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2010年03月14日 イイね!

【HR】姉川合戦解説 ~裏に眠る歴史の連環~

【HR】姉川合戦解説 ~裏に眠る歴史の連環~ 
織田信長公の
天下取りにおいて

重要なヤマ場のひとつ

姉川の合戦です。





ソースです。

姉川合戦

原文。菊池寛



       原因

 元亀元年六月二十八日、織田信長が徳川家康の助力を得て、江北姉川に於て越前の朝倉義景、江北の浅井長政の連合軍を撃破した。これが、姉川の合戦である。
 この合戦、浅井及び織田にては、野村合戦と云う。朝倉にては三田村合戦と云う。徳川にては姉川合戦と云う。後に徳川が、天下を取ったのだから、結局名前も姉川合戦になったわけだ。
 元来、織田家と朝倉家とは仲がわるい。両家とも欺波(しば)家の家老である。応仁の乱の時、斯波家も両方に分れたとき、朝倉は宗家の義廉に叛(そむ)いた治郎大輔(たいふ)義敏にくっついた。そして謀計を廻(めぐ)らして義敏から越前の守護職をゆずらせ、越前の国主になった。織田家は宗家の義廉に仕えて、信長の時まで、とにかく形式だけでも斯波の家臣となっていた。だから、織田から云えば、朝倉は逆臣の家であったわけだし、朝倉の方から云えば、織田は陪臣の家だと賤(いや)しんだ。
 だが、両家の間に美濃の斎藤と云う緩衝地帯がある内は、まだよかった。それが、無くなった今は、早晩衝突すべき運命にあった。
 江北三十九万石の領主浅井長政は、その当時まだ二十五歳の若者であったが、兵馬剛壮、之(これ)を敵にしては、信長が京都を出づるについて不便だった。信長は、妹おいちを娘分として、長政と婚を通じて、親子の間柄になった。
 だが、長政は信長と縁者となるについて条件があった。それは、浅井と越前の朝倉とは、代々昵懇(じっこん)の間柄であるから、今後朝倉とも事端をかまえてくれるなと云うのであった。信長はその条件を諾して、越前にかまわざるべしとの誓紙を、長政に与えた。
 永正十一年七月二十八日、信長は長政と佐和山で対面した。佐和山は、当時浅井方の勇将、磯野丹波守の居城であった。信長からの数々の進物に対して、長政は、家重代の石わりと名づけたる備前兼光の太刀を贈った。この浅井家重代の太刀を送ったのは、浅井家滅亡の前兆であると、後に語り伝えられた。
 然るに無力でありながら陰謀好きの将軍義昭は、近畿を廻る諸侯を糾合して、信長を排撃せんとした。その主力は、越前の朝倉である。
 信長は、朝倉退治のため、元亀元年四月、北陸の雪溶くるを待って、徳川家康と共に敦賀表に進発した。
 しかも、前年長政に与えたる誓書あるに拘(かかわ)らず、長政に対して一言の挨拶もしなかった。信長が長政に挨拶しなかったのは、挨拶しては却(かえ)って長政の立場が困るだろうとの配慮があったのだろう、と云われて居る。
 決して、浅井長政を馬鹿にしたのではなく、信長は長政に対しては、これまでにも、可なり好遇している。
 だが、信長の越前発向を聞いて、一番腹を立てたのは、長政の父久政である。元来、久政は長政十六歳のとき、家老達から隠居をすすめられて、長政に家督を譲った位の男故(ゆえ)、あまり利口でなく、旧弊で頑固であったに違いない。信長の違約を怒(いか)って、こんな表裏反覆の信長のことだから、越前よりの帰りがけには、きっと此の小谷(おだに)城へも押し寄せて来るに違いない。そんな危険な信長を頼むよりも、此方(こちら)から手を切って、朝倉と協力した方がいいと云った。長政の忠臣遠藤喜右衛門、赤尾美作(みまさか)などは、信長も昔の信長とは違う、今では畿内五州、美濃、尾張、三河、伊勢等十二ヶ国の領主である。以前の信長のように、そんな不信な事をやるわけはない。それに当家と朝倉とが合体しても、わずか一国半である。到底信長に敵するわけはない。この際は、磯野丹波守に一、二千の兵を出し、形式的に信長に対する加勢として越前に遣わし、只管(ひたすら)信長に頼った方が、御家長久の策であると云ったが、久政聴かず、他の家臣達も、久政に同意するもの多く、長政も父の命に背(そむ)きがたく、遂に信長に反旗を翻して、前後から信長を挾撃することになった。
 越前にいた信長は、長政反すると聞いたが、「縁者である上、江北一円をやってあるのだから、不足に思うわけはない筈だ」と、容易に信じなかったが、事実だと知ると、周章して、這々(ほうほう)の体で、間道を京都に引き上げた。此の時、木下藤吉郎承って殿(しんが)りを勤めた。金ヶ崎殿軍として太閣出世譚(ものがたり)の一頁である。
 信長やがて、岐阜に引き上げ、浅井征伐の大軍を起し六月十九日に発向して、浅井の居城小谷に向った。それが姉川合戦の発端である。

       戦前記

 京都から岐阜に帰って準備を整えた信長は、六月十九日二万有余の大軍を催して、岐阜を立ち、二十一日早くも浅井の本城なる小谷に迫って町家を焼き払った。しかし、浅井が出でて戦わぬので、引き上げて姉川を渡り、その左岸にある横山城を攻めた。そして、横山城の北竜ヶ鼻に陣して、家康の来(きた)るを待った。六月二十七日、家康約五千余騎を率いて来援した。
(家康に取っても、大事な軍(いくさ)であった。信長より加勢を乞われて、家康の諸将相談したが、本多平八郎忠勝、家康に向って曰く、「信長公を安心の出来る味方と思っているかも知れぬが、そうとは限らない。折あらば殿を難儀の軍などさせ戦死をもなさるように工(たく)まぬとも限らない。今度の御出陣殊(こと)に大事である」と。家康その忠言を欣(よろこ)び、わざと多くの軍勢を引きつれずに行ったのだ。出先で敗れても、国許が手薄にならぬ為の用意であった)
 長政も、越前に使を派して朝倉の援兵を乞うた。然るに、義景(よしかげ)自ら出張せず、一族孫三郎景健(かげたけ)に、約一万の兵を与えて来援せしめた。
 長政は、朝倉に対する義理から、……好意から信長に叛(そむ)いているのに、肝心の朝倉義景は、この大事な一戦に自ら出向いて来ないのである。隣の家(うち)が焼けている裡(うち)は、まずまずと云う考えなのである。尤も、そうした暗愚の義景を頼りにしたのは、長政の不覚でもあるが……。
 長政、朝倉の来援を得て、横山城を救わんとし、二十五日小谷城を出で、その東大寄(おおよせ)山に陣を張った。翌二十八日には、三十町も進み来り、浅井軍は野村に朝倉勢は三田村に展開した。
 かくて、織田徳川軍は姉川を挾んで浅井朝倉軍と南北に対陣した。
 今南軍即ち織田徳川方の陣容を見るに、

 織田信長(三十七歳)
  ――二百四十余万石、兵数六万、姉川に来りしものは、その半数――
    第一陣 阪井 政尚(まさひさ)┐
    第二陣 池田 信輝│
    第三陣 木下 秀吉│
    第四陣 柴田 勝家├(兵各三千)
    第五陣 森  可成(よしなり)│
    第六陣 佐久間信盛┘
    本陣 信長(兵五千余)

   横山城への抑え
    丹羽 長秀(兵三千)
    氏家 直元(兵千)
    安藤 範俊(のりとし)(兵千)

 徳川家康(二十九歳)
  ――六十余万石、兵数約一万六千、姉川に来りしもの約五千――
    第一陣 酒井 忠次(兵千余)
    第二陣 小笠原長忠(ながただ)(兵千余)
    第三陣 石川 数正(兵千余)
    本陣 家康(兵二千余)

 外に信長より家康への加勢として
    稲葉 通朝(兵千余)

 徳川家康の部将中、酒井石川は譜代だが、小笠原与八郎長忠だけは、そうでない。小笠原は、元、今川家の大将で武功の勇将である。家康に従ってはいるが、もし家康が信長へ加勢として上方(かみがた)にでも遠征したら、その明巣(あきす)に遠州を掠取(かすめと)らんと云う肚(はら)もないではない。家康もその辺ちゃんと心得ているので、国には置かず、一しょに連れて来たわけである。つまり、まだ馴れない猛獣に、くさりをつけて引っぱって来、戦争に使おうと云うのである。それだけの小笠原であるから、武功の士多く、姉川に於ての働きも亦(また)格別であった。
(『武功雑記』に、「此度(このたび)権現様小笠原与八郎を先手に被(おお)せ付けられ候(そうろう)。与八郎下心に挾む所ありと雖(いえど)も、辞退に及ばずして、姉川にて先手致し勝利を得申し候。其(その)時節与八郎家来渡辺金太夫、伊達与兵衛、中山是非介働き殊に勝(すぐ)れ候て三人共に権現様より御感状下され候。渡辺金太夫は、感状の上に吉光の御腰物下され候事也」とある。この小笠原は、小田原の時亡んだ。恐らく現在の小笠原長幹伯は、その一族だろう)
 家康が、到着した時、信長は遠路の来援を謝しながら、明日はどうぞ弱からん方を助けてくれと云った。つまり予備隊になってくれと云うわけだ。家康嫌って、打ち込み(他と入り交っての意ならん)の軍せんこと、弓矢の瑕瑾(かきん)であるから、小勢ではあるが独立して一手の軍をしたいと主張した。もし望みが叶(かな)わなければ、本国に引き返さんと云った。信長、左様に仰せられるのなら、朝倉勢を引き受けて貰いたい。尤も北国の大敵に向わせられるには、御勢ばかりでは、あまりに小人数である。信長の勢から、誰か撰(えら)んでくれと云った。と、家康は、自分は小国で小勢を使い習っているから、大勢は使えないし、心を知らぬ人を下知するのも気苦労だから、自勢だけで沢山だと云った。信長重ねて、朝倉と云う北国の大軍を家康だけに委したとあっては、信長が天下の嘲(あざけ)りを招くことになるから、義理にでもいいから誰かを使ってくれと、ひたすら勧めたので、然らば是非に及ばず、稲葉伊予守貞通(通朝、良通などとも云う)をかしてくれと云った。織田の勢より、ただ一人、海道一の弓取たる家康に撰み出されたる稲葉伊予守の面目、思うべしである。
 稲葉伊予守は、稲葉一徹で美濃三人衆の一人で、斎藤家以来名誉の士だ。茶室で信長に殺されかけたのを、床の間にかかっている韓退之の詩『雲横秦嶺(くもはしんれいによこたわって)』を読んで命を助かった文武兼備の豪傑である。
 戦い果てて後、信長、稲葉の功を賞し、自分の一字をやって、長通と名乗れと云う。稲葉悦(よろこ)ばずして信長に向って曰く、「殿は盲(めくら)大将にして、人の剛臆が分らないのだ。自分は、上方勢の中では、鑓(やり)取る者とも云われるが、徳川殿の中に加わりては、足手纏(まと)いの弱兵にて一方の役に立ったとも覚えず、自分の勲功を御賞めになるなど、身びいきと云うもので、三河の人の思わむことも恥し」と。自分の勲功を謙遜し、家康勢を賞め上げるなど、外交手段を心得たなかなかの曲者である。
 浅井朝倉の陣容は、次ぎの通りだ。

  浅井勢
 浅井長政(二十六歳)
  ――三十九万石、兵数約一万――
    第一陣 磯野 員昌(かずまさ)(兵千五百)
    第二陣 浅井 政澄(兵千)
    第三陣 阿閑(あかん) 貞秀(兵千)
    第四陣 新庄 直頼(兵千)
    本陣 長政(兵三千五百)

 朝倉勢(朝倉義景)
  ――八十七万石、兵数二万、姉川に来りしもの一万――
    第一陣 朝倉 景紀(かげのり)(兵三千)
    第二陣 前波新八郎(兵三千)
    本陣 朝倉 景健(兵四千)
               
