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風魔 小太郎のブログ一覧

2009年10月21日 イイね!

晴天の霹靂(゚◇゚)!!!三枝夕夏 IN dbが解散

晴天の霹靂(゚◇゚)!!!三枝夕夏 IN dbが解散 
きのう話したGIZAにとって少し悲しい話です(・・)

愛内里菜と同じく、「コナン」で何度も主題歌およびエンディングを歌って実績を持ち、三枝夕夏 IN db

来る2010年にて解散してしまいます。
もともとはソロでデビューし、2002年6月シングル
「Whenever I think of you」
を発売した実績を持ちますが

その後は

禄th SINGLEにして名探偵コナンの主題歌 
「君と約束したあの場所まで」の時




作曲家集団の、岩井勇一郎 大藪拓 車谷啓介の、いわゆる
 db
のメンバーが参加し(だから 三枝夕夏 IN db)
それから数々の曲を送り出してきました。

ここでも、三枝のことを書いています。

youtubeのリンクが切れているのはご了承くださいm(__)m



活動自体もかなり個性的で、dbのメンバーはほかのユニットを兼ねているので、三枝とは別の活動を行っていたり、また逆にスケジュールの都合がつかず、上でもUPしたように

ベースの大藪ナシでライブや、NTTフレッツの「-Monthly Artist Personality Special TV vol.6」などに参加するなど、フレキシビリティのある活動を行っておりましたwww

主に大野愛果、小澤正澄、徳永暁人などから曲を提供される傍ら岩井勇一郎や三枝夕夏が作詞、作曲した作品があったり



また、三枝本人も、同じレーベルの岩田さゆり
空飛ぶあの白い雲のように
の歌詞を提供するなどの他のアーティストにも作詞活動を行うなど

シンガーソングライター的な要素ももっていました。




↑の[雲に乗って」では、歌いながら詩の朗読など、どんどん新しいことに挑戦していました。





ジューンブライド~あなたしか見えない

眠る君の橫顏に微笑みを
は、ウェディングソングとして最高でしょう○(^0^)○





06年および07年は同じレーベルで、三枝本人より高い実績をもつ

愛内里菜

とコナンのコラボで限定ユニットを組んでいます。


これだけの実績を持ちながら公式サイトにあがっているようにボーカルの三枝が音楽活動から隠退してしまう以上
ユニットとしては実質解散となってしまうのは明白です。

それでは概出ばかりではありますが、過去の作品をご覧ください。

Whenever I think of you


Hand to Hand


I can't see,I can't feel


明日は明日の風の中 夢の中
</object>

君と約束した優しいあの場所まで


ジューンブライド~あなたしか見えない~


眠る君の横顔に微笑みを


飛び立てない私にあなたが翼をくれた


笑顔でいようよ


CHU☆TRUE LOVE


Secret&Lies and Graduation


へこんだ気持ち 溶かすキミ


君の愛に包まれて痛い


明日は明日の風の中 夢の中


Everybody Jump


雲に乗って


雪どけのあの川の流れのように


いつも素顔の私でいたい


夏の終りにあなたへの手紙書きとめています


そして、最近の定番w雑誌などからピックアップした画像〆させていただきたいと思います。

















追記…いもきんさんのコメントに対応して、パンライブにてミニウェディングを着て歌った
ジューンブライド~あなたしか見えない~
をUPしました(○^0^○)


過去の愛内とのコラボももうなくなると思うと、残念ではありますが

あらたの三枝の人生にエールをおくりたいと思います♪


Posted at 2009/10/21 18:15:32 | コメント(7) | トラックバック(0) | 音楽・映画 | 音楽/映画/テレビ
2009年10月20日 イイね!

愛内里菜 MAGIC 

愛内里菜 MAGIC 
が、ついに発売と相成りましたo(*^0^*)o
まずは、曲をお聞きくださいo(^-^)o

(PCでしか聞けませんので携帯の方、すみませんm(__)m)

完全版 その壱
<embed src="http://www.dailymotion.com/swf/xan2ov&related=0" type="application/x-shockwave-flash" width="580" height="468" allowfullscreen="true" allowscriptaccess="never">
愛内里菜 「MAGIC」



完全版 その弐


おなじみのアニメ版。


THANX 10th ANNIVERSARYのリリース曲第参弾「START」以来、じつに伍年ぶりTV版「名探偵コナン」オープニングテーマ!!です
o(^-^)o


笑顔・言葉・愛・音楽には目には見えない力持ち
それは未来を、そして世界すらも変えることができるという
強い想い想いをこめた歌詞心に響く、タイトルどおりの歌詞魔力のこもった「MAGIC」ハートに直接、深く深く届く
ミディアムバラード相成りました♪


実に拾周年記念にふさわしい曲です( ̄ー ̄)

日本には「言霊」というものがあり、早い話が
「声に出した言葉が現実の事になる」
と信じられているコトです。

おもえば、愛内の曲には、言霊に則り、愛や勇気を届けてくれるものばかりですo(^0^)o


ここで、歴代のコナン関連の曲をUPさせて頂きます


まずは

デビュー曲と間違われることの多い
恋はスリル・ショック・サスペンス
</object>





お次は、
アツアツのカップルに届けたい
I can't stop my love for you




そして、私のトップ拾入り名曲にしてまさに言霊として作用している

START

ですo(*^0^*)o





そして、愛内がはじめて劇場映画主題歌を歌った
DREAM×DREAM
です(^0^)




同じレーベルの三枝夕夏と共演した

100もの扉

です。




そしてその翌年、三枝夕夏

再度ユニットを組んでリリースされた

7つの海を渡る風のように
です。





最後に、この画像で〆させていただきます。 

PVと、別の記事から抜粋してみました♪



/

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GIZAとコナン、ともに、すこし悲しいコトもありましたが、それに影響をうけずこれからも

我々に言霊を届けてほしいモノですo(*^0^*)o

Posted at 2009/10/20 23:40:25 | コメント(4) | トラックバック(1) | 音楽・映画 | 音楽/映画/テレビ
2009年10月19日 イイね!

