• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

ウルトラザウルス改のブログ一覧

2007年06月25日 イイね!

スバル360

スバル360前にも撮影してたっけ・・・。

でも今回は横から・・・。

この赤。おそらく比較的最近に全塗装されているものと思われますが、「てんとう虫」を髣髴させていいですね♪

今、排気量こそは違えど、ダイハツ・エッセとかスズキ・ツイン、スバルR1のような小さい軽自動車(日本語、変だ)、もっと増えても良いと思うんですが、なかなか需要がないのか、あまり見かけません。

このスバル360は、贅沢装備も無ければ快適な空間も無い。

でもこの小ささが良いのだ!!

この質素さがいいのだ!!



この記事は、こういった旧車は・・・ について書いています。
Posted at 2007/06/25 19:33:23 | コメント(2) | トラックバック(0) | 旧車烈伝 | クルマ
2007年06月23日 イイね!

トヨタ マスターエース・サーフ 

トヨタ マスターエース・サーフ にしししし・・・。

メジャーなトヨタ車のなかにあって、コイツはなかなかマイナーだと思います。
中身はタウンエースと一緒なんですがね。
どちらかといえばコイツの方が「高級」っぽく思えました。
前の会社で、営業の職員数人が揃えたかのようにタウンエース乗ってました。
当然コイツに乗っている人も約1名いました。




トヨタ・マスターエース
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

マスターエースは、トヨタ・タウンエースの姉妹車として発売されていたキャブオーバータイプのワンボックスカーである。ワゴンのみの設定で、バンは用意されなかった。正式名称は「マスターエースサーフ」であった。 タウンエースがカローラ店扱いなのに対し、マスターエースはトヨタ店扱いであった。


歴史
1982年登場。タウンエ-スとは、フロントマスクが若干違う程度であった。
1985年マイナーチェンジ。グランドサルーンのサードシートが跳ね上げ式に変更。
1988年マイナーチェンジ。このマイナーチェンジでは、同クラスながら高級車志向とされた日産・バネットラルゴに対抗する車種と位置づけられ、タウンエースとは内装・装備が異なった。タウンエースと同じく、内外装の大幅変更。ツーリング、スーパーツーリングセカンドシートが、補助席付きのものから三人がけの回転シートに変更された他、TEMSが設定された。
1991年に生産を終了し、実質上の後継車種としてエスティマエミーナ/ルシーダが翌年発売された。1992年にはライトエースがタウンエースの姉妹車となった。
Posted at 2007/06/23 17:48:19 | コメント(1) | トラックバック(0) | 旧車烈伝 | クルマ
2007年06月22日 イイね!

ホンダ ドリームCB750

ホンダ ドリームCB750街の小さなバイク屋さんで見つけました。
日本における元祖750ともいえるドリームCB750。
昔ヤンチャだったお父さんに聞いてみてください。

ホンダ・ドリームCB750FOUR
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

DREAM CB750FOUR(ドリーム シービー750フォア)は、本田技研工業が製造販売していたオートバイである。

開発までの経緯
当時のロードレース世界選手権で完全制覇を果たしたホンダは、商業面でも世界的に進出することを目指し、次々にドリームCB450などの新車を発表し輸出していったが、当初は海外での評判が思いのほか芳しくなかった。これはレースからの流れとしてオートバイのトップスピードを重視するあまり、小排気量で性能を出してもライダーが操れる余裕が少なかったことから、乗りやすさに欠けている面があったためである。
そこで排気量の拡大により性能と余裕の両立を図った上、この頃のレース規格にも対応できる車両が構想されて製作が決定したが、当時のオートバイとしては最大級の排気量となるため、製造には当時の技術すべてを結集させることになった。