『真書太閣記』に依ると、浅井朝倉方(がた)戦前の軍議の模様は、左の通りだ。

 七日の夜深(ふ)けて長政朝倉孫三郎景健に面会なし、合戦の方便を談合ありけるは、越前衆の陣取(じんどり)し大寄山より信長の本陣龍ヶ鼻まで道程(みちのり)五十町あり。直(じき)に押しかゝりては人馬ともに力疲れて気衰ふべければ、明暁野村三田村へ陣替ありて一息つぎ、二十八日の晨朝(しののめ)に信長の本陣へ不意に切掛り、急に是(これ)を攻めれば敵は思ひよらずして周章すべし、味方は十分の勝利を得べきなりと申しけるに、浅井半助とて武勇人(ひと)に許されしものながら、先年久政の勘当をうけて小谷を追出され、濃州に立越え稲葉伊予守に所縁あるを以て暫時かくまはれて居たりしかば、信長の軍立(いくさだて)を能々(よくよく)見知りてありけるが、今度(このたび)織田徳川矛盾に及ぶと、浅井を見続(みつ)がずば弥(いよいよ)不忠不義の名を蒙(こうむ)るべしとおもひ、稲葉には暇乞もせず、ひそかに小谷へ帰り、赤尾美作守、中島日向守に就て勘当免許あらんことを願ひしに、久政きかず。殊に稲葉が家にかくまはれしものなれば、いよ/\疑心なきにあらずとて用ひられざりしかば、両人様々に証拠をとりて詫言(わびごと)申せしゆゑ、久政も黙止(もだ)しがたく、然らばとて免許ありて差置かれけるに、此間(このあいだ)信長陣替の時丁野(ちょうの)若狭守と共に討つて出で合戦し、織田勢あまた討捕りしかども却て、丁野も半助も久政のにくみを受けながら、遠藤喜右衛門(きえもん)が能く取りなしけるに依(よっ)て、久政も漸(ようや)く思返し、此頃は傍(そば)近く出勤しけるにより、今日評定の席へも差加へられたり。然るに長政の軍慮を承り、御存じの如く某(それがし)は三ヶ年濃州に罷在(まかりあ)りて信長の処置を見覚えて候ふが、心のはやきこと猿猴(えんこう)の梢を伝ふ如き振舞に候へば三田村まで御陣替あらば必ずその手当を仕(つかまつ)り候ふべし。若(も)し総掛りに軍し給はゞ味方難渋仕り候はんか、今暫時(しばらく)敵の様を御覧ありて然るべきかと申しけるに、長政宣(のたま)ふ様、横山の城の軍急なれば、其儘(そのまま)に見合せがたし。敵の出で来るを恐れては勿々(なかなか)軍はなるまじ、その上に延々(のびのび)とせば、横山終(つい)に攻落(せめおと)さるべし。但し此ほかに横山を援(たす)けん術(てだて)あるべきや。今に於ては戦を始むるの外(ほか)思案に及ばずとありけるを聞て、遠藤喜右衛門然るべく覚え候。兎角する内に、横山の城中の者も後詰(ごづめ)なきを恨み降参して敵へ加はるまじきにもあらず、信長当方へ打入りしより以来(このかた)、心のまゝに働かせ候ふこと余りに云甲斐なし、早く御陣替然るべし。思召の如く替へおほせて、二十九日敵陣へ無二無三に切入り給はんには、味方の勝利疑ひ有るべからず。仮令(たとえ)ば敵方にて此方(このほう)の色を察し出向はゞ、その処にて合戦すべし、何のこはきことが候ふべき。喜右衛門に於ては必定信長を撃捕るか討死仕るか二つの道を出で候ふまじと思定め候、早早御出陣然るべしと申すにより、久政も此程遠藤が申すことを一度も用ひずして宜敷事(よろしきこと)無りしかば、此度許(ばか)りは喜右衛門尉(じょう)が申す旨に同心ありて、然らば朝倉殿には織田と遠州勢と二手の内何方(いずかた)へ向はせ給ふべきかと申せしにより、孫三郎何れへなり共罷向ひ申すべくとありしかば、長政いや/\某が当の敵は信長なり、依て某信長に向ひ候ふべし。朝倉殿には遠州勢を防ぎ給はり候ふべしと定めて陣替の仕度をぞ急がれける。遠藤喜右衛門尉は、兼て軍のあらん時敵陣へ紛れ入り、信長を窺(うかが)ひ撃たんと思ひしかば、朋輩の勇士に談(かた)らひ合せけるは、面々明日の軍に打込の軍せんと思ふべからず、偏(ひとえ)に敵陣へ忍び入らんことを心掛くべし。然しながら敵陣へ忍び入り、冥加有て信長を刺し有るとも敵陣を遁(のが)れ帰らんことは難かるべし。然らば今宵限りの参会なり、又此世の名残りなりと酒宴してけるを、諸士は偏へに老武者が壮士(わかもの)を励ます為の繰言とのみ思ひて、何(いずれ)も遠藤殿の仰せらるる迄もなし、我々も明日の軍に討死して、栄名を後世に伝ふべきにて候ふと答へしかば、喜右衛門尉も悦び、左様にてこそ誠の忠臣の道なれ、はや暁も程近し、面々用意にかゝらせ給へとて、思ひ/\に別れけり。

 かくの如く遠藤の決死は頗(すこぶ)る悲壮であるが、彼は、長政が初めて佐和山に於て信長と対面したとき、信長の到底頼むべからざるを察し、急に襲って討たんことを提議し、長政の容るるところとならなかった事がある。また、今度(このたび)長政が信長と絶縁せんとするや、到底信長に敵しがたきを知って極力諫止(かんし)せんとした。しかも、いよいよ手切れとなるや、単身敵陣に潜入して、信長を討たんことを決心す。実に、浅井家無二の忠臣と云うべきであろう。
 しかし、今度の戦い、浅井家に取って必死の合戦なりと思い決死の覚後をした者、他にもいろいろ、その中にも、最もあわれなるは浅井雅楽助(うたのすけ)である。雅楽助の弟を斎宮助(いつきのすけ)と云う。先年世良田合戦、御影寺合戦(永禄三年)終って間もなく、浅井家の家中寄り合い、諸士の手柄話の噂などした。その時、斎宮助、「我等が祖父大和守、又兄なる玄蕃などが働きに及ぶもの家中にはなし」と自慢した。兄雅楽助大いに怒って、かく歴々多き中に、その高言は何事ぞと叱りつけた。兄としては当然の話である。だが、斎宮助、衆人の前にて叱責せらるる事奇怪なりとて、それより兄弟永く不和になっていたが、姉川合戦の前夜、二十七日の夜亥刻(今の十二時)ばかりに、兄の雅楽助、弟斎宮助の陣所に行き、「明日討死をとげる身として何とて不和を残さん。今は遺恨を捨てて、名残の盃(さかずき)せん。父尊霊を見度くば互いの顔を見るこそよけれ」と、眼と眼を見かわしていたが、やがて酒を乞いて汲み交し、譜代の郎党共も呼び、ともに死別生別の杯を汲み交した。
 浅井方の悲壮の決心推して知るべきである。これに比ぶれば、朝倉方は大将自身出馬せず、しかも大将義景の因循姑息の気が、おのずと将士の気持にしみ渡っていただろうから、浅井家の将士ほど真剣ではなかったであろう。