タヌキ、もとい家康公に弐度にわたり煮え湯を飲ませた名将( ̄ー ̄)

タヌキ、もとい家康公に弐度にわたり煮え湯を飲ませた名将( ̄ー ̄)
 前回UPしたニコニコ動画は遊びなしのマジ動画でしたが

大河などで極めて有名な
真田家


の爆笑動画を発見しましたのでUPしました



壱応、まともな情報としてwikipediaからの情報も転写しておきます^^;

文字を読むのが面倒な方、直接動画のみを閲覧してくださいw

ただし、試験の解答などに、動画の内容をそのまま書かないようにwww

上田合戦
提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション, 検索
上田合戦(うえだかっせん)は、信濃国の上田城(現:長野県上田市)と近隣の山城周辺、上田市の東部を南北に流れる神川付近などで行われた真田氏と徳川氏の戦いの総称である。

この地で真田氏と徳川氏の戦は2回行われ、天正13年(1585年)の戦を第一次、慶長5年(1600年)の戦を第二次とし区別する。

上田は東信濃の小県郡にあり、この付近は上田城築城以前から武田氏・上杉氏・後北条氏の国境として不安定な地域であったが、真田昌幸が武田氏の下で上野国吾妻郡・沼田を平定後、徳川氏の下で小県郡を平定し、上田城を築城した。

この戦いで真田昌幸は主に上田城に籠もり戦ったことから、上田城の戦い、上田城攻防戦などとも呼ばれる。ただし、正確には上田城のみならず砥石城や丸子城など上田小県に点在する山城も含めた総力戦であったため上田合戦と呼ぶ方が相応しい。

目次 [非表示]
1 合戦の経過
1.1 第一次上田合戦
1.2 第二次上田合戦
2 この2回の合戦について
3 参考文献
4 脚註


合戦の経過 [編集]
第一次上田合戦 [編集]
この戦いに限り、神川合戦とも呼ばれる。

第一次上田合戦(神川合戦)
戦争:上田合戦
年月日:1585年
場所:上田城
結果:真田軍の勝利
交戦勢力
真田軍 VS 徳川軍

指揮官

真田軍

真田昌幸
真田信之

徳川軍

鳥居元忠
大久保忠世
平岩親吉

戦力
真田軍 1,200
徳川軍 7,000

損害
真田軍 わずか21~40
徳川軍      1,300(300人という説も)

天正10年(1582年)3月、織田信長が行った武田征伐により武田氏は滅亡。甲斐から信濃、上野に及んだ武田遺領は織田家家臣に分与され、武田旧臣の信濃国人衆らは織田政権に臣従した。同年6月に京都で織田信長が横死(本能寺の変)し、織田家と友好関係だった北条家が、北条氏直率いる5万6,000の兵で織田領上野に侵攻し、織田政権の関東管領と目される滝川一益率いる2万を神流川の戦いで撃破し、滝川一益は本拠地の伊勢まで敗走する。これに前後して甲斐の河尻秀隆が一揆により戦死、北信濃の森長可も旧領の美濃に撤退し、南信濃の毛利秀頼も尾張へと撤退すると、織田領である信濃、甲斐、上野が一気に空白状態となり、越後の上杉景勝や相模の北条氏直、三河の徳川家康など近隣勢力が侵攻し、旧織田領を巡る天正壬午の乱が起こる。

甲斐を制圧した徳川家康が南信濃へ、上杉氏は北信濃へ、そして北条氏は上野国から碓氷峠を越えて東信濃へと侵攻した。このとき東信濃から西上野に勢力を保っていた真田昌幸は北条方に属するが、徳川が東信濃に侵攻してくると徳川方に寝返る。

10月には徳川・北条の間で和睦が成立するが、その和睦条件として徳川傘下となっていた真田氏の上野沼田領と北条氏が制圧した信濃佐久郡を交換することとした。

翌天正11年(1583年)から昌幸は上田城の築城に着手しており、沼田領や吾妻領を巡り北条氏と争っていた。

天正13年(1585年)には家康が甲斐へ着陣して昌幸に沼田領の北条氏への引き渡しを求めるが、昌幸は徳川氏から与えられた領地ではないことを理由にして拒否し、さらに敵対関係にあった上杉氏と通じた。同年7月、浜松に帰還した家康は昌幸の造反を知ると八月に真田討伐を起こし、家臣の鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉ら約7000の兵を真田氏の本拠・上田城に派遣する。

徳川軍は甲斐から諏訪道を北国街道に進み、上田盆地の国分寺付近に兵を展開。これに対して真田方は約1200人であったと言われ、昌幸は上田城に、長男の信幸は支城の戸石城に篭城した。また支城の矢沢城には、昌幸の従兄弟矢沢頼康が上杉の援兵と共に篭城した。

閏8月2日に上田城に攻め寄せた徳川方は、二の丸まで進むがここで反撃を受け撃退される。更に後退の際に城方の追撃を受け、戸石城の信幸も横合いから攻めるに及びついに壊乱し、追撃戦には矢沢勢も加わり神川で多数の将兵が溺死した。この真田方の地の利を活かした戦法により、徳川軍は1300人もの戦死者を出したと言われる[1]。一方、真田軍は40人ほどの犠牲ですんだ。

