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風魔 小太郎のブログ一覧

2010年09月02日 イイね!

海を渡った侍

海を渡った侍 
さっき削除された内容を再度UPです(^m^)

私もしつこいな^^;

海を渡った侍

日本のシンドラーと呼ばれ

禄千人ものユダヤ人の命を救った

杉原千畝さんの

英雄伝説です


まずはこれをご覧ください。

携帯の方、関連情報からどうぞ





定番のwikipediaからの引用です。

杉原千畝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション, 検索
すぎはら ちうね
杉原 千畝

外交官時代の杉原
生誕 1900年(明治33年)1月1日
日本 岐阜県
死没 1986年7月31日(満86歳没)

出身校 早稲田大学高等師範部
職業 外交官
表・話・編・歴
杉原 千畝(すぎはら ちうね、1900年(明治33年)1月1日 - 1986年(昭和61年)7月31日)は日本の官僚、外交官。

第二次世界大戦の際、リトアニアの在カウナス領事館に赴任していた杉原は、ユダヤ人難民が亡命できるよう大量のビザ(Transit visa.通過査証、通過ビザとも)を発給。外務省の命令に反するこの行為により、ナチス政権下のドイツによる迫害を受けていたおよそ6,000人にのぼるユダヤ人を救ったことで知られる。

海外では、センポ・スギハラ(Sempo Sugihara)、「東洋のシンドラー」とも呼ばれる。「ちうね」という名の発音のしにくさから、杉原自身がユダヤ人に音読みで「センポ」と呼ばせたとされている。

目次 [非表示]
1 生涯
1.1 生誕から外交官となるまで
1.2 リトアニア赴任から「命のビザ」発給まで
1.3 ビザを発給されたユダヤ人のその後
1.4 千畝の後半生
2 日本政府の対応について
3 千畝に対する評価
4 人物
5 年表
6 参考文献
7 脚注
8 演じた俳優
9 その他
10 関連項目
11 外部リンク


生涯 [編集]
生誕から外交官となるまで [編集]
1900年(明治33年)、岐阜県加茂郡八百津町に生まれる。

旧制愛知県立第五中学(現・愛知県立瑞陵高等学校)卒業後、千畝が医師になることを嘱望していた父の意に反し、1918年(大正7年)4月に早稲田大学高等師範部英語科(現・教育学部)予科に入学。

翌1919年(大正8年)10月に日露協会学校(後のハルピン学院)に入学。11月には早大を中退し、外務省の官費留学生として中華民国のハルビンに派遣され、ロシア語を学ぶ。そして、1920年(大正9年)12月から1922年(大正11年)3月まで陸軍に入営。1923年(大正12年)3月、日露協会学校特修科修了。

1924年(大正13年)に外務省書記生として採用され、日露協会学校、ハルビン大使館二等通訳官などを経て、1932年(昭和7年)に満州国外交部事務官に転じる。満州国外交部では政務局ロシア科長兼計画科長(課長職に相当)としてソ連との北満州鉄道譲渡交渉を担当し、その譲渡金について、当時の金額でソ連側当初要求額の6億2500万円から1億4000万円にまで値下げさせた。しかし、1935年(昭和10年)には満州国外交部を退官。満州赴任時代、1924年(大正13年)にクラウディア・アポロノヴァ(亡命白系ロシア女性)と結婚したが、1935年(昭和10年)に離婚した。満州国外交部退官と離婚は自身の築いた白系ロシア人の情報網を守るためとされる。この時代に正教会の洗礼を受け、正教徒に改宗している。

その後、14歳年下の菊池幸子(2008年10月8日没)と結婚し、日本国外務省に復帰する。1937年(昭和12年)にはフィンランドの在ヘルシンキ日本公使館に赴任し、次いで1939年(昭和14年)にはリトアニアの在カウナス日本領事館領事代理となる。ちなみに千畝は当初、念願であった在モスクワ大使館に赴任する予定であったが、ソ連側がペルソナ・ノン・グラータを発動して杉原の赴任を拒絶し、入国自体も認めなかったため近隣のヘルシンキへと変更された。

リトアニア赴任から「命のビザ」発給まで [編集]
1940年(昭和15年)夏、ドイツ占領下のポーランドからリトアニアに逃亡してきた多くのユダヤ人が、各国の領事館・大使館からビザを取得しようとしていた。しかし同じく反ユダヤ人的な政策を取っていたソ連がリトアニアを併合し、各国に在リトアニア領事館・大使館の閉鎖を求めたため、ユダヤ難民たちは業務を続けていた日本領事館に名目上の行き先オランダ領アンティルへの通過ビザを求めて殺到した。

当時、「ユダヤ人に対しては、一般の外国人入国取締規則の範囲内において公正に処置する」こととされており、また、杉原に対して「通過査証は、行き先国の入国許可手続を完了し、旅費及び本邦滞在費等の相当の携帯金を有する者に発給する」との外務本省からの指示があった。杉原は、この指示に係る要件を満たしていない者に対しても通過査証を発給した。