       朝倉対徳川戦

 姉川は、琵琶湖の東北、近江の北境に在る金糞(かねくそ)岳に発した梓(あずさ)川が伊吹山の西に至って西に折れて流るる辺りを姉川と称する。尚(なお)西流して長浜の北で湖水へ入っている。姉川というのは、閻魔(えんま)大王の姉の竜王が此の川に住んでいるから姉川と云い初めたという伝説があるが、閻魔大王の姉に竜王があるという話はあまり聞かないから、之れは土俗の伝説に過ぎないであろう。野村、三田村附近では、右岸の高さは六七尺以上で、昇降には不便であったらしい。只(ただ)当時の水深は、三尺位であったというから、川水をみだして逐(お)いつ逐われつ戦ったわけである。
 六月二十八日午前三時に浅井軍は野村に朝倉勢は三田村に展開した。
 払暁を待って横山城を囲んでいる織田軍を攻撃せんと云うのであった。ところが信長が二十七日の夜敵陣にたくかがり火を見て、敵に進撃の気配あるを察し、それならばこちらから、逆撃しようと云うので、姉川の左岸に進出していたから、浅井朝倉軍が展開するのを見るや、先ず織田徳川の軍から、弓銃をもって、挑戦した。これは浅井朝倉勢にとっては可成り意外だったろう。
 三田村の朝倉勢に対するものは家康、野村にある浅井軍に対抗するものは信長勢であった。
 先ず徳川朝倉の間に戦端が開かれた。家康は、小笠原長忠を先陣とし、右に酒井忠次、榊原康政、左に本多平八郎忠勝、内藤信重、大久保忠世(ただよ)、自分自身は旗本を率いて正面に陣した。
 本多忠勝、榊原康政共に年二十三歳であったから、血気の働き盛りなわけであった。
 朝倉方は、黒坂備中守、小林瑞周軒(ずいしゅうけん)、魚住左衛門尉(さえもんのじょう)を先頭として斬ってかかった。徳川家康としても晴れの戦であったから、全軍殊死して戦い、朝倉勢も、亦よく戦った。朝倉勢左岸に迫らんとすれば、家康勢これを右岸に逐い、徳川勢右岸に迫らんとすれば、朝倉勢これを左岸に逐いすくめた。
 其の中(うち)徳川勢稍(やや)後退した。朝倉勢、すわいくさに勝ちたるぞとて姉川を渡りて左岸に殺到したところ、徳川勢ひき寄せて、左右より之れを迎え撃った。酒井忠次、榊原康政等は姉川の上流を渡り、朝倉勢の側面から横槍を入れて無二無三に攻め立てたので、朝倉勢漸く浮き足立った。徳川勢之に乗じて追撃したので、朝倉軍狼狽(ろうばい)して川を渡って退かんとし、大将孫三郎景健さえ乱軍の中に取り巻かれた。其の時、朝倉家に於て、唯一の豪の者ときこえた真柄十郎左衛門直隆取って返して奮戦した。十郎左衛門は此の度の戦に景健後見として義景から特に頼まれて出陣した男だ。彼は講釈でも有名な男だが、北国無双の大力である。その使っている太刀(たち)は有名な太郎太刀だ。
 越前の千代鶴という鍛冶が作り出した太刀で七尺八寸あったと云われている。講釈では余り幅が広いので、前方を見る邪魔にならぬよう窓をつけてあったと云う。それは、嘘だろうが、重量を減すため、ところどころ窓があったかも知れぬ。が一説に五尺三寸と云うから、其の方が本当であったろう。だが真柄の領内で、この太刀を担(かつ)げる百姓はたった一人で、常に家来が四人で荷(にな)ったというから、七尺八寸という方が本当かも知れない。
 之に対して次郎太刀というのもあった。其の方は六尺五寸(一説には四尺三寸)あったと云われている。
 直隆、景健の苦戦を見て、太郎太刀を「薙刀(なぎなた)の如く」ふりかざし、馬手(めて)弓手(ゆんで)当るを幸いに薙ぎ伏せ斬り伏せ、竪(たて)ざま横ざま、十文字に馳通(はせとお)り、向う者の兜(かぶと)の真向、鎧(よろい)の袖、微塵になれやと斬って廻れば、流石(さすが)の徳川勢も、直隆一人に斬り立てられ、直隆の向う所、四五十間四方は小田を返したる如くになった。かくて孫三郎景健の危急を救い漸く右岸に退却した。だが、ふり返ると味方が、尚左岸に苦戦してひきとりかねている者が多いのを見て、さらば、援(たす)けえさすべしとて引き返す。
 此時朝倉方の大将、黒坂備中守、前波新八郎、尚左岸にあり奮戦していた。前述して置いた小笠原与八郎長忠は、他国の戦に供奉(ぐぶ)せしは、今度が初めての事なので目を驚かせる程の戦せんとて、黒坂備中守に馳合った。二人とも十文字の槍だったが、小笠原の十文字稍々(やや)長かった為めに、黒坂が十文字にからみとられ、既に危く見えたのを、小笠原槍を捨て、太刀をひきぬいて、備中守の兜を真向に撃ち、黒坂目くるめきながら、暫(しば)しは鞍にこらえけるを、二の太刀にて馬より下へ斬って落す。黒坂撃たれて、朝倉勢乱れ立ち、全軍危く見えし所に、真柄十郎左衛門及び長男十郎三郎直基(なおもと)馳(か)け来って、父は太郎太刀、子は次郎太刀を持って縦横に斬り廻ったので、徳川勢も左右に崩れ立ったので、越前勢漸く虎口を遁(のが)れて姉川を渉(わた)りて退く。真柄父子殿(しんがり)して退かんとする所に、徳川勢の中より匂坂(さきさか)式部同じく五郎次郎同じく六郎五郎、郎党の山田宗六主従四人真柄に馳(か)け向う。真柄「大軍の中より只四人にて我に向うことかわゆし」とて取って返す。式部手鑓(てやり)にて真柄が草摺(くさずり)のはずれ、一鑓にて突きたれど、真柄物ともせず、大太刀をもって払い斬りに斬りたれば、匂坂が甲(かぶと)の吹返しを打ち砕き、余る太刀にて鑓を打落す。式部が弟五郎次郎、兄をかばわんとて、立ち向うを、真柄余りに強く打ちければ、五合郎が太刀を元(はばきもと)より斬り落し、右手の股(もも)をなぎすえた。五郎、太刀の柄ばかり握って、既に危く見えけるを、弟六郎と宗六透間(すきま)もなく救(たす)け来(きた)る。
 真柄太刀とり直し、宗六を唐竹割に割りつけたが、其の時六郎鎌鑓にて、真柄を掛け倒す。流石無双の大力の真柄も、六十に近い老(おい)武者であるし、朝より数度の働きにつかれていた為めだろう。起き上ると、尋常に「今は之れ迄なり。真柄が首を取って武士が誉れにせよ」と云った。
 六郎、兄の式部に首を取れと云ったが、式部手を負いて叶い難し、汝取れと云ったので六郎走りかかって首を打落した。『太閤記』では、匂坂兄弟が真柄一人にやられているところに、本多平八郎忠勝馬をおどらせ馳せ来り、一丈余りの鉄の棒をもって、真柄と決戦三十余合、北国一と聞えたる勇士と東国無双と称する壮士とが戦い、真柄が老年の為めに、遂に忠勝に撃たれることになっている。
 併(しか)しこれは、勇士真柄の最期を飾る為めに本多忠勝の為めに撃たれたことにしたのであろう。真柄と忠勝とが、三十余合撃ち合ったとすれば、戦国時代の一騎討として、これに勝るメイン・エヴェントはないわけだが、本当は矢張り、匂坂兄弟に撃たれたのであろう。
 子の十郎直基(隆基という本もある)は、父が撃たれたと聞くと、せめて父が討死せしところを見ばやと、馬を返す所を、青木所左衛門出で合い、「音に聞えし真柄殿、何処(どこ)へ行き給うぞや、引返し勝負あれ」と呼びければ、「引くとは何事ぞ、悪(にく)い男の言葉哉(かな)。いでもの見せん」と云うままに、父に劣りし太刀なれど、受けて見よやと、六尺五寸の次郎太刀打ち振り、青木の郎党が立ち塞がるを、左右に斬って落す。所左衛門、鎌鑓を打ちかけ、直基が右手の肱(ひじ)を斬って落す。直基、今は之れまでと思いけん、尋常に首を授く。
 越前勢一万余騎の中、真柄父子の勇戦と、この尋常の最期とは、後迄も長く伝えられたとある。尚『太閤記』によると、直基は討死する前に父のかばねと父が使っていた太刀とを郎党に持たせて、本国へ返したようにかいてある。戦争中、そんな余裕は無いように思われるが、併し昔の戦争は、呑気(のんき)なところもあるから、そんな事があったかも知れない。
『三州志』によると、加賀の白山神社の真柄の太刀と伝称し来(きた)るものあり、柄が三尺、刀身が六尺、合せて九尺、厚さ六分、幅一寸六分あり、鎌倉の行光の作である。行光は正宗の父である。ところが越前の気比(けび)神社に真柄の太刀の鞘(さや)だけがある。其の鞘には、小豆が三升入る。此の鞘の寸法と白山神社の鞘の寸法とは、少し違っているという事である。
 姉川の沿岸は、水田多く、人馬の足立たず、殊に越前勢は、所の案内を知らざる故、水田沼沢の地に人馬陥り、撃たるる者が多かった。真柄父子を始めとし、前波兄弟、小林瑞周軒、竜門寺、黒坂備中守等大将分多く討死した。之に比べると、案内を知った浅井方の討死は少かった。
 こう書いてくると徳川勢は余り苦心をしていないようだ。併し朝倉勢に、裏切り組というのがあり、百人位の壮士を選び、各人四尺五寸、柄(え)長く造らせたる野太刀を持ち、戦いの最中、森陰から現われて、不意に、家康の旗本へ切りかかった。為に旗本大いに崩れ立ち、清水久三郎等家康の馬前に立ち塞がり、五六人斬り伏せたので、漸く事無きを得た。
 之れは後年の話だが、徳川頼宣(よりのぶ)がある時の話に「加藤喜介正次は、常に刀脇ざしの柄に手をかけ居り候に付き、人々笑ったところ、加藤喜介曰く『姉川合戦の時、朝倉が兵二騎味方の真似して、家康公の傍(そば)へ近付き抜きうちに斬らんとした。喜介常に刀に手をかけ居る故、直ちに二騎の一人を斬りとめ他の一人は天野三郎兵衛討止めた。此の時家康公も太刀一尺程抜き、その太刀へ血かかる程の事なり。だから平生でも刀の柄に手をかけているのだ』と云ったと云うが、喜介よりも其の朝倉の兵はもっと勇敢だ。敵の中に只二人だけ乗り込み討死す。而も二人の首の中に『一足無間(むげん)』と云う、誓文を含んでいたと云う。さてさて思い切った、豪の者なり」と、褒めたというが、これで見ても、かなり朝倉方もやった事が分る。
 朝倉勢が姉川を越えて、徳川軍に迫った時は、相当激しかったのだろう。

       浅井軍の血戦

 浅井を向うに廻した織田勢の方は、もっと苦戦であった。浅井方の第一陣、磯野丹波守は勇猛無双の大将だ。其の他之に従う高宮三河守、大野木大和守その他、何れも武勇の士である。元来浅井軍は中々強いのだ。だから木下藤吉郎が、一番陣を望んだが許されなかった。それは、秀吉の軍勢は、多年近江に居て浅井軍と接触している為め、浅井の武威に恐れているだろうという心配だった。従って信長も長政を優待して、味方にしておき度かったのだ。丹波守を先頭に、総勢五千余騎、鉄砲をうちかけて、織田の一番陣、酒井右近の陣に攻めかかる。丹波守自ら鑓をとって先頭に進み、騎馬の強者(つわもの)真先に立って殺到した。
 右近の陣は鉄砲に打ちすくめられ嫡子久蔵(十六歳)を初め百余人撃たれて、敗走した。二番側(ぞな)え池田勝三郎も丹波守の猛威に討靡(うちなび)けられて敗走した。
『太閤記』によると第三陣の木下秀吉が奮戦して丹波守を敗る事になっているが、之れは秀吉中心の本だから、いつでも、秀吉が手柄を現すようにかいてある。本当は信長の陣が十三段の備えの内十一段まで崩れたというから、木下秀吉、柴田勝家、森可成の驍将(ぎょうしょう)達も一時は相当やられたらしい。一時は姉川から十町ばかりを退却したというから、信長の旗本も危険に瀕したに違いない。只家康の方が早くも朝倉勢に勝色(かちいろ)を見せ初めたので家康の援軍として控えている稲葉一徹が、家康の方はもう大丈夫と見て、浅井勢の右翼に横槍を入れたのと、横山城のおさえに残しておいた氏家(うじいえ)卜全と安藤伊賀とが浅井勢の左翼を攻撃した。こうした横槍によって、織田軍はやっと盛り返して浅井勢を破ったのだ。
 戦後、信長、「義濃三人衆の横槍弱かりせば我が旗本粉骨をつくすべかりしが」と云って稲葉、氏家、安藤三人に感状、名馬、太刀等をやったところを見ると、戦いの様子が分ると思う。それに家康の方が先に朝倉に勝ったので、浅井の将士も不安になって、みだれ始めたのだろう。
 徳川と織田とは、非常に離れて戦っているようであるが、最後には乱戦になったらしく、酒井忠次の払った長刀(なぎなた)のほこ先が信長勢の池田勝三郎信輝の股に当った位だ。後年、人呼んで此の傷を左衛門疵(きず)と云った。池田と酒井とは、前夜信長の前で、家康を先陣にするかしないかで議論をし合った仲なのだ。其の時酒井は、「兎角の評議は明日の鑓先にある」と云って別れて帰った。だから酒井の長刀が池田の股に当ったことは二人とも第一戦に立って奮戦していたわけで、双方とも前夜の言葉に違(たが)わなかったわけで、「ゆゆしき振舞いかな」と人々感じあったと云う。
 浅井勢の中に於て、其の壮烈、朝倉の真柄直隆に比すべきものは、遠藤喜右衛門尉だ。喜右衛門の事は前にも書いてあるが、喜右衛門は、単身信長に近づいて差違えるつもりであった。彼は首を提(さ)げて血を以って面(おもて)を穢(けが)し髪を振り乱し、織田勢に紛れ込み、「御大将は何処(いずこ)に在(おわ)しますぞ」と探し廻って、信長のいるすぐ側迄来たところ、竹中半兵衛の長子久作之(これ)を見とがめ、味方にしては傍目(わきめ)多く使うとて、名乗りかけて引き組み、遂に遠藤の首をあげた。久作、かねて朋友に今度(このたび)の戦、我れ必ず遠藤を討取るべしと豪語していた。友人が其の故を問うと、久作曰く、「我れ且て江(ごう)州に遊んで常に遠藤と親しむ、故によくその容貌を知っている。遠藤戦いある毎に、必ず魁(さきがけ)殿(しんがり)を志す、故に我必ず彼を討ち取るべし」と。果して其の言葉の通りであった。
 喜右衛門は、信長と戦端を開く時には、浅井家長久の為めに極力反対したが、いざ戦うとなると、壮烈無比な死に方をしている。浅井家第一の忠臣と云ってもいいだろう。
 浅井方の大将安養寺三郎左衛門は、織田と浅井家の同盟を斡旋(あっせん)した男だ。長政を落さんとして奮戦中馬を鉄砲で射られて落馬したので、遂に擒(いけど)りにせられて信長の前に引き据えられた。信長は安養寺には好意を持っていたとみえ「安養寺久しく」と云った。安養寺、言葉なく、「日頃のお馴染に疾(と)く疾く首をはねられ候え」と云ったが、「汝は仔細ある者なれば先ず若者共のとりたる首を見せよ」と云った。つまり、名前の分らない首の鑑定人にされたわけだ。小姓織田於直(おなお)の持ち来れる首、安養寺見て「これは私の弟甚八郎と申すものに候」と云った。また、小姓織田於菊の持ち来れる首「これは私の弟彦六と申すものにて候」と申す。信長、「さてさて不憫(ふびん)の次第なり、汝の心底さぞや」と同情した。
 竹中久作が取りたる首を見すれば、
「之れは紛れもなく喜右衛門尉にて候。喜右衛門尉一人諫(いさ)めをも意見をも申して候。其の他には誰一人久政に一言申すもの候わず。浅井の柱石と頼みし者に候」と云った。
 其の後信長、安養寺に、此の勢いに乗って小谷に押しよせ一気に攻め落さんと思えど如何と聞いた。安養寺笑って、「浅井がために死を急く某(それがし)に戦の進退を問わせ給う殿の御意こそ心得ぬが、答えぬのも臆したるに似ているから答えるが、久政に従って小谷に留守している士(さむらい)が三千余人は居る。長政と共に退却した者も三千余人は候うべし。其の上兵糧、玉薬(たまぐすり)は、年来貯えて乏しからず、半年や一年は持ちこらえ申すべし」と答えた。
 この安養寺の答で、秀吉が小谷城進撃を進言したにも拘わらず、一先ず軍を返した。その後、浅井は尚三年の久しきを保つ事が出来た。或書に、此の時、秀吉の策を用い、直ちに小谷を攻撃したならば、小谷は一日も支える事が出来なかったのに、安養寺が舌頭に於て信長に疑惑の思いを起したのは、忠節比類無しと褒めてある。
 信長は、安養寺が重ねて「首をはねよ」と云うをきかず自分に従えよとすすめたが聴かないので、「然らば立ち帰りて、浅井に忠節を尽せよ」とて、小谷へ帰した。忍人(にんじん)信長としては大出来である。
 浅井勢は総敗軍になって小谷城へ引上げたが、磯野丹羽守は、木下秀吉、美濃三人衆等に囲まれて散々に戦い、手勢僅か五百騎に討ちなされながら、織田軍の中を馳(か)け破って、居城、佐和山へ引上げた。稲葉一徹の兵、逐わんとしたが、斎藤内蔵助(くらのすけ)、「磯野の今日のふるまいは、凡人に非ず、追うとも易く討ち取るべきに非ず」とて逐わしめなかった。
 此の戦いは、元亀元年六月二十八日だから、未だ真夏と云ってもよい位だから、勝った信長の軍勢も、暑さで、へとへとに疲れていただろうし、すぐ手数のかかる攻囲戦に従う事は信長にしても考えたのだろう。元亀は三年で天正と改元した。朝倉が亡んだのは、天正元年の八月で、浅井が亡んだのは其の翌月の九月であった。その三年間浅井朝倉が聯合して江北に於ていくらか策動しているが、併し戦前の勢に比べると、もう見るかげもなくなっていた。
 此の戦いに於て、男をあげたのは家康で、信長の為めに、粉骨の戦をなして、恩をきせると共に自分の地位を築いたわけである。徳川家に関係のある本には、姉川の勝利は神君の力であるというように書いてあるが、そういうひいき目をさし引いても、家康に取っては、正に出世戦争とも云うべきであろう。
 姉川合戦の直後、信長が秀吉の策を用いて、すぐ小谷城を攻め落したならば、長政の妻のお市殿には、未だ長女のお茶々は生れていないだろう。結婚したのが、永禄十一年四月だから、生れていたかどうか、多分まだ腹の中にいたのである。すると落城のドサクサまぎれに、流産したかも知れないし、淀君など云うものは、生れて来なかったかも知れん。
 つまり秀吉は、後年溺愛した淀君を抹殺すべく、小谷城攻略を進言したことになる。しかし、淀君が居なかったら、豊臣家の社稷(しゃしょく)はもっとつづいたかも知れない。そんな事を考えると、歴史上の事件にはあらゆる因子のつながりがあるわけだ。