翌日、徳川方は近隣の小豪族で真田氏に味方した丸子氏(後、真田氏に臣従)の篭る丸子城を攻めるが、これも要害と頑強な抵抗に阻まれ攻略できず、以後20日間程対陣を続ける。この間に上杉勢援軍との小競り合いや更なる増援の報に接し、家康は援軍(井伊直政(一部部隊は当初より参陣)、大須賀康高、松平康重の5000)を出すと共に一時撤退を下令、これを受け徳川軍は28日に上田より撤退した。その後も、大久保忠世ら諸将は小諸城に留まり真田勢と小競り合いを繰り返すも、11月には譜代の重臣石川数正が豊臣家に出奔する事態に至り、完全に撤退することになる。

合戦の記録は真田家の『真田軍記』ほか、徳川方の『三河物語』にも記されている。この戦いで昌幸は優れた智謀であると評されることとなる。また、この合戦によって徳川家康の真田氏に対する評価は高まり、結果として本多忠勝の娘である小松姫を真田信之へ嫁がせて懐柔するきっかけともなった。

真田氏はその後豊臣政権に臣従しており、上田合戦に至るまでの諸勢力との外交や数カ郡を支配する勢力拡大は、真田氏が小領主から大名化していく過程であると指摘される。

上田市立博物館には、神川合戦の合戦図が所蔵されている。

なお、この上田合戦に連動して天正13年(1585年)9月から天正14年(1586年)5月まで間、沼田城にも北条氏が数回に渡って攻撃を仕掛けていたが、昌幸の叔父にあたる城代矢沢頼綱(矢沢頼康の父)が撃退に成功している。

第二次上田合戦 [編集]
第二次上田合戦
戦争:関ヶ原の役
年月日:1600年
場所:上田城
結果:真田軍の勝利
交戦勢力

真田軍 VS 徳川軍

指揮官

真田軍
真田昌幸
真田信繁(幸村)

徳川軍
徳川秀忠

戦力

真田軍  3,500
徳川軍 38,000

昌幸や徳川家康、上杉氏は豊臣政権に臣従。後北条氏は天正18年(1590年)からの小田原合戦により滅ぼされ、家康は関東に移封された。慶長3年(1598年)、秀吉が死去し、豊臣政権では五大老筆頭の地位にあった家康の影響力が強まる。反徳川勢力は五奉行の石田三成を中心に結集し、慶長5年(1600年)6月、家康が会津の上杉征伐の兵を起こして大坂を離れると、三成は毛利輝元を総大将として西軍を組織し挙兵した(関ヶ原の戦い)。昌幸は東軍を率いる家康に従っていたが、慶長5年(1600年)7月下旬、下野で次男・真田信繁(幸村)とともに離反して上田に帰還し西軍に与した。これに対し、長男の信幸は東軍に従った。通説では、西東軍どちらが勝利しても真田一族が残れるよう分かれたとされる。

徳川家康率いる東軍は、下野国小山において三成ら西軍の挙兵を知って、軍を西に返した。この時、家康の本隊や豊臣恩顧大名などの先発隊は東海道を進んだが、徳川秀忠率いる3万8000人の軍勢は中山道を進んで西に向かった。そしてその進路に、真田父子が立て篭もる上田城があった。

秀忠は昌幸の嫡男・信幸に命じて、まずは無難に昌幸に対して開城を求める。老練な昌幸はのらりくらりと返事を先延ばしにして、時間稼ぎに徹する。秀忠は数日を空しく費やした後で昌幸の真意を知り激怒、上田城攻略を決意したとされる。このとき本多正信や徳川四天王の一人・榊原康政などは寡兵の真田氏を侮ることはせず、上田城を黙殺して西軍との主戦場(関ヶ原)に急ぐべきだと進言するが、土井利勝を始めとする戦場に疎い将が多かったこともあり、秀忠の決断を覆すことは出来なかった。そして牧野康成率いる手勢が昌幸の挑発に乗ったのをきっかけに戦端が開かれると、昌幸はわずか3500の兵力で徳川軍をかき回して混乱に陥れた。

兵力的に圧倒する徳川軍であったが、地形的に兵力の優勢を生かし切れず、逆に地形を完全に掌握している地元の真田軍に巧みに翻弄され、敗北を喫したのである。このときのことを『烈祖成蹟』は「我が軍大いに敗れ、死傷算なし」と記している。秀忠は上田城が予想外に頑強であることに驚き、上田城に押さえの兵を残して先を急ぐことにする。しかし、この上田での遅延だけでなく道中の悪天候も災いして、遂に9月15日の関ヶ原本戦に遅参するという大失態を犯してしまった。この失態に家康は激怒し、秀忠にしばらくは対面することすら許さなかったと言われている。また、結果的に大敗のきっかけを作った康成・忠成父子は部下を庇って出奔したため、一時謹慎となった。

この戦いで、美濃で行われた関ヶ原での決戦に秀忠軍を遅参させることに成功したが、肝心の関ヶ原では西軍の敗北に終わり、西軍に与した昌幸と信繁は戦後処理で死罪を命じられたが、信幸とその岳父である本多忠勝の助命嘆願などもあって、一命を助けられてはじめ高野山、のち信繁が妻を同行させることを願ったため九度山に流罪となった。