日本政府はドイツとの同盟関係にあり、ドイツからユダヤ人に対する迫害政策に協力することを再三求められていたにもかかわらず、ユダヤ人に対する中立的な政策を公式に取っていた。しかし、通過ビザの発給を受けるためには十分な旅費を備えるなど規定の条件を満たすことを要求していた。これは「外務省ユダヤ難民取り扱い規則」により、表向きはユダヤ難民を他の難民と公平に扱う中立さを装いつつ、ビザの発給資格を異常に高くすることでユダヤ難民を事実上締め出すことを狙っていたからである。ユダヤ人難民の殆どはこの受給資格を欠いていたため、杉原は本国外務省に伺いを立てるが、発給は許可されなかった。

1940年(昭和15年)7月18日に、杉原は外務省に緊急のビザ発給許可要請をするも、翌日に届いた返答は「ビザの許可は内閣改造中ゆえ発給できない」というものであった。新内閣の発足後、松岡洋右外務大臣に直接、人道的なビザ発給の許可要請を再度行うも、7月23日には、親ドイツ派の松岡外相直々にヨーロッパ各国の大使館・領事館に「難民へのビザ発給は許可できない」という通告が発せられた。それは杉原にとっては事実上の最後通告であった。また同時期、ソ連からリトアニア併合に伴う日本領事館の閉鎖通告がなされていた。

こうした政府方針、外務省の指示に背いて、1940年(昭和15年)7月25日、杉原は日本通過ビザを要件の整わないユダヤ人たちにも半ば無制限に発給することを決断。ソ連政府や本国から再三の退去命令を受けながらも、杉原と妻の幸子はベルリンへ旅立つ9月5日までおよそ1か月余りビザを書き続けたとされる。その間発行されたビザの枚数は、番号が付され記録されているものだけでも2139枚。また、次第に日本領事館の閉鎖日が近づくとともに作業の効率化のため、途中から記録するのを止めてしまったと言われている。その為、実際には記録に残っているビザ以外にも数千枚のビザや渡航証明書が発給されたと言う説もある。また、1家族につき、1枚のビザで十分であったため、家族を含めて少なくとも6,000人ものユダヤ人の国外脱出を助けたとされる。なお、杉原自身は「リトアニア人及びポーランド人に発給した通過査証は2132件であり、このうちユダヤ系に対するものは約1500件と推定される」旨を外務省に対して報告している。

途中ビザに貼り付ける印紙が無くなってしまったが、杉原は職権により「出国のための領事特別許可証(通過ビザと同様の内容。ビザより発行要件が簡素で、迅速な出国の必要があるときなど緊急時に用いられるが超法規的意味合いが強い)」の発行を行い、ソ連による自身への退去指示の期限ぎりぎりまで更に多くのユダヤ人を出国させた。領事特別許可証による出国者は多数に上るが、発給記録が残っていないため人数は定かではない。領事特別許可証の発行は、ベルリン行き列車の出発寸前まで駅のホームで続けられた。

ビザを発給されたユダヤ人のその後 [編集]
その後、国外脱出を果たしたユダヤ人たちはシベリア鉄道に乗り、ウラジオストク経由で敦賀港や舞鶴港へ上陸し(敦賀や舞鶴はこれ以外にも幾度も難民を受け入れており、「人道の港」と呼ばれた)、ユダヤ系ロシア人のコミュニティ、関西ユダヤ教団(シナゴーグ)及び、当時、日本で唯一存在していたユダヤ人組織である神戸猶太協會(アシケナージ)があった神戸に辿り着く。当時、洋服屋を経営していた妹尾盛夫(舞台美術家妹尾河童の父親)は彼らの服の修繕を行ったが、服の汚れがひどくその臭いが家中に広がったという(少年Hより)。また安井仲治を中心とする丹平写真倶楽部のメンバーが神戸に滞在していた彼らを撮影し、シリーズ「流氓ユダヤ」として発表した。

そのうち、1,000人ほどはアメリカやパレスチナに向かい、残りは後に上海に送還されるまで日本に留まった。上海の租界には戦前よりユダヤ人の大きなコミュニティがあり、ユダヤ人たちはそこで日本が降伏する1945年(昭和20年)まで過ごすことになる。

一方、彼らが脱出したリトアニアはその後、独ソ戦が勃発した1941年(昭和16年)にドイツの猛攻撃を受け、ソ連軍は撤退。以後、1944年(昭和19年)の夏に再びソ連によって奪回されるまで、ドイツの占領下となる。この間のユダヤ人犠牲者は20万人近くに上るとされている。またソ連領内でも多数のユダヤ人難民がシベリアなど過酷な入植地に送られ亡くなった。

一方、1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争の勃発で日本からアメリカへの渡航が不可能になり、滞在期限が切れたユダヤ人たちは当時ビザが必要なかった上海租界に移動せざるを得なかった(前述)。上海では、ドイツの強硬な申し入れのもとにドイツを真似てユダヤ人ゲットー(上海ゲットー)が作られ、上海のユダヤ人たちはそこに収容されることになった。上海が戦禍に覆われていたこともあり、環境はヨーロッパのゲットー同様苛酷なものであったが、ヨーロッパ諸国のような反ユダヤ人感情を持たなかった日本人や中国人はユダヤ人迫害を行わなかった。ただ、終戦間際にはアメリカ軍機による空襲で数十名が死傷した。