こうして製造された車両が、ドリームCB750FOUR(以下CB)である。なお車名のドリームは、ホンダが当時の高性能スポーツタイプに用いていたシリーズ商標である。

年表
1967年 - CBの製作を決定。
1968年 - 夏の頃に実車テスト開始。
1968年10月 - 東京モーターショーにて実車を展示。
1969年3月 - エンジンを埼玉製作所・車体を浜松製作所にて生産開始。
1969年4月 - 海外輸出開始。
1969年8月 - CB(K0)国内販売開始。販売価格は38万5000円。
1971年10月 - 生産拠点を鈴鹿製作所に完全統合移転。
1975年6月 - CB750FOUR-IIの販売開始。
1977年4月 - 最後のモデルとなるCB750FOUR-K(K7)、F-II、EARAの販売開始。
1978年8月 - CB750Kへのモデルチェンジを控え生産が終了される。

CBの主要装備と性能
エンジン - 4サイクル並列4気筒OHC
エンジンは見た目も考慮して二輪量産車初の並列4気筒エンジンを採用したが、 アルミの部品を多く利用し、シリンダーをやや細めにしてエンジン自体の幅と重量を抑えている。吸排気バルブについては、当時のレーサーに使用していた高回転対応のDOHCではなく、低回転からの乗りやすさと生産性を勘案し、あえてSOHCを採用した。キャブレターを全てのシリンダー4個に装備したのも二輪量産車としては初めてである。

エンジン性能 - 738cc・67馬力・最高速度200km/h
エンジンの排気量と馬力は、同業他車のエンジンを比較する形で決定された。このエンジンはもう少し性能を上げることも可能だったが、乗りやすさを優先したことから、当時の市販オートバイすべての最高値を上回る出力程度に抑えられていたが、それでも200km/hのスピードを出すことも可能な性能は確保されていた。しかし当時のタイヤとチェーンはこの馬力に対応しきれず、開発中に破裂や断裂を繰り返したことから、共にCB専用の部品が造られることになったが、これは部品メーカーがホンダ側に対する製造物への責任を明確にするためだったとも言われている。

前輪ディスクブレーキ
当時既に少量生産車両ではMVアグスタというメーカーが前輪ディスクブレーキを使用していた。しかし二輪量産車では前例がなかったため、CBの実車が展示されるモーターショーの直前までドラムとディスクのどちらを用いるか比較討論されていたが、最終的に本田宗一郎社長の「鶴の一声」で、ディスクブレーキを装備して展示させることが決まった。これにより二輪量産車として初めてディスクブレーキを採用することになったが、ノウハウの蓄積には苦労したと伝えられている。

他にも車体のダブルクレードルフレームや、4本出しのエキゾーストパイプマフラーなどがホンダとして初めて装備され、1970年(K1)・1972年(K2)・1974年(K4)と、ほぼ2年おきに装備やカラーなどの正式なマイナーチェンジを行なっている。


CB750FOUR-II
CB750FOUR-IIは1975年6月に発売された。集合管と呼ばれる一本マフラーと後輪ディスクブレーキを装備し、走行性能を高めたスポーツモデルである。ところが、静か過ぎて迫力に欠ける集合管、プレーンな外観はイマイチ評価を得るに至らず、K0以降伝統的な4本マフラーのK6も併売された。1977年には、ホイールをアルミリムとアルミプレートを組み立てたコムスタースターホイールの採用、前輪ディスクブレーキをダブルにするなどのモデルチェンジを受けたが、装備で重量が重くなってしまい、また出力も国内仕様は67PS→65PSと低下したこと、更に免許制度改正の影響を受けて人気は出ず、後にCB750Fへフルモデルチェンジされることになった。


CB750FOUR-K
CB750FOUR-Kは1977年4月に発売された。型番はK7。外観は大きく変更されているが、エンジンはCBと同じものを搭載している。しかしこの頃になると同業他車より性能に劣る面が多くなったことから、エンジンをDOHCに換装してフルモデルチェンジされることになったため、このモデルがCBの最後として位置付けられている。


EARA
EARA(エアラ)も1977年4月に発売された派生車種である。正式型番はCB750A。軽自動車のN600で使われていたトルクコンバータの技術を流用し、「ホンダマチック」と名づけられた2速選択式のオートマチック車両として製造されたモデルである。しかし出力伝達の関係で馬力が落とされており、スポーツ性能に欠けるものがあると評されたことから、販売面では芳しくなかった。