この2回の合戦について [編集]
この第一次、第二次の上田合戦は、それぞれ性格が異なる。

第一次は徳川氏と北条氏の和睦に伴う沼田領の帰属問題に端を発し、北条氏への沼田領引き渡しを求める徳川氏とそれを拒絶する真田氏の領地争い(意地の張り合い)の色合いが濃い。殊に真田氏にとっては、武田の旧臣から信濃の独立勢力として認められることが最重要であり、最後まで意地を張り通すことになる。結果的に徳川を撃退することで、真田の名を豊臣氏を始めとする有力緒将に知らしめることに成功した。

しかし、第二次では豊臣方(西軍)と徳川方(東軍)の軍事衝突(関ヶ原合戦)が避けられない状況下で、昌幸と昌幸の二男信繁が豊臣方(西軍)についたことが起因している。信濃国の大名がこぞって東軍に与するなか、あえて昌幸と信繁が西軍に与した理由は諸説あるが、昌幸の五女が石田三成の妻の実家である宇田氏に嫁いでおり、しかも昌幸二男信繁も三成と親交があり西軍に与した大谷吉継の娘を妻にしているという姻戚関係が、昌幸・信繁父子の選択に重要な影響を及ぼしたと言われている。逆に、昌幸の長男信幸は徳川家康の養女である小松殿を妻にしていたため、東軍として上田攻めの徳川秀忠隊に加わっている。この選択は、大名家としての家名存続を最優先と考えていたともされ、「名を売った」第一次とは根本的に異なる。

この2度の戦い通じて、真田昌幸という武将の名は「戦巧者」として全国に知られることになる。

参考文献 [編集]
柴辻俊六『真田昌幸』


転写終わり。

それではご覧ください。

【HR】第一次上田合戦

【HR】第二次上田合戦


Posted at 2009/12/29 23:29:38 | コメント(0) | トラックバック(0) | 戦国時代 | 趣味
2009年10月18日 イイね!

武田信玄 上杉謙信と並ぶ稀代の英雄

武田信玄 上杉謙信と並ぶ稀代の英雄
 最近ニコニコやYoutubeを閲覧していて

非常にデキの良い動画を発見しましたので
北条氏康公


について軽く書いてみました



まずは、定番wikipediaからの転載です。

北条 氏康(ほうじょう うじやす)は、戦国時代の武将。相模の戦国大名。

後北条氏第2代当主・北条氏綱の嫡男として生まれる。後北条氏第3代目当主。母は氏綱の正室の養珠院。 関東から山内・扇谷両上杉氏を追うなど、外征に実績を残すと共に、武田氏・今川氏との間に甲相駿三国同盟を結ぶなど、政治的手腕も発揮した。

世に相模の虎(または獅子)と謳われる。

目次 [非表示]
1 生涯
1.1 家督相続
1.2 関東の戦い
1.3 三国同盟
1.4 上杉謙信との戦い
1.5 武田信玄との戦い
1.6 最期
2 人物
3 内政
4 系譜
5 家臣
6 北条分限帳(北条氏康時代前期)における衆
7 墓所
8 参考文献
9 関連項目
9.1 TVドラマ
9.2 ゲーム


生涯 [編集]
家督相続 [編集]
永正12年(1515年)、第2代当主・北条氏綱(当時は伊勢氏綱)の嫡男として生まれる。幼年期はちょっとした物音にも驚いていて、周囲の人々も心配していたと伝わる。

享禄3年(1530年)、小沢原の戦いに初陣して上杉朝興と戦い、これに大勝した。天文4年(1535年)8月の甲斐山中合戦、天文6年(1537年)7月の河越城攻略などに出陣して戦功を重ね、天文7年(1538年)の第一次国府台の戦いでは、父と共に足利義明・里見連合軍と戦い、敵の総大将・足利義明を討ち取り、勝利を収めている。

天文6年(1537年)7月には父と共に鎌倉鶴岡八幡宮に社領を寄進し、同8年(1539年)6月には将軍足利義晴から巣鷂を贈られている。

天文10年(1541年)に氏綱が死去したため、家督を継いで第3代当主となった。一説では天文7年(1538年)に氏綱が隠居して氏康に家督を譲り、後見していたとされる。なお、氏綱は死の直前、5か条の訓戒状を残した。

関東の戦い [編集]
天文14年(1545年)、今川義元は関東管領・山内上杉憲政や扇谷上杉朝定(朝興の子)等と挙兵した。氏康の義兄弟(妹婿)であり、これまでは北条と協調してきた足利晴氏も連合軍と密約を結び後に参戦している。義元は北条氏綱に奪われていた東駿河の一部を奪還すべく軍事行動を起こした。これを第2次河東一乱という。しかし武田晴信(信玄)の斡旋があって、駿河の返還を条件に和睦した。

天文15年(1546年)、態勢を立て直した山内・扇谷の両上杉氏と足利晴氏の連合軍、およそ8万(誇張の可能性がある)の大軍が北条領に侵攻し、北条氏に奪われていた川越城を包囲する。このとき、北条軍は1万未満しかなく、圧倒的に劣勢だった。氏康は両上杉・足利陣に「これまで奪った領土はお返しする」との手紙を送り、長期の対陣で油断を誘った。そして氏康は義弟・北条綱成と連携して、連合軍に対して夜襲をかける。この夜襲で上杉朝定は戦死し、扇谷上杉氏は滅亡した。また、上杉憲政は上野平井に足利晴氏は下総に遁走した(河越夜戦)。この勝利により、氏康は関東における支配権を確立する。