1948年(昭和23年)5月14日、アメリカ主導の下、ユダヤ人による国家イスラエルが建国され独立を宣言した。

千畝の後半生 [編集]
リトアニア退去後、ドイツの首都ベルリンを訪れた後、1940年(昭和15年)にチェコスロヴァキアの在プラハ日本総領事館、1941年(昭和16年)に東プロイセンの在ケーニヒスベルク総領事館に赴任、ポーランド諜報機関の協力を得て独ソ開戦の情報をつかみ5月9日発の電報で本国に詳細に報告している。同年11月から1946年(昭和21年)までルーマニアのブカレスト公使館などヨーロッパ各地を転々とし、各職を歴任。第二次世界大戦の終結後、在ブカレスト公使館で家族と共にソ連に身柄を拘束され、1年間の収容所生活を送る。

1947年(昭和22年)に日本へ帰国、神奈川県藤沢市鵠沼に居を据え、同年6月27日に外務省を依願退職した。なお、ビザ発給の責任を負わされた形で強制的に退職させられたとする説もある(後述)。ただし、政府(外務省)は「現在まで、杉原が外務省から懲戒処分を受けたという記録は見つかっていない」という見解である。

外務省退官からしばらくは、息子(三男)を白血病(小児がんとも)で失い、義理の妹も亡くなるなど家族の不幸に見舞われる。その後は連合国軍の東京PXの日本総支配人、米国貿易商会、三輝貿易、ニコライ学院教授、科学技術庁、NHK国際局など主に語学力を活かした職に就き勤務した。1960年(昭和35年)に川上貿易のモスクワ事務所長、1964年(昭和39年)に蝶理へ勤務、1965年(昭和40年)からは国際交易モスクワ支店代表など再び海外生活を送った。

1968年(昭和43年)夏、ビザの発給を受けた元ユダヤ人難民の一人ニシュリと在日イスラエル大使館で28年ぶりに再会。翌1969年(昭和44年)に、イスラエル宗教大臣より勲章を受ける。1975年(昭和50年)に国際交易モスクワ支店代表を退職して日本に帰国した。1977年(昭和52年)、神奈川県鎌倉市西鎌倉に転居した。

1985年(昭和60年)1月18日、イスラエル政府より、多くのユダヤ人の命を救出した功績で日本人では初で唯一の「諸国民の中の正義の人」として「ヤド・バシェム賞」を受賞。同年11月、エルサレムの丘で記念植樹祭と顕彰碑の除幕式が執り行われ、高齢の杉原に代わって息子(四男)が出席した。

1986年(昭和61年)7月31日、心臓病で死去。享年86。

日本政府の対応について [編集]
一連のビザ発給の経緯や日本政府の取った態度についてはさまざまな見解が錯綜している。

まず、既に同盟関係にあったドイツとの関係を重視し、ユダヤ人を見捨てようとした非情な外務省に対して立ち向かった千畝という構図で捉える見解である。この見解が支持されるひとつの理由として、千畝が戦後ソ連の収容所から帰国を果たした後、1947年(昭和22年)に外務省を辞職に追い込まれていることがある。政府の公式見解としては、杉原自身による依願退職であり、1946年(昭和21年)から外務省のみならず行政組織全体に対して行われていた「行政整理臨時職員令(昭和21年勅令第40号)」に基づく機構縮小によるリストラの一環とされたが、妻の幸子によれば、口頭で「例の件」の責任を免官の理由として告げられたという。

他方、日本政府にとって、ドイツとの関係から公然とユダヤ人を助けることは事実上不可能だったが、真意としては千畝のビザ発給に対して黙認に近い立場だったのではないか、という見解がある。主な論拠は、仮に日本政府がユダヤ人を通過させることを断固として拒否するならば、千畝のビザによる日本入国を何らかの形で阻止するのが自然であるのに対して、実際は多くのユダヤ人たちが陸路で、敦賀から神戸まで辿り着き、さらにアメリカやパレスチナなどに向かった1,000人以外はその後も日本の勢力下で終戦を迎えるまで過ごしていたという事実である(実際には、杉原ビザで日本に渡航しようとしたユダヤ人たちは、入国審査で発給条件を欠いていることを理由に入国を拒否される事件が起きて当時の新聞で報道される事態になったが、これらの難民たちは、神戸猶太協會と駐日オランダ大使館の奔走によって入国できるようになった)。更にビザ・領事特別許可証発給へも大した制止行為を行わなかった。また、当時の日本政府が民族差別反対の立場をとっていたこともある。