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底本:「日本合戦譚」文春文庫、文藝春秋社
   1987(昭和62)年2月10日第1刷発行
※底本は、物を数える際の「ヶ」(区点番号5-86)(「十二ヶ国」等)を大振りに、地名などに用いる「ヶ」(「金ヶ崎殿軍」等)を小振りにつくっています。
※底本では本文が「新字新仮名」引用文が「新字旧仮名」ですが、ルビは「新仮名」を共通して使用していると思われますので、ルビの拗音・促音は小書きにしました。
入力:網迫、大野晋、Juki
校正:土屋隆
2009年7月19日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。


引用おわり。

この戦の趨勢、および小谷城の堅牢さ、そして同盟軍の士気の違いが、これ以降の歴史におおきな変化を生んだといっても過言ではない姉川の合戦です。

最後に、下の動画をご覧いただき、〆させて頂きます。携帯の方は、関連情報からどうぞ。


【HR】姉川合戦解説 ~裏に眠る歴史の連環~


Posted at 2010/03/31 22:05:53 | コメント(2) | トラックバック(0) | 戦国時代 | パソコン/インターネット
2010年02月02日 イイね!

宮本昌考の風魔( ̄ー ̄)

宮本昌考の風魔( ̄ー ̄) を見つけましたo(^0^)o
Posted at 2010/02/02 23:59:51 | コメント(0) | トラックバック(0) | 戦国時代 | 趣味
2010年01月12日 イイね!

家康公はウ●コたれ(^m^)

家康公はウ●コたれ(^m^) 
この記事は、イモゾンさんの
「家康ってウ●コたれですか?

アヒャヒャヒャ(゚∀゚≡゚∀゚)ヒャヒャヒャ」

の問いに対する内容です。
!


まずは、定番のwikipediaをご覧ください.

三方ヶ原の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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三方ヶ原の戦い

徳川家康三方ヶ原戦役画像(徳川美術館所蔵)
戦争:戦国時代 (日本)
年月日:1573年1月25日
場所:三方ヶ原周辺
結果:武田軍の圧勝
交戦勢力
武田軍 vs徳川軍

指揮官
武田軍 武田信玄 徳川軍 徳川家康
戦力
武田軍27,000
徳川軍11,000
損害  全て徳川軍
500(上杉家文書)
100(松平記)
1,000(伊能文書)
数千(甲斐国志)

三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)は、元亀3年12月22日(1573年1月25日)に、遠江国敷知郡の三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)で起こった、武田信玄軍2万7,000人と徳川家康軍1万1,000人(うち織田信長からの援軍3,000人)との間で行われた戦い。

信玄の西上作戦の過程で行われた戦いであり、家康の歴史的大惨敗であり唯一の敗戦として有名な戦である。

目次 [非表示]
1 合戦の経緯
1.1 背景
1.2 西上作戦
1.3 一言坂・二俣城の戦い
1.4 三方ヶ原の戦い
1.5 家康の敗走と犀ヶ崖の戦い
2 合戦後
3 顰像(しかみ像)
4 三方ヶ原の戦いをめぐる論点
4.1 家康が出陣した理由
4.2 両軍の布陣
4.3 合戦跡
5 逸話
6 関連項目
7 関係史料
8 外部リンク


合戦の経緯 [編集]
背景 [編集]
駿河侵攻によって、武田氏は徳川氏・上杉氏・北条氏との三正面を強いられることなり、やがて北条氏を退けて駿河国の平定に成功するも三方を囲まれている状況は何とも如何し難く、依然大規模な軍略は無理であった。また、武田氏は徳川領にもたびたび侵攻していたが、武田氏と織田氏が同盟関係にあったため、徳川氏から見れば織田氏の援軍が望めず、どちらも小競り合いを繰り返すに留まっていた。

1571年、室町幕府15代将軍・足利義昭は織田信長討伐令を出し(第一次信長包囲網)、それに応える形で武田信玄は織田氏の盟友・徳川氏の領地である遠江国・三河国に大規模な侵攻を行う(ただし、武田氏と織田氏は同盟関係は維持していたため、当初織田氏は徳川氏に援軍を送らなかった)。同年、北条氏康の死をきっかけに甲相同盟が復活し、後顧の憂いを絶った信玄は、翌年西上作戦を開始する。

西上作戦 [編集]
元亀3年(1572年)、武田軍は兵を3つに分けて、遠江国・三河国・美濃国に同時侵攻を行う。

山県昌景軍5,000人。9月29日、信濃国・諏訪より東三河に侵攻、徳川氏の支城・武節城の攻略を初めとして南進。東三河の重要な支城である長篠城を攻略した後、遠江国に侵攻。
秋山信友軍5,000人。山県隊とほぼ同時に居城・高遠城より東美濃に侵攻、織田氏の主要拠点・岩村城を包囲(事実上の織田氏との同盟破棄)。11月初旬に攻略。
武田信玄率いる本隊2万2,000人(うち北条氏の援軍2,000人)。10月3日、甲府より出陣し、山県隊と同じく諏訪へ迂回した後、青崩峠から遠江国に侵攻。途中、犬居城で馬場信春隊5,000人を別働隊として西の只来城に向かわせて別れ、南進して要所・二俣城へ向かう。
総計3万人の軍勢は、当時の武田氏の最大動員兵力であり、まさに総力戦であった。この侵攻は凄まじく、本来小さな支城1つ落とすのにも数週間かかるところを、[要出典]1つあたり数日で次々と落としていった。一方の徳川氏の最大動員兵力は1万5,000人に過ぎず、しかも三河国に山県隊が侵攻していたため、遠江国防衛のためには実際には8,000人余しか動員できなかった。さらに盟友の織田氏は信長包囲網による近畿各地の反乱鎮圧に追われ、岩村城へのまともな支援すらできず、結果として徳川氏に援軍を送れるようになるのは12月になってからだった。そのような事情もあって、武田軍の機動力や三路からの同時侵攻(本隊・山県隊・馬場隊)の前には成す術も無かった。

一言坂・二俣城の戦い [編集]
詳細は「一言坂の戦い」、「二俣城の戦い」をそれぞれ参照

10月13日に只来城を落とした馬場信春隊はその後、徳川氏の本城・浜松城と支城・掛川城・高天神城を結ぶ要所・二俣城を包囲し、信玄率いる武田軍本隊も二俣城に向かっていた。10月14日、二俣城を取られることを避けたい家康がひとまず武田軍の動向を探るために威力偵察に出たが、武田軍本隊と遭遇し一言坂で敗走する(一言坂の戦い)。

10月16日には武田軍本隊も包囲に加わり、降伏勧告を行う。二俣城は1,200人の兵力しか無かったがこれを拒否したため、10月18日から武田軍の攻撃が開始される。11月初旬に山県昌景隊も包囲に加わり、そして城の水の手を絶たれたことが致命的となって、12月19日、助命を条件に開城・降伏した(二俣城の戦い)。これにより、遠江国の北部が武田領となる。

三方ヶ原の戦い [編集]
二俣城落城の少し前に徳川軍は佐久間信盛・滝川一益・平手汎秀・林秀貞・水野信元ら織田軍3,000人の支援を受け兵力が1万1,000人となっていたが、依然兵力差は大きいため、武田軍の次の狙いは本城・浜松城であると見越して篭城戦に備える。一方の武田軍は、二俣城攻略から3日後の12月22日に二俣城を出発して遠州平野内を西に進軍する。しかし、浜名湖に突き出た半島の先端に位置する堀江城(現在の浜松市西区舘山寺町)を目的地とし、浜松城を素通りして三方ヶ原台地を通過しようとしていた。

これを知った家康は一部家臣の反対を押し切り、籠城策を取り止め三方ヶ原から祝田の坂を下る武田軍を背後から攻撃することを決定し、浜松城から打って出た。同日夕刻に、三方ヶ原台地に到着するが、武田軍の後方を取るどころか相手は魚鱗の陣を敷いて待ち構えていた。対する徳川軍は鶴翼の陣をとって戦闘が始まる。しかし、武田軍に対し兵力・戦術面ともに劣る徳川軍に勝ち目はなく、わずか2時間の戦闘で甚大な被害を受けた徳川軍は敗走する。

武田軍の死傷者わずか200人に対し、徳川軍は2,000人の死傷者を始めとして、鳥居四郎左衛門、成瀬藤蔵といった有力な家臣から、先の二俣城の戦いの恥辱を晴らそうとした中根正照、青木貞治や後述する家康の身代わりとなった夏目吉信、鈴木久三郎といった家臣、また織田軍の平手汎秀といった武将を失った。このように野戦に持ち込んだことを含めて、全て武田軍の狙い通りに進んだと言えるが、戦闘開始時刻が遅かったため、徳川軍を完全な壊滅に追い込むことはできず、家康を討ち取ることもできなかった。

家康の敗走と犀ヶ崖の戦い [編集]
徳川軍の一方的な敗北の中、家康も討ち死に寸前まで追い詰められ、夏目吉信や鈴木久三郎を身代わりにして、成瀬吉右衛門、日下部兵右衛門、小栗忠蔵、島田治兵衛といった僅かな供回りのみで浜松城へ逃げ帰った。この時の家康は恐怖のあまり脱糞したとも伝えられ、後の伊賀越えと並んで人生最大の危機とも言われる。浜松城へ到着した家康は、全ての城門を開いて篝火を焚き、いわゆる空城計を行う。そして、有名な顰像(#顰像(しかみ像))を描かせると、湯漬けを食べてそのまま鼾を掻いて眠り込んだと言われる。

