「建有川塞門跡」-知内町・木古内町
安政2年(1855)2月、徳川幕府は蝦夷地のうち建有川から乙部にかけての地域を松前藩領として残し、ほかを幕府の所領として箱館奉行所の管轄としました。そのため、接点となったこの地に境界柱が立てられ、警備のための塞門が置かれました。
塞門を挟んで木古内側に箱館奉行所の番所、知内側に松前藩の番所があり、出入りの旅人の手形や荷物検査をしていました。
なお、松前藩の番所には御先手組席の家臣を番頭とし、それに徒士、足軽など5人程が駐屯していたと伝えられている。
往時知内と木古内は建有川を境界としていたが、川の氾濫によりいつも川筋が変わっていくため、境目が明らかでないという不便さがありました。そのため洪水などにより川の流れが変わっても、そこを境界とし、互いに苦情はいわないこととする「為取替申境一礼之事」という約定が、安政3年正月両村の代表者によって取り交わされました。
画像上:木古内町側
画像下:知内町側
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