また、1992年(平成4年)3月11日の衆議院予算委員会第二分科会において渡辺美智雄外務大臣(当時)及び、兵藤長雄外務省欧亜局長(当時)は、杉原はビザ発給の件で処分されたり、退職させられたとの記録は存在しないと答弁している。また、ビザ発給後も1945年(昭和20年)のソ連による収容所送還まで、チェコスロヴァキアの在プラハ総領事館総領事代理やドイツの在ケーニヒスベルク総領事館総領事代理、ルーマニアの在ブカレスト日本公使館一等通訳官などを歴任し、7年間に渡り外務省で勤務し続け、1944年(昭和19年)には勲五等瑞宝章を受章していることから、杉原にとって不名誉な記録は存在しないと答弁している。これが現在まで政府の公式見解となっている。なお、退職金や年金についても不利な扱いはなかったとする人も有り(『意外な解放者』参照)、この点に関しては妻・幸子が自著において退職金を受け取っていたことについて認めていることと一致する一方で、戦後、杉原の消息を尋ねるユダヤ人協会からの問い合わせに、それが杉原をさしている事は当然推測されたにもかかわらず「日本外務省にはSEMPO SUGIHARAという外交官は過去においても現在においても存在しない」と回答したことがある。この事例に外務省内の杉原に対する悪意を見てとる意見もある。1991年(平成3年)10月には、鈴木宗男外務政務次官(当時)が幸子夫人を招き、杉原副領事の人道的かつ勇気ある判断を高く評価し、杉原副領事の行動を日本人として誇りに思っている旨、また、50年にわたって外務省と杉原副領事の家族との間で意思の疎通を欠いていたことは不幸なことであった旨を伝えた。

千畝に対する評価 [編集]
外務省退官後はロシア語をはじめとする優れた語学力を生かし、貿易商や翻訳者として生活を営んだ。そうした中で1969年(昭和44年)にイスラエル政府から勲章を授与された後、1985年(昭和60年)には同国政府より日本人として初めてヤド・バシェム賞を受賞し、「諸国民の中の正義の人」に列せられる。現在でもエルサレムの丘にそのときの顕彰碑が建っている。また、杉原の生誕百周年に当たる2000年(平成12年)に、外務省は、杉原の業績をたたえる顕彰プレートを外交史料館に設置した。顕彰プレートには、「勇気ある人道的行為を行った外交官杉原千畝氏を讃えて」等の文言が記載されている。10月10日の除幕式にはイスラエル及びリトアニア各臨時代理大使、当時の河野外相、鈴木宗男衆議院議員、杉原幸子夫人らが参列している(外務省の当該ページ(英文)及び 河野外相の挨拶(和文)参照)。

諸外国においても、シンドラーに比較すると知名度は低いが、一個人として救ったユダヤ人の数はシンドラーの何倍にもあたることもあり、高く評価されている。

1991年(平成3年)9月、リトアニア政府は杉原の功績を讚えるため、ヴィリニュス(首都)の通りの一つを「スギハラ通り」と命名した。また、2001年(平成13年)母校早稲田大学寄贈の記念碑が建立されている。

2005年(平成17年)10月11日、終戦60周年記念ドラマ「日本のシンドラー杉原千畝物語 六千人の命のビザ」として読売テレビで製作され、日本テレビ系列で放送された。

2007年(平成19年)10月10日に、ポーランド大統領より、叙勲が決められ、2008年(平成20年)1月16日に東京都目黒区にあるポーランド大使館でポーランド大使から、孫の千弘に「ポーランド復興勲章コマンドルスキ星十字型章」が手渡された。これは5段階中上から2番目の勲章であるが、1番上の勲章が授与されることはほとんどなく、実質最高位とされている。

人物 [編集]
前述にもあるが、杉原は語学に堪能であり、母語である日本語をはじめ、英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、中国語など6つの言語を話していた。なお、杉原も幸子も正教会で洗礼を受けていた [1]。

満州外交官時代に日本軍の軍人から差別を受けていた現地住民を助けたという話がある。杉原自身は差別に対して否定的な考えを持っていたと伺える。なお、妻の話では、杉原は「ただ純粋に正直な人」であったとされる。

言葉として 「私のしたことは外交官としては間違っていたかもしれないが、人間としては当然のこと。私には彼らを見殺しにすることはできなかった 」[2] 「私に頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ私は神に背く」[3] が残されている。

年表 [編集]
1900年1月1日 - 岐阜県加茂郡八百津町で生まれる。
1917年 - 愛知県立第五中学校(現・愛知県立瑞陵高校)卒業、京城へ転居。
1918年 - 京城府より上京、早稲田大学高等師範部(現・教育学部)・英語科予科入学。
1919年 - 早稲田大学中退。外務省留学生採用試験受験・合格・外務省ロシア語留学生としてハルピンに渡る。
1924年 - 外務省書記生に採用。2月満州里在勤命令、12月ハルピン在勤命令。クラウディア・アポロノフ(亡命白系ロシア人女性)と最初の結婚。
1926年 - 日露協会学校講師に任命される。
1932年 - 満州国外交部特派員公署事務官となる。
1933年 - 満州国側書記官に任命される。
1934年 - 満州国外交部理事官、政務局ロシア科長兼計画科長に任命される。
1935年 - 最初の妻と離婚。満州国外交部依願退官後、外務省大臣官房人事課勤務、情報部第一課勤務を任命される。
1936年 - 日露漁業交渉の通訳官としてペトロパブロスクに着任、半年後モスクワ日本大使館二等通訳官に任命される。
1936年 - 幸子と再婚。 
1937年 - ソ連より杉原の入国拒否通告、後しばらくして、フィンランドの在ヘルシンキ公使館へ転勤。
1939年1月 - リトアニアの在カウナス領事館・領事代理に任命される。
1940年7月 - 領事館に救いを求めてやって来たユダヤ避難民に通過ビザを発行。外務省より領事館退去命令。8月29日領事館閉鎖。9月5日カウナス駅より国際列車で退去、ベルリン経由にてチェコの在プラハ総領事館に着任。
1941年2月28日 - ドイツ領の在ケーニヒスベルク総領事館勤務を命じられる。11月ルーマニアの在ブカレスト公使館勤務任命、一等通訳官に任命される。
1943年 - 三等書記官に任命。
1945年 - ブカレスト郊外のゲンチャ捕虜収容所に連行される。
1946年 - ブカレストを発ち帰国の途につく。
1947年4月 - 博多経由で帰国。6月7日外務省を依願退職。
1986年7月31日 - 鎌倉にて死去(享年86)。墓所は神奈川県鎌倉市にある鎌倉霊園で管理責任者は次男、杉原千暁。
2008年10月8日 - 杉原幸子死去。
2008年11月杉原幸子 お別れの会
参考文献 [編集]
出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明示してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。

