2017年5月7日ボクは甲府にいた。
ところで皆さん、地方病をご存じだろうか?
地方病はかつて国内では六地域のみで存在した原因不明の奇病であり、風土病ともいう。
中でも甲府盆地の罹患規模は最大で、明治~大正にかけて、山梨県を舞台にしたこの奇病の原因解明調査を一般的に地方病と呼ぶ。
特徴は水腫脹満、腹に水がたまり、手足は痩せ細り、徐々に衰弱して最終的に死に至る。
何故か特定の川の流域の農民に非常に多く見られ、一度発症すれば二度と回復することはなく死に至った。
1580年頃には武田勝頼へこの病気の症状が現れ暇乞いをする旨の家臣からの書簡が残されている。
少なくともそれ以前から、認められていたようである。
発生率は盆地一体でも偏りが見られ、
嫁にはいやよ野牛島(やごしま)は、能蔵池葭水(のうぞういけあしみず)飲むつらさよ
という口碑が残されている。
ただここからも、やはり原因は水にあるだろうことは、疑われていたようである。
河川水そのものが原因なのか、田水に生息している何かの仕業なのかまでは特定できなかったが、
だからといって、何処へ引っ越すかとはいかない時代である。
明治になって、ドイツから輸入した最新の顕微鏡によりやっとこれが寄生虫によるものではないかということが判明した。
正体は『日本住血吸虫』
新種の寄生虫であり、ネコの解剖による発見であった。
人だけでなく犬や猫、牛といった他の哺乳類の体内にも侵入するこの虫は、
門脈に多数の卵を産みつけ、肝臓などへの細かい血管を詰まらせて、最終的に宿主を死に至らしめた。
当時は死体を解剖するということは禁忌であったが、杉山なかという女性の死体解剖御願によって、臓器から新種の虫卵が多数発見された。
これにより、地方病の解明は大きく前進する。
しかし、最大の謎はこの住血吸虫がどういった経緯で人の体内に侵入するかであった。
まず、寄生虫のほとんどの感染例である、生水や生魚から感染する経口感染の可能性が疑われた。
経口感染説を立証するため、牛を使った実験が行われた。
大きく分けると
煮沸した飲料食物のみを与え、直接口が水に触れないようにして、他はノーガードで水田への出入りを繰り返すグループA
飲食物の摂取は自由だが、手足を覆い直接水と接触させずに同じく水田への出入りを繰り返すグループB
の二つである。
結果は予想を裏切るもので、Aの牛は全て発症したが、Bの発症はゼロであった。
この今日に伝えられる有名な実験により、経口感染ではなく経皮感染であることが判明する。
研究によって日本住血吸虫の生態も徐々に解明されていった。
体外に排出された卵は孵化後、幼虫へ成長するがその段階では哺乳類への感染は決して起きなかったどころか、幼虫は二日ほどで死ぬ。
幼虫は哺乳類に感染できる能力を持たない。
よって一旦、別の生物に寄生して人の体へ直接侵入できる大きさまで成長してから、感染するのではないか?
つまり最終宿主である哺乳類の前の中間宿主がいるのではないか?
という説が検証され、調査の結果、遂にミヤイリガイという貝から幼虫が発見された。
ミヤイリガイもまた新種の貝であった。
地方病とは、つまりこの貝が生息する地域にのみ存在することの裏付けでもあった。
その後、官民挙げてミヤイリガイの駆除すなわち地方病撲滅へ向かい遂に1996年山梨県知事により、地方病終息宣言がなされる。
山梨県甲府市にある山梨県立博物館を訪ねた。
残念ながら当日は曇り空であったが、晴れの日の庭からは南アルプスが望める。
甲斐国は昔から名馬の産地であり、やはり戦には断然強かったようだ。
しかし、険しい山々に囲まれた盆地ゆえ、水害被害等自然災害も甚大で、台風時などとてつもない爪痕を残している。
GW最終日の日曜はほとんど人もなく、取り敢えず順路通り見学したのだが、係の方が声をかけてくれた。何という偶然かその方も同じ秋田の人でお互いビックリである。
地方病の展示を見たくここを訪れたことを伝えると、コーナーへと案内してもらった。
地方病をキッカケにこちらを訪ねて来る方も多いようだ。
山梨県の映像シリーズも上映してもらった。
地方病撲滅まで明治から戦後しばらくまでの貴重な記録集でもある。
資料をわざわざカラーコピーしてくれていた。
そこにはあの長靴を履いた牛があった。
改めて感謝申し上げます。
一番見たかったのは、現在はもういないミヤイリガイそのものである。
ミヤイリガイの繁殖力や行動範囲は特筆すべきものである。
それは米粒ほどの大きさしかないのだけど、ふと窓ガラスに目をやるとミヤイリガイでびっしり埋まった光景を思わせるパネルである。
そこは撮影不可ゆえ、その画像はないけれど、もしあっても載せるのは躊躇ったと思う。
折しも企画展では、ブータン展をやっていたのでこちらにも。
ブータンの機織り技術というのは大変高度なものなのだそうです。
結局閉館まで過ごしていたので、甲府の街そのものは歩かなかったけれど、また訪れたいと願う。