そして天文20年(1551年)には、憲政を越後に追放し(平井合戦)、天文23年(1554年)の古河城侵攻(2年前に公方の位を後北条氏の血を引く息子の義氏に譲った晴氏を秦野に幽閉)で、それをさらに確固たるものとした。さらに大石氏には氏照、藤田氏には氏邦と息子を養子に送り込んで、実質的に一門に組み入れた。

三国同盟 [編集]
上杉憲政が越後に逃亡したことにより、長尾景虎(のちの上杉政虎、法名は謙信)との対立関係が表面化してしまう。上野は憲政が去った後も、配下である長野当主・長野業正や横瀬(由良)の北条・武田勢への頑強な抵抗が継続していた。常陸の佐竹、下野の宇都宮などの関東諸侯による抵抗もあって、関東統治は停滞した。

さらに今川との関係も依然として緊迫した状況であり、天文17年(1548年)3月、氏康が織田信秀に宛てた書状(古証文写)からもそれは見て取れる。天文20年(1551年)、一時的ながら、祖父・北条早雲ゆかりの城である駿河興国寺城を奪っている。

天文23年(1554年)、今川義元が三河に出兵している隙を突いて駿河に侵攻するが、義元の盟友である武田晴信の援軍などもあって、駿河侵攻は思うように進まなかった。そして同年、今川氏の重臣・太原雪斎の仲介などもあって、娘を今川義元の嫡男・今川氏真に嫁がせ、武田晴信の娘を嫡男・氏政の正室に迎えることで、武田・今川と同盟関係を結ぶに至った(甲相駿三国同盟)。

上杉謙信との戦い [編集]
永禄2年(1559年)、氏康は次男の氏政に家督を譲って隠居した。未曾有の大飢饉が発生していたため、代替わりによる徳政令の実施を目的としていた。しかし隠居後も小田原城本丸にとどまって「御本城様」として政治・軍事の実権を掌握し、氏政を後見した。

永禄4年(1561年)、長尾景虎(後の上杉謙信)が関東一円の大名や豪族、さらには一部の奥州南部の豪族まで動員する大連合軍を率いて侵攻して来る。これに対し上総の久留里城を囲んでいた氏康は包囲を解いて帰還し、松山に着陣する。既に景虎は厩橋城などの上野諸城を攻略し、その兵力は膨れ上がっていた。氏康は兵力差が大きい事から野戦は不利と判断し自身は小田原城に、その他玉縄城や河越城など主要な城に兵力を集中させ専守防衛の構えをとった。同時に武田、今川両家に援軍を要請し、武田軍が小田原城に、今川軍が河越城へ軍を発した。そのころ下野国古河御所を攻略した景虎率いる大連合軍は氏康の本国・相模にまで攻め入り北条氏の本城・小田原城を包囲し、激しく攻め立てた。対する北条軍は各地で輸送隊を襲い物資を奪い去って抗戦。武蔵の大藤氏などが局地戦で上杉軍を破るものの、上杉軍は約一ヶ月に渡り小田原城を攻囲した。しかし小田原城は堅城であり落城せず、支城の攻略も困難となり、更なる長期戦の様相を呈すると関東の豪族が撤兵を要求。さらに時を同じくして氏康と同盟を結ぶ武田信玄が川中島で軍事行動を起こす気配を見せたこともあり、景虎は攻略を断念し、鎌倉に兵を引き上げた。景虎は鶴岡八幡宮にて関東管領に就任、上杉政虎と改名した。政虎は撤退途上の4月に武蔵国の中原を押さえる要衝松山城を攻略する。

その後、政虎が信玄と川中島の戦いのために信濃に引き揚げた隙を突いて、上杉氏に奪われた領土の再攻略を開始する。政虎帰国の直後、下総の千葉氏・原氏・高城氏を帰参させ、下野の佐野昌綱を寝返らせる。これを見た政虎は川中島の戦いの後、再び関東へ攻め寄せてくる。しかし氏康は永禄4年11月27日の生野山合戦にて上杉勢に勝利する(内閣文庫所蔵・小幡家文書)(出雲桜井文書)(相州文書)。ただしこの戦いで政虎自身が指揮をとっていたかは不明である。この後政虎は、古河城は梁田氏に任せるとの書状を出して兵を引いており、12月には近衛前嗣が由良成繁に古河城の苦境を伝えている(『古簡雑纂』)。この月に政虎は名を改め、上杉輝虎となる。永禄6年(1563年)には、武田信玄との連合軍を組織し松山城を攻略。その後は古河城をも攻略し、輝虎が擁立した古河公方足利藤氏(義氏の異母兄)を捕らえた。

永禄7年(1564年)、里見義堯・里見義弘父子と上総などの支配権をめぐって対陣する(第二次国府台の戦い)。北条軍は兵力的には優勢であったが、里見軍は精強で一筋縄にはいかず、北条軍は遠山綱景などの有力武将を多く失った。しかし氏康の夜襲が成功したことにより里見軍は敗れて安房に撤退した。同年、太田資正を謀略によって岩付城から追放し武蔵を再び平定する。この後、輝虎は臼井城や和田城を攻略することが出来ず、さらに箕輪城が陥落した事もあり、ついに上野の由良氏、上総の酒井氏、土気(土岐)氏、原氏、正木氏の一部など多くの豪族が北条氏に服従。さらに、上野厩橋城の上杉家直臣北条(きたじょう)高広が北条に寝返った事により、輝虎は大幅な撤退を余儀なくされた。翌年、輝虎が厩橋城を奪回するものの、氏康は三国同盟を背景に輝虎との抗争で優位に立つ。