杉原幸子 『新版 六千人の命のビザ』 大正出版、1993。ISBN 4811703073
1990年刊の朝日ソノラマ版 (ISBN 425703291X) 同名書の新版。
中学校道徳シリーズ 『六千人の命のビザ』東京書籍
杉原幸子の著書を元にした教材用ビデオアニメ。
The Holocaust Oral History Project, The Unlikely Liberators Project 編『意外な解放者』情報センター出版局、1995年8月。ISBN 4795819025
中日新聞社会部編 『自由への逃走 -- 杉原ビザとユダヤ人』東京新聞出版局、1995年10月。ISBN 4808305267
上杉千年 『猶太(ユダヤ)難民と八紘一宇』展転社、2002年2月。ISBN 4886562078
兜木励悟 「ホロコースト(ショア)の根拠と歴史」『(別冊歴史読本) 世界に拡がるユダヤ・聖書伝説―謎と真相』 ISBN 4404030762
渡辺勝正、稲垣収、あべさより 学習まんが人物館『杉原千畝 六千人の命を救った外交官』 ISBN 4092701136
渡辺勝正 『真相・杉原ビザ』 大正出版、2000年 ISBN 4-8117-0309-X
杉原幸子 『決断・命のビザ』 大正出版
YUKIKO SUGIHARA 『VISAS FOR LIFE』(『命のビザ』(大正出版)の英訳 Translated by HIROKI SUGIHARA)
杉原幸子 『決断・命のビザ』 大正出版
長野日報(2007年10月12日付)
脚注 [編集]
^ 「夫も私もロシア正教の洗礼を受けていました」 『六千人の命のビザ』1990年朝日ソノラマ版 p.145
^ 『六千人の命のビザ』1990年朝日ソノラマ版 p.167
^ 『六千人の命のビザ』1990年朝日ソノラマ版 p.204
演じた俳優 [編集]
佐藤文雄(劇団銅鑼公演『センポ・スギハァラ』 1992年~2004年、803ステージ)
館野元彦(劇団銅鑼公演『センポ・スギハァラ』 2007年 13ステージ)
クリス・タシマ(映画『ビザと美徳』 第70回アカデミー賞:短編実写映画賞)
加藤剛(フジテレビ版)
反町隆史(読売テレビ版)
吉川晃司(ミュージカル『「SEMPO」~日本のシンドラー 杉原千畝物語~』)
その他 [編集]
『センポ・スギハァラ』 - 劇団銅鑼による演劇作品。
『「SEMPO」~日本のシンドラー 杉原千畝物語~』と題したミュージカルが、2008年4月4日~5月8日に東京、名古屋、神戸にて公演(出演者に吉川晃司、森奈みはる、井料瑠美等、楽曲は中島みゆきが舞台作品としては初めて書き下ろしの楽曲を提供)
関連項目 [編集]
ウィキメディア・コモンズには、杉原千畝に関連するマルチメディアがあります。竹地祐治 - 中部日本放送社員(元アナウンサー)。杉原の妹の孫にあたる
杉原 (小惑星) - 杉原にちなみ名付けられた小惑星
ニコライ堂 - 日本正教会の大聖堂。杉原は正教徒であり、同教会の敷地内にあったニコライ学院で教鞭をとっていた
川村秀 - 杉原がモスクワ駐在時代に結婚式の仲人を務めた部下で、現在は杉原に関する著述も行っている。子は歌手・エッセイストの川村カオリ、俳優の川村忠。


引用おわり。

外交官の役割は、本国の利益を守る為、本国からの指図を忠実に守るのが仕事ですが、その指図を忠実に守ることが人道上おかしなコトを生むとなると。

国益か

人道か


迷うことになるでしょう

勿論、本国の意向が、現地の環境に合わないコトもあるのですが^^;

杉原さんは本国とのギャップに苦しみぬき、人道を取った結果、戦後解雇同然の扱いを受けています。

後日 「私のしたことは外交官としては間違っていたかもしれないが、人間としては当然のこと。私には彼らを見殺しにすることはできなかった 」 「私に頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ私は神に背く」とまで言っています。

外交官としては国益に反したかもしれませんがその英断ゆえに、命を救ってもらったユダヤ人と、その子孫にとっては、英雄扱いですが。


法ゆえに人は苦しまねばならぬ!!
法ゆえに人は悲しまねばならぬ!!
法ゆえに・・・

(中略)

こんなに苦しいのなら悲しいのなら・・・・・・・・・・・
法などいらぬ!!By,聖帝フウザー


タタタタッッ≡≡≡ナンデヤネン!( *゚∇)/☆(ノ゚⊿゚)ノハウッ!