CBが世界に与えた影響
日本で生産されたCBの多くは輸出され、その性能だけでなく製造の精密さも評価を受け、世界各地で絶賛を受けることになり、CBは世界の工業史にも名を刻む製品となった。このCBの成功は、ホンダが二輪において世界的トップメーカーとしての地位を確立しただけでなく、日本の様々な重工業製品を世界に認めさせるきっかけも作った。
CB以前のバイクといえば、キックによる困難な始動、振動によるネジの緩み、電装品の破損、オイルは漏れて当たり前といった具合で、それが当然と思われていた。それだけに、CBの信頼性、安定性の与えた影響は、絶大なものだったと言える。
また、ホンダの成功を見た日本の同業他社も海外へ進出していったため、やがて日本製オートバイは世界中を席巻し、国際的な販売合戦が繰り広げられていくことになった。

CBが日本に与えた影響
日本国内でも性能の高さは認められたが、発売直後のCBは当時の国産自動車よりも最高速度の性能が高く、さらにこの頃としては最大級の車体であったことから、不慣れな扱いによる事故の発生が目立つようになった。このため当時の運輸省の行政指導により、CBより上の排気量を持つバイクの形式認定が困難となってしまい、また、当時は125ccで免許の試験が行われており、それ以前は車の免許に自動二輪の免許が付いてきた時代もあり、その様な大型車に不慣れな者の運転が、事故多発の原因となっていたため、1975年、大排気量車に限って急激に厳格化されるきっかけとなってしまった。これらによる大型自動二輪車の不遇は1990年代まで続いてしまった。 70年代の大型バイクに対する風当たりは、現在では想像できないほど凄まじく、ナナハン=暴走族という不当な扱いを受けた程である。頻発する事故に対し「不必要な高性能で、多くの若者の命を奪った」メーカーの社会的責任を問う声が上がったほどであった。大型車=ナナハン=ホンダという図式からか、ホンダに対する風当たりが酷かったという.

しかしこの事がCBなど750ccのオートバイを、いわゆる「ナナハン」として日本における二輪の最高峰に位置付けさせた面もある。


CBにまつわる話
CBは9年間で60万台以上が生産されたが、これは原付を除く国内の自動二輪車生産数としては最高の数字である。ただし台数の大半は海外へ輸出されている。
エンジンの下部にある変速機構を覆っているクランクケースは、最初のうちは少量生産に適した砂型鋳造を行っていたが、発売後に受注が殺到したことにより、大量生産を行うためダイキャスト金型の使用に切り換えた話は有名で、砂型ケースを用いている初期生産車(型番「K0」のうち7千台程度といわれる)は現在でも珍重されている。
発売当時の販売価格である38万5000円は、当時の軽自動車であるN360の31万3000円より高価であったが、当時におけるCBの性能面を海外他車と比較すれば100万円で販売されてもおかしくはなかった事から、38万の価格で製造のための初期投資を償却できるのか疑問視されたこともあった。
本田宗一郎は開発中のCBを見て、あまりにも大きな車体や性能の高さからあくまでイメージリーダーであると考えその商品性には疑問を抱いていたと伝えられている(試作車を見るなり、『誰が乗るんだ』と言ったという)が、社史などでは自身も試乗して絶賛していたことや、上述の前輪ディスクブレーキ装備を自らが決断したこと等が記されている。
週刊少年チャンピオンに掲載された石井いさみの漫画、「750ライダー」の主人公、早川光の乗るバイクはCB750K2である。ワイルド7と並び、CB750の人気を小学生にまで認知させるのに貢献した作品といえる。尚、テレビ版ワイルド7は、スズキ・GT750である。

Posted at 2007/06/22 20:19:16 | コメント(0) | トラックバック(0) | 旧車烈伝 | クルマ
2007年06月21日 イイね!