一方、浜松城まで追撃してきた山県昌景隊は、空城の計によって警戒心を煽られ城内に突入することなく、そのまま引き上げる。同夜、一矢報いようと考えた家康は大久保忠世、天野康景らに命令し、浜松城の北方約1キロにある犀ヶ崖付近に野営中の武田軍を夜襲させる(犀ヶ崖の戦い)。この時、混乱した武田軍の一部の兵が犀ヶ崖の絶壁から転落したり、徳川軍が崖に誘き寄せるために崖に布を張って橋に見せかけ、これを誤認した武田勢が殺到して崖下に転落したなど、多数の死傷者を出したという。

ただし、「犀ヶ崖の戦い」は徳川幕府によって編纂された史料が初出である。「幅100mの崖に短時間で布を渡した」、「十数丁の鉄砲と100人の兵で歴戦の武田勢3万を狼狽させた」、「武田勢は谷風になびく布を橋と誤認した」という、荒唐無稽な逸話である。

合戦後 [編集]
武田軍はほぼ兵力を温存した状態で遠江国で越年した後、東三河に侵攻。1ヶ月かけて徳川軍の三河防衛の要所である野田城を攻略する(野田城の戦い)。間もなく信玄の急病に伴い西上作戦が切り上げられ、武田軍は甲斐国に撤退することを決定。その道中で信玄は病死する。徳川氏のみならず、織田氏の危機でもあったが、結果として信玄の病死という幸運に恵まれて事なきを得た。

その後、武田氏は武田勝頼が家督を継ぐが、その際の間隙を突いて、武田軍の撤退から半年も経たない8月には家康は長篠城を取り戻すことに成功している。さらには奥平貞能・貞昌親子の調略も成功させている。これらは後の長篠の戦いで大きな意味を持つことになる。

対して勝頼は、基本的にはこの戦の功績を維持することに成功しており、信玄も落とせなかった高天神城を落とすなど遠江国への影響力を強めている。そして信長包囲網の維持にも努めたが、長篠の戦いを経て全てを失っていくこととなる。

顰像(しかみ像) [編集]
浜松城に戻った家康は、苦渋の表情の肖像画を描かせ、これが現在、徳川家康三方ヶ原戦役画像、通称「顰像」として残っている。これは一般に、血気にはやって武田軍の誘いに乗り、多くの将兵を失った自分に対する戒めとして描かせたとして知られ、この後に熱くなった自分を抑えるために絵を見て自重していたという逸話が残っている。軍略の重要性を自らに確認させていたとも言われ、司馬遼太郎の家康評では、三方ヶ原の戦いを転機にして、それまでの三河武士らしい激しい気性から後年の奸智に長けた謀略家としての面が強くなっていったとしている。また有名な俗説に、この戦いにおける武田軍の戦略をそのまま後の関ヶ原の戦いで用いて、大坂城に籠城する西軍を野戦に誘き出したというものがある(ただし、このような敵を城からおびき出して野戦で決戦を挑む戦法は、信長が得意としていた戦法でもあり、そこから学んだとも考えられる)。

三方ヶ原の戦いをめぐる論点 [編集]
家康が出陣した理由 [編集]
通説では、信玄の挑発(相手にされず素通りされたこと)に乗ったとされているが、様々な説がある。

あえてここで出撃することによって家臣や国人衆たちの信頼を得る(逆に言えば、ここで武田軍が去るのをただ待つだけでは調略に乗る者や離反者が出る可能性があった)、織田氏・武田氏のどちらが勝つにせよ戦役終了後に徳川氏に有利になるよう戦略的アピールを狙ったなどがあるが、祝田の坂を利用し一撃離脱を図っていたという説や、挑発に乗った振りをして浜松城近辺に武田軍を足止めするための時間稼ぎを狙っていた(染谷光広、吉川弘文館『日本歴史』360号「武田信玄の西上作戦小考」)と言った戦術的面から見た説もある。

また、『当代記』『四戦紀聞』などの史料によれば、家康は戦うつもりが無かったが、物見に出ていた部下が小競り合いを始めてしまい、彼らを城に戻そうとしている内に戦闘に巻き込まれてしまった、という旨の記述がある。

ただ何れにせよ、それらを含めて信玄は家康を出陣せざるを得ない状況に追い込んだとも言える。

両軍の布陣 [編集]
この戦において徳川軍は鶴翼の陣を取り、武田方は魚鱗の陣で待ち構えていたとされる。鶴翼の陣は通常は数が優勢な側が相手を包囲するのに用いる陣形であり、逆に魚鱗の陣は劣勢の側が敵中突破を狙うのに用いる陣形で、両軍の規模を見ればどちらも定石と異なる布陣を敷いていたことがわかる。

徳川方が鶴翼の陣を取った理由の説
そもそも武田軍本隊は去っており、待ち構えているのは少数であると予想していたため。
最初から勝ち目が無いことはわかっていたため、兵力を大きく見せることで相手の動揺を誘おうとした。
池宮彰一郎の小説『遁げろ家康』では、家康は合戦をすること自体が目的であったため勝利よりも鶴翼の陣形で一当たりし、続いて逃げることが目的だったと描写されている(鶴翼は両翼の中心後方に大将を置くため、逃げやすい)。
武田軍が魚鱗の陣を取った理由の説
鶴翼の陣を見て大将首(家康)を討ち取ることに狙いを絞った(鶴翼は両翼に比重を置くため中央は必然的に薄くなる)。
織田軍の中でも特に増員兵力の多い佐久間信盛が援軍にいる情報を得ていたことなどから、織田軍の支援を考慮して相手方を多く見積もっていた。
他にも説はあるが、何れにしてもはっきりしたことはわかっていない。

合戦跡 [編集]
実は三方ヶ原の戦いにおける主戦場はわかっていない。現在の三方原墓園(浜松市北区根洗町)に古戦場の碑こそあるが、特定されているわけではない。

一方で犀ヶ崖の戦いにおける古戦場は、事実かどうかは定かでないが確定されており、犀ヶ崖資料館(浜松市中区鹿谷町)がある。布橋の記事を参照。

逸話 [編集]
敗走中の家康は途中で腹が減り、茶屋の老婆より餅を買い求めて食べていた。だがそのとき敵が迫ってきたので代金を払わず逃げたが、老婆が追いかけてきて家康から代金を徴収した。この逸話より、茶屋があったとされる地域には小豆餅(浜松市中区の町名)の町名が残り、家康が代金を払ったとされる地域は「銭取」(同区和合町の地名)と呼ばれている。ただし命からがら逃走していた家康がいくら空腹でも悠長に茶屋に寄ったとは考えにくく、騎乗していた家康が徒歩の老婆に追いつかれたというのもおかしいため、信憑性は薄い。上記の地名も、「小豆餅」は合戦での死者を弔うためにこの地に小豆餅を供えたことに由来し、「銭取」は山賊が通行人から銭を取ったという話に由来するという説がある。また当時この地域には、茶屋どころか民家さえ存在していないと言われている。
敗走中の家康は途中で腹が減り、付近の農家に食べ物を求めた。家の者は粥を提供したため、後に家康はこの農民に「小粥(おがい)」という名字を授けて庄屋にした。また、家康が武田軍の追跡を逃れるため八幡神社の洞窟に一時身を隠したが、家康の乗馬の白い尾が洞窟の外に出ていた。それに気づいた付近の農民が家康に教えたため、家康は尾を隠して上手く逃げおおせた。後に家康はこの農民に「白尾(しらお)」という名字を授けた。
犀ヶ崖の戦いの後、犀ヶ崖の底から転落死した武田兵の霊のうめき声が聞こえて来るようになり人々が恐ろしがった。そこで家康は僧侶の宗円を招き武田兵の霊を弔うための供養を行い、それ以後うめき声は聞こえなくなった。この供養が遠州大念仏の起源であるという。
犀ヶ崖の戦いの時、季節は冬で一面の雪景色だったため、崖に白い布を橋の様にかけたところ、武田の軍勢は崖とは知らず次々にその布の橋を渡り崖に転落して死亡した(上記の通り)。そこでその地名が「布橋」となった。また浜松には「布橋の雪」という銘菓がある。


引用おわり。

お次は所さん&おすぎの偉大なるトホホ人物伝 第4回 徳川家康 の引用です。


 1542年、現在の愛知県、三河の国岡崎城主、松平家の跡継ぎとして徳川家康、幼名・竹千代は生まれた。弱小大名だった松平家を守るため、わずか4歳で尾張の織田家の人質となり、6歳からは駿河の今川義元の元へとたらいまわしの人質生活を送る。その間には、父・広忠が家臣の裏切りにあって殺されるなど、大名の子でありながら不憫な生活を強いられた。しかし1560年、家康17歳の時、桶狭間の戦いで、今川義元が織田信長に敗れる。長い人質生活からようやく解放された家康は、戦国武将としての人生を突き進んでいく。


そんな家康に、その後の生き方を大きく変えることとなったエポックメイキングな戦があった。それが、1572年12月22日の「三方原の戦い」。30歳の若き家康は、現在の静岡県西部にある三方原で、戦国時代最強と恐れられた武田信玄と戦った。結果は、信玄の巧妙な術中に陥り、人生初の大敗北。命からがら戦場から脱出した家康は、信玄の騎馬軍団に追われ、死をも覚悟しながらの敗走の途中に信じられないトホホなことをしでかしてしまったのである。
 

必死に浜松城にまで馬を飛ばしていたその時、馬上の家康は、あまりの恐怖に大きい方をもらしていたのだ。そして、なんとか居城の浜松城まで逃げ延び、駆けつけた家臣にそのことを指摘されると、恥ずかしさのあまり、非常食用の「焼き味噌だ」と言い訳をしたという。さらに家康は、なぜか絵師を呼び寄せ、疲労困憊、情けなさ過ぎるその時の顔を絵に残したのである。肉の厚いふくよかな家康からはかけ離れ、やせこけた焦燥の色が浮かぶその顔。「しかみ像」と名づけられた、この惨めな自画像を、家康は生涯手元に置き、蛮勇を改め、慎重を重ねることを自らの戒めとしていったという。
 

3年後の1575年、家康32歳の時、長篠の戦いで、再び武田軍と激突した家康は三方原での敗戦の教訓を生かし、当時としてはケタ外れの3000丁もの鉄砲隊を手配、必勝の布陣を長篠に敷き、ついに武田勝頼率いる最強騎馬軍団を破滅に追い込んだのであった。だが、その後も家康は決して無理をしなかった。ひたすら時を待ち、しっかりと天下取りのための土台を固めていく。長年同盟関係にあった織田信長を本能寺の変で失った後は、ライバルの豊臣秀吉を静かに支えつづけ、その秀吉亡き後、ついに天下を取る。この時家康は、すでに60歳であった・・・。


引用おわり。

早い話が、「信玄公フルボッコにされ命からがら逃げる道中、恐怖余り馬上にてウ●コを漏らした」っつー逸話があるんです、家康公

それでは風魔小太郎の「参分間歴史ヒストリア」でしたヘ(..、ヘ)☆\(゚ロ゚ )ナンデヤネン
Posted at 2010/01/12 23:12:41 | コメント(3) | トラックバック(0) | 戦国時代 | 趣味
2009年10月19日 イイね!