最近の公務員は退職時に「大過なく過ごせました」などと挨拶するそうです。

まさに杉原さんの逆バージョンとして人道的に間違っていようが「そんなのカンケーネー」みたいな感じで杓子定規に法を遵守し、民より「あのド・クサレ役人、ブっ刺したろかいヽ(`⌒´メ)ノ」って位の怒りを何度も買っていようが「大過なかった」コトに出来る訳です。

だからこのテンプレ挨拶、好きになれないんです。

余談ですが、中村屋主催 7'sミーティングでチャリティ品の受付や司会に大活躍し、世紀末景品伝説をつくりあげたあの方は、退職時に「大過なく」などと言った言葉を封印

「我が生涯に一片の悔い無し!」


って挨拶して欲しいなぁ♪


それでは、本日はコレで〆させて頂きます。

その時歴史が動いた。6千人の命を救った外交官



Posted at 2010/09/03 00:37:01 | コメント(3) | トラックバック(0) | 司法 | パソコン/インターネット
2010年08月27日 イイね!

情報操作…闇に葬られた真実…か?

情報操作…闇に葬られた真実…か? 
画像はイメージです。

長いので時間のあるときに
ご覧ください。

やはり携帯の方は関連情報からどうぞ


○山崎淑子さんインタビュー(目次)
01 アメリカで働きはじめた経緯
02 9・11が起こる前のニューヨーク。かすかな疑心
03 散歩中の視界に、立ちのぼる黒煙。「第二の真珠湾だ!神風だ!テロだ!」
04 真珠湾という言葉から透けて見えた米国の思惑。崩壊しないはずのビルが!?
05 ラジオから消えてゆく『イマジン』
06 グランド・ゼロへ。地下からあがる炎
07 被災後の日々
08 真実を語ることの危険性。日本人からの警告
09 涙を浮かべる父親の姿を見て
10 違和感の連鎖。FBI・CIAによる家宅捜索
11 なだれ込んできた検察。共謀罪の恐ろしさ
12 殺処分された愛犬。血に染まってゆく畳
13 日米犯罪人引渡し条約
14 弁護士Aの偽証
15 米国に縛られた手足。司法取引詐欺
16 弁護をしないヤメ検弁護士。知的虐待
17 出獄した眼の前に立ちふさがる護送車
18 出獄への見えない力。囚人服のまま成田へ
19 生きる
20 いま伝えなければならないこと
21 日本の真実

























真実はご覧になった方の想像にお任せします。
Posted at 2010/08/27 07:12:36 | コメント(0) | トラックバック(0) | 司法 | ニュース
2010年06月03日 イイね!

もはや人間ですらなかったのですね(--;)

もはや人間ですらなかったのですね(--;) 
つうコトは現・総理大臣は

妖怪か何か

だったのですか?


ソースです。


「人間としてつぶやきたい」=ツイッターで辞任報告―首相6月2日21時8分配信 時事通信

 鳩山由紀夫首相は2日夜、ツイッター(簡易ブログ)で「本日、総理の職を辞する意思を表明しました」と報告した。「これからは総理の立場を離れ、人間としてつぶやきたい。引き続きお付き合いください」としている。首相の重責から解放され、ホッとしているようだ。
 まだ、政治家として責任ある立場にあることをどこまで考えているかは不明だが、辞任の理由については「国民の皆さんの声がまっすぐ届く、クリーンな民主党に戻したい」との説明にとどめている。 


引用おわり。

もはや、子供手当てを月額千伍百万/月も貰っているボンボンに、何が起きてもへのへのかっぱって感じです(--。)

これで、鳩山来留夫も連鎖的に失業かwww

まさに鳩山恐慌www
 
Posted at 2010/06/03 02:29:59 | コメント(0) | トラックバック(0) | 司法 | ニュース
2009年08月11日 イイね!

酒井法子 なんと裁判員のイメージキャラクターだった。そしてそれに隠れた新事実

酒井法子 なんと裁判員のイメージキャラクターだった。そしてそれに隠れた新事実 いきなりソースです。

裁判員広報映画を使用自粛
 最高裁は8月7日、覚せい剤取締法違反容疑で逮捕状が出た酒井法子容疑者(38)が主演していた裁判員制度の広報映画「審理」の使用を自粛することを決めた。ホームページでの無料配信を停止したほか、DVDやパンフレットの配布・貸し出しを中止した。庁内に掲示したポスターもはがし、今後予定している裁判所の行事での上映も見送る。
 映画で酒井容疑者は、正当防衛が争われた殺人事件裁判の裁判員に選ばれた主婦を演じている。最高裁は約7100万円を投じ、これまでに約19万枚のDVDやポスターなどを作製。関係機関に配布するなどして、制度の周知や啓発に利用していた。
(2009年8月7日配信)


