「七飯峠下台場跡」-七飯町
慶応4年(1868)10月、蝦夷に脱出した榎本旧幕府軍は、鷲ノ木に上陸後、人見勝太郎ら30人に嘆願書を持たせ箱館府に派遣しました。
人見らは現在の国道5号線(大沼国道)にほぼ重なる道筋を辿りました。標高1,131mの駒ケ岳西山麓を踏破するルートです。
その後、人見隊は降雪の中を進軍し、茅部町を越えた“峠下”で宿営。この地は西の江差方面への分岐点でもあり、山裾をはしる森と峠下をむすぶ街道を扼し、また森と箱館まで届く優れた眺望を持つ要衝でした。そしてニシン漁の盛んな頃には遊女屋もあった宿場町でした。その中の最も北側の宿屋に宿泊したそうです。
対する箱館府・松前藩・弘前藩の総兵300人余は五稜郭を発ち、10月22日午後10時頃、藤城に集結し峠下に向かったという。
そして集落内でかがり火を焚いていた見張りを発見し発砲。深夜のことといい、これが箱館戦争の実質開戦の火蓋となりました。
弘前藩兵は、北側の山から銃撃し、集落内に突入。しかし人見隊は巧みに移動しながら側面反撃をした。そこに大鳥圭介軍先遣隊も到着。銃撃戦は夜は徹して続いたが、新政府軍は敗退しました。
10倍もの兵力+大砲があった新政府軍が敗れたのは、銃のほとんどが一発ずつ銃口から弾を込める旧式銃だったからだという。火縄銃も多かったらしい。
対して榎本軍は薬芙付弾丸の新式銃が大半で、新政府軍が一発撃つ間に10発も撃ち返すことができたらしい。
装備の差に加え、人見勝太郎らは、関東から会津まで硝煙の中を潜り抜けてきた歴戦の士ばかりで、戦の駆け引きに、雲泥の差がありました。
この戦いで、榎本軍では伝習士官隊の山本泰次郎が重傷を負い、鷲ノ木に後送されたが11月9日に死亡しました。
これが榎本軍の最初の戦傷死者で享年19歳でした。
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