タヌキ、もとい家康公に弐度にわたり煮え湯を飲ませた名将( ̄ー ̄)

タヌキ、もとい家康公に弐度にわたり煮え湯を飲ませた名将( ̄ー ̄)
 前回UPしたニコニコ動画は遊びなしのマジ動画でしたが

大河などで極めて有名な
真田家


の爆笑動画を発見しましたのでUPしました



壱応、まともな情報としてwikipediaからの情報も転写しておきます^^;

文字を読むのが面倒な方、直接動画のみを閲覧してくださいw

ただし、試験の解答などに、動画の内容をそのまま書かないようにwww

上田合戦
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上田合戦(うえだかっせん)は、信濃国の上田城(現:長野県上田市)と近隣の山城周辺、上田市の東部を南北に流れる神川付近などで行われた真田氏と徳川氏の戦いの総称である。

この地で真田氏と徳川氏の戦は2回行われ、天正13年(1585年)の戦を第一次、慶長5年(1600年)の戦を第二次とし区別する。

上田は東信濃の小県郡にあり、この付近は上田城築城以前から武田氏・上杉氏・後北条氏の国境として不安定な地域であったが、真田昌幸が武田氏の下で上野国吾妻郡・沼田を平定後、徳川氏の下で小県郡を平定し、上田城を築城した。

この戦いで真田昌幸は主に上田城に籠もり戦ったことから、上田城の戦い、上田城攻防戦などとも呼ばれる。ただし、正確には上田城のみならず砥石城や丸子城など上田小県に点在する山城も含めた総力戦であったため上田合戦と呼ぶ方が相応しい。

目次 [非表示]
1 合戦の経過
1.1 第一次上田合戦
1.2 第二次上田合戦
2 この2回の合戦について
3 参考文献
4 脚註


合戦の経過 [編集]
第一次上田合戦 [編集]
この戦いに限り、神川合戦とも呼ばれる。

第一次上田合戦(神川合戦)
戦争:上田合戦
年月日:1585年
場所:上田城
結果:真田軍の勝利
交戦勢力
真田軍 VS 徳川軍

指揮官

真田軍

真田昌幸
真田信之

徳川軍

鳥居元忠
大久保忠世
平岩親吉

戦力
真田軍 1,200
徳川軍 7,000

損害
真田軍 わずか21~40
徳川軍      1,300(300人という説も)

天正10年(1582年)3月、織田信長が行った武田征伐により武田氏は滅亡。甲斐から信濃、上野に及んだ武田遺領は織田家家臣に分与され、武田旧臣の信濃国人衆らは織田政権に臣従した。同年6月に京都で織田信長が横死(本能寺の変)し、織田家と友好関係だった北条家が、北条氏直率いる5万6,000の兵で織田領上野に侵攻し、織田政権の関東管領と目される滝川一益率いる2万を神流川の戦いで撃破し、滝川一益は本拠地の伊勢まで敗走する。これに前後して甲斐の河尻秀隆が一揆により戦死、北信濃の森長可も旧領の美濃に撤退し、南信濃の毛利秀頼も尾張へと撤退すると、織田領である信濃、甲斐、上野が一気に空白状態となり、越後の上杉景勝や相模の北条氏直、三河の徳川家康など近隣勢力が侵攻し、旧織田領を巡る天正壬午の乱が起こる。

甲斐を制圧した徳川家康が南信濃へ、上杉氏は北信濃へ、そして北条氏は上野国から碓氷峠を越えて東信濃へと侵攻した。このとき東信濃から西上野に勢力を保っていた真田昌幸は北条方に属するが、徳川が東信濃に侵攻してくると徳川方に寝返る。

10月には徳川・北条の間で和睦が成立するが、その和睦条件として徳川傘下となっていた真田氏の上野沼田領と北条氏が制圧した信濃佐久郡を交換することとした。

翌天正11年(1583年)から昌幸は上田城の築城に着手しており、沼田領や吾妻領を巡り北条氏と争っていた。

天正13年(1585年)には家康が甲斐へ着陣して昌幸に沼田領の北条氏への引き渡しを求めるが、昌幸は徳川氏から与えられた領地ではないことを理由にして拒否し、さらに敵対関係にあった上杉氏と通じた。同年7月、浜松に帰還した家康は昌幸の造反を知ると八月に真田討伐を起こし、家臣の鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉ら約7000の兵を真田氏の本拠・上田城に派遣する。

徳川軍は甲斐から諏訪道を北国街道に進み、上田盆地の国分寺付近に兵を展開。これに対して真田方は約1200人であったと言われ、昌幸は上田城に、長男の信幸は支城の戸石城に篭城した。また支城の矢沢城には、昌幸の従兄弟矢沢頼康が上杉の援兵と共に篭城した。

閏8月2日に上田城に攻め寄せた徳川方は、二の丸まで進むがここで反撃を受け撃退される。更に後退の際に城方の追撃を受け、戸石城の信幸も横合いから攻めるに及びついに壊乱し、追撃戦には矢沢勢も加わり神川で多数の将兵が溺死した。この真田方の地の利を活かした戦法により、徳川軍は1300人もの戦死者を出したと言われる[1]。一方、真田軍は40人ほどの犠牲ですんだ。

翌日、徳川方は近隣の小豪族で真田氏に味方した丸子氏(後、真田氏に臣従)の篭る丸子城を攻めるが、これも要害と頑強な抵抗に阻まれ攻略できず、以後20日間程対陣を続ける。この間に上杉勢援軍との小競り合いや更なる増援の報に接し、家康は援軍(井伊直政(一部部隊は当初より参陣)、大須賀康高、松平康重の5000)を出すと共に一時撤退を下令、これを受け徳川軍は28日に上田より撤退した。その後も、大久保忠世ら諸将は小諸城に留まり真田勢と小競り合いを繰り返すも、11月には譜代の重臣石川数正が豊臣家に出奔する事態に至り、完全に撤退することになる。

合戦の記録は真田家の『真田軍記』ほか、徳川方の『三河物語』にも記されている。この戦いで昌幸は優れた智謀であると評されることとなる。また、この合戦によって徳川家康の真田氏に対する評価は高まり、結果として本多忠勝の娘である小松姫を真田信之へ嫁がせて懐柔するきっかけともなった。

真田氏はその後豊臣政権に臣従しており、上田合戦に至るまでの諸勢力との外交や数カ郡を支配する勢力拡大は、真田氏が小領主から大名化していく過程であると指摘される。

上田市立博物館には、神川合戦の合戦図が所蔵されている。

なお、この上田合戦に連動して天正13年(1585年)9月から天正14年(1586年)5月まで間、沼田城にも北条氏が数回に渡って攻撃を仕掛けていたが、昌幸の叔父にあたる城代矢沢頼綱(矢沢頼康の父)が撃退に成功している。

第二次上田合戦 [編集]
第二次上田合戦
戦争:関ヶ原の役
年月日:1600年
場所:上田城
結果:真田軍の勝利
交戦勢力

真田軍 VS 徳川軍

指揮官

真田軍
真田昌幸
真田信繁(幸村)

徳川軍
徳川秀忠

戦力

真田軍  3,500
徳川軍 38,000

昌幸や徳川家康、上杉氏は豊臣政権に臣従。後北条氏は天正18年(1590年)からの小田原合戦により滅ぼされ、家康は関東に移封された。慶長3年(1598年)、秀吉が死去し、豊臣政権では五大老筆頭の地位にあった家康の影響力が強まる。反徳川勢力は五奉行の石田三成を中心に結集し、慶長5年(1600年)6月、家康が会津の上杉征伐の兵を起こして大坂を離れると、三成は毛利輝元を総大将として西軍を組織し挙兵した(関ヶ原の戦い)。昌幸は東軍を率いる家康に従っていたが、慶長5年(1600年)7月下旬、下野で次男・真田信繁(幸村)とともに離反して上田に帰還し西軍に与した。これに対し、長男の信幸は東軍に従った。通説では、西東軍どちらが勝利しても真田一族が残れるよう分かれたとされる。

徳川家康率いる東軍は、下野国小山において三成ら西軍の挙兵を知って、軍を西に返した。この時、家康の本隊や豊臣恩顧大名などの先発隊は東海道を進んだが、徳川秀忠率いる3万8000人の軍勢は中山道を進んで西に向かった。そしてその進路に、真田父子が立て篭もる上田城があった。

秀忠は昌幸の嫡男・信幸に命じて、まずは無難に昌幸に対して開城を求める。老練な昌幸はのらりくらりと返事を先延ばしにして、時間稼ぎに徹する。秀忠は数日を空しく費やした後で昌幸の真意を知り激怒、上田城攻略を決意したとされる。このとき本多正信や徳川四天王の一人・榊原康政などは寡兵の真田氏を侮ることはせず、上田城を黙殺して西軍との主戦場(関ヶ原)に急ぐべきだと進言するが、土井利勝を始めとする戦場に疎い将が多かったこともあり、秀忠の決断を覆すことは出来なかった。そして牧野康成率いる手勢が昌幸の挑発に乗ったのをきっかけに戦端が開かれると、昌幸はわずか3500の兵力で徳川軍をかき回して混乱に陥れた。

兵力的に圧倒する徳川軍であったが、地形的に兵力の優勢を生かし切れず、逆に地形を完全に掌握している地元の真田軍に巧みに翻弄され、敗北を喫したのである。このときのことを『烈祖成蹟』は「我が軍大いに敗れ、死傷算なし」と記している。秀忠は上田城が予想外に頑強であることに驚き、上田城に押さえの兵を残して先を急ぐことにする。しかし、この上田での遅延だけでなく道中の悪天候も災いして、遂に9月15日の関ヶ原本戦に遅参するという大失態を犯してしまった。この失態に家康は激怒し、秀忠にしばらくは対面することすら許さなかったと言われている。また、結果的に大敗のきっかけを作った康成・忠成父子は部下を庇って出奔したため、一時謹慎となった。

この戦いで、美濃で行われた関ヶ原での決戦に秀忠軍を遅参させることに成功したが、肝心の関ヶ原では西軍の敗北に終わり、西軍に与した昌幸と信繁は戦後処理で死罪を命じられたが、信幸とその岳父である本多忠勝の助命嘆願などもあって、一命を助けられてはじめ高野山、のち信繁が妻を同行させることを願ったため九度山に流罪となった。

この2回の合戦について [編集]
この第一次、第二次の上田合戦は、それぞれ性格が異なる。

第一次は徳川氏と北条氏の和睦に伴う沼田領の帰属問題に端を発し、北条氏への沼田領引き渡しを求める徳川氏とそれを拒絶する真田氏の領地争い(意地の張り合い)の色合いが濃い。殊に真田氏にとっては、武田の旧臣から信濃の独立勢力として認められることが最重要であり、最後まで意地を張り通すことになる。結果的に徳川を撃退することで、真田の名を豊臣氏を始めとする有力緒将に知らしめることに成功した。

しかし、第二次では豊臣方(西軍)と徳川方(東軍)の軍事衝突(関ヶ原合戦)が避けられない状況下で、昌幸と昌幸の二男信繁が豊臣方(西軍)についたことが起因している。信濃国の大名がこぞって東軍に与するなか、あえて昌幸と信繁が西軍に与した理由は諸説あるが、昌幸の五女が石田三成の妻の実家である宇田氏に嫁いでおり、しかも昌幸二男信繁も三成と親交があり西軍に与した大谷吉継の娘を妻にしているという姻戚関係が、昌幸・信繁父子の選択に重要な影響を及ぼしたと言われている。逆に、昌幸の長男信幸は徳川家康の養女である小松殿を妻にしていたため、東軍として上田攻めの徳川秀忠隊に加わっている。この選択は、大名家としての家名存続を最優先と考えていたともされ、「名を売った」第一次とは根本的に異なる。

この2度の戦い通じて、真田昌幸という武将の名は「戦巧者」として全国に知られることになる。

参考文献 [編集]
柴辻俊六『真田昌幸』


転写終わり。

それではご覧ください。

【HR】第一次上田合戦

【HR】第二次上田合戦


Posted at 2009/12/29 23:29:38 | コメント(0) | トラックバック(0) | 戦国時代 | 趣味
2009年10月18日 イイね!