引用終わり。

実際の被疑者が裁判員のイメージキャラクターを務めるとは皮肉なものである。

ただ、この報道に隠れてもっと大切なコトが報道されているのを見落としてはならない。

ソースです。

地検に詳細開示求める=菅家さんの取り調べ録音-弁護団
8月11日21時9分配信 時事通信

 足利事件で再審開始が決定した菅家利和(62)さんについて、不起訴となった別の2件の幼女殺害事件の取り調べを録音したテープが残っていた問題で、菅家さんの弁護団は11日、宇都宮地検や栃木県警などに詳細な事実関係の開示を求める文書を送った。
 弁護団によると、地検にはテープの録音内容や録音時の状況、不起訴処分にどう影響したか、足利事件の録音テープはないかを問い合わせた。



続けて別のソースです。

菅家さんの取り調べ録音=検察がテープ保管、検証で発見-足利事件と別の2事件
8月11日11時29分配信 時事通信

 栃木県足利市で1990年に4歳女児が殺害された「足利事件」で、最高検は11日、再審開始が決まった菅家利和さん(62)に対し、不起訴処分となった別の2件の幼女殺害事件で、検察官が取り調べた様子を録音したテープが存在していたと発表した。最高検が捜査の検証過程で発見した。
 検察関係者によると、録音内容には、両事件について菅家さんがいったん「自白」した後、否認に転じたやりとりも含まれているという。
 菅家さんは足利事件で起訴された後の91年12月、79年に起きた別の保育園児殺害事件で再逮捕され、その後処分保留とされた。92年2月には、84年に発生した幼稚園児殺害事件でも書類送検された。
 最高検によると、録音テープは足利事件での起訴後、これら2件について、処分保留から不起訴となるまでの間、宇都宮地検の検察官が菅家さんを複数回取り調べた際のもの。この検察官は、足利事件も担当していたが、同事件では録音しなかった。
 録音は菅家さんの同意を得た上で、担当検察官の判断で行われ、長時間にわたっているという。最高検が立ち上げた検証チームの調査の中で、同地検に保管してあった資料から発見された。 



同じく別のソースです。

<宇都宮地検>菅家さん取り調べ録音「足利」とは別の2事件8月11日12時59分配信 毎日新聞

 最高検は11日、90年に栃木県足利市で4歳女児が殺害された「足利事件」で再審開始決定を受けた菅家利和さん(62)について、当時、宇都宮地検が最終的に不起訴とした別の二つの女児殺害事件に関する取り調べ状況を録音していたと発表した。テープは地検に保管されており捜査・公判の問題点を調べている最高検の検証チームが内容を分析中という。

 菅家さんは足利事件で起訴された91年12月、79年に起きた5歳女児殺害事件で再逮捕され、92年2月には84年に行方不明となり86年に遺体が見つかった別の5歳女児殺害事件でも送検された。

 最高検によると、宇都宮地検の担当検事は再逮捕の翌月の92年1月から2事件を不起訴とした93年2月まで、2事件に関する取り調べ状況を複数回録音した。冒頭部分には録音について菅家さんに承諾を求める検事の声が録音されている。一方、足利事件そのものに関する録音テープはないとしている。

 菅家さんは当初、2事件について「自白」したが、最終的に否認したとされる。検事が録音した目的は不明だが、証拠が乏しく慎重に捜査するためだった可能性が高い。弁護団の佐藤博史弁護士によると、菅家さんも「拘置所に検事が何度か来て、その都度テープに録音していた」と話したという。。【安高晋、岩佐淳士】


最後のソースです。

菅家さんの取り調べを録音 最高検が公表
8月11日12時12分配信 産経新聞

 栃木県足利市で平成2年、4歳の女児が殺害された足利事件で再審が認められた菅家利和さん(62)に対し、宇都宮地検が、不起訴処分とした別の2件の幼女殺害事件について菅家さんを取り調べた際の様子を録音していたことが11日、分かった。最高検が公表した。最高検が足利事件の検証作業の過程で、同地検内に保管されていたカセットテープを発見したという。

 菅家さんは平成3年12月に足利事件で逮捕、起訴された後の同月、昭和54年に足利市内で行方不明となった女児=当時(5)=が殺害された事件で再逮捕された。平成4年1月に処分保留となったが、翌2月には昭和59年に同市内で行方不明となった女児=当時(5)=が殺害された事件でも書類送検された。同地検は平成5年2月、いずれの事件についても「犯行を裏付ける物証に欠ける」として、菅家さんを不起訴処分とした。

 最高検によると、宇都宮地検の主任検事が昭和54年の事件を処分保留にした後、複数回にわたり菅家さんを取り調べた際、この2事件についてテープに録音した。テープには主任検事が菅家さんから録音の了承を得る場面などが収録されていた。