ダイハツ マックス・クォーレ

ダイハツ マックス・クォーレ先ほどの「オート三輪」といい、今回のコレといい、今日は「ダイハツ祭り」の様相を呈しております(笑

コレにも何かしら思い出はありますねぇ。

ワタクシが小学生低学年の頃、親父の弟(所謂「叔父さん」)がコレ乗ってました。
叔父さんはその当時結婚もしていなく、ワタクシの家から「歩いて1分・走って30秒・裏の家の庭を走って15秒」ってところ(親父の実家)に住んでました。
ワタクシの家には車がなく(親父はバイクは何ccでも乗れるんだけど、車の免許は持っていなかった)、夜中に風邪等で医者に行かなくてはいけないような時にはこの叔父さんに乗せてもらって町医者に通ったのでした。
なのでワタクシにとっては「歩いて行って呼ぶ救急車」もしくは「中は狭いが無料のタクシー」だったのですw
ただ出動の際には、食事時は避けなくてはいけませんでした。
なんせメシ喰い出したら、人の話全く聞かない人でしたので・・・。
こっちは熱が出てフウフウ言ってるのに、飯のお替りしているんですから(汗

今では結婚もして(叔父さんには不釣合いなぐらいの美人)子供も出来、子供は全員社会人になって叔父さんはすっかり「おじいさん」です。


ダイハツ・フェロー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フェロー (Fellow) は、ダイハツ工業の軽自動車である。

フェローマックス(1970年-1977年)
1970年4月、2代目のフルモデルチェンジで名称は「フェローマックス (Fellow Max) 」となり、当時の軽自動車としては珍しいFF駆動になる。

型式は『L38』。前モデルより軽量化され、更に当時のパワー競争の煽りで軽自動車最大の40馬力を発生させるまでに至ったが、オイルショックや排気ガス問題で幾度かのマイナーチェンジでエンジンの変更も行われパワーも低下。ファミリーカーとしての需要もリッターカーへ移行して行った時代でもあり、人気は徐々に下火になった。ボディバリエーションは2ドアセダンと3ドアバンでスタートし、後にハードトップと4ドアセダンが追加された。

1970年7月、ツインキャブを発売。グレードはSSとS。
1970年10月、ハイカスタム(シングルキャブ)を発売。
1971年3月、マイナーチェンジ。
1971年8月、ハードトップを発売。グレードはツインキャブのGXLとSL、シングルキャブのGLとTL。GXLとSLには前輪ディスクブレーキを標準装備。
1972年3月、マイナーチェンジ。インストルメントパネル、フロントグリル、フロントフード、等を変更。ハードトップGHL(前輪ディスクブレーキ・レザートップ等を標準装備したシングルキャブの豪華仕様)を追加。
1972年10月、4ドアセダンを発売。グレードはデラックス・カスタム・ハイカスタムの3車種で全てシングルキャブ。同時に排出ガス清浄化が施され、ツインキャブは40psから37psに、シングルキャブは33psから31psに最高出力が低下。
1973年5月、マイナーチェンジ。フロントグリル、フロントフード、フロントフェンダー、等を変更。2ドアセダンのリヤスタイルをカムテールから4ドアセダンと同じ形状に変更。ハードトップのリヤスタイルも大幅に変更。2ドアセダンハイカスタム、2ドアセダンパーソナル、ハードトップGXL、廃止。2ドアセダンスーパーデラックス、4ドアセダンSTD、ハードトップGSL、ハードトップL、を発売。
1973年10月、保安基準改正に伴う安全対策を実施。
1975年2月、マイナーチェンジ。ツインキャブ車を廃止。ナンバープレート大型化に伴う前後バンパーの形状変更、インストルメントパネルを変更、シートバック、を変更、等。
1975年12月、マイナーチェンジ。ブレーキオイル残量警報装置を採用、等。
1976年5月、マイナーチェンジ。ハードトップを廃止。ZM型360cc2ストローク2気筒エンジン車は50年排ガス暫定規制適合。AB型550cc4ストローク2気筒SOHCエンジンを搭載し、51年排ガス規制適合の550発売。550cc搭載モデルはバンパー延長のみで車幅は360ccサイズのままだった。

