
幼い頃、たぶん、
小学校へ上がろうかという年頃だったと思うのだけど、
母と日本橋三越へ行った記憶がある。
そこへ何しに行ったとか、何を買ってもらったとか、
肝心なことは忘れてしまったのだけど、
何で行ったのか、は覚えている。
路面電車、だ。
日本橋三越前の電停で降り、中央通りを横断し、
三越の中へ入った、はずなのだ。
あぁ、そうだったよねぇ
懐かしそうに頷いてくれるのは、昭和40年よりも前に生まれし者たちだ。
それ以降に誕生した方々はもう、地下鉄世代。
日本橋の、三越前に、路面電車が停まった、などという話は、我が鬼嫁を筆頭に誰も信じてくれない。
確かに日本橋を渡る、上野広小路から新橋に至る往復4車線の中央通りには、
路面電車が走ったと思われる線路や、乗降客のための電停など、痕跡の跡形はない。
もしかして僕の、黄色い路面電車で日本橋は、記憶違いであったのだろうか。
相変わらず通う近所の図書館で、その答えを見つけた。
林順信著 東京都電慕情 JTB刊
そこに再現されるは、昭和40年代初頭の東京。
23の区に分けられた日本の首都を東西南北に、41の系統と、213Kmに及ぶ営業距離で網羅した
路面電車の記憶である。
銀座に、浅草に、上野に、赤坂に。
それぞれの街を走る、佇む、路面電車の写真は、当時を知らない者にとってもなぜか、郷愁だ。
そして、日本橋。
あった
往復4車線の中央通り、その中より2車線は、石畳が敷き詰められた路面電車のゾーンである。
日本橋三越と三井信託銀行の狭間に、電停がある。
標識版に刻まれる名は、室町一丁目。
うん、確かに。
三越の建つ場所は、中央区日本橋室町一丁目、だ。
ここで降りたのか?
おそらくそうなのだ。
幼い僕は母に手を引かれながら路面電車に乗り、この電停を降りたんだ。
ネルソン提督をお守りするかのようにうずくまる二頭のライオンに迎えられ、
ルネッサンス様式の、ただならぬ雰囲気のデパートへと、入ったんだ。
羅針盤のような半円形の階数表示がもの珍しい蛇腹式のエレベーターに乗って。
オモチャ売り場へ行ったのだ、と思う。
今日は帝劇、明日は三越
の時代、このあたりは多くの人々で賑わっていたことが40年前の写真から、うかがい知れる。
昭和42年7月の、室町一丁目の電停には、三越の紙袋を下げた女性達が電車を待つ。
歩道から、まだそれほど走るクルマの少ない車道を、電停目指して渡るサラリーマンもいる。
銀座へ向かう40系統の路面電車を操る、運転士さんの開襟シャツが、妙に粋だ。
写真に撮られた風景はどこまでも、のどか、なのである。
それにしても、なぜ。
路面電車は廃止されてしまったのか。
二本の足で歩く人間は水平面での移動に適した動物であり、垂直方向の移動は苦手なのである。
にもかかわらず東京は、線路を地下に埋めてしまった。
その結果、僕らは。
電車に乗るのも、降りてからも、階段を使うことになってしまった。
車窓に広がる、美味しそうなお店や、面白そうな路地を、知ることができなくなってしまった。
定時性、速達性、快適性は、今にも受け継がれてはいるけれど。
もっとも大切な、乗降の容易性を失ってまで、線路を地下に施設したわけが、
モータリゼーションの波であったことに、いち自動車ファンとして複雑な思いを抱いてしまうのだ。
パーソナルな移動手段が追いやった、パブリックなる交通手段。
気軽に乗り降りできた、路面電車。
Light Rail Transit なこのシステムこそ、いまの東京に必要なのかしら。
そんなことを考えてしまう本、なのでした

Posted at 2006/07/23 20:07:46 | |
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