 検察関係者によると、ほかに、菅家さんが2事件の犯行をいったん自白し、その後、最終的に否認に転じる様子なども含まれており、テープは数十本に上るという。

 足利事件でも、菅家さんは当初、犯行を否認していたが、警察官から「科学的証拠が挙がっている」と迫られ、うその自白をしたとされる。

 最高検は、足利事件の捜査・公判の問題点の検証を進めており、録音テープが重要な参考資料となる可能性もある。


引用終わり。


今更、不起訴になった容疑の録音テープが出てきて、しかもこのテープで、壱度は自白をしておきながら否認に転じた様子が記録されているとのこと。

しかしながら、同じ検事が取調べをしたにも関わらず起訴した事件に関してはテープを残していないとは。

これは、不起訴にした事件に関しては取調べに問題があり公判を維持できないことが明らかで、それゆえ自白調書を取っておきながら不起訴にせざるを得なかった、しかしながら冤罪事件に関しては、コレまで不起訴にすると検察のメンツが立たないので、菅家さんがシロでもクロでもどうでもよく、アトでバレると問題になる程の自白の強要で無理矢理犯人にしたてあげる為。拷問じみた取調べを行い、自白を強要したとしか思えない。

Posted at 2009/08/11 23:59:00 | コメント(1) | トラックバック(0) | 司法 | ニュース
2009年06月13日 イイね!

自分にとことん甘く、他人にはとことん厳しく(-"-;)

自分にとことん甘く、他人にはとことん厳しく(-"-;)  高学歴者の、しかも今回は高検の正検事が起こした不祥事。




ソースです。






大阪高検検事が速度違反、1か月以上出頭せず…書類送検
6月12日21時31分配信 読売新聞

 速度違反で交通切符(赤切符)を交付された大阪高検の男性検事(46)が兵庫県警葺合署の出頭要請に、「多忙」を理由として、1か月以上応じていなかったことがわかった。検事は今月8日、書類送検された。

 同署によると、検事は3月27日夜、神戸市中央区にある時速40キロ制限の市道で約70キロで乗用車を運転。取り締まり中の同署員が発見し、交通切符を交付した。

 検察関係者によると、検事が交通切符を交付された場合、警察が任意の事情聴取をしたうえで書類送検することになっている。同署は4月に出頭を要請したが、検事は5月22日まで出頭しなかった。

 検事は4月に神戸地検から転勤したばかり。大阪高検の太田茂次席検事は「法秩序を守るべき検察官が速度違反をしたことは誠に遺憾。異動後の多忙な時期で出頭が遅れたことについても反省すべき点があったと思う」とコメントした。
最終更新:6月12日21時31分


引用終わり。

 一般道 参拾㌔超過の違反などで赤切符を押し売りされた場合は、青切符とは違い、所轄署に出頭して任意の事情聴取、その後、居住地の検察へ出頭、略式起訴にて罰金が確定、罰金納める。

 こんな感じです。

 検察官という立場なので
















「ハダカで何が悪いむかっ(怒り)むかっ(怒り)しんご~♪しんご~♪」




間違えました^^;

「肆拾(40)㌔の道を漆拾(70)㌔で走って何が悪い。悪いのはキップを押し売りしやすい遅すぎる制限速度だ、そもそも警察など検察の下部組織に過ぎんのだ、いわばしたっぱ、そのしたっぱ風情が高検への栄転が決まったエリートの俺様にキップを押し売りするとは、いい度胸じゃん(▼皿▼メ)ノ」



と、言う本音を公式の回答としたく無いワケです。

検察官は勿論この業界のプロ。出頭したからと言って

「私のおいなりさんの下をリンボーでくぐれ
でないと私刑だ」






という取調べを強要される訳ではないのも解っているハズです。(こんな調べ受けるのだったら、誰だって出頭したくなくなりますが\(;゚∇゚)/ヒヤアセモン☆)

勿論、いつもは職業として理不尽な自白調書を取る側に回っているので、それに対する防御のやり方もわきまえており、冤罪を喰らう可能性はゼロ。

速度違反など、所詮微罪中の微罪、前科のうちにも入らない。(事実、法務局が外国人から帰化申請された時「傷害」等の前科があるとまず間違いなく通さないですが前科が「速度違反」だとアッサリ通る)

速度違反を取り調べする際、被疑者に「仕事が忙しいから出頭出来ないのは理由にならん、ごちゃごちゃ抜かすと強制捜査に切り替えるぞ」と、なかば強制をちらつかせる「強制的任意」で無理やり出頭させます。

そして、出頭させた被疑者を「まな板のコイ」のように「検事のやりたい放題の調書を作成」してすき勝手に料理してしまうワケです(-"-;)

逆に自分が被疑者になると、自分の法知識総動員wwwして出頭を嫌がっております(-"-;)

この検察官、自分がされて嫌なコトを、平気で他人にする事給料を貰っているようです。

この件がデカくなったのも、違反地が兵庫、検事の勤務地が大阪で、管轄が変わったから表ざたになったワケで、身内に甘いこの業界なので、この検事が兵庫で勤務を続けていたとしたら、まあもみ消しを図ったのは間違いありません(-"-;)

どうせ、コイツを調べるのは同僚とかになるから、アッサリ不起訴確定(-"-;)

こんな「人の痛みを理解せず、他人の過失は鬼の首でも取ったように大騒ぎし、その本質は我が身可愛さと出世しか考えていない」人間が大阪高検の正検事に抜擢されるような組織では、冤罪事件も無くならないでしょう(-"-;)

こんな検察官、こうやって取り調べしてやる(^m^)




そしてΩ\ζ゜)チーン



お後がよろしいようで^^;
Posted at 2009/06/13 21:07:56 | コメント(2) | トラックバック(0) | 司法 | ニュース

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