先日は
『織田信長の合戦 ~桶狭間の戦い・長篠の戦いの真実~』と題された地元地方で行われた講演会に行ってきました。
講師は戦国史研究家の谷口克広氏。
谷口先生は日本における織田信長研究の第一人者で、今まで信長に関する著書を多数執筆出版されています。代表作は
「織田信長家臣人名事典」で、それで一躍世に出た方です。
その谷口先生は何と私と同郷でした。地元から横浜国立大を経て、その後も横浜を中心に教師をしながら研究されてきたようで、この度定年を迎えられて故郷に戻られた由。私の家の最寄の図書館に特設コーナーも設置されました。
講演のほうは面白かったですよ。ただ入場料が¥0ということで財布を持っていかなかったのは失敗でした。先生の出版物の即売サイン会やってたので(笑)
講演時間は約2時間でしたが従来までいわれてきた織田信長の定説を改めた内容であっという間に終わってしまいました。
その問題の内容はまず↓
●1560年の有名な桶狭間の戦いについて
2万5千の大軍を率いる今川義元を約2千とされる信長軍が暴風雨に乗じて奇襲し討ったとされている点。
実態としては暴風雨があったのは事実と思われるが従来までの定説である迂回して奇襲を行ったといわれているのは間違いで、正面から大軍を押し返したというのが真実のようです。今川の本陣は田楽狭間といわれた窪地ではなく実は桶狭間山に置かれた点も従来いわれてきた定説の新たな点! 信長は田楽狭間で酒宴を催していた義元を奇襲したのではなく、今川の前衛を本陣のあった山際まで押しやったところで山から下りてきた義元を討ったのが真実と思われ、それが今の最先端の定説になっています。
●今川義元が織田領内に攻め込んだ理由↓
従来まで上洛のためといわれてきましたが、現在の研究ではそれはいくらなんでも無理だっただろうというのが定着しています。
真実は織田を裏切り今川に寝返った鳴海城と大高城の救援だったらしいです。
ちなみに織田領は小国といわれてきましたが実際は言われるほどではなく濃尾平野の豊かさがあった分マシだったようです。
次に↓
●織田・徳川連合軍が武田を破ったとされる長篠の戦いについて
まず「鉄砲三千丁三段撃ち」が間違いだったということ。
たしか前にNHKでもやったと思うけど、実際に現地で三段撃ちの実験をおこなったところ、狭くて難しいと結論が出たそうでいろいろ問題が多く今はその事実がなかったと定着しています。
さらに「長篠の戦い」は織田・徳川鉄砲隊に武田騎馬隊が突撃して滅亡につながったとされるが、なぜ武田勝頼が無謀な突撃を命じたのかが謎とされてきたのも、すべては長篠城を囲んだ武田の鳶ヶ巣山砦が織田・徳川軍の別働隊である酒井忠次隊に落とされ、設楽原で織田・徳川と対峙していた武田軍の背後を絶ったことと結論づけられました。
しかし現在は今まで凡将扱いされてきた武田勝頼も、その最後は別にして名将と評価されています。
そもそもなぜ真実と異なる間違った説が現在まで定着してきたかというと、江戸時代に書かれた『信長記』を元にしていることが最大の悪因です。
歴史の真実を定める上で最も大事な事は「主観の入っていない史料価値が高い文献」を如何に見つけられるか?につきます。
その点、先の『信長記』は江戸時代に主観を交えて脚色されたもの!
それが戦時中に陸軍が収載した『日本戦史』で採用されたため決定づけられ今日に至るそうです。
戦時中の陸軍は「少数でも大軍を破ることができる」ということを重視して、史実を曲げてそれを広めました。それが戦後もずっと採用され続けてきたわけです。
改めて歴史を知る上で最重要なのは「良い史料」を採用すること!!
信長研究の場合は『信長公記』です。『信長記』ではありませんよ!!
詳しくは谷口先生の著書をお読みください
Posted at 2007/11/07 21:36:32 | |
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