ダイチャレではレストアされた車両がまれにL2クラスで参加がある。

初期型ハードトップのイメージは後の2代目オプティに似ており、サイドビューはフェローMAXハードトップを4ドア化した印象がある。


マックスクオーレ(1977年-1980年)
1977年7月、「マックスクオーレ (Max Cuore) 」を発売。
フェローマックスのビッグマイナーチェンジ版であり、車幅が広げられた。形式はセダンがC-L40・バンがH-L40Vである。2ドアセダン(STD/DX/カスタム)、4ドアセダン(DX/カスタム/ハイカスタム)、3ドアバン(STD/DX/スーパーDX) エンジンはAB型2気筒4サイクル。547cc、28馬力である。
1979年3月 セダンは53年排出ガス規制適合でE-L40。バンは54年排出ガス規制適合でJ-L40V。
1980年7月 生産終了。 後継車はセダンが「クオーレ (Cuore) 」、バンが「ミラ・クオーレ」である。


画像の個体は昭和55年式ということなので、おそらくデビュー間もない頃のモデルかと思われます。
Posted at 2007/06/21 20:03:12 | コメント(1) | トラックバック(0) | 旧車烈伝 | クルマ
2007年06月21日 イイね!

ダイハツ オート三輪

ダイハツ オート三輪今日の配達中に、建設会社の資材置き場なのか?ただの鉄くず置き場なのか?ってところで発見しました。
ネットで調べてみたところ、ダイハツ製だというのは判ったのですが、詳しい名前・グレード等は判りませんでした。
錆や退色、いろいろコンディションの悪いところはありますが、年式から考えてみても綺麗なほうだと思います。きっと比較的最近まで乗られていたのかも知れません。

オート三輪といえば、ウチの親父が勤めていた製材工場に数台あった。
ワタクシが幼稚園に通うか通わないかの頃、親父が積み重ねてあった丸太の下敷きになって足を骨折した。
しばらくプラプラと遊んでいたが、やはり暇なようで当時のワタクシを連れて会社に遊びに行った。そこで親父の同僚の人にこの手の三輪トラックに乗せて貰った記憶がある。

それから20年近く経って、和歌山の某所で電車を待っていたら軽快に走る三輪トラックを見て、あのことを思い出した。

そしてさらに10年経った今日、また思い出した・・・。











親父・・・。




















まだ生きてますが(汗

オート三輪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

オート三輪(オートさんりん)とは、車輪が3個の乗用・貨物自動車である。以前はタクシーにも使用された例があり、極まれに乗用登録のものも見られるが、主に三輪トラックを指す、日本における俗称である。

軽便・安価で、悪路と過積載に強く、小回りの利く特性から、1930年代から1950年代に日本で隆盛を極めたが、より性能の勝る四輪トラックに取って代わられ、衰退した。

「オート三輪」の呼称は、自走式、つまりエンジン付き三輪車の意味で、特に貨物車に限定するものではない。オートバイの延長線上に案出されたことによる自然発生的なものと、自動車税や免許制度の優遇を目的に、あえて三輪としたものとがある。

日本では、その数の多さから、トラックないし、その派生形の貨物車を指す語として定着しており、当初から乗用車として設計された3輪式乗用車(例 ダイハツ・Beeや、富士自動車・フジキャビン、イギリスのリライアント、ボンドなど)については、対象とされない場合が多い。

車輪配置は、前輪に一つ、後輪に二つのタイヤを持つものがほとんどであるがモーガン・スリーホイラーや、メッサーシュミットKR200では逆に、旋回性能を重視して、前二輪、後一輪の設計となっている(三輪車は遠心力で二輪側の片方が路面から離れるが、一輪側は常に接地しているため、それを駆動輪とすることで、二輪駆動の場合の差動装置による空転を防ぐことができる)。

また、イゾ・イセッタと、5カ国で生産されたBMWをはじめとするライセンス版イセッタや、ハインケルとそのライセンス版の、トロージャン等は、三輪優遇税制のある英国製を除き、四輪車であるが、バブルカーの仲間として三輪車と同列に扱う場合もある。

操向機構の構造が簡易で、静止状態でも安定を保てる最低限のレイアウトである三輪自動車は、自動車の黎明期から存在していた。史上初の自動車と言われるキュニョーの蒸気自動車(1769)も、史上初のガソリンエンジン自動車の一台である、カール・ベンツによるもの(1886年)も、共に前1輪の三輪車である。

