
限りなく50に近い40代の集団を
僕は知らない。
学舎の友とか、仕事場の友とか、
暮らしの中で関わりを持った同世代の
集団はもちろん知っている、のだけれど。
日々生活する上でまったく接点のない
限りなく50に近い40代の、それも男だけの
集まりっていうのは、どう考えたって
(僕の人生には)有り得ないはずなのだ。
例えば下町特有の、祭りの時季になると自然発生的に集まる氏子集会とも違う。
例えば集合住宅独特の、問題発生時に強制的に集められる住民集会とも違う。
例えばPTAお約束の、学校行事開催時の逃れられないお父さん集会とも違う。
日本橋の、
あの一夜を過ごした、限りなく50に近い平均年齢の面々を結びつけたモノは、
一台の小型車だったのであって、その事実に僕は改めて。
MINI というクルマに文化意識を感じ取ったのである。
1960年を前後して生まれた男たちは、思春期の多感な時期にスーパーカーブームを経験している。
カムシャフトは一本より二本の方がエンジン回転の上昇に追従しやすく、
360度で一回転するクランクシャフトに動力を与えるピストンの数は12本が理想的に滑らかであり、
最重量物であるエンジンは車体の中央に位置することが慣性の法則に従うバランスだと、
ランボルギーニやフェラーリを通じて覚えたのである。
だから、クルマには一家言持つ者が多いのだ、と思う。
そんな男たちが、だ。
一本のカムシャフト、4本のシリンダー、前輪にオーバーハングしたエンジン位置の、
21世紀の今となっては当たり前すぎる仕様の MINI を、
楽しい、と言う。
乗っても、走っても、眺めても、楽しい! と言うのだ。
MINI に乗る者へなら、なんの言い訳もなくその思いは伝わるが、
同じ技術様式を持つ他の FF 2BOX Car を操る人々には多少の説明が必要となる、その要因。
シンプルながら高度にデザインされたインテリアや、
舵とダイレクトに反応する車台のゴーカートフィーリングや、
英国の懐古主義をバウハウスの流儀でモダナイズしたエクステリアを、
持てる語彙力の全てを動員して話したとしても ...
でも、それで。カローラとどう違うの?、と。
確かに言葉で語れる違いはない、のかもしれない。
自らステアリングを握り、アクセルペダルを踏まぬ限り、MINI の楽しさはわからない。
しかしながら、紙に書かれた仕様書が同じであればカローラとの違いを認めない人々は当然、
のようなクルマの試乗すらしないのであって、価値観は永遠に平行線、なのである。
だから、あの夜の加齢なる集団は。
横並びを善とする時代に教育を受けた世代としては、誠に希有な存在と思えたのである。
クラウンを頂点とするニッポンの自動車ヒエラルキーからはみ出してしまった男たちが、
一兆円企業トヨタの思惑ではマークXに乗ることを望まれる世代の男たちが、
ジェンダーフリーの波を受けて家族の犠牲となるべき存在の男たちが、
選んでしまった MINI とは、いかようなクルマなのであろう。
一般社会においてはクラウンの足元にも及ばない小さな記号性しか持たず、
中間管理職に望まれる立派なトランクボックスを持たないハッチバックスタイルで、
犠牲となる家族の不満をかわす手段はセンターメーターくらいしか持っていない、
有効なる存在価値をアピールできない MINI が加齢族に愛される理由とは、なんであろう。
その答えを
駆け抜ける歓びに求めるのは簡単であるが、ではなぜ。
本家本元たる3シリーズに、乗らないの?
やはり、文化なのだと思う。
先代から続く半世紀にちょっと足りないブランドの歴史が語る MINI の存在そのものが、
テクノロジィやヒエラルキーを超えて訴えかけてきたのだと、そう思う。
だって、あの夜、日本橋に集いし加齢なる一族の平均年齢は。
ミニの年齢と一緒なんだもの

Posted at 2007/02/15 15:40:15 | |
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