち帰りて、浅井に忠節を尽せよ」とて、小谷へ帰した。忍人(にんじん)信長としては大出来である。
 浅井勢は総敗軍になって小谷城へ引上げたが、磯野丹羽守は、木下秀吉、美濃三人衆等に囲まれて散々に戦い、手勢僅か五百騎に討ちなされながら、織田軍の中を馳(か)け破って、居城、佐和山へ引上げた。稲葉一徹の兵、逐わんとしたが、斎藤内蔵助(くらのすけ)、「磯野の今日のふるまいは、凡人に非ず、追うとも易く討ち取るべきに非ず」とて逐わしめなかった。
 此の戦いは、元亀元年六月二十八日だから、未だ真夏と云ってもよい位だから、勝った信長の軍勢も、暑さで、へとへとに疲れていただろうし、すぐ手数のかかる攻囲戦に従う事は信長にしても考えたのだろう。元亀は三年で天正と改元した。朝倉が亡んだのは、天正元年の八月で、浅井が亡んだのは其の翌月の九月であった。その三年間浅井朝倉が聯合して江北に於ていくらか策動しているが、併し戦前の勢に比べると、もう見るかげもなくなっていた。
 此の戦いに於て、男をあげたのは家康で、信長の為めに、粉骨の戦をなして、恩をきせると共に自分の地位を築いたわけである。徳川家に関係のある本には、姉川の勝利は神君の力であるというように書いてあるが、そういうひいき目をさし引いても、家康に取っては、正に出世戦争とも云うべきであろう。
 姉川合戦の直後、信長が秀吉の策を用いて、すぐ小谷城を攻め落したならば、長政の妻のお市殿には、未だ長女のお茶々は生れていないだろう。結婚したのが、永禄十一年四月だから、生れていたかどうか、多分まだ腹の中にいたのである。すると落城のドサクサまぎれに、流産したかも知れないし、淀君など云うものは、生れて来なかったかも知れん。
 つまり秀吉は、後年溺愛した淀君を抹殺すべく、小谷城攻略を進言したことになる。しかし、淀君が居なかったら、豊臣家の社稷(しゃしょく)はもっとつづいたかも知れない。そんな事を考えると、歴史上の事件にはあらゆる因子のつながりがあるわけだ。





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底本:「日本合戦譚」文春文庫、文藝春秋社
   1987(昭和62)年2月10日第1刷発行
※底本は、物を数える際の「ヶ」(区点番号5-86)(「十二ヶ国」等)を大振りに、地名などに用いる「ヶ」(「金ヶ崎殿軍」等)を小振りにつくっています。
※底本では本文が「新字新仮名」引用文が「新字旧仮名」ですが、ルビは「新仮名」を共通して使用していると思われますので、ルビの拗音・促音は小書きにしました。
入力:網迫、大野晋、Juki
校正:土屋隆
2009年7月19日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。


引用おわり。

この戦の趨勢、および小谷城の堅牢さ、そして同盟軍の士気の違いが、これ以降の歴史におおきな変化を生んだといっても過言ではない姉川の合戦です。

最後に、下の動画をご覧いただき、〆させて頂きます。携帯の方は、関連情報からどうぞ。


【HR】姉川合戦解説 ~裏に眠る歴史の連環~


ブログ一覧 | 戦国時代 | パソコン/インターネット
Posted at 2010/03/31 22:05:53

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この記事へのコメント

2010年3月31日 22:19
長文で挫折しますた^^;;

ちんこー(笑)
コメントへの返答
2010年4月2日 1:00
こんばんは(^0^)

最近、あんまり長文を書く時間が持てないので、どうしても引用主体になっております^^;
2010年3月31日 23:49
姉川の合戦も然る事ながら、秀吉の進言の是非でも随分と歴史が変わったとは、知らなかったですね。
流石文豪菊池寛!
コメントへの返答
2010年4月2日 1:07
こんばんは(^0^)

コトの発端は、件のニコニコ動画を発見したのがきっかだったのですが、書いた私自身も今まで、秀吉の進言のことは、知らなかったのですよ^^;

菊池寛の文章が壱番為になりましたね(^0^)

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