その後、オートバイのメカニズムの援用によって軽便な三輪自動車が作られるようになった。この種の車両は20世紀初頭から世界各国で自然発生的に出現している。日本でもオート三輪は第一次世界大戦後に独自発生した存在であったが、当時の国情に合致したことから独特の発展を遂げ、世界的にも他に類を見ない形態に進化した。

日本の三輪自動車史における一つの特徴として、諸外国に見られた2座ないし3座以上の乗用車形三輪自動車がほとんど発達しなかったことが挙げられる。

ヨーロッパではこのような三輪形乗用車は、同クラスの簡易設計の四輪車とも併せて「サイクルカー」と言われ、1910年代から1930年代にかけて、隆盛を極めた。その後オースチン・セブンやシトロエン・5CVに代表される「まともな」四輪大衆車の普及で駆逐される。

戦後、敗戦国を中心として、多くの小メーカーによる、「キャビンスクーター」や「バブルカー」と呼ばれる超小型車が生まれ、大衆車が普及するまでの橋渡しとして親しまれたが、この中にも多くの三輪車が見られた。

しかし日本では乗用車そのものの普及が遅く、乗用車の大衆化が始まった時代には最初から四輪車が普及したこともあって、三輪乗用車は一般的なものとはならなかった。1950年前後に代用タクシーとしてオート三輪のシャーシ後部にキャビンを架装した例はあったが、あくまで代用品で、まともな乗用車とは言い難い。前1輪型の三輪車としてはほぼ唯一の本格的乗用車だったダイハツ・Bee(1951)は、十分な完成度を極めないまま量産を断念された。これは乗用車専用シャーシのリアエンジン車であり、一般にはオート三輪の範疇に入れられていない。


日本での三輪自動車

戦前
1918年頃、大阪で前2輪・後1輪で前方に荷台を持つ自転車式貨物車(フロントカー)に、アメリカ製のエンジンキットを装備したものが出現したのが最初と見られている。

しかし安定性や積載力を欠くため、ほどなく前1輪・後2輪のレイアウトに移行した。その初期には中小零細メーカーを中心に、多くのメーカーが製造していた。運転席の設計などは初期のものは自動二輪の応用部分が多く、ハンドルは二輪車と同様の棒型のものであった。エンジンは当初アメリカやイギリスのオートバイ用輸入単気筒エンジンが用いられ、シャーシもオートバイとリヤカーの折衷的なパイプフレームで、チェーンで後右片輪のみを駆動することで差動装置を省略していた。初期には後退ギアもなかった。

しかし、実用上の要請から改良が進み、差動装置・後退ギアの装備やシャフトドライブの採用、パイプフレームを止めて本格的なトラックとしての強度を持つプレスフレーム、チャンネルフレームへの移行、大排気量化や2気筒化など、1930年代中期には既にオートバイとは全く異なる機構を持った貨物車両に進化していた。

エンジンも、1928年のJACエンジン(日本自動車、のちの「くろがね工業」製)出現以来、発動機製造(のちのダイハツ工業)などが実用に足るエンジンを国産するようになり、輸入エンジンに完全に取って代わった。まもなく有力エンジンメーカーはオート三輪生産に乗り出し、大手メーカー主導の体制が確立された。中小事業者からの需要の高まりを背景に販売網も整備され、1930年代後半には「ダイハツ」「マツダ」「くろがね」の三大ブランドへの評価が定まっていた。

戦前、小排気量三輪車の運転免許は試験制ではなく許可制であったことで、その普及を促された一面がある。

戦時中はより大型の車両の生産が優先され、民需が主のオート三輪の生産はほとんど途絶えた。

戦後
第二次世界大戦後、トラック生産が再開されるとオート三輪は一層の進歩を見せた。零細メーカーは戦時体制下の統制でほぼ淘汰されたが、戦前からの三大大手メーカーに加え、終戦で市場を失った航空機産業からの転入企業が多く参入し、新技術の導入と合わせて市場を活性化した。積載量も500kg程度だった戦前から、サイズや排気量の増大で著しく大型化し、1950年代に入ると1.5t~2t積みクラスも珍しくなくなった。