永禄9年(1566年)以降は実質的にも隠居し息子達に多くの戦を任せるようになる。関東における優位が決定的なものとなり、氏政も着実に成長していたためである。これ以降は「武榮」の印判を用いての役銭収納、職人使役、息子達の後方支援に専念するようになる。この前後から氏政は左京大夫に任官し、氏康は相模守に転じている。家臣への感状発給もこの時期に停止し、氏政への権力の委譲を進めている。

永禄10年(1567年)、氏康は息子の氏政・氏照に里見攻略を任せ出陣させる。しかし、正木氏などの国人が里見に通じたことなどがあり、氏政は里見軍に裏をかかれて大敗。北条家は上総南半を失った。この際、娘婿の太田氏資が戦死している(三船山合戦)。しかし、常陸においては、南常陸の小田氏等の臣従により佐竹領以外には北条氏の勢威が及び、北条家の勢いが衰えることはなかった。

武田信玄との戦い [編集]
永禄3年(1560年)5月、今川義元が桶狭間の戦いにおいて織田信長に討たれたため、今川氏の勢力が衰退する。そして永禄10年(1568年)、従来の外交方針を転換させた武田信玄が駿河侵攻を行ったことにより、三国同盟は破棄された。このとき、氏康は娘婿の今川氏真を支援するが、氏真は武田軍、続いて徳川家康軍の侵攻を受けて駿河から追放され、小田原に亡命することとなる。

このため、氏康と信玄は敵対関係となり、甲相同盟さえも破綻する。氏康は、信玄が徳川の不信を買ったことを利用し徳川との密約を結び、駿河挟撃を計った。これにより信玄は駿河防衛は困難と判断し、駿河から撤退した。

さらに氏康は上杉との和睦を画策。謙信は当時落城寸前であった下総関宿城を救うため、将軍家の斡旋もあり同盟締結を決意する。永禄11年(1568年)に北条方は北条三郎(後の上杉景虎)を人質として差し出し、上杉方からは柿崎晴家を人質に受け、上杉謙信と同盟を結んだ(越相同盟)。

永禄12年(1569年)9月には武田軍が武蔵に侵攻する。これに対し、鉢形城で氏邦が、滝山城で氏照が籠城し武田軍を退け、武田軍はそのまま南下、10月1日には小田原城を包囲する。しかし氏康が徹底した籠城戦をとったため、武田軍は小田原城攻略は不可能と判断、わずか4日後に撤退する。その撤退途上で、氏照・氏邦率いる北条軍と武田軍が衝突。氏康は追撃軍との挟撃を計り氏政を出陣させるが、氏政の行軍が遅れたため到着寸前に突破され、武田軍の甲斐帰還を許す結果になった(三増峠の戦い)。その後、武田は再度駿河に出兵、対する北条は里見の勢力回復や氏康の体調悪化に伴い、駿河での戦いは押され気味となっていく。

また越相同盟に関しては、両家の停戦という意味では成功したものの、関東管領として関東に勢威を拡大しようとする謙信と、関東制覇を目指す氏康の利害は、一致には至らず無理があった。上杉勢は出兵に応じず、この同盟が対武田に有効に機能することは無かった。これにより氏康は同盟を再検討するよう指示している。さらにこの同盟は謙信に対する関東諸大名の不信感、不快感を生み出し、里見や佐竹といった勢力は謙信から離反し武田についてしまった。そのため北条はこれらの勢力との争いを続けることとなり、氏康はこの同盟を継続する利点はないという結論に達した。

最期 [編集]
元亀2年(1571年)から、氏康は、謙信から離反して東上野を領する北条高広を通じて、武田信玄との和睦・同盟を模索していた。氏康は元亀元年(1570年)8月頃から病を得ていたのだが、その年になりそれが悪化。最後の務めとして氏政をはじめとする一族を集め、「上杉謙信との同盟を破棄して、武田信玄と同盟を結ぶように」と遺言を残したとされている。そして10月3日、小田原城において病死した。享年57。

死後の12月27日、氏康の遺言どおり、北条・武田は再同盟している。

ただ近年ではこのような氏康の遺言はなく、氏政の独自の方針、あるいは三河に集中したい信玄側からの申し入れであったという説も有力である。

人物 [編集]
若い頃はうつけものと言われたともいうが、当主となってからは父親の遺した訓戒状を守り質素を心がけた。また、三条西実隆から歌道の師事を受け、三略の講義を足利学校で受けるなど、教養・学問にも熱心だった。歌を詠ませれば著名な歌人さえも感心させた。天文20年(1551年)4月、氏康に接見した南禅寺の僧・東嶺智旺はその傑物ぶりを「太守・氏康は、表は文、裏は武の人で、治世清くして遠近みな服している。まことに当代無双の覇王である」と高く評価している。その善政で民衆に慕われ、彼の死が小田原の城下に伝えられると領民は皆泣き崩れ、その死を惜しんだという。
軍事的にも名将と評される。大きな戦いで敗れたのは氏康本人が出陣しなかった二つの戦、三船山の戦いと三増峠の戦い(後者は実質引き分けとも)のみ。河越夜戦は、同世代の毛利元就による厳島、織田信長の桶狭間と並んで戦国三大奇襲作戦とされている。
最初に長槍を兵制するなど、歩兵部隊のイメージが強い北条家だが馬術家の中山家などを配下とし、多くの牧野を領している。軍勢全体に占める騎馬の割合は11%に及び武田家の軍勢に占める騎馬の割合(8%)よりも上である。忍者として評される風魔も、馬術に卓越して戦場での機動作戦を担当したことが伝えられている。
氏康の民政手腕は数多い戦国大名の中でも特に抜きん出て優秀なものであると高く評価されており、「民政手腕随一の戦国大名」といわれる。
北条記では、「三世の氏康君は文武を兼ね備えた名将で、一代のうち、数度の合戦に負けたことがない。そのうえに仁徳があって、よく家法を発揚したので、氏康君の代になって関東八ヶ国の兵乱を平定し、大いに北条の家名を高めた。その優れた功績は古今の名将というにふさわしい」と評価されている。
指揮も見事であったが氏康自身の猛将ぶりも相当のものだった。戦いでは背中側に傷を負ったことがないという(決して敵から逃げなかった、ということである)。当時「向こう傷」の意味で北条方の武辺者は「氏康傷」という言葉を使い、誉れとしていたほど。
部下への教訓として「酒は朝に飲め」という言葉を残している。これは、寝る前の飲酒は深酒をしやすく、失敗につながりやすい、ということから。