武田信玄 上杉謙信と並ぶ稀代の英雄

武田信玄 上杉謙信と並ぶ稀代の英雄
 最近ニコニコやYoutubeを閲覧していて

非常にデキの良い動画を発見しましたので
北条氏康公


について軽く書いてみました



まずは、定番wikipediaからの転載です。

北条 氏康(ほうじょう うじやす)は、戦国時代の武将。相模の戦国大名。

後北条氏第2代当主・北条氏綱の嫡男として生まれる。後北条氏第3代目当主。母は氏綱の正室の養珠院。 関東から山内・扇谷両上杉氏を追うなど、外征に実績を残すと共に、武田氏・今川氏との間に甲相駿三国同盟を結ぶなど、政治的手腕も発揮した。

世に相模の虎(または獅子)と謳われる。

目次 [非表示]
1 生涯
1.1 家督相続
1.2 関東の戦い
1.3 三国同盟
1.4 上杉謙信との戦い
1.5 武田信玄との戦い
1.6 最期
2 人物
3 内政
4 系譜
5 家臣
6 北条分限帳(北条氏康時代前期)における衆
7 墓所
8 参考文献
9 関連項目
9.1 TVドラマ
9.2 ゲーム


生涯 [編集]
家督相続 [編集]
永正12年(1515年)、第2代当主・北条氏綱(当時は伊勢氏綱)の嫡男として生まれる。幼年期はちょっとした物音にも驚いていて、周囲の人々も心配していたと伝わる。

享禄3年(1530年)、小沢原の戦いに初陣して上杉朝興と戦い、これに大勝した。天文4年(1535年)8月の甲斐山中合戦、天文6年(1537年)7月の河越城攻略などに出陣して戦功を重ね、天文7年(1538年)の第一次国府台の戦いでは、父と共に足利義明・里見連合軍と戦い、敵の総大将・足利義明を討ち取り、勝利を収めている。

天文6年(1537年)7月には父と共に鎌倉鶴岡八幡宮に社領を寄進し、同8年(1539年)6月には将軍足利義晴から巣鷂を贈られている。

天文10年(1541年)に氏綱が死去したため、家督を継いで第3代当主となった。一説では天文7年(1538年)に氏綱が隠居して氏康に家督を譲り、後見していたとされる。なお、氏綱は死の直前、5か条の訓戒状を残した。

関東の戦い [編集]
天文14年(1545年)、今川義元は関東管領・山内上杉憲政や扇谷上杉朝定(朝興の子)等と挙兵した。氏康の義兄弟(妹婿)であり、これまでは北条と協調してきた足利晴氏も連合軍と密約を結び後に参戦している。義元は北条氏綱に奪われていた東駿河の一部を奪還すべく軍事行動を起こした。これを第2次河東一乱という。しかし武田晴信(信玄)の斡旋があって、駿河の返還を条件に和睦した。

天文15年(1546年)、態勢を立て直した山内・扇谷の両上杉氏と足利晴氏の連合軍、およそ8万(誇張の可能性がある)の大軍が北条領に侵攻し、北条氏に奪われていた川越城を包囲する。このとき、北条軍は1万未満しかなく、圧倒的に劣勢だった。氏康は両上杉・足利陣に「これまで奪った領土はお返しする」との手紙を送り、長期の対陣で油断を誘った。そして氏康は義弟・北条綱成と連携して、連合軍に対して夜襲をかける。この夜襲で上杉朝定は戦死し、扇谷上杉氏は滅亡した。また、上杉憲政は上野平井に足利晴氏は下総に遁走した(河越夜戦)。この勝利により、氏康は関東における支配権を確立する。

そして天文20年(1551年)には、憲政を越後に追放し(平井合戦)、天文23年(1554年)の古河城侵攻(2年前に公方の位を後北条氏の血を引く息子の義氏に譲った晴氏を秦野に幽閉)で、それをさらに確固たるものとした。さらに大石氏には氏照、藤田氏には氏邦と息子を養子に送り込んで、実質的に一門に組み入れた。

三国同盟 [編集]
上杉憲政が越後に逃亡したことにより、長尾景虎(のちの上杉政虎、法名は謙信)との対立関係が表面化してしまう。上野は憲政が去った後も、配下である長野当主・長野業正や横瀬(由良)の北条・武田勢への頑強な抵抗が継続していた。常陸の佐竹、下野の宇都宮などの関東諸侯による抵抗もあって、関東統治は停滞した。

さらに今川との関係も依然として緊迫した状況であり、天文17年(1548年)3月、氏康が織田信秀に宛てた書状(古証文写)からもそれは見て取れる。天文20年(1551年)、一時的ながら、祖父・北条早雲ゆかりの城である駿河興国寺城を奪っている。

天文23年(1554年)、今川義元が三河に出兵している隙を突いて駿河に侵攻するが、義元の盟友である武田晴信の援軍などもあって、駿河侵攻は思うように進まなかった。そして同年、今川氏の重臣・太原雪斎の仲介などもあって、娘を今川義元の嫡男・今川氏真に嫁がせ、武田晴信の娘を嫡男・氏政の正室に迎えることで、武田・今川と同盟関係を結ぶに至った(甲相駿三国同盟)。

上杉謙信との戦い [編集]
永禄2年(1559年)、氏康は次男の氏政に家督を譲って隠居した。未曾有の大飢饉が発生していたため、代替わりによる徳政令の実施を目的としていた。しかし隠居後も小田原城本丸にとどまって「御本城様」として政治・軍事の実権を掌握し、氏政を後見した。

永禄4年(1561年)、長尾景虎(後の上杉謙信)が関東一円の大名や豪族、さらには一部の奥州南部の豪族まで動員する大連合軍を率いて侵攻して来る。これに対し上総の久留里城を囲んでいた氏康は包囲を解いて帰還し、松山に着陣する。既に景虎は厩橋城などの上野諸城を攻略し、その兵力は膨れ上がっていた。氏康は兵力差が大きい事から野戦は不利と判断し自身は小田原城に、その他玉縄城や河越城など主要な城に兵力を集中させ専守防衛の構えをとった。同時に武田、今川両家に援軍を要請し、武田軍が小田原城に、今川軍が河越城へ軍を発した。そのころ下野国古河御所を攻略した景虎率いる大連合軍は氏康の本国・相模にまで攻め入り北条氏の本城・小田原城を包囲し、激しく攻め立てた。対する北条軍は各地で輸送隊を襲い物資を奪い去って抗戦。武蔵の大藤氏などが局地戦で上杉軍を破るものの、上杉軍は約一ヶ月に渡り小田原城を攻囲した。しかし小田原城は堅城であり落城せず、支城の攻略も困難となり、更なる長期戦の様相を呈すると関東の豪族が撤兵を要求。さらに時を同じくして氏康と同盟を結ぶ武田信玄が川中島で軍事行動を起こす気配を見せたこともあり、景虎は攻略を断念し、鎌倉に兵を引き上げた。景虎は鶴岡八幡宮にて関東管領に就任、上杉政虎と改名した。政虎は撤退途上の4月に武蔵国の中原を押さえる要衝松山城を攻略する。

その後、政虎が信玄と川中島の戦いのために信濃に引き揚げた隙を突いて、上杉氏に奪われた領土の再攻略を開始する。政虎帰国の直後、下総の千葉氏・原氏・高城氏を帰参させ、下野の佐野昌綱を寝返らせる。これを見た政虎は川中島の戦いの後、再び関東へ攻め寄せてくる。しかし氏康は永禄4年11月27日の生野山合戦にて上杉勢に勝利する(内閣文庫所蔵・小幡家文書)(出雲桜井文書)(相州文書)。ただしこの戦いで政虎自身が指揮をとっていたかは不明である。この後政虎は、古河城は梁田氏に任せるとの書状を出して兵を引いており、12月には近衛前嗣が由良成繁に古河城の苦境を伝えている(『古簡雑纂』)。この月に政虎は名を改め、上杉輝虎となる。永禄6年(1563年)には、武田信玄との連合軍を組織し松山城を攻略。その後は古河城をも攻略し、輝虎が擁立した古河公方足利藤氏(義氏の異母兄)を捕らえた。

永禄7年(1564年)、里見義堯・里見義弘父子と上総などの支配権をめぐって対陣する(第二次国府台の戦い)。北条軍は兵力的には優勢であったが、里見軍は精強で一筋縄にはいかず、北条軍は遠山綱景などの有力武将を多く失った。しかし氏康の夜襲が成功したことにより里見軍は敗れて安房に撤退した。同年、太田資正を謀略によって岩付城から追放し武蔵を再び平定する。この後、輝虎は臼井城や和田城を攻略することが出来ず、さらに箕輪城が陥落した事もあり、ついに上野の由良氏、上総の酒井氏、土気(土岐)氏、原氏、正木氏の一部など多くの豪族が北条氏に服従。さらに、上野厩橋城の上杉家直臣北条(きたじょう)高広が北条に寝返った事により、輝虎は大幅な撤退を余儀なくされた。翌年、輝虎が厩橋城を奪回するものの、氏康は三国同盟を背景に輝虎との抗争で優位に立つ。

永禄9年(1566年)以降は実質的にも隠居し息子達に多くの戦を任せるようになる。関東における優位が決定的なものとなり、氏政も着実に成長していたためである。これ以降は「武榮」の印判を用いての役銭収納、職人使役、息子達の後方支援に専念するようになる。この前後から氏政は左京大夫に任官し、氏康は相模守に転じている。家臣への感状発給もこの時期に停止し、氏政への権力の委譲を進めている。

永禄10年(1567年)、氏康は息子の氏政・氏照に里見攻略を任せ出陣させる。しかし、正木氏などの国人が里見に通じたことなどがあり、氏政は里見軍に裏をかかれて大敗。北条家は上総南半を失った。この際、娘婿の太田氏資が戦死している(三船山合戦)。しかし、常陸においては、南常陸の小田氏等の臣従により佐竹領以外には北条氏の勢威が及び、北条家の勢いが衰えることはなかった。

武田信玄との戦い [編集]
永禄3年(1560年)5月、今川義元が桶狭間の戦いにおいて織田信長に討たれたため、今川氏の勢力が衰退する。そして永禄10年(1568年)、従来の外交方針を転換させた武田信玄が駿河侵攻を行ったことにより、三国同盟は破棄された。このとき、氏康は娘婿の今川氏真を支援するが、氏真は武田軍、続いて徳川家康軍の侵攻を受けて駿河から追放され、小田原に亡命することとなる。

このため、氏康と信玄は敵対関係となり、甲相同盟さえも破綻する。氏康は、信玄が徳川の不信を買ったことを利用し徳川との密約を結び、駿河挟撃を計った。これにより信玄は駿河防衛は困難と判断し、駿河から撤退した。

さらに氏康は上杉との和睦を画策。謙信は当時落城寸前であった下総関宿城を救うため、将軍家の斡旋もあり同盟締結を決意する。永禄11年(1568年)に北条方は北条三郎(後の上杉景虎)を人質として差し出し、上杉方からは柿崎晴家を人質に受け、上杉謙信と同盟を結んだ(越相同盟)。

永禄12年(1569年)9月には武田軍が武蔵に侵攻する。これに対し、鉢形城で氏邦が、滝山城で氏照が籠城し武田軍を退け、武田軍はそのまま南下、10月1日には小田原城を包囲する。しかし氏康が徹底した籠城戦をとったため、武田軍は小田原城攻略は不可能と判断、わずか4日後に撤退する。その撤退途上で、氏照・氏邦率いる北条軍と武田軍が衝突。氏康は追撃軍との挟撃を計り氏政を出陣させるが、氏政の行軍が遅れたため到着寸前に突破され、武田軍の甲斐帰還を許す結果になった(三増峠の戦い)。その後、武田は再度駿河に出兵、対する北条は里見の勢力回復や氏康の体調悪化に伴い、駿河での戦いは押され気味となっていく。

また越相同盟に関しては、両家の停戦という意味では成功したものの、関東管領として関東に勢威を拡大しようとする謙信と、関東制覇を目指す氏康の利害は、一致には至らず無理があった。上杉勢は出兵に応じず、この同盟が対武田に有効に機能することは無かった。これにより氏康は同盟を再検討するよう指示している。さらにこの同盟は謙信に対する関東諸大名の不信感、不快感を生み出し、里見や佐竹といった勢力は謙信から離反し武田についてしまった。そのため北条はこれらの勢力との争いを続けることとなり、氏康はこの同盟を継続する利点はないという結論に達した。

最期 [編集]
元亀2年(1571年)から、氏康は、謙信から離反して東上野を領する北条高広を通じて、武田信玄との和睦・同盟を模索していた。氏康は元亀元年(1570年)8月頃から病を得ていたのだが、その年になりそれが悪化。最後の務めとして氏政をはじめとする一族を集め、「上杉謙信との同盟を破棄して、武田信玄と同盟を結ぶように」と遺言を残したとされている。そして10月3日、小田原城において病死した。享年57。

