「嶋田左近“天誅”事件遭難地(妾宅跡前)」-京都市
幕末期京都に横行した有名「天誅」の一つ
2006年10月21日
文久2(1862)年7月20日の暮六ツ時頃、九条家家士の島田左近が木屋町通りの妾宅で、数人の武士に襲われました。
その時の生存者・妾“ゆう”らに話を聞いて書かれたとされる記録『近衛忠煕家記』によると、行水を浴びた島田は奥の間で涼んでいた時に3人の武士が台所から侵入。それに気づいた“ゆう”が島田に知らせようとしたが、すでに男たちは抜刀し奥の間に入り込んでいたため、彼女は遊びにきていた芸妓3人と下男・下女と一緒に島田を残して逃げ出してしまった、とあります。
島田の最後の様子は当時の目撃者らの取材をまとめたといわれる『編年雑録』に、「島田は妾宅の裏口から脱して鴨川に飛び込んで逃れようとしたが、そこにも抜刀した武士が待ち構えており、今度は木屋町通りに出て南に走った。そして、高瀬川に架かる押小路橋を渡ろうとしたが、対岸にもう一人の武士が待ち受けており、さらに押し入った武士たちが追ってきたため、島田は高瀬川に飛び込んだ。狭く浅い高瀬川ではあるが、ほかに逃げ場はなかった。」とある。
首は翌朝、鴨川畔に晒されましたが、遺体はこの二条通りに放置されていたそうです。
ただ現在のこの善導寺付近は整備拡張され、当時の実際現場と今の住所とは異なると思われます。
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