内政 [編集]
北条氏の特色である領内の検地を徹底して行ない、永禄2年(1559年)2月、氏康は大田豊後守・関兵部丞・松田筑前守の3人を奉行に任命し、家臣らの諸役賦課の状態を調査し、それを安藤良整が集成して『小田原衆所領役帳』を作成した。構成は各衆別(小田原衆、御馬廻衆、玉縄衆、江戸衆、松山衆、伊豆衆、津久井衆、足軽衆、他国衆、御家中衆など)計560名の家臣個々の所領の場所(領地)とその貫高(所領高)が記され、負担すべき馬、鉄砲、槍、弓、指物、旗、そして軍役として動員すべき人数が詳細に記載されている。これにより家臣や領民の負担が明確になり、家臣団や領民の統制がより円滑に行われるようになった。
歴代同様に税制の改革にも熱心で領民の負担軽減などに尽力しており、在郷勢力から支持されている。中でも特筆に値するのが天文19年(1550年)4月に実施された税制改革である。それまでの諸点役と呼ばれる公事を廃止し、貫高の6%の懸銭を納めさせることにより、不定期の徴収から百姓を解放し、結果的に負担を軽減させた。同時に税が直接北条氏の蔵に収められる(中間搾取がなくなる)ことで、国人等の支配力が低下し北条氏の権力はより大きなものとなった。さらに棟別銭を50文から35文に減額し、凶作や飢饉の年には減税、場合によっては年貢を免除した。その他、一部では反銭や棟別銭を始め国役までも免除されていた地域も存在する(内閣文庫所蔵・垪和氏古文書)。
領民の誰もが直接北条氏(評定衆)に不法を訴える事ができるよう目安箱を設置し、領民の支持を得ると同時に中間支配者層を牽制した。また、他大名に先駆け永楽銭への通貨統一を進め、撰銭令も出している。
永禄2年(1558年)12月、代物法度を制定して、精銭と地悪銭の法定混合比率を規定する貨幣制度を実施、翌年に比率を改定し完成した。
氏康の大きな功績として、独自の官僚機構の創出があげられる。例えば評定衆はその代表的なもので、領内の訴訟処理などを行っていた。構成員はおもに御馬廻衆を主体としていた。史料上の初見は弘治元年で、裁許状は現在50例ほどが確認されている。北条家の行政機構は全国で最も先進的なものであったといわれ、後の江戸幕府はこれを継承して経済を運用した。
後に「四公六民」と称される初代以来の政策の継承と、税目の整理による負担軽減で民衆の支持を得る。後年勝海舟によれば、徳川家康が小田原を領した時、住民はいつまでも北条氏を慕って実にやりにくかったという。(氷川清話)
小田原の城下町のさらなる発展のため全国から職人や文化人を呼び寄せ大規模な都市開発を行った。その結果、小田原の城下町は東の小田原・西の山口と称される東国最大の都市となった。日本初となる上水道(小田原早川上水)を造り上げ、町にはゴミ一つ落ちていないとまで評されるほどの清潔な都市であったという。そしてこの町の流行は小田原様と称されすぐに関東全土に広まった。
殆どの文書に虎の印判を使用し行政の効率を高めた。同時期の戦国大名と比較して最も割合が多い。配下などに対して花押を用いずに印判状を用いる行為は効率と引き換えに反発を招く恐れもあった。それを押さえ込めるだけの権威と軍事力が氏康の代に備わったことを意味している。
その他の施策として、職人使役のための公用使役制の採用や伝馬制の確立などがあげられる。北条氏の伝馬手形に押された伝馬専用印判(印文「常調」)の初見は永禄元年(1558年)であり、 この時期に北条氏の伝馬制が確立したとされている。

系譜 [編集]
父:北条氏綱
母:養珠院宗栄

兄弟
北条為昌
北条氏尭

姉妹
大頂院殿(北条綱成室)
浄心院(太田資高室)
高源院(堀越貞基室)
芳春院(足利晴氏室)
ちよ(葛山氏元室)
娘(吉良頼康室)

息子
新九郎
北条氏政
北条氏照(大石定久養子)
北条氏邦(藤田康邦養子)
北条氏規
北条氏忠(佐野宗綱養子)
北条三郎(上杉謙信養子、上杉景虎)
北条氏光


桂林院殿(武田勝頼室)
浄光院殿(足利義氏室)
七曲殿(北条氏繁室)
長林院殿(太田氏資室)
蔵春院殿(今川氏真室)
尾崎殿(千葉親胤室)
種徳寺殿(小笠原康広室)
菊姫(里見義頼継室)
娘(千葉利胤室)

