
イチジクの葉で隠したことから始まった
人間の羞恥心は、エデンの園を失楽した
アダムとイヴの末裔により、
虚栄心へと姿を変えて今に至る。
隠すための葉は飾るための花となり、
デコレェトすることで存在を誇張し、
人は自我の欲求を満足させる。
識別子たる装飾品は加速度的に差別化され、
センスの貧富を視覚的なものに改める。
なるほど、というわけで。伊勢丹メンズ館なのね
ヴァレンタインの贈り物を頂いた妻から同時に渡された一冊の、小冊子。
高付加価値時代の今、違いのわかる男女のために独自に開拓したブランドが群れを成す
ファッションの伊勢丹が、Barney's New York も真っ青な男の館をリモデルして早、3年。
その店内にディスプレイされる、紳士を飾る世界の小物を紹介したページは、
エデンの園で妖しく実る禁断の果実のようでも、あって。
少しは見習ってセンスを磨け
という妻の無言のメッセージは理解できても、
紙の上で雄弁に物語る世界の小物たちを身に付けた自分の姿を想像できないところは、
500円亭主の、らしさでもあったりする。
着こなしのプロトコールを知らないから幸せなのか、それとも。
飾るべきところは他にある、ということか。
個性を彩るアクセサリィが機能するためには、それに相応しい人格を持つ必要がある。
単にブランド品、というだけではセンス良くならないあたりが、モノと人の関係における
面白いところでもあったりする。
幾多の試行錯誤を繰り返し、モノと人とがお互いに歩み寄ってバランスされるその関係は、
モノが人を育てている部分もあるように、思える。
いいモノが提供する世界を知らなくては、いいモノかどうかも理解できない。
モノに対する自分の中の評価軸は、接してきたモノの経験則に裏付けられているのだから。
そして。
いいモノを知らなくては、いいモノは造れない。
だから。
クリエーターと呼ばれる人々はモノに対する深い造詣の眼差しが必要なのではないか?
自動車を造る技術者は、いいモノを知っているのだろうか?
自動車を売る営業マンは、マーケティングという言葉を勘違いしていないか?
自動車会社の舵を切る代表者は、運転が好きなんだろうか?
クルマの表層だけで良し悪しを判断するべきではないけれど、
クルマに深層がなかったら、底が浅かったなら、そこから学ぶべきものは多くはない。
人を育てることができないクルマに、文化は宿らない。
そんなクルマに接して育った未来のエンジニアが、自分たちの進むべき道に迷った時、
参考となる過去はあってないようなものだから。
パオが発した、メッセージ。
文化と呼べるほどには高尚なものではなかったけれど、確かなことは。
そろそろ肩の力を抜いたら ... ?
という脱力系の言葉だったのかもしれない。
エンスーの神経を逆撫でする、機能的に裏付けのないレトロティックな表層が物語る言葉は、
飽和点に達した自動車業界における見事なカウンターパンチだったようにも思う。
硬直化する自動車ファンの思考を柔和させる効果は、少しばかりは、あったのだ。
妻が
現代のパオと考える、我が家の MINI 。
性能よりも信頼を重んじる主婦が選んだ、我が家の MINI 。
1年と3ヶ月ばかりを暮らしてもなお、その輝きは失っていないけれど。
それに乗る僕らは。
ちょっとは MINI に似合うようになってきたのだろうか

Posted at 2007/02/23 16:27:06 | |
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