「会津藩首席家老梶原平馬墓石(根室市営西浜墓地)」
激動の幕末を生き抜き歴史に名を残した人物が北の大地に眠っていました。
彼は激動の幕末会津藩の首席家老で慶応4年当時26歳でした。
天保13年10月10日に生まれました。
会津藩上洛までは和田倉の江戸藩邸で政務を取り仕切っていました。
激動期に突入してからは京都守護職を拝命した藩主松平容保に従って大目付として上京。外交を担当し、幕府・諸藩間で活躍しました。
慶応元年24歳で若年寄に就任、翌2年3月には閉門仰せ付けられ帰国していた家老で兄の内藤介右衛門信順を抜いて25歳で家老に昇進。
鳥羽伏見の戦いの起こった際には、幕府と対応策を打ち合わせるため江戸に行っており、鳥羽伏見の戦い勃発を知り、大阪に戻ろうとした時には、敗戦の報が入ったようです。
鳥羽伏見の敗戦後、藩の軍備の充実に力を注ぎ、藩士が会津へ帰ったあとも江戸に残り、銃火器の手配をし、河井継之助や松平定敬等と共に蝦夷を経由し船にて新潟より会津に帰国しました。
慶応3年正月にはわずか26歳にて首席家老として奥羽越列藩同盟締結に尽力し、また武器調達を行い、新潟港管理など活躍。会津籠城戰では、容保の側で内政を担当しました。
戦後は、藩主容保が止めるのも聞かず山川大蔵の姉二葉と離婚し幼子も捨てて水野テイと再婚。この辺が女ウケが悪いようです。でも政治手腕は抜群で人物としてはなかなか立派な傑物だったようで礼儀作法がしっかりしていたそうです。
そして梶原景雄を名乗り、藩の移封先の青森斗南の上市川村に居を構え、青森県庁庶務課長を務めるも2ヶ月で辞職。
函館・根室に渡り根室にて明治22年3月23日死去。享年47歳。
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