死後の12月27日、氏康の遺言どおり、北条・武田は再同盟している。

ただ近年ではこのような氏康の遺言はなく、氏政の独自の方針、あるいは三河に集中したい信玄側からの申し入れであったという説も有力である。

人物 [編集]
若い頃はうつけものと言われたともいうが、当主となってからは父親の遺した訓戒状を守り質素を心がけた。また、三条西実隆から歌道の師事を受け、三略の講義を足利学校で受けるなど、教養・学問にも熱心だった。歌を詠ませれば著名な歌人さえも感心させた。天文20年(1551年)4月、氏康に接見した南禅寺の僧・東嶺智旺はその傑物ぶりを「太守・氏康は、表は文、裏は武の人で、治世清くして遠近みな服している。まことに当代無双の覇王である」と高く評価している。その善政で民衆に慕われ、彼の死が小田原の城下に伝えられると領民は皆泣き崩れ、その死を惜しんだという。
軍事的にも名将と評される。大きな戦いで敗れたのは氏康本人が出陣しなかった二つの戦、三船山の戦いと三増峠の戦い(後者は実質引き分けとも)のみ。河越夜戦は、同世代の毛利元就による厳島、織田信長の桶狭間と並んで戦国三大奇襲作戦とされている。
最初に長槍を兵制するなど、歩兵部隊のイメージが強い北条家だが馬術家の中山家などを配下とし、多くの牧野を領している。軍勢全体に占める騎馬の割合は11%に及び武田家の軍勢に占める騎馬の割合(8%)よりも上である。忍者として評される風魔も、馬術に卓越して戦場での機動作戦を担当したことが伝えられている。
氏康の民政手腕は数多い戦国大名の中でも特に抜きん出て優秀なものであると高く評価されており、「民政手腕随一の戦国大名」といわれる。
北条記では、「三世の氏康君は文武を兼ね備えた名将で、一代のうち、数度の合戦に負けたことがない。そのうえに仁徳があって、よく家法を発揚したので、氏康君の代になって関東八ヶ国の兵乱を平定し、大いに北条の家名を高めた。その優れた功績は古今の名将というにふさわしい」と評価されている。
指揮も見事であったが氏康自身の猛将ぶりも相当のものだった。戦いでは背中側に傷を負ったことがないという(決して敵から逃げなかった、ということである)。当時「向こう傷」の意味で北条方の武辺者は「氏康傷」という言葉を使い、誉れとしていたほど。
部下への教訓として「酒は朝に飲め」という言葉を残している。これは、寝る前の飲酒は深酒をしやすく、失敗につながりやすい、ということから。

内政 [編集]
北条氏の特色である領内の検地を徹底して行ない、永禄2年(1559年)2月、氏康は大田豊後守・関兵部丞・松田筑前守の3人を奉行に任命し、家臣らの諸役賦課の状態を調査し、それを安藤良整が集成して『小田原衆所領役帳』を作成した。構成は各衆別(小田原衆、御馬廻衆、玉縄衆、江戸衆、松山衆、伊豆衆、津久井衆、足軽衆、他国衆、御家中衆など)計560名の家臣個々の所領の場所(領地)とその貫高(所領高)が記され、負担すべき馬、鉄砲、槍、弓、指物、旗、そして軍役として動員すべき人数が詳細に記載されている。これにより家臣や領民の負担が明確になり、家臣団や領民の統制がより円滑に行われるようになった。
歴代同様に税制の改革にも熱心で領民の負担軽減などに尽力しており、在郷勢力から支持されている。中でも特筆に値するのが天文19年(1550年)4月に実施された税制改革である。それまでの諸点役と呼ばれる公事を廃止し、貫高の6%の懸銭を納めさせることにより、不定期の徴収から百姓を解放し、結果的に負担を軽減させた。同時に税が直接北条氏の蔵に収められる(中間搾取がなくなる)ことで、国人等の支配力が低下し北条氏の権力はより大きなものとなった。さらに棟別銭を50文から35文に減額し、凶作や飢饉の年には減税、場合によっては年貢を免除した。その他、一部では反銭や棟別銭を始め国役までも免除されていた地域も存在する(内閣文庫所蔵・垪和氏古文書)。
領民の誰もが直接北条氏(評定衆)に不法を訴える事ができるよう目安箱を設置し、領民の支持を得ると同時に中間支配者層を牽制した。また、他大名に先駆け永楽銭への通貨統一を進め、撰銭令も出している。
永禄2年(1558年)12月、代物法度を制定して、精銭と地悪銭の法定混合比率を規定する貨幣制度を実施、翌年に比率を改定し完成した。
氏康の大きな功績として、独自の官僚機構の創出があげられる。例えば評定衆はその代表的なもので、領内の訴訟処理などを行っていた。構成員はおもに御馬廻衆を主体としていた。史料上の初見は弘治元年で、裁許状は現在50例ほどが確認されている。北条家の行政機構は全国で最も先進的なものであったといわれ、後の江戸幕府はこれを継承して経済を運用した。
後に「四公六民」と称される初代以来の政策の継承と、税目の整理による負担軽減で民衆の支持を得る。後年勝海舟によれば、徳川家康が小田原を領した時、住民はいつまでも北条氏を慕って実にやりにくかったという。(氷川清話)
小田原の城下町のさらなる発展のため全国から職人や文化人を呼び寄せ大規模な都市開発を行った。その結果、小田原の城下町は東の小田原・西の山口と称される東国最大の都市となった。日本初となる上水道(小田原早川上水)を造り上げ、町にはゴミ一つ落ちていないとまで評されるほどの清潔な都市であったという。そしてこの町の流行は小田原様と称されすぐに関東全土に広まった。
殆どの文書に虎の印判を使用し行政の効率を高めた。同時期の戦国大名と比較して最も割合が多い。配下などに対して花押を用いずに印判状を用いる行為は効率と引き換えに反発を招く恐れもあった。それを押さえ込めるだけの権威と軍事力が氏康の代に備わったことを意味している。
その他の施策として、職人使役のための公用使役制の採用や伝馬制の確立などがあげられる。北条氏の伝馬手形に押された伝馬専用印判(印文「常調」)の初見は永禄元年(1558年)であり、 この時期に北条氏の伝馬制が確立したとされている。

系譜 [編集]
父:北条氏綱
母:養珠院宗栄

兄弟
北条為昌
北条氏尭

姉妹
大頂院殿(北条綱成室)
浄心院(太田資高室)
高源院(堀越貞基室)
芳春院(足利晴氏室)
ちよ(葛山氏元室)
娘(吉良頼康室)

息子
新九郎
北条氏政
北条氏照(大石定久養子)
北条氏邦(藤田康邦養子)
北条氏規
北条氏忠(佐野宗綱養子)
北条三郎(上杉謙信養子、上杉景虎)
北条氏光


桂林院殿(武田勝頼室)
浄光院殿(足利義氏室)
七曲殿(北条氏繁室)
長林院殿(太田氏資室)
蔵春院殿(今川氏真室)
尾崎殿(千葉親胤室)
種徳寺殿(小笠原康広室)
菊姫(里見義頼継室)
娘(千葉利胤室)

家臣 [編集]
北条幻庵
北条綱成
北条氏繁
福島勝広
松田憲秀
遠山綱景
大道寺政繁
大道寺直次
垪和康忠
垪和氏続
安藤良整
成田長泰
上田朝直
富永直勝
多目元忠
梶原景宗
清水康英
石巻康敬
猪俣邦憲
山角康定
板部岡江雪斎
風魔小太郎


北条分限帳(北条氏康時代前期)における衆 [編集]
小田原衆 松田憲秀 以下33人 9202貫
御馬廻衆 山角康定 以下94人 8591貫
玉縄衆 北条綱成 以下18人 4381貫
江戸衆 遠山綱景・太田大膳・富永康景 以下77人 12650貫
河越衆 大道寺政繁 以下22人 4079貫
松山衆 狩野介 以下15人 3300貫
伊豆衆 笠原綱信・清水康英 以下29人 3393貫
津久井衆 内藤康行 以下59人 2238貫
諸足軽衆 大藤秀信 以下17人 2260貫
職人衆 須藤盛永 以下26人 903貫
他国衆 小山田信有 以下30人 3721貫
御家中衆
御家門方 足利義氏・北条長綱 5852貫
本光院殿衆 山中盛定 以下49人 3861貫
氏堯衆 北条氏堯 以下4人 1381貫
小机衆 北条時長 以下29人 3438貫
御家門方 伊勢貞辰 以下11人 1050貫


墓所 [編集]
神奈川県箱根町の金湯山早雲寺(現在の早雲寺境内に残る氏康を含めた北条5代の墓所は、江戸時代の寛文12年(1672)に、北条氏規の子孫で狭山藩北条家5代目当主の氏治が、北条早雲の命日に当たる8月15日に建立した供養塔。氏康の本来の墓所は、広大な旧早雲寺境内の大聖院に葬られたが、早雲寺の全伽藍は豊臣秀吉の軍勢に焼かれ、氏康の墓所の位置は不明となっている)。

参考文献 [編集]
藤木久志・黒田基樹 編『定本・北条氏康』(高志書院、2004年) ISBN 4906641911
黒田基樹『戦国大名の危機管理』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー、2005年) ISBN 4642056009
北条氏康の民政と軍役の実態研究
黒田基樹『百姓から見た戦国大名』(ちくま新書、2006年)ISBN4-480-06313-7 C002
関連項目 [編集]
TVドラマ [編集]
天と地と(1969年 NHK大河ドラマ 演:中村梅之助)
おんな風林火山(1986年 TBS 演:梅宮辰夫)
武田信玄(1988年 NHK大河ドラマ 演:杉良太郎)
風林火山(2007年 NHK大河ドラマ 演:松井誠)


転写おわり

どうしても、川中島の決戦で有名で、歴史ドラマでは何度も主役に抜擢されている武田信玄 上杉謙信と比べると地味な印象で、知名度がひくく、あんまりクローズアップされない北条氏康ですが、こうやって歴史をひもとけば、両英雄とくらべ、全く遜色ない英雄であることが証明されています。

若い頃は、少しの物音でおびえる線の細さで、家臣たちに「大丈夫か--;」と心配されていましたが、元服するや否や頭角を現し、信玄、謙信と互角以上の戦を繰り広げます。

氏康公時代の戦でも、里見や武田に土を付けられたことはありましたが、この負け戦では氏康公の子供たちが指揮を執っており、氏康公自身が指揮を執った戦では負け知らず。

その勇猛さの証明として、氏康公の体には正面に漆(7)つの傷を持つものの、背中にはカスリ傷ひとつ付いておらず、勇猛さの証として「氏康傷」という言葉が生まれました。

日本参大決戦のひとつともいわれる川越城攻防戦では事前に、抗争関係にあった今川家に対し、領地の割譲を条件に停戦し、二正面作戦を避け、対戦相手に「北条弱し」との偽報を流し、相手の士気を下げまくったうえで、城将と連携した奇襲作戦で勝っており、決して只の猪武者でないことが伝わってきます。

これだけ見ると最終決戦兵器のような印象を受けますがむしろ、氏康公が信玄、謙信にくらべて優位に立っているのは、領内経営にあります。

いち早く検地を勧め、領内の石高をはっきりさせ、中間支配層による不当な搾取を不可能にし、領民を税率を下げる善性をしく事に成功。

歴史の教科書では「目安箱」を設置したのは、松平健。もとい「暴れん坊将軍」こと「徳川吉宗」が初めてと取れるようなかかれ方ですが、実は氏康公が既に採用していたのです。

200年以上の太平の世を作り上げた徳川家康も、旧・北条の領地を貰った時は統治に苦しみ、北条家の統治を真似して、ようやく民の心を掴んだ次第でした^^;

さて、氏康公のことを語り始めると、止まらないので、このあたりで件の動画を紹介して〆させて頂きます。

【HR】河越夜戦~乾坤一擲~

動画と「信長の野望 革新」を使った「川越城攻防戦」の再現VTR?です。

如何だったでしょうか?



Posted at 2009/12/29 19:32:22 | コメント(2) | トラックバック(0) | 戦国時代 | 趣味

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