はじめに、東北地方太平洋沖地震により、亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げますとともに、被災された皆様、そのご家族の方々に対しまして、心よりお見舞い申し上げます。
一日も早い復旧復興をお祈り申し上げます。
初めて書くブログですが、初回から少々重苦しい内容になります事、先ずはお詫び申し上げます。
当時の記憶を、節目でもある「今日」書く事は後々読み返せ、また記憶の風化の阻止という点からも有効と思い書きます。
2011年3月11日の地震、私の住む街は大変な被害を受けました。
今回の内容は、その3・11日以降の当時の内容をそのまま時系列で載せてみたいと思います。
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11日、午前中に食欲の無い祖父が美味しいケーキなら食べられると言ったので、私は娘のお昼寝のあとに、イオン(旧ジャスコ)内の某ケーキ屋さんに行くことにしてました。
娘のお昼寝は、いつも12時半から13時半位までなので、起きたら準備をしてすぐ出発しようと思ってました。
ところが11日の日は、14時を過ぎても寝ていて、そのうち寝ながら大泣きしてしまい、なだめているうちにまた寝むってしまいました。
目が覚めたのは、14時半過ぎ・・・。
今から出かけたのでは、おやつの時間に重なってしまうと思い、早めのおやつを食べさせ始めました。
そして・・・14時46分。
ガタガタガタ・・・いつもより強くそして長い揺れが続く地震がきました。
私は娘を抱きかかえて、棚が倒れても大丈夫な場所に一先ずしゃがみこみ揺れがおさまるを待ちました。
揺れがおさまり、部屋は棚は倒れず少し位置がずれただけで、落下物もなかったので安心して、2階の部屋に居た私たちは、1階の茶の間にいる祖父母を見に行きました。
祖母は『たまげだねぇ・・・びっくりしたやぁ』と一言。
茶の間を見渡す限りでは、特に異常なく、安心。
ニュース速報で、この地震の情報を見ようと思って、テレビの電源を入れましたが入りません。この時、停電であることを知りました。
そのうち、主人から電話があり、家が崩れるかもしれないから祖父母たちを車に乗せて駐車場に避難しておいて、とのこと。
大げさだなぁと思いつつも、念のため車に乗り、カーナビのテレビを見て、愕然としました。
テロップに大津波警報。津波の高さは6メートル。
そのうち、広報でも、大津波警報が発令され、高台へ避難してくださいと、しばらく放送されてました。
主人が急いで帰宅してきて、ホッとしたのも束の間。
駐車場から見える川がすごい勢いで逆流し、屋根や瓦礫、小舟が流される光景を間の当りにしました。
しかし、私の家から見える部分の景色はいつもと変わらぬままでしたので、この時まだ、津波の被害がどの程度か知りませんでした・・・。
津波の被害が田中まで及んだことと、そしてケーキを買いに行く予定だったイオンは1階と駐車場が全滅だったことを後で知りました。
もし、娘がいつものように13時半頃にお昼寝から目が覚めて、出かける準備をして家を出発して、イオン内でケーキを買っていたら・・・。
確実に津波の被害に遭ってました。
娘に感謝です。2つの命を助けてもらいました。
家族全員が無事で安心したのも束の間・・・。
津波の被害により、食料品店・薬局・ガソリンスタンド等々生活に密着した建物がなくなったことにより、調達が困難になりました。
特に子どものオムツ・おしりふきです。
建物自体は被害が無かった薬局は、当面仕入れが困難なため在庫分を販売するに当たり、数量限定販売を余儀なくされました。
オムツ1つを購入するために、11時開店の薬局に早朝4時から主人と義父に並んでもらいました。
オムツに限らず、ガソリンもまた早朝から並んで数量限定販売。早い方で3時から並んでいるそうでした。
そして、携帯電話が復旧してからのことです。
メールが受信され、内容をみると、たくさんの方々からの不在着信がありました。
早速、折り返し電話してみると、大学の恩師・OBの方から、安否確認とともに、子どものためにおむつやおしりふき、離乳食を贈らせてほしい、と大変有難いお話しでした。
地震から3週間ほど過ぎた頃、宅配便が再開しましたが、営業所はまだ復旧の目途が立たず、近隣の営業所止めなら可能だということで、隣町のセンター止めでオムツ等を送っていただくことにしました。
荷物は発送してから到着するまで、道路交通状況により東京からだと1週間から10日かかると営業所の担当者が話してましたが、なんと2日でそのセンターに届きました。さらには、地元の営業所が営業所止め対応での再開となりました。この時、復旧の早さに驚かされました。
届いた荷物をみて驚かされました。大量のオムツ、離乳食等々!
感動のあまり人目を気にせずに嬉し涙をながしてしまいました。
私たち一家は、ライフラインが止まり少し不便なだけだったのに、お友達はじめ皆さんが被害に遭われて大変なときに、娘にオムツをいただいたり、離乳食をいただいたりと、大変お世話になりました。本当に助けられました。
4月28日・・・
今回の津波により亡くなられた方々の49日でした。
実は私の従姉もその一人でした。
遺体安置所で、たくさんの棺が並べられていて、従姉の棺まで警察官の方に案内してもらい、顔をみせてもらったときは、悔し涙が止まりませんでした。29歳という若さでした。
従姉の場合は、49日と葬儀を30日に行いました。
喪主の挨拶の中で、人生これからというときに被害にあって亡くなりとても悔しい。
色々な夢が、楽しい将来があったはずなのに・・・と声と詰まらせながら挨拶してました。
このような被害が2度と起こらないよう願いました。
これからは、私たちが主流になる時代が来ます。
自分に出来ることは何かを問いながら、街の復興を願いたいと思います。
Posted at 2014/03/11 12:56:59 | |
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