家臣 [編集]
北条幻庵
北条綱成
北条氏繁
福島勝広
松田憲秀
遠山綱景
大道寺政繁
大道寺直次
垪和康忠
垪和氏続
安藤良整
成田長泰
上田朝直
富永直勝
多目元忠
梶原景宗
清水康英
石巻康敬
猪俣邦憲
山角康定
板部岡江雪斎
風魔小太郎


北条分限帳(北条氏康時代前期)における衆 [編集]
小田原衆 松田憲秀 以下33人 9202貫
御馬廻衆 山角康定 以下94人 8591貫
玉縄衆 北条綱成 以下18人 4381貫
江戸衆 遠山綱景・太田大膳・富永康景 以下77人 12650貫
河越衆 大道寺政繁 以下22人 4079貫
松山衆 狩野介 以下15人 3300貫
伊豆衆 笠原綱信・清水康英 以下29人 3393貫
津久井衆 内藤康行 以下59人 2238貫
諸足軽衆 大藤秀信 以下17人 2260貫
職人衆 須藤盛永 以下26人 903貫
他国衆 小山田信有 以下30人 3721貫
御家中衆
御家門方 足利義氏・北条長綱 5852貫
本光院殿衆 山中盛定 以下49人 3861貫
氏堯衆 北条氏堯 以下4人 1381貫
小机衆 北条時長 以下29人 3438貫
御家門方 伊勢貞辰 以下11人 1050貫


墓所 [編集]
神奈川県箱根町の金湯山早雲寺(現在の早雲寺境内に残る氏康を含めた北条5代の墓所は、江戸時代の寛文12年(1672)に、北条氏規の子孫で狭山藩北条家5代目当主の氏治が、北条早雲の命日に当たる8月15日に建立した供養塔。氏康の本来の墓所は、広大な旧早雲寺境内の大聖院に葬られたが、早雲寺の全伽藍は豊臣秀吉の軍勢に焼かれ、氏康の墓所の位置は不明となっている)。

参考文献 [編集]
藤木久志・黒田基樹 編『定本・北条氏康』(高志書院、2004年) ISBN 4906641911
黒田基樹『戦国大名の危機管理』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー、2005年) ISBN 4642056009
北条氏康の民政と軍役の実態研究
黒田基樹『百姓から見た戦国大名』(ちくま新書、2006年)ISBN4-480-06313-7 C002
関連項目 [編集]
TVドラマ [編集]
天と地と(1969年 NHK大河ドラマ 演:中村梅之助)
おんな風林火山(1986年 TBS 演:梅宮辰夫)
武田信玄(1988年 NHK大河ドラマ 演:杉良太郎)
風林火山(2007年 NHK大河ドラマ 演:松井誠)


転写おわり

どうしても、川中島の決戦で有名で、歴史ドラマでは何度も主役に抜擢されている武田信玄 上杉謙信と比べると地味な印象で、知名度がひくく、あんまりクローズアップされない北条氏康ですが、こうやって歴史をひもとけば、両英雄とくらべ、全く遜色ない英雄であることが証明されています。

若い頃は、少しの物音でおびえる線の細さで、家臣たちに「大丈夫か--;」と心配されていましたが、元服するや否や頭角を現し、信玄、謙信と互角以上の戦を繰り広げます。

氏康公時代の戦でも、里見や武田に土を付けられたことはありましたが、この負け戦では氏康公の子供たちが指揮を執っており、氏康公自身が指揮を執った戦では負け知らず。

その勇猛さの証明として、氏康公の体には正面に漆(7)つの傷を持つものの、背中にはカスリ傷ひとつ付いておらず、勇猛さの証として「氏康傷」という言葉が生まれました。

日本参大決戦のひとつともいわれる川越城攻防戦では事前に、抗争関係にあった今川家に対し、領地の割譲を条件に停戦し、二正面作戦を避け、対戦相手に「北条弱し」との偽報を流し、相手の士気を下げまくったうえで、城将と連携した奇襲作戦で勝っており、決して只の猪武者でないことが伝わってきます。

これだけ見ると最終決戦兵器のような印象を受けますがむしろ、氏康公が信玄、謙信にくらべて優位に立っているのは、領内経営にあります。

いち早く検地を勧め、領内の石高をはっきりさせ、中間支配層による不当な搾取を不可能にし、領民を税率を下げる善性をしく事に成功。

歴史の教科書では「目安箱」を設置したのは、松平健。もとい「暴れん坊将軍」こと「徳川吉宗」が初めてと取れるようなかかれ方ですが、実は氏康公が既に採用していたのです。

200年以上の太平の世を作り上げた徳川家康も、旧・北条の領地を貰った時は統治に苦しみ、北条家の統治を真似して、ようやく民の心を掴んだ次第でした^^;

さて、氏康公のことを語り始めると、止まらないので、このあたりで件の動画を紹介して〆させて頂きます。

【HR】河越夜戦~乾坤一擲~

動画と「信長の野望 革新」を使った「川越城攻防戦」の再現VTR?です。

如何だったでしょうか?



Posted at 2009/12/29 19:32:22 | コメント(2) | トラックバック(0) | 戦国時代 | 趣味
2009年10月17日 イイね!

マリと子犬の物語

マリと子犬の物語 見ている時に伊豆の地震速報ってマジでシャレにならないのですが(--;)
Posted at 2009/12/18 22:27:41 | コメント(4) | トラックバック(0) | ニュース | ニュース

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