1947年以降運転台幌や前面窓の装備が始まり、1951年に開発された愛知機械「ヂャイアント・コンドル」は2灯ヘッドライトと丸型ハンドル(ステアリング)、水冷水平対向エンジンをベンチシート下に収納したクローズドボディを実現して、居住性の水準としては四輪トラックに並んだ。しかし他社がこの流れに本格的追随するのは1950年代中期以降である。

この時期までのエンジンは、軽量化やコストダウン、粗悪ガソリンへの適応性等の見地により、空冷単気筒ないしV型2気筒が主流であった。しかし、丸ハンドルの普及でサドル型の運転台が廃止されると、1950年代末期からマツダとダイハツは水冷4気筒ガソリンエンジンを導入した。

1940年代~1950年代の日本におけるモータリゼーション黎明期には、簡易な輸送手段として隆盛を極めた。多くの業種で使われたが、同程度の大きさの四輪トラックよりも格段に小回りが利くことから、特に狭隘な市街地や、林道での材木運搬では重宝されたといわれている。

しかし、自動車交通の高速化に伴い、カーブでは転倒しやすく高速走行に不向きなことや居住性の悪さが敬遠されるようになる。さらにはメカニズムが高度になり、内外装のデラックス化が進むにつれ、四輪トラックとの価格差が縮小して、市場での競争力を欠くようになった。これでは敢えて三輪とする意義が薄くなってしまったのである。また1965年の三輪車運転免許の廃止も、オート三輪に対して不利に働いた。

この間、トヨタ自動車のSKB型トラック「トヨエース」(1954)に代表される廉価な大衆向けの四輪トラックとの競合に伴い、オート三輪業界にも、営業力に劣る準大手・中堅メーカーの撤退・転業や倒産が相次ぐようになる。オート三輪メーカーの多くは、四輪トラックを生産の主流に切り替えた。

1957年頃からダイハツ工業の「ミゼット」に代表される軽3輪トラックの短期的なブームがあったものの、1960年頃以降は、東洋工業(現マツダ)とダイハツの2大メーカーが生産を行うのみとなった。最終的には1972年にダイハツが、そして最後まで残った東洋工業も1974年に生産を中止し、市場から姿を消した。

オート三輪に関わる技術や制度などは、部分的には後にオートバイの一種である大型三輪車「トライク」に引き継がれることになった。
Posted at 2007/06/21 19:58:18 | コメント(2) | トラックバック(0) | 旧車烈伝 | クルマ

プロフィール

「健康診断の真っ最中!
血圧は正常!
身長はチョイ縮んだ!
あとはバリウム・・・・これが憂鬱((涙))」
何シテル?   06/04 09:29
ウルトラザウルス改と申します。 逆さからいうと改スルウザラトルウです(意味不明 趣味などのブログが多く、肝心の愛車ネタは全くの不振でございます。 ...
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2025/11 >>

       1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
30      

リンク・クリップ

富士宮焼そば学会 
カテゴリ:グルメ
2007/05/27 19:58:25
 
たくパパさんのブログ「春ぐらいには納車かと?注文しました軽キャンピングカー」 
カテゴリ:趣味
2007/01/25 07:37:07
 
古座観光協会 
カテゴリ:情報・生活
2006/12/13 22:25:48
 

愛車一覧

スズキ パレット 爆釣丸 (スズキ パレット)
6年がんばってくれたラパンに代わり、新たな相棒となりました。
スズキ アルトラパン スズキ アルトラパン
平成27年9月中旬、オプティクラシックに変わって新たな愛車になりました。 6年乗りまし ...
ホンダ Dio Cesta(ディオ チェスタ) ホンダ Dio Cesta(ディオ チェスタ)
いずれ原付免許を取るコゾーの為に、馴染みのバイク屋さんで格安の中古で買った…まではいいも ...
ダイハツ オプティ ダイハツ オプティ
平成26年3月末、長年愛用してきたタウンボックスが突然エンジンが逝きました。